無償治療制の恩恵
チュチェ41(1952)年1月のある日であった。
偉大な
一瞬、幹部は驚かざるを得なかった。
主席は、幹部に国家的な治療費を尋ねた。
彼の返事を聞いた主席は、もちろん状況は厳しいと言いながら、しかしわれわれは人民の生命を保護し増進させるために、無償治療制を実施すべきであると言った。
主席は、われわれにとって人民の生命よりさらに貴重なことはないと言いながら、それに関する準備活動をりっぱに行うことについて言った。
その後、内閣決定第203号「無償治療制度を実施することについて」が採択されることにより、無償治療制のおかげで無病長寿しようとする朝鮮人民の宿望が実現されるようになった。
マッチ一本にも
チュチェ41(1952)年5月のある日であった。
主席はマッチは、人々の日常生活でなくてはならない重要な生活日常品であると言いながら、家庭婦人と多くの人々の一日の生活は朝に起きてマッチをひくことから始まると、マッチは戦時消費品生産で重要な位置を占めると言った。そう言いながら、マッチ生産のために軍需用のしなのきを調節して供給しようと言い、マッチを多く生産して戦線と後方に供給すれば、軍人と人民がいかに喜ぶだろうかと温かく言った。
一番よいものは園児に
戦争の最中のある年の春、
主席は、幹部に数日前に遺児学院と愛育院に行って見たが、服も十分に供給されておらず、治療対策も立てていないと言いながら、アメリカによって父母を失ったことだけでも痛むことであるが、われわれが父母に代わって遺児たちをよく見守ろうと言った。
展示された医薬品、靴、洋服などを見きわめる主席は、われわれの子供たちには新しい洋服を装うと、被服生産協同組合と女性同盟員を発動すれば十分に装うだろうと言いながら、自らその方途まで教えてくれた。
やがて主席は、靴の数量と大きさについて了解し、一番よい靴を園児に送ろうと言った。
主席は、物資を持って学院に行く全権代表を任命する特別措置まで取ってくれた。
主席の愛によって園児は、戦時の厳しい状況の中でも思う存分学び、育つようになった。
自ら定めてくれた煉瓦工場の敷地
まだ山河が炎の中に包まれていた戦火のある日であった。
主席は、幹部に戦争が終われば厳しく破壊された人民経済を復旧し、零落された人民生活を安定することについて言った。
主席は、今の煉瓦工場では煉瓦の需要を満たせないと言いながら、大城窯業工場を拡張する同時に、江南郡に煉瓦工場を大きく建設することと、工場建設の敷地、原料、輸送条件など、大小の問題について教えた。
そして、主席はある日、自ら江南原に出掛け、煉瓦工場の敷地まで定めてくれた。
どうすれば人民に一日も早くよい住宅を建ててくれるかを考えながら、危ないところまでためらわずに出掛ける主席の崇高な姿を朝鮮人民は、永久に忘れない。
実に、主席の献身の労苦があったがゆえ、朝鮮人民は戦後にすぐ威力のある煉瓦生産基地を建設することができ、生活も早く安定された。