検索語を入力しなさい。 禁止文字です。
回顧録「世紀とともに」第5巻

    

        目    次

    

    

     第十三章 白頭山へ

               (一九三六年五月~一九三六年八月)………………………………………… 一

    

      1 汪隊長を討ち万順を味方に………………………………………………………………………… 一

      2 思い出深い城市で…………………………………………………………………………………… 一五

      3 『血の海』の初演舞台……………………………………………………………………………… 三四

      4 女性中隊……………………………………………………………………………………………… 五四

      5 白頭山密営…………………………………………………………………………………………… 七二

      6 愛国地主 金鼎富…………………………………………………………………………………… 九四

    

    第十四章 長白の人びと

              (一九三六年九月~一九三六年十二月)…………………………………………一一七

    

      1 西間島…………………………………………………………………………………………………一一七

      2 水車の音………………………………………………………………………………………………一四〇

      3 李 悌 淳 ………………………………………………………………………………………………一五七

      4 南満州の戦友とともに………………………………………………………………………………一八二

      5 『三・一月刊』………………………………………………………………………………………二〇六

    

    第十五章 地下戦線の拡大

              (一九三六年十二月~一九三七年三月)…………………………………………二二一

    

      1 不屈の闘士 朴達……………………………………………………………………………………二二一

      2 国内党工作委員会……………………………………………………………………………………二五二

      3 白頭山麓での戦い……………………………………………………………………………………二七六

      4 朴寅鎮道正……………………………………………………………………………………………二九九

      5 民族宗教――天道教について………………………………………………………………………三二五

      6 人民を離れては生きられない………………………………………………………………………三四八

      7 良民保証書……………………………………………………………………………………………三六九

    

    

    

    

       第十三章 白頭山へ

    

                       (一九三六年五月~一九三六年八月)

    

      1 汪隊長を討ち万順を味方に

    

    

    一九三六年の春は、われわれにとってとりわけめまぐるしい時期だった。この春には盛りだくさんの計画があった。新師団の編制、祖国光復会の創立、白頭山根拠地の創設準備など… それに馬鞍山をはじめ撫松のあちこちで突発したさまざまな重大事件が、予想だにしなかった数々の仕事をつくりだした。解決が迫られるそれらのことを処理し収拾するには、落ち着いた時間が必要だった。しかし、われわれをとりまく周辺の情勢は、そうした時間を与えてくれなかった。撫松地方に君臨する二つの勢力が、それぞれ自分なりの思惑でわれわれの活動を妨害し障害をつくりだしていた。その一つは汪隊長の満州国警察討伐隊であり、いま一つは万順の山林部隊(中国人の反日部隊)であった。

    汪隊長とは汪なにがしの隊長という意味である。だが「汪なにがし隊長」または「汪隊長」という呼称には討伐界の王という意味も含まれていた。彼は軍閥張作霖の軍隊に服務していた当時から「匪賊討伐」が専業の討伐のベテランだった。九・一八事変(〔1〕)以後、唐聚伍が自衛軍を組織したときには彼もそれに加わり、ひところは反日の旗をかかげた。それでわれわれは南満州遠征に向かうとき、彼と接触して結構よい関係を保っていた。ところが、唐聚伍が中国関内に逃げ込んで自衛軍が崩壊するとすぐさま日本軍に投降し、かいらい満州国の旗をかつぐ警察隊長に早変わりした。それ以来、日本帝国主義の忠実な手先となり、身についた討伐の腕前を余すところなく発揮するようになった。

    汪隊長はいったん討伐に出ると、素手で帰ることがなかった。討伐の対象を確実に仕留め、首や耳を斬り取っては上司の日本人に差し出した。そして高い称賛と賞金を受けた。汪隊長はとくに万順部隊となるとやっきになって追い回し、痛めつけた。撫松一帯で活動していた反日部隊は、汪と言えば影がよぎるだけでも震えあがるくらいで、汪隊長を「撫松の李道善」とも呼んだ。隣接県安図の悪名高い李道善は、その執拗さと悪らつさ、残忍さによって間島(吉林省の東南部地域)に広く知られた恐ろしい殺人鬼だった。汪隊長も李道善に劣らぬ手先だった。そういう汪隊長が、その年の春にわれわれの主な敵となり、障害となったのである。

    一方、それに劣らず、救国軍の万順がわれわれの活動を妨害した。じつは、撫松に来るとき、われわれは万順部隊を主な友軍にしようとしていたのだった。ところが、彼の率いる反日部隊はわれわれを友としてではなく、むしろ敵のように対応した。金山虎が馬鞍山の児童団員のための服地を求めて来る途中、山林部隊に強奪される事件が起きたとき、遊撃隊員がその土匪と化した山林部隊への懲罰をひかえるべきだったのだが、憤激のあまりつい行き過ぎた報復をしてしまったのである。そのため、ことが少々こじれてしまった。われわれには予想外の頭痛の種がもう一つ生じたわけである。

    「『高麗紅軍』はいたって純真なので、誰であれ貧民の財産に少しでも手をつける者は許さない。それでいながら、われわれ山林部隊の窮状など理解しようともしない。あいつらはわれわれとはそりが合わない

    よそ者だ」

    山林隊員のあいだにこういううわさが広がった。彼らは個々の遊撃隊員を見ても因縁をつけたり手にかけようとしたりした。共同戦線の対象がこうなので、われわれとしてはそれも大きな頭痛の種だった。われわれは間島での遊撃隊創建当初と同じような立場におかれた。当時と多少違う点があるとすれば、われわれの力が弱小ではなく、軍事的権威が公認されていたので、敵の陣営に属する汪隊長と、同盟者になりうる万順隊長のいずれもが、われわれを恐れているということであった。

    どうすれば彼らの妨害をはねのけ、落ち着いた時間が得られるだろうか。思案の末に、汪隊長とは衝突を避けて適当にあしらい、万順隊長とは共同戦線を張ることにした。

    わたしは汪隊長につぎのような内容の手紙を送った。

    ――あなたとわたしは旧知の間柄だ。あなたもわたしをよく知っており、わたしもあなたをよく知っている。だから、腹を割って話したい。われわれの主要な敵は日本軍だ。われわれに危害を加えないかぎり、満州国の軍警を相手に戦う意思はない。それで、あなたがわれわれの要求に同意するなら、あなたの統率する警察隊とその管轄下の各警察分署を攻撃しないことを確約し、和平を提議する――

    こういう書き出しで、山林部隊にたいする討伐を中止すること、人民革命軍から派遣される工作員が城市や村落に自由に出入りしたり留まれるようにすること、人民革命軍に積極的な支持声援を寄せている愛国者にたいする弾圧を中止し、収監している愛国者を即時釈放すること、などの要求条件を出し、それを受諾すれば撫松県域での「治安維持」にできるだけ混乱をもたらさないことを保証した。

    数日後、汪隊長から、わたしの提議に全面的に同意し、三つの要求条件を全部受諾する旨の回答が届いた。こうして、わたしと汪隊長のあいだには互いに手出しをしないという一種の密約が取り交わされたのである。双方が互いに約束を順守したので、しばらくの間はなんの衝突も起こらなかった。汪隊長はわたしの要求どおり山林部隊にたいする討伐を中止し、自分の管轄下にある城市や集団部落に遊撃隊の工作員や連絡員が自由に出入りすることにも目をつむり、朝鮮人愛国志士への弾圧や検挙の手も緩めた。われわれも汪隊長管轄下の部隊を襲撃したり、彼らの駐屯地域で騒ぎを起こすことのないようにした。わたしは民生団の調書包み(第四巻第十二章一節参照)を焼却したあと、隊員を武器獲得工作に送り出すときには、撫松県外の他の地方へ行って戦闘をしたり武器を得たりすべきで、県内では騒ぎを起こしてはいけないときびしく戒めた。

    汪隊長は決して愚鈍な人間ではなかった。ずぬけて賢く敏感な人間だった。彼は間島と北満州でのわれわれの活躍ぶりと実力のほどを十分承知していた。そのためか、われわれとはおよそ戦おうとする素振りさえ見せなかった。われわれが撫松に現れたという情報に接するや、彼は部下にこう注意を与えたという。

    「『高麗紅軍』には刃向かうな。なまじ襲いかかっては骨も拾えなくなる。兵力が少ないからとみだりに押え込もうとするな。彼らの気分をそこねないように避けるのが上策だ。勝ち目のない戦ははじめから挑まないほうがいい」

    汪隊長はカーキ色の軍服を着た人民革命軍を目にすると、見ぬふりをして遠ざかった。そのかわり黒服姿の山林部隊を見つけると、気負い立って襲いかかった。千名を超す万順部隊に比べれば、わたしが直接引率していた兵員はそれほどのものではなかったが、汪隊長から被害をこうむるのはわれわれの方ではなく万順の山林部隊だけだった。じつは、汪隊長との和平条項に万順部隊に被害と損失が及ばないようにすることを明記したのは、反日勢力を保持、強化する目的もあったのである。

    一九三〇年代の後半期にいたって反日部隊の活動は下火になっていた。救国軍の主力をなしていた王徳林、唐聚伍、李杜、蘇炳文などの部隊はすでに山海関かソ連をへて中国関内に退却してしまい、王殿陽部隊、殿臣部隊のような徹底した反日武装部隊は最後の一兵まで決死報国の覚悟で血戦を重ねた末、壊滅させられていた。丁超部隊、王玉振部隊など一部の部隊は白旗をかかげて投降した。撫松―― 臨江県境にあった万順配下の群小部隊と姉妹部隊からも投降兵が増えていた。一九三五年の秋、初水灘では馬興山部隊の九十余名の投降兵を歓迎する帰順式などというものまで催した。救国軍の残存勢力は小集団に分散し、深い山の中にたてこもって消極的な抵抗を試み、一部は土匪と化した。こうした実態は、一部の共産主義者のあいだに反日部隊との統一戦線を軽視し、ひいてはそれを不要とする偏向を生んだ。こういう状態を放置するなら、反日連合戦線にたいするわれわれの一貫性が失われることになる。

    われわれは汪隊長と和平の約束を取り交わす一方、万順部隊と共同戦線を張る交渉もはじめた。われわれの部隊には山林部隊出身の年配の隊員がいた。わたしは彼を通じて万順につぎのような内容の手紙を送り届けた。

    ―― あなたの名はわが革命軍にも広く知られている。われわれは撫松に到着してすぐ、あなたに会って名乗り合い、反満抗日共同闘争の対策についても話し合おうと思った。ところが挨拶も交わす前に好ましからぬ衝突事件が発生し、それができなかった。これを遺憾とするものである。当方の政治委員が、革命軍の給養物資の強奪をはかって銃傷を負った山林隊員を審問したところによると、彼らはすでに二、三か月前にあなたの統率する部隊から逃亡して土匪に転落した脱走者である。事実がこうであるにもかかわらず、あたかもわが方の兵士があなたの率いる山林部隊の現役隊員に危害を加えているかのごとくうわさを広めているのは、両軍間の親睦を快しとしない敵の奸計である。わたしは両軍が誤解と不信を解消し、反感と敵意を捨て、戦友となり兄弟となって抗日共同戦線に乗り出すことを熱望してやまない――

    万順は回答をよこさず、この提議を無視した。そうした沈黙の回答がなにを意味するかは明白だった。きみらなしでもやっていけるということである。事実、撫松一帯には万順隊長にそういう意地を張らせる状況が生まれていた。汪隊長がわれわれとの約束どおり、万順部隊をはじめすべての反日部隊にたいする攻勢を緩めていたのである。汪隊長は見かけは討伐をつづけているようなふりをしたが、実際には討伐をしなかった。万順の群小山林部隊は支援を受けなくても息をつき、生きのびられるようになった。これはかえって山林部隊の散発的な妨害策動をあおり立てる結果をまねいた。だが、われわれの重ねての警告によって、そうした散発的な加害行為もしだいに鳴りをひそめるようになった。

    共同戦線は実現しなかったが、われわれは落ち着きを得た。汪部隊も万順部隊も、それ以上われわれに手出しをしなかった。ようやく手にしたその時間は、われわれがめざす仕事に専念できるようにした。

    われわれは漫江でも大営でも、その地域の満州国軍警と和平交渉を進め、不可侵の約束を取り付けた。われわれがはじめて漫江へ行ったのは一九三六年四月の末ごろだった。そこには三十名ぐらいの警察隊員が居座っていた。それくらいの敵をかたづけるのはたやすいことだった。しかし、われわれは武力行使をせず、代表を送って警察隊と談判した。―― あなたたちには手出しをしない。そのかわりこの村落でわれわれが安心して過ごせるようにできるか。知らぬふりをし、後日上部から追及されれば遊撃隊の数が多過ぎて対抗できずじっとしていた、というように始末がつけられるか―― 警察隊はこの提案に二つ返事で応じた。遊撃隊が手出しをせず、談判をもちかけてきただけでもお辞儀をしたいくらいの気持だったのであろう。

    李東学は保衛団の近くの家に機関銃を据え、射手に私服を着せて昼夜警戒勤務にあたらせた。その間に、わたしは漫江で祖国光復会の創立と関連して東崗会議に提出する文書をほとんど整理することができた。敵が攻めてくる心配がないので、仕事は目に見えてはかどった。

    われわれは戦いをしかけようとしない敵にたいしては寛大な処置をとった。これは抗日武装闘争を開始した当初から鉄則としてきた対敵方針であり、抗日武装闘争の全期間にわたって終始一貫堅持してきた朝鮮人民革命軍の軍事行動準則であった。われわれは人を殺すためにではなく、生きんがために銃をとったのである。祖国を救い同胞を救うのがまさにわれわれの闘争目的であり使命であった。われわれの銃剣はもっぱら祖国を占領し、わが民族を圧殺し、朝鮮人民の生命と財産を侵害する敵の懲罰にのみ向けられた。それゆえ人民革命軍の正義の剣は、生かす価値のある者には彼らを保護する慈愛の宝剣となったが、生かす価値のない悪質な反抗者には断固たる懲罰の剣となったのである。

    春のあいだ鳴りをひそめていた汪隊長はなにに触発されたのか、夏になると再び反日部隊にたいする討伐をはじめた。撫松県城駐屯の日本軍守備隊と憲兵隊から圧力をかけられたようだった。反日部隊兵士たちの首がまたもや撫松の街角の電柱にさらされるようになると、万順配下の山林部隊からは再び脱走兵が出てきた。抗日救国の理念に徹することのできない利己的で近視眼的な山林部隊の本性が息を吹き返し、反日勢力の結束に腐心していたわれわれをまたもや悩ませた。汪隊長の討伐に歯止めをかけなければ、万順部隊の崩壊はまぬがれえないことだった。わたしは汪隊長に二度目の手紙を送った。

    ―― わたしはあなたが配下の警察隊を動員して山林部隊にたいする討伐を再開したとの不愉快な通報を受けた。これが事実であれば、あなたはわたしとの協約を破ったことになる。わたしは、あなたが約束を破ることによって自分の名誉を傷つける結果をまねかぬよう熟考して身を処すことを勧告する。頑固に挑戦し反抗する者には寛容が適用されないことを銘記せよ――

    この警告文が伝達されて一週間が過ぎても、汪隊長からの返答はなかった。万順部隊にたいする討伐も中止されなかった。「脅しつけるからといって怖がるとでも思うのか。おれは臆病者ではない。戦うというなら戦おう」おそらく汪隊長はこういう腹だったのだろう。撫松県内の要所要所に数百名の関東軍討伐兵力が増派されてきた。汪隊長はますます傲慢無礼に振舞った。

    七月初旬にわたしは最後の警告文を送った。この手紙を送って四、五日目に、返答のかわりに汪部隊がまたも大碱廠付近の万順部隊の宿営地を奇襲したという知らせが飛んできた。われわれが撫松県と臨江県の境にある森林地帯に留まっていたときのことである。汪隊長の行為はわたしと戦友たちの怒りをかきたてた。上司である日本人に操られるかいらい満州国の警察隊長が共産主義者との約束に最後まで忠実であろうはずはなかった。しかし、彼らも中国人であり、それなりの理性というものがあるに違いなかった。われわれが満州国軍を相手に進めてきた敵軍切り崩し工作の根底には、そういう理性にたいする一種の信頼感があった。汪隊長を説得して不可侵協約を結んだのも、いわばそういう信頼感に根ざしていたのである。われわれが信をおいた敵軍の中下層の将校は、ほとんどが約束に忠実であった。額穆でわたしと思わぬ因縁を結んだ満州国軍の連隊長にしても、われわれに『鉄軍』という雑誌を系統的に送ってくれた大蒲柴河の満州国軍の大隊長にしてもそうであった。

    ところが旧知の汪隊長は、われわれとの約束を弊(へい)履(り)のごとく捨て去ってしまった。信念のない者の行き着くところは背信しかない。彼には、日本帝国主義が滅び朝中両国人民が勝利するという信念がなかったのだと思う。汪隊長の裏切り行為を許すことはできなかった。ことに、彼がわれわれの辛抱強い期待と誠意に銃火をもってこたえたことには憤激せざるをえなかった。

    わたしは金山虎を呼び出し、敏捷な戦闘員を三十名ほど選んで第十連隊の隊員と共同で汪隊長を懲罰するよう命じた。同時に、わたしも主力部隊を率いて西南岔付近の嘴子山へひそかに移動した。西南岔はさほど大きくない集団部落だったが、敵討伐隊の重要な発進基地だった。この村には警察分署と自衛団(日本が親日分子でつくった武装治安隊)の兵力もあった。われわれが西南岔戦闘を計画したのは、協約を破った汪隊長をこらしめ、敵を軍事的に制圧するのが主な目的だった。また、この戦闘によって新師団の武装に必要な銃器類を手に入れる考えだった。

    新しく編制された師団は、すでにおこなわれた頭道松花江戦闘についで老嶺でも大がかりな戦闘を計画した。この戦闘が首尾よく終われば多くの武器が手に入るはずだった。われわれは綿密な作戦計画を立てて実行に移ったが、まったく予想外の状況が突発したため、戦闘を計画どおり進めることができなかった。敵の斥候の一人がこともあろうに、われわれの伏兵圏内に小用をたしに入ってきて待ち伏せていた隊員を発見し、あわてて銃声を発した。わが方の隊員もつられて応射した。こうして数十名の敵を殺傷し、何挺かの武器もろ獲したが、戦闘は計画どおりきれいに締めくくることができなかった。

    老嶺では敵軍を完全に掃滅できなかったが、それは今回の西南岔で十分に埋め合わせるつもりだった。当時われわれの部隊には、西南岔の満州国警察に服務しているうちに分署長の悪行に不満を抱いて脱走してきた中国人隊員がいた。彼の話によれば、西南岔警察分署長は人びとのひんしゅくを買っている悪者だとのことだった。分署長は集団部落の住民は言うまでもなく、警官たちにたいしても暴君のように振舞っていた。中国人隊員は、自分が遊撃隊を訪ねてきた第一の目的は中国の解放に先立ってその警察分署長を処刑することだったと、怒りをこめて語った。われわれが老嶺につぐ戦闘の場として西南岔を選択したのは、例の脱走兵がそこの実状にくわしいという点を考慮に入れたからでもあった。

    われわれは白昼に西南岔を襲撃することにした。正午から一時までの間は警官の昼食の時間であり、また武器掃除の時間でもあった。掃除のために武器が分解されているときに攻め込めば、さほどの抵抗も受けずに敵を制圧することができるに違いなかった。麦わら帽子をかぶり、農具を手にして農民に変装した遊撃隊員たちは、土城に接近するや素早く城門をくぐり抜けて警察分署の兵舎に躍り込んだ。分署長以下警官全員がたいした抵抗もできず捕虜になった。自衛団員も全員捕えられた。戦闘が終わったあと、われわれは警察分署の前に仮設舞台をつくって演芸公演をおこなった。そのあとで警察分署に火を放ち西崗方面へ撤収した。

    警官たちを諭したのち路銀を渡し帰郷をすすめているとき、捕虜の一人が隊員にそっと尋ねた。

    「ところで、パルチザンの隊員さん、城門はどうやって突破したんだね」

    「飛び越えてきたのさ」

    隊員は冗談を言った。

    「それこそ神業というもんだ。いったい警備兵のやつらはなにをしておったんだろう」

    案の定、西南岔警察分署の襲撃は汪隊長に大きな心理的打撃を与えた。彼は体面を保つためにも討伐にますます狂奔せざるをえなかった。

    汪隊長をおびきだすために撫松県城の近辺に現れた金山虎は、三十名ほどの誘引班隊員を山林部隊に変装させた。もちろん彼自身も山林部隊の小隊長になりすました。汪を引きつける好餌が黒い服であることをわれわれはよく知っていたのである。夜中に県城付近のある村落に行った金山虎の小部隊は、農民の財物を取り散らかして山林部隊のまねをし、黄泥河子村に足をのばしてまた同じような手口で騒ぎを起こしては、裏山の谷間に姿を消した。県城周辺の村落に山林部隊が現れ、黄泥河子方面へ消えたという報告を受けた汪は殺気立ち、翌日の早朝、部隊を率いて黄泥河子村に駆けつけた。

    「心配せずに、わしを待て。あの土匪どもを皆殺しにして帰ってくるから、昼食のご馳走でもととのえて待っておれ。昼食前にやつらの首をはねて帰ってくる。不届き者めら、目に物見せてやるぞ!」

    村人の前でこう豪語した汪は、部隊を率い誘引班の跡を追って裏山を登りはじめた。裏山の中腹には第十連隊の戦闘員が待ち伏せをしていたが、早暁に金山虎の誘引班がそれに合流した。戦闘員たちは、あらかじめ誘引用のかかしを立てて汪の目を惑わせた。かかしのあいだに隠れていた戦闘員たちが先に銃声をあげた。汪とその配下の警察討伐隊は、森の中の黒服のかかしに向かって降伏しろと叫びながら猛烈に突撃した。手を上げるどころか逃げ出そうともせず、倒れもしない「山林部隊兵士」の執拗な応戦に汪は業を煮やした。彼は両手の拳銃を乱射しながら山をよじ登ってきたが、ついに遊撃隊員の目の前で絶命した。命運尽きて倒れる瞬間に汪の得た教訓がなんであったかは知る由もない。正義にたいする背信がどんな結末をもたらすかを遅まきながら悟ったのであれば幸いと言えよう。だが、それを悟ったとしても、時すでに遅しだったのである。

    汪隊長がやられたといううわさが立つと、あちこちの反日部隊の指揮官が金山虎のところに来て、汪の首を売ってくれとせがんだ。これまで数多くの反日部隊の将兵の首をはねてさらした汪の悪行にたいする仕返しとして、撫松の城門に彼の首をさらしてやるというのである。わたしは、汪の死体を指一本触れずに撫松県警察隊に届けるよう、金山虎に指示した。その後、汪隊長の葬儀が仰々しくとりおこなわれたといううわさが耳に入った。その葬儀によって、人民革命軍のうわさはいやがうえにも高まった。敵軍のあいだには、人民革命軍に刃向かっては死をまぬがれないといううわさが広がった。汪隊長を懲罰した西南岔戦闘と黄泥河子戦闘については、韓雪野の長編小説『歴史』に比較的詳細に描かれている。

    汪を除去したのち、われわれは日本軍まで制圧して撫松一帯を完全にわれわれの天下にしようと構想した。偵察兵を派遣して各方面の情報を収集しているとき、六十名余りの日本軍が撫松から船で臨江方面へ向かうということを探知した。わたしは即刻、伏兵戦の手配をした。この戦闘もまた痛快きわまるものだった。破損した船で命からがら逃げのびたのは十数人で、あとは全員魚腹に葬られた。こういう戦闘が幾度か繰り返されるうちに、撫松県一帯はわれわれの天下になった。

    その年の夏はしばらくの間、大営で過ごした。温泉場のそばにテントを張り、さまざまな活動を進めた。祖国光復会の下部組織を結成する活動、撫松と臨江の山林地帯に印刷所、裁縫所、兵器修理所、後方病院を含む密営を設置する活動など、少なからぬ仕事をした。

    われわれが陣取っている所から小さな峠を一つ越えると敵軍の駐屯地だった。われわれは大営に着くとすぐ、彼らに書面通告を発した。

    ―― われわれはしばらくの間、温泉で過ごすから、そのつもりでわれわれの前に現れようとも、逃げ出そうともするな。そこにじっとしていて、われわれが要求する物資を送り届ければよい。そうすればおまえたちの生命と安全は保証する――

    敵はわれわれと目と鼻の先にいながらも、あえて近づこうとせず、かといって逃げ出すこともできなかった。そして命じたとおり、おとなしく物資調達者の役割を果たした。地下たびを持って来いと言えばそれを持って来るし、小麦粉を運んで来いと言えばそれを運んで来た。

    万順がわたしに使者を差し向けて汪部隊の撃滅を祝い、安否を問うてきたのは、ちょうどこのころだった。その後しばらくして、万順が自ら大営温泉地にわたしを訪ねてきた。わたしがあれほど切実な手紙を送ったり使者を派遣したりして、共同戦線の結成を訴えたときにはなんの返答もよこさなかった驕慢な老人が自ら訪ねてきたのである。これは驚くべきことだった。それまでは共同戦線のためにわれわれが于司令や呉義成を訪ねたものだったが、汪隊長を除去したあとは名だたる万順が自らわたしを訪ねてきたのである。万順はひと目でゆうに五十歳を越した人と見てとれた。アヘン中毒のせいか、目がとろんとしていた。彼はわたしに会うやいなや、こう言った。

    「反日部隊の兵士たちはみな、汪をやっつけてくれた金司令をこの上ない恩人と思っています。わたしは金司令へのお礼を兼ねて、司令と兄弟の義を結びたい気持を伝えようと訪ねてきた次第です。願わくは、わたしがこれまでもうろくして、はしたないまねをしたことをいっさい水に流し、遠路を訪ねてきたこの気持を汲んで、わたしと家(チャ)家(ジャ)礼(リ)(一族という意味の家父長的な結社―第三巻一八一ぺージ参照)を結んでいただきたいのです」

    万順の申し入れを聞いて、わたしはしばしためらった。わたしは以前、于司令や呉義成と共同戦線を実現するときに提起したいくつかの条件を出し、それを受諾するなら家家礼を結ぶことも考えてみると答えた。その条件というのは、反日部隊がわれわれと親交を結んで友軍となること、日本帝国主義に絶対に投降、帰順しないこと、人民の財物を奪わないこと、遊撃隊の工作員や連絡員を積極的に保護すること、われわれと常時情報を交換することなどであった。万順は意外に快くこれらの条件に同意した。そしてわたしが、これらの条件に補足の説明を加えるたびに大きくうなずき、「達」の字をそえて「達見」だ、「達通」だと賛意を表した。結局、われわれはわずか数時間の対面によって共同戦線を結び、両軍は友軍となった。その後、万順はわれわれとの約束を一度もたがえたことがなかった。

    汪隊長を討ち万順を味方につけたことは、南湖頭会議(〔2〕)以後の朝鮮人民革命軍の行路において一つの意義深い出来事となった。その意義は、たんに敵を軍事的に制圧し、人民革命軍の威力を誇示したことにのみあるのではない。撫松地区でのわれわれの不眠不休の努力は、白頭山地区へ進出するための足がかりをつくるうえで強固な土台石となった。この努力により、われわれは朝中両国人民と愛国勢力の共同戦線を実現する道でも忘れがたい思い出を残した。

    

    

      2 思い出深い城市で

    

    

    万順は家家礼や義兄弟といったものに大きな期待をかけていた。彼がわたしにそういう契りを結ぼうと提起してきたのは、人民革命軍と善隣友好関係を結び、それを後ろ楯にして敵にたいする軍事的優勢を占めるためであった。呉義成もひところ、わたしに家家礼を結ぼうと要請してきた。家家礼というテコを利用して人民革命軍との連合を実現し、共産主義者をそれに縛りつけておこうとするのは、反日部隊に共通の傾向だった。しかし、家家礼や義兄弟のようなものを結んだからといって反日共同戦線がおのずと実現し、それが強固な同盟に発展するわけでもなかった。強固な同僚関係は実戦のなかでのみ発展し、幾多の試練を克服する過程でのみその真価を測ることができるのである。われわれが白頭山へ進出する新たな情勢下で、敵を制圧する共同の軍事作戦を展開することは、反日部隊を人民革命軍の忠実な同盟者に変え、彼らとの連合を強固なものにする好機ともいえた。

    一九三六年八月の撫松県城戦闘は、われわれと反日部隊との共同戦線を確固たるものにするうえで格別な意義をもつ代表的な戦闘であった。

    「共同戦線を結んだついでに、大きな城市を一つ攻略してみませんか」

    わたしがそれとなくこう提案すると、万順はためらう気配もなく快諾した。

    「やりましょう。金司令の部隊となら、どんな大敵でもやっつけられるでしょう。わたしはいま天下を牛耳るような気分ですわい。大きな城市を一つ攻め落としましょう」

    日本軍と聞けば刃向かおうともせず、尻に帆をかけるのがつねだった山林部隊の頭領にしては、その返答が驚くほど自信満々たるものであった。アヘンに酔った勢いでの空威張りだったのかも知れない。万順はわれわれの前でも遠慮なくアヘンを吸った。それはわれわれを格別に信頼している証拠だった。元来、中国のアヘン常習者は、なじみのない人の前では絶対にアヘンを吸わなかった。万順がわれわれを気安い知己とみるのは、いずれにせよ望ましいことだった。もともと、彼は反日部隊の隊長になるまではアヘンを吸わなかった。最初のころは戦いでも勇猛果敢だった。戦闘のたびに功を立て、ほどなく大部隊の指揮官に昇進した。あるとき彼の部隊が日本軍に包囲されて全滅しそうになったことがあった。包囲を突破する過程で多数の死傷者を出し、万順も九死に一生を得た。この一度の苦い体験が彼を悲観論者に変えてしまった。軍律もなく武装も貧弱な反日部隊の兵士たちにとって、突撃のたびにときの声をあげて山犬の大群のように襲いかかってくる日本軍はあまりにも手ごわい相手だった。それに加えて汪隊長の部隊までがつきまとい、行く先々で彼の部隊を痛めつけた。万順は深い山の中に土城を築いて閉じこもり、戦いを放棄した。そして住民の財物を奪って部隊をかろうじて維持した。人民の財物で生きていくのだから、土匪根性が増長するほかなかった。山中の老いたる「匪将」は愁嘆とうっ憤をアヘンにまぎらすようになった。

    万順の部下のうち少なからぬ者は部隊の生活に嫌気がさし、銃を投げ出して故郷へ帰った。なかには土匪になりさがったり、白旗をかかげて満州国軍の兵営に下る者もいた。指揮官たちは賭博に明け暮れ、時勢の推移すら知らずにいた。ともすれば殴りつけ悪態をつく指揮官の専横のため、上下関係は目にあまるほどだった。万順部隊は壊滅寸前の危機に瀕していた。滅亡の兆しが見えてきた万順部隊を救う道は連合

    を実現することであり、連合による実戦を通じて、戦いに勝てるという自信を与えることであった。万順部隊との提携に成功したのち、その場で彼らに大きな城市を一つ攻略してはどうかと提案したのもそのためであったのだが、万順が快諾したのでことはスムーズに運んだ。

    「金司令が汪隊長をやっつけたのを見て、うちの将兵はみな感嘆しました。金司令部隊と一緒に城市を攻めるというなら、うちの部下ももろ手をあげて賛成するでしょうから、早いうちに作戦を練ってくだされ」

    万順がこう言った。彼は老嶺と西南岔、西崗、大営などでのわれわれの戦果をうらやみ、それらの戦闘に適用された戦法や戦術をしごく神秘なものに思っていた。万順は、はるか昔の春秋戦国時代から中国の名将は知略によって勝利し、日本人は勇猛をもって戦いにのぞんだが、金司令はいったいどんな戦法を用いて連戦連勝するのかと尋ねた。わたしは笑いながら、戦法も重要だが、それにもまして重要なのは軍人の精神状態だと答えた。すると万順は、金司令の部下はみな勇敢無比の強兵であることがひと目でわかる、それにひきかえ自分の部下はみな愚劣な連中でとても頼りにならない、と深い溜め息をついた。

    「そんなに気を落とすことはありません。われわれが反日共同闘争をしっかり進めれば、彼らも十分勇猛な兵士になれます。どの城市を攻めたらよいか、一つ選んでもらいましょう」

    わたしがこう言うと、万順は手を左右に振りながら、それも金司令が選んでほしいと言うのだった。その日、われわれは攻撃の対象をめぐって意見を交わしたが、決着がつかずそのまま別れた。万順は撫松県城攻略の意向をもっているようだったが、主張はしなかった。わたしにとって、それはむしろ幸いだった。

    撫松は吉林とともにわたしの生涯で忘れがたい、なじみ深い土地であり、満州大陸のどこにも見られる平凡な県都だった。わたしが小学校に通っていたころ、この土地には二階建て以上の重層建築は一つもなく、電気も引かれていなかった。撫松市街に点在する数百戸の家はたいてい、わらぶき家か掘っ立て小屋だった。たまにはレンガ造りや瓦ぶきの家、こぎれいな木造家屋もあったが、それは数えるほどだった。けれども、わたしは貧困にうちひしがれたそのわらぶき家や掘っ立て小屋を自分の体の一部分のようにいとおしく思い、足しげく通った小南門や頭道松花江をふるさとの情景のように、どこへ行ってもやるせない追憶のなかに思い浮かべたものである。

    わたしはこの城市で生涯の羅針盤となった父の遺言を受けた。その遺志をかみしめ、父の柩にしたがって陽地村の墓所に行ったときからいつしか十年の歳月が流れていた。十年たてば山河も変わるというが、もう墓所の周辺の風景も変わっているに違いない。

    撫松の敵を制圧するのは、白頭山へ進出しようとするわれわれの戦略的意図を貫くうえで大きな意義があった。それを誰よりもよく知っているわたしではあったが、なぜか撫松攻略の決断を容易に下すことができなかった。万順と別れたあと、祖国光復会の下部組織にたいする指導を進める一方、あちこちで手ごろな攻撃対象を選定するための城市偵察を本格的に進めた。

    万順部隊との共同作戦の準備を進めている最中に、呉義成部隊の第一支隊長李洪浜が隊伍を率いて突然わたしを訪ねてきた。灼けつくような真夏の暑さもいとわず、遠路を強行突破してきた彼の顔と軍服はほこりと汗にまみれていた。李洪浜の第一支隊は呉義成部隊でも最強の基幹部隊の一つだった。李洪浜自身は呉義成の右腕といわれるほど上官に忠実で、またそれだけ寵愛されている有能な指揮官である。わたしとはどぎつい冗談も遠慮なく言える旧知の間柄だった。北満州の青溝子でちょっと会ってわかれた呉義成の部隊が、どうして南下する人民革命軍の部隊を追って撫松まで来たのだろうか。

    「わたしを金司令のもとへよこしたのは呉司令なのです。金司令部隊は白頭山をめざして南下行軍中のはずだから、なんとか捜し出して共同作戦をやれと言われたのです」

    彼は長行軍の疲れもものともせず、うきうきして呉司令の挨拶を伝えた。

    「じいさんに金司令部隊を捜して行けと言われたときは、途方に暮れてしまいました。『この広い満州で神出鬼没の金日成部隊をどうやって捜せというのですか』と言うと、『馬鹿ものめ、つまらん心配をするんじゃない。転がろうが這おうがとにかく、銃声のいちばん激しい所を捜して行け。そうすれば金司令に会えるさ』と言うではありませんか。けだし名言でした。この満州広野でいちばん銃声が響いているのはここ撫松一帯でした」

    「わたしたちの部隊がここで連日、銃声をあげているのは確かです。近いうちに万順部隊と一緒に大きな城市を一つ攻略する計画です。異存がなければ、李兄が率いてきた支隊もこの作戦に参加させたいと思いますが、どうですか」

    「そんな幸運をわたしが辞退するはずはないでしょう。呉司令も共同作戦をやれ、とわたしの背中を押して送り出したんですからね。じいさんも、後始末をしてすぐあとを追ってくると言っていました」

    万順部隊との連合に成功したやさきに李洪浜の支隊まで合流してきたので、われわれとしては盆と正月が一緒にきたようなものだった。わたしは胸が熱くなった。李洪浜が本当に人民革命軍を支援しようと、千里の道もいとわずやってきたというのか。青溝子で会ったとき、呉義成は自分を反日軍の前方司令として認めようとしない周保中の処置に大きな恨みを抱き、意気消沈していた。そのときにしても、彼はわれわれとの合作についてはそれらしいことを口にしなかった。周保中にたいする恨み言ばかり言っていた呉義成が、金日成の共産党となら死ぬまで統一戦線を張ると言って李洪浜を派遣してきたのは、われわれにたいする変わることのない支持と信頼の表示であった。王徳林がソ連をへて中国関内に入ってしまったのち、一時的に動揺したにせよ呉義成が統一戦線の大義に背かず、われわれとの合作を終始一貫追求してきたのは、じつに敬意を表すべきことだった。

    折よく万順も来ていたので、その日、李洪浜は旅装を解くいとまもなく共同作戦の討議に加わった。攻撃対象をあらためて協議するとき、わたしは濛江をほのめかしてみた。濛江は一九三二年の夏、通化の梁世鳳部隊を訪ねての帰途、一か月ほど滞留して隊伍の拡大をはかり、地下組織の立て直しにあたった土地だった。足がかりもあり把握ずみの土地なので、戦いさえすればたやすく目的を達成することができるはずだった。だが万順が、あまり遠すぎるといって難色を示した。たとえ勝利したとしても、帰還の途中で包囲される恐れがあるというのである。彼は撫松県城に目星をつけていた。

    「金司令、撫松を攻めましょう!」

    李洪浜も拳を握りしめ、怒りに燃えて叫んだ。彼が撫松を攻めようと言った裏には、それだけのわけがあった。彼は額穆を発つとき、われわれの行方を探り出そうと牟振興という名の中隊長を斥候として先発させた。ところが、その中隊長は任務遂行中に撫松憲兵隊に逮捕された。憲兵隊は撫松に来た目的と接触の相手が誰であるかを吐けと脅迫した。中隊長はその詰問に沈黙をもって答えた。憲兵隊の悪魔どもは拷問の果てに、彼の口に熱湯を注ぎ込んだ。口腔と喉はただれ、唇もすっかり水ぶくれになった。それでもその強靱な中隊長は節を曲げず、無言の抵抗をつづけた。とうとう憲兵隊は、「通匪分子」の罪名を着せて拘留していた撫松地区の愛国農民とともに、彼を撫松北方の辺地に引っ立てて銃殺した。ところが、幸いに弾丸は急所を外れた。他の死体の上に倒れていた彼をある義人が背負い出して銃傷まで治療し、部隊に帰した。この不死身の中隊長の話によって、撫松地区に駐屯している日本軍警の残虐性が知れ渡るようになったのである。

    李洪浜は、牟振興が憲兵隊に捕われている間に見聞きしたいくつかの惨劇のあらましを話してくれた。汪隊長の死後、日本軍警は「通匪分子摘発」の口実のもとに城門を封鎖し、住民に出入許可証を発給した。証明書の期限が過ぎたり、証明書を持たずに城内に出入りする者は容赦なく捕えて拷問を加え、反抗する者は闇から闇に葬り去ってしまったが、その殺人の手口たるや古今東西に類例のないほど惨酷なものであった。彼らは城門で捕えた人を西門橋付近の旅館に閉じ込め、夜が明けるころ西門外の頭道松花江辺の沼で試し斬りをして殺した。試し斬りというのは軍人精神をつちかうとして、研ぎすました刀剣で人の首を斬り落とし血しぶきを上げる、身震いする殺りく行為である。試し斬りにされた死体は頭道松花江辺の沼に投げ込まれた。後日、撫松の住民はその沼を殺人坑と呼んだ。敵は試し斬りの秘密をもらした人もそのつど摘発し、同じ手口で処刑した。そしてその死体もやはり殺人坑で水葬にした。

    わたしの胸には憤怒の血がたぎった。撫松についての大切な追憶を銃声で破ったり硝煙でくもらせたくないという思いが、たわいのない一種の感傷にすぎなかったという強い自責の念にとらわれた。事実、撫松は臨江、長白とともに白頭山周辺の城市のなかでも敵が格別に重視している軍事要衝の一つであった。日本帝国主義者は撫松を「東辺道治安粛正」の中心拠点の一つとし、ここに関東軍、満州国軍、警察隊などおびただしい兵力を駐屯させていた。実戦で鍛えられたという高橋の精鋭部隊も撫松県城に居座っていた。それだけに、撫松を軍事的に制圧することは白頭山地区を掌握するうえで大きな意義があった。

    撫松県城に居座っている凶悪な敵を倒して人民の恨みを晴らそう! 地獄のような城郭内で試し斬りの洗礼を受けている無実の死刑囚たちを救い出そう! どこからか、こういう血の叫びがわき起こってくるような気がして心を静めることができなかった。まず撫松から討とう! わたしと涙ぐましい縁で結ばれているこの城市で、無実の人たちが日本刀で毎日首をはねられているというのに、この悲劇を間近に見ながらどうして濛江へ行けるというのか。撫松を討てば地元の人びとの恨みを晴らし、反日部隊との統一戦線も強固な基盤のもとに発展させ、白頭山地区もより容易に掌握できるのだから、これこそ一刻の猶予も許されぬ戦いではないか。わたしにとって撫松県城を討つことは、この城市の全住民への最上の挨拶となり、もっとも熱烈で真実な愛情の表示になると思い直した。それで撫松を攻撃し、白頭山西北部一帯を掌握するための決定的な局面を開こうと決心した。

    攻撃対象について合意をみたのち、撫松市街にたいする具体的な偵察をあらためて手配した。偵察資料を総合した結果、かなりの苦戦になることが予想された。撫松県城の防御施設は予想以上に堅固であった。満州のすべての城市のように、撫松も堅固な土城と砲台で囲まれていた。有利な点といえば、城門の警備を受け持っている満州国軍中隊がわれわれの影響下にあることと、わたしが撫松市街を熟知しているということだけである。その中隊内には、われわれの政治工作員によってつくられた反日会の組織があった。この反日会の責任者である王副中隊長は城市攻撃時間に合わせて信頼できる反日会のメンバーを歩哨に立て、一挙に城門を開け放つことを約束した。

    われわれは作戦会議を開き、各部隊に戦闘任務を分担した。われわれの部隊が受け持った戦闘任務は、東山砲台を占領することと、大南門、小南門方面から攻撃して城内の敵を掃滅することであった。反日部隊には東門と北門の方を受け持たせることにした。県城の防御に集中している敵の注意をそらすため、人民革命軍の小部隊を派遣して前日に松樹鎮と万良河(万良郷)を攻撃することも策定した。この程度なら作戦準備は望ましい水準で進められたといえた。わたしは、この戦闘がわれわれ連合軍の勝利に終わるものと確信した。

    ところが予想に反して、撫松県城戦闘は最初から重大な難関につきあたった。反日部隊が指定された集結時間を守らず、勝手に行動したのである。李洪浜部隊が先走った熱意を発揮し、集結地点の碱廠溝を経由せずに東門へ直行したうえに、万順配下の部隊まで約束の時間を守らずやきもきさせた。連絡兵を送って一時間以上待ったが、万順の部下は碱廠溝に現れなかった。攻撃の日時はわたしが単独で決めたわけではなかった。万順以下、各反日部隊の頭領たちとともに吉凶禍福の予兆を十分に考慮して割りだしたものである。反日部隊の指揮官は日取りを決めるのにもかなり迷信にとらわれていた。李洪浜支隊長は攻撃の日時がどんな数字で成り立つのかに気をつかった。陰陽説によれば偶数が陰で奇数は陽なので、すべての重大事は一、三、五、七といった奇数の日と時間に定めてこそ有(う)卦(け)に入るというのが彼の持論であった。ところが陰陽説をまったく意に介さないわれわれが、偶然に戦闘開始の日時を一七日の午前一時と決め、それがまた陰暦の七月一日だったので李洪浜をすこぶる満足させていた。

    部隊の一部の兵員を率いて先に碱廠溝に到着した万順は、なすすべを知らずうろたえていたが、やがて部下たちに合掌させ、東の空に向かってなにか呪文らしきものを唱えさせた。天地神明の助けを乞いたい気持だったに違いない。各部隊の指揮官は、万順部隊が裏切り行為を働いたと言って老頭領をやりこめた。万順の顔からは脂汗がたらたらと流れ落ちた。この老頭領が目の敵にされておろおろしているのを見て、あわれな気がしてきた。そして不思議なことに、万順の責任を追及するよりも、むしろ彼を弁護してやりたい気持になった。事実、今回の連合作戦を成立させるために万順ほど熱意を示した人はいなかった。また、万順のように創意ある意見を多く出した人もいなかった。彼は自分の部下たちに、作戦の時間と規律を厳守するよう再三強調した。それは反日部隊との共同戦線をきわめて重視するわれわれにとって大きな支持となり鼓舞となった。万順が人民革命軍との連合のために先頭に立ってあれほど私心のない努力を傾けてきたのに、実践では作戦の展開に支障を与えたというところに、わたしが彼に同情せざるをえない心苦しいジレンマがあったのである。

    だが、実際はわたし自身にしても、誰かを同情したりあわれんだりできる立場ではなかった。刻一刻と時間が流れるにつれ、この戦闘の総指揮役を果たさなければならないわたしの心は、もどかしさで締めつけられた。数百回の戦闘をおこなったわたしではあったが、このときくらい焦燥にかられ、狼狽したことはなかった。わたしは作戦会議で時間厳守の問題に力点をおいて強調しなかったことを後悔した。会議でわたしがとくに強調したのは、城市の住民の生命と財産を侵害せず、軍民関係に汚点を残さぬようにすることであった。東寧県城戦闘のときに反日部隊の兵士たちが犯したような非行がこの撫松で二度と繰り返されることを望まなかったし、またそれを容認することもできなかった。万順部隊の遅刻、それは別に気にとめてもいなかったことだった。それだけに衝撃が大きかったのだといえる。戦闘の勝敗を左右しかねないこの非常事故のため、臨機応変の対応策をとるか、さもなければ戦闘そのものを中止せざるをえない深刻な状況が生じた。だからといって、やっと実行にこぎつけた作戦を放棄するわけにはいかなかった。戦いを放棄すれば、連合作戦を目前にひかえて勇み立っている反日部隊兵士と人民革命軍隊員の熱気に水をかけることになりかねなかった。

    万順部隊が約束の時間に到着できなかったのはアヘンのせいだった。彼の部隊の指揮官と兵士のなかにはアヘン常習者が多かった。その彼らがアヘンを吸えず行軍速度が出ないと言うのだった。共同作戦の勝利のために、われわれは仕方なく行軍中の万順部隊にアヘンを送った。こういう非常措置をとらなかったなら、彼らは終日路上でもたついていたに違いない。額穆県城戦闘を終えたとき、連合作戦で反日部隊が比較的よく戦ったのはアヘンのおかげだったと王潤成が言ったが、そのときはそれが冗談だと思った。ところがいまになってはじめて、彼の話が冗談でなかったことがわかった。

    各部隊が集結地点に到着したのは、予定時間がはるかに過ぎてからだった。基本部隊を引率した連隊長がいちばん最後に息せき切って万順隊長の前に現れ、到着報告をした。万順はモーゼル拳銃を引き抜き、撃ち殺してやるといきり立った。このときくらいアヘンの弊害を骨身にしみて感じたことはなかった。そのときの苦い体験は、後日われわれをして遊撃隊ではアヘン常習者に銃殺刑を適用するという極端な規定までつくらざるをえなくした。

    数百年の歴史を誇っていた古色蒼然たる清国の屋根瓦に亡兆がさし、垂木が崩れ落ちはじめたのも、このアヘンのためだという。ひところ清国は自国にアヘンを密輸するイギリスと二回にわたってアヘン戦争をおこなった。インドで栽培されるアヘンが清国にまで流れ込み、数百万に達する人をアヘン常習者にしてしまった。反面、莫大な銀が海外に流出した。イギリスはアヘン密輸で暴利を得た。林則徐をはじめ清国の先覚者は、人民とともにアヘン密輸に反対してイギリス侵略者との戦いに立ち上がった。抗戦は熾烈をきわめたが、支配階級の裏切りで、清国はイギリスに自国の領土の一部分である香港を割譲する破目になった。結局、中国はアヘンに呑まれたといえる。アヘンは清王朝が一九世紀についで二〇世紀の中国国民に残した最大の恥部であり苦痛であった。一九三〇年代に入っても、満州一帯ではアヘンが大量に密売されていた。有産者や官職にある者は言うまでもなく、明日の生計すらおぼつかない庶民のなかにもアヘン常習者は少なくなかった。鼻汁をたらしながら、うつろな目で無表情にあたりを眺めるアヘン常習者を目にするたびに、友邦の人民がなめている血涙の長い受難の歴史を思い返し、胸の痛む思いをしたものである。

    全部隊が肩で息をつきながら行軍速度を速めたが、後の祭りだった。城門の前で約束の合図を待ちながら歩哨に立っていた満州国軍中隊の反日会メンバーは、交替時間になったのでやむなく機関銃の撃発装置部に砂をつめこんで撤収した。城門をひそかに開け放ち、城内に突入して敵を一挙にせん滅しようとした作戦計画は、最初から狂ってしまった。正直に言って、そのときわたしは戦闘を断念すべきではないかとさえ考えた。状況からすれば、むしろ戦闘を他日に延ばすほうが賢明な策かも知れなかった。しかし、血ぬられた撫松市街を目の前にして戦闘を断念するには、われわれの敵愾心があまりにも強く、白頭山地区の掌握をめざしてこの戦闘にかけたわれわれの期待があまりにも大きかった。一千八百余名もの兵力をもつわれわれが、城市を攻撃できずに退けばどういうことになるだろうか。世間では取るに足らぬ烏合の衆だと誹謗するだろう。そうなれば、反日共同戦線の大義は水の泡となり、近く白頭山でとどろかせようとしたわれわれの銃声もむなしいものになるに違いない。

    わたしは、たとえ状況は困難であってもわれわれが先駆けとなり、決死の覚悟でこの作戦を勝利に導こう、と人民革命軍の指揮官たちにアピールした。撫松県城戦闘の序幕は、このように複雑な曲折をへて切って落とされた。人民革命軍の隊員はわたしの攻撃命令が下るやいなや東山砲台を一気に占領し、小南門方面へ突進した。反日部隊の兵士たちも北門と東門に向けて進攻した。小南門前の街路では白兵戦がくりひろげられた。城門へ肉迫する部隊に向けて砲台の機関銃が火を噴いた。小南門の近くに指揮所を定めていたわたしは、その機関銃の音で耳が遠くなりそうだった。人民革命軍の各部隊は機関銃中隊の掩護のもとに城門を突破して市内に突入した。ところが、人民革命軍の隊員が肉弾で最初の突破口を開いたやさきに、北門を攻撃していた万順部隊が敵の砲声に驚いて退却しているという連絡が飛び込んできた。わたしは李東学中隊長に、即時中隊を率いて北門の方に急行し万順部隊を援助せよと命じた。またしばらくして、東門を受け持った李洪浜の部下が反撃に出てきた敵を防ぎ切れず押されはじめたので、東門を出た敵がみんな小南門の方に押し寄せてきた。かてて加えて全光の指揮する小部隊が万良河襲撃戦を放棄してもどってきたという報告まであって、わたしの心を乱した。頭道松花江の水かさが増えて渡河できなかったというのである。北門を攻撃していた万順の部下があえなく後退させられたのは、砲声に驚かされたことだけが原因ではなかった。万良河の襲撃を断念してもどってくる味方の一部隊を敵の増援部隊と錯覚し、前後から挾撃されるのを恐れて逃げ出したのだった。万順部隊の攻撃隊形が乱れると、その余波が側面にまで及び、李洪浜部隊も散り散りになってしまった。全光が襲撃戦を放棄しながらそれを即時に報告しなかった結果は、戦闘過程全般にこのように重大な影響を及ぼした。

    戦局の収拾がついてもいないのに、すでに東の空は白みはじめていた。戦況は刻一刻とわれわれに不利になってきた。そのとき李洪浜が駆けつけてきた。

    「金司令、形勢が危うくなりました。このままでは全滅させられます」

    彼が言わんとするのは即時総退却であった。

    「ああ、万事休すだ!」

    彼は首をのけぞらせ、明け染めてくる空を眺めながら絶望的に叫んだ。わたしは彼の肩をつかんで大声で言った。

    「支隊長、気を落とすことはない。こういうときこそ気を確かにもって、禍を転じて福となすべきだ。福に禍あり禍に福ありというではないか」

    わたしが彼にこう言ったのは、禍を転じて福となしうるなにかの妙案があってのことではなかった。反日部隊が退却しはじめたこの機に、誘引戦術を使って主導権を握ろうという決心をかためたにすぎなかった。戦況が不利になった場合、敵を城門の外におびきだし、谷間に追い込んで包囲せん滅するのは遊撃活動の戦術的原則でもあったが、これはわれわれの伏線でもあった。だが、こういう誘引戦術は夜間でなければさほど効果を発揮するものではない。われわれは空がすっかり明け染める前に撤収するか、それとも正面突撃の方法で決戦を挑むかという二者択一の岐路に立たされた。ところが、誘引戦を決心しながらも人命の損失を憂慮して退却命令を下せずにいたとき、天がわれわれを助ける奇跡が起きた。県城とその周辺に突如濃霧が立ちこめ、一寸先も見えなくなる不思議な現象が起こったのである。わたしは各部隊に、散らばった兵士を率いて東山と小馬鹿溝の稜線に撤収するよう命令した。

    敵は退却する部隊をやっきになって追跡してきた。われわれが東山に登りはじめたとき、中心突出部の山ひだから一発の銃声が響いた。わたしは不安にかられて立ち止まった。そこには戦闘後の朝食の支度のために残してきた七、八名の女性隊員がいたのである。わが方の主要撤収方向が東山であることを探知した敵は、山ひだを先に占めて指揮部と主力部隊を両側から攻撃しようと企図しているようだった。山ひだの銃声はいっそうはげしくなった。女性隊員たちが敵の大部隊と熾烈な銃撃戦を展開しているに違いなかった。わたしは伝令を飛ばして山ひだの状況を確かめさせた。伝令は、司令部の安全のために血をもって山ひだを守り抜くという金確実、金正淑たちの決意を聞いて帰ってきた。事実この日、指揮部は山ひだを英雄的に守り抜いた女性隊員たちによって救援されたというべきであろう。女性隊員たちが敵を防ぎ止めなかったなら、われわれは敵より先に東山へ登ることができなかったに違いない。女性隊員たちとともに、人民革命軍第七連隊第四中隊が東山を死守したのだった。

    山ひだで熾烈な攻防戦が展開されている間に、第七連隊の主力は立ちこめた霧を利用して東山南側の高地に長い伏兵の陣を張った。反日部隊も谷間を挾んで向かい側の稜線を占めた。そのときになって、主力部隊の撤収を掩護していた中隊は敵を誘引しながら霧の谷間の奥に撤収した。そして彼らも谷間のゆきどまりの山の背に登ってすばやく伏兵の隊形をとった。試し斬りで悪名をはせた高橋部隊は、いったん踏み込んだが最後、生きては帰れない死の落とし穴に全員引き込まれた。勝敗はすでに決まったも同然だった。われわれは山の上から下を撃ち、敵は谷間から上を撃つ銃撃戦がしばし天地をゆるがした。高橋部隊は、万順から勇猛の戦法と聞かされていた悪らつな戦術で波状突撃を繰り返したが、そのたびに死体を残して退却した。突撃が効を奏さないと知ると、彼らは射撃を中止し、山裾にへばりついて増援部隊の到着を待った。

    わたしは、突撃命令を下した。りゅうりょうたるラッパの音とともに、伏兵陣から躍りだしたわが方の勇士たちは敵を手当たり次第になぎ倒した。白兵戦の先頭には「延吉監獄」というあだなの第七連隊分隊長の金明柱が立っていた。金明柱は五・三〇暴動に参加して逮捕され、延吉監獄に収監されていた人だった。彼は獄内の地下組織のメンバーとともに五年の間に六回も脱獄を企てた。斧で獄吏を倒して脱獄に成功した主人公がほかならぬ金明柱であった。戦友たちが彼に「延吉監獄」というあだなをつけたのは、そういういわれからである。彼には「延吉監獄」というあだなのほかに、「七星子」というもう一つのあだながあった。彼は七回の大戦闘に参加して七回大功を立てて負傷したのだが、戦友たちはそれを「七星子」というあだなで言い表わしたのである。七星子というのは七発装てんの拳銃である。彼は死を恐れぬ人民革命軍の獅子だった。金明柱の延吉監獄からの脱獄を命がけで助けた第八連隊中隊長の呂英俊も、この戦闘で「七星子」に劣らずよく戦った。金明柱と呂英俊はたたかいのなかで友情を結んだ無二の親友だった。

    遊撃隊の「女将軍」金確実は、終始両眼を大きく見開いて機関銃を撃ちまくった。なぜ片目をつぶらないのかと戦友が聞くと、日本軍の汚らわしい面をはっきりと見届けるためだと答えたという。彼女が機関銃を撃ちまくるたびに、敵は悲鳴を上げてばたばたと倒れた。この日、金確実は銃剣をかざして白兵戦にも参加した。

    金正淑が両手にモーゼル拳銃をかざし、機関銃射撃のように銃弾を浴びせて十数名の敵を撃ち倒したというエピソードも、この撫松県城戦闘が生んだものである。

    アヘンのためにモーゼル拳銃で射殺されるところだった万順部隊の連隊長は、敵弾が降りそそぐ岩に登って号令をかけ、連隊を指揮した。この日はすべての反日部隊が実力を遺憾なく発揮した。

    高橋の「精鋭部隊」は東山の谷間で全滅した。この悲劇的な事態は、その日の午前中に関東軍司令部に報告された。後日、『東亜日報』や『朝鮮日報』を見て知ったことだが、あのとき新京飛行場では撫松駐屯軍を支援するために爆弾と弾丸を満載した軍用機が飛び立ち、通化、桓仁、四平街などからは増援部隊が緊急出動した。中江鎮守備隊も撫松へ急派された。高橋もおそらく羅子溝の聞大隊長のように上部に相当大げさな通報をしたのであろう。でなければ、あれほど膨大な増援兵力が四方八方から撫松になだれこむはずはない。高橋を救援するための敵の兵力は臨江、長白、濛江などの隣接県からも雲霞のごとく押し寄せてきた。だが、非常な速さで推進されたこの狂気じみた収拾策も、わなにはまった高橋を救出することはできなかった。八月十七日の午後、一部の増援部隊が撫松に到着したときは、すでに勝敗が決まったあとだった。われわれが戦場捜索を終えて深い密林の中に撤収しているとき、新京から飛来した敵機がわれわれの手によって破壊された東山砲台と県城付近の住民家屋に手当たりしだいに爆弾を投下した。

    「金司令、あの飛行機も司令の催眠術にかかったんじゃありませんか」

    がむしゃらに急降下する爆撃機を小気味よさそうな目で眺めながら、万順が言うのだった。その一言だけでも撫松県城戦闘の目的はりっぱに達成されたとわたしは判断した。万順の前方には、戦利品を背中いっぱいに担いだ数百名の部下が連隊長に引率されて凱旋将軍のように元気よく歩いていた。アヘンが欠乏して集結時間さえ守れず作戦をひどく混乱させた兵士たちとは思えないほど、彼らの表情や足取りは一変していた。反日部隊の行軍隊伍からは笑い声が絶えなかった。

    「こういう戦闘をつづければ、あの兵士たちはちゃんとアヘンがやめられそうですよ」

    わたしは隊伍を指差しながら、確信をもって万順に話した。

    「お願いがあるんですが、連隊長を許してやってくれませんか」

    わたしがこう言うと、万順はにわかに涙ぐんだ。

    「金司令、ありがとう。正直なところ、それはわたしが司令にお願いしたかったことですよ。司令はそのお言葉一つで、われわれ全員を許してくれたことになります。これからはうちの兵士も一人前になれそうです。わたしも呉義成のように金司令となら死ぬまで統一戦線をつづけますぞ」

    確かに撫松県城戦闘は東寧県城戦闘や羅子溝戦闘と同様、反日部隊の将兵に思想改造の道を開いた衝撃的な出来事であった。彼らはこの戦闘を体験してはじめて統一戦線の妙味を知った。実践というものはつねに理論よりも生々しく力強い信頼を与えるものである。反日部隊との統一戦線についてのわれわれの思想と理論が空論ではなく真理であり真実であるということは、撫松県城戦闘によって再度証明された。

    撫松県城戦闘は戦術的な面でわれわれに多くの深刻な教訓を残した。わたしはそれまで幾多の戦闘をおこなったが、このように状況の変化がめまぐるしい戦闘は一度も体験したことがなかった。戦争では概して敵の動きによって状況の変化が生ずるのが通例である。しかし撫松県城戦闘ではわが方の落度で異常の事態が発生し、そのために一時的な混乱も生じたのである。戦闘の過程で思わぬ状況が生じ障害が立ちふさがるほど、指揮官は鉄の意志と胆力をもち、冷徹な思考力を働かして新たな状況に対処し、臨機応変の方法で沈着に逆境を克服していかなければならない。国益を擁護するための対敵闘争にせよ、自然や社会を改造するための闘争にせよ、こうした要求が提起されるのは不可避であると思う。状況の変化に巧みに対処し、必要なときに必要な決心を迅速に下す能力は、すべての指揮官がそなえるべき重要な資質である。

    わたしは撫松県城戦闘の結果をすこぶる満足に思った。正直なところ、わたしはこの戦闘の勝利の軍事実務的意義よりも政治的意義を重視した。その勝利の政治的意義を一言で要約すれば、反日部隊との共同戦線を強化したこと、白頭山西北地区をわれわれの手中にいっそうしっかりと掌握したことだと言えるであろう。掃滅した敵兵の数や戦利品の数量などはほとんど記憶にない。けれども、わたしはそれを少しも残念だとは思っていない。

    

    

      3 『血の海』の初演舞台

    

    

    抗日革命期の文学と芸術については、すでに多くの研究が進められたと思う。原作も大部分発掘され、それを現代の美感にふさわしく復元する作業もあらかた終わったといえる。抗日の炎の中から生まれた文学と芸術は、今日わが党の文芸伝統となり、わが国の文学・芸術史に特出した位置を占める貴重な財宝となっている。

    わたしは専門の学者のように抗日革命文学や芸術にかんする理論を展開するつもりはない。ただ、漫江で人民革命軍部隊がおこなった公演活動について語ろうと思う。漫江での公演活動を紹介すれば、抗日革命期の文学・芸術の全容を把握するのに多少なりとも助けになるものと考える。

    一編の芸術作品を完成させることが一つの城市を攻略する戦闘に劣らず困難で複雑な精神労働を要する仕事であることは、わたしも知らないわけではなかった。けれどもわたしは演芸活動に時間と努力を惜しまなかったし、その活動に役立つことであれば何事もためらわなかった。もし遊撃隊の隊伍に従軍作家か芸術家が一人だけでもいたなら、われわれは創作と創造の陣痛と苦悩を体験せずにすんだであろう。しかし、遺憾ながら人民革命軍には専業作家や芸術家出身の隊員が一人もいなかった。もっとも、朝鮮人民革命軍の戦果とわれわれの名声に励まされ、入隊を試みた文人もいた。それがスムーズに実現していたなら、朝鮮人民革命軍は自己の行跡を収録する歴史記録の執筆陣と、隊内出版物の発刊や演芸公演活動に不可欠の有能な創作集団をととのえて強力な宣伝扇動活動を展開することができたはずである。

    われわれの隊伍には歴史学を専攻した人物もいなかった。それで歴史の記述は素人の手でなされた。人民革命軍の代表的な歴史記述者は李東伯と林春秋だった。彼らは多くの記録を残そうと努力したがその大部分は湮滅、消失してしまった。

    解放後、学者たちはほとんど白紙にひとしい状態で抗日革命史の研究に取り組んだ。大部分の史料は抗日革命闘争参加者の回想にもとづいて作成され、敵側の文書もかなり参考にしたが、ねじまげられたり、誇張、矮小化された資料もあったりして、歴史の体系化と定着作業は少なからず難航した。そのうえ、宣伝部門の要職を占めていた反革命分派分子の妨害策動と無関心のせいで、抗日革命史にかかわる全面的な資料の収集は一九五〇年代の末になってようやくはじめられる有様であった。抗日革命史を反映した図書のうち、部分的ではあるが日付や場所などに若干のずれがあるのは、こうした特殊な事情のためだとみるべきであろう。

    抗日闘士たちは歴史に名を残すためではなく、歴史を創造するためにたたかった人たちである。われわれは山中でたたかうとき、次の世代がわれわれを記憶しても、しなくてもかまわないという立場で万難を克服した。もしわれわれが歴史に名を残すために銃を手にとった人間であったなら、今日、新しい世代が抗日革命史と称している偉大な歴史を創造することはできなかったであろう。敵の包囲と追撃のなかで、たえず移動しながら遊撃戦を展開していたために、一枚の秘密文書すら安全に保管できなかった。万一の場合を考え、敵地からの走り書きの手紙も読み終えるとすぐ焼却してしまった。史料として価値があると思われる文書や写真などは背のうに入れてコミンテルンに送った。

    

    一九三九年度にも、コミンテルンに文書をつめたいくつもの背のうを送った。しかし、それらの文書は目的地に届かなかった。そのときに流失した資料のうち、少なからぬものが日本の警察文書や出版物に載った事実から推して、護送者たちは途中で敵の手にかかったに違いない。われわれが祖国に凱旋するときに持って来たものといえば、それは歴史の記録や組織関係の文書ではなく、革命歌を書き記した手帳や戦友の住所氏名を書きとめたメモだけだった。学者たちが抗日革命史の研究でいちばん難儀しているのはこの点である。

    朝鮮革命に内在する特殊な事情と複雑な内実をよく知りもしない帝国主義の手先や売文の徒、ブルジョア御用学者たちは、数件の文書から写し取った数字や事実を組み立てる方法で、祖国と革命偉業に限りなく忠実な朝鮮の息子、娘たちが肉弾となって切り開いてきた抗日革命史を取るに足りぬものにしてしまおうとやっきになっている。われわれの理念と社会制度を快く思わない人間が、わが党の革命歴史を矮小化しようとあらゆる毒舌をふるうのはさして驚くべきことでもなく、別に新しいことでもない。歴史は墨で塗りつぶせるものでもなければ、火で焼き捨てたり、剣で切り捨てたりできるものでもない。誰がなんと言おうと、われわれの歴史は歴史としてありつづけるであろう。

    わたしが『血の海』の構想をあたため、その台本作業にとりかかったのは東崗会議の直後だったと記憶している。演劇『血の海』創作のおおもとは『間島討伐歌』にあったといえる。わたしは幼いころ、父から『間島討伐歌』を習った。父はわたしとわたしの友だちに間島討伐の話もよく聞かせてくれた。

    安図で遊撃隊を組織したあと、部隊を率いて東満州へ行くと、その地方の住民は日本軍警の討伐のため言い知れない試練をへていた。討伐隊の軍刀と銃剣で日に数十名から数百名もの人が斬殺される惨事がうちつづく間島は文字どおり血の海だった。その血の海を目撃するたびに、わたしは父が教えてくれた『間島討伐歌』を思い起こし、それを思い起こすたびに朝鮮民族がなめている苦痛と受難を考え、憤懣やるかたない思いをした。ところが驚くべきことには、間島に住む絶対多数の朝鮮人がそういう悲惨な運命に甘んじようとせず、かえって手に手に銃や棍棒を取って憤然と立ち上がり、抗争をつづけている事実であった。この同胞あげての抗争には三綱五倫と三従の道に縛られていた女性と、そのチマにすがってだだをこねていた子どもたちまで参加した。わたしを大きく感動させたのは、まさにその姿だった。女性が家庭の枠から抜け出して社会変革の運動に飛び込んだのは一つの革命であった。わたしはこの革命の主人公たちに厚い尊敬と愛情を感じた。そうした女性を支持し同情するうちにわたしの脳裏には、倒れた夫の後を継いで革命の道を踏み出した一女性とその子どもたちの形象がはぐくまれていった。当時のわたしの正直な気持としては、そういう女性をヒロインにした作品がつくりたかったのである。

    われわれは撫松に留まっている間、各地で演芸公演活動をおこなって人民を教育した。戦闘を終えては、そこに留まって公演をするか、公演が不可能な状況ならアジ演説をおこなってから部隊を撤収させた。革命軍の隊員が素朴な芸術小品を舞台にのせるたびに、人民は熱烈な拍手喝采を送ってくれた。いつか遊撃隊員たちが戦闘を終えての交歓会で『間島討伐歌』をうたったことがあるが、そのとき、これを聞いた人たちは老若男女を問わず誰もが涙を流し、日本帝国主義を呪い抗日の決意をかためた。この『間島討伐歌』一つだけでも涙の海を現出した思いもよらぬ交歓会場の情景は、演劇のような本格的な舞台形象によって人びとをより積極的に啓蒙したいという衝動をかきたたせた。だが時間が許さず、この欲求を実現することはできなかった。ところが東崗会議が終わったあと、李東伯が思いがけずわたしの心の隅にくすぶっていたその欲求に火をつけた。どこかの村から手に入れてきた新刊の文芸雑誌を見せてくれたのである。その雑誌には、獄につながれているある社会運動家の妻を描いた小説が載っていた。夫が下獄したのち、妻が子どもを他人にやり、再婚するというあらすじであった。わたしは李東伯に小説の読後感を聞いてみた。彼はさびしそうに笑った。

    「わびしくなりますね。生活とはこんなものなのかと…。でも仕方がないでしょう」

    「では先生は… この小説に真実が描かれているというのですか?」

    「真実の一端は描かれているでしょう。悲しい話ですが、わたしのよく知っている社会運動家の妻も、他の男とねんごろになり、子どもを捨てて駆け落ちをしてしまいましたよ」

    「そういう特殊なケースが、どうして真実だといえるのですか。朝鮮と満州でわたしが見た絶対多数の女性は夫に忠実で、子どもにも隣人にも、国にも忠実な女性たちでした。夫が獄につながれれば、夫に代わって爆弾やビラ束をかかえ革命活動に専念する女性、夫が革命の途上で倒れれば軍服をまとって夫の立っていた隊伍に立ち、銃剣を手にして仇敵を討つ女性、子どもが腹をすかせれば物もらいをしてでもひもじい思いをさせまいと心を砕く女性、これが朝鮮の女性なのです。そういう姿を見ずに、李光洙のように革命家の妻を冒涜するならどういうことになるでしょうか。彼が『民族改造論』を提唱したときソウル市内でビールびんをさんざん投げつけられたように、きぬた棒でしこたま叩かれないともかぎりません。われわれの母や姉たちのきぬた棒は武器奪取のときにだけ使われるわけではありません。これがまさに真実なのです。東伯先生、いかがですか」

    李東伯はあらたまったまなざしでわたしを見つめ、うって変わった態度でうなずいた。

    「そのとおりです。それが真実です」

    わたしは真実の反映を文学の本道と心得ていた。真実を反映してこそ、文学は読者大衆を美しく崇高な世界へ導くことができるのである。真実を反映することによって人民大衆を美しく崇高な世界へ導くのが、ほかならぬ文学・芸術の真の使命である。その日、われわれは自分の知っているすぐれた女性闘士や女性活動家、徳行と貞節において模範といえる烈女について長時間語り合った。話が終わるころ、李東伯は突然こんなことを言った。

    「将軍、女性革命家の運命を扱った演劇を一つつくってはどうですか」

    「どうしてまた急に演劇のことを考え出したのですか。ひょっとして間島で教鞭をとっていたとき、教え子たちを連れて演劇運動をしたときのことを思い出したのではありませんか」

    「こんな三文小説を書く人間に少々刺激を与える必要があると思うのです」

    彼は例の雑誌を指で突き差してみせた。わたしは、女性革命家を扱おうというのはたいへんりっぱなアイデアだ、しかし演劇をつくるにはなにがしかのテーマが必要ではないか、なにか考えているテーマがあったら話してもらいたい、と言った。

    「真の朝鮮女性とはどんな人間か、といったテーマです。朝鮮女性の実像を見せようというわけです。朝鮮人民の民族的受難は必然的に女性たちにまで闘争の道を歩まざるをえなくする、闘争のみが生きる道だ、こういうテーマですが、将軍のお気に入るかどうか…」

    わたしは驚いた。彼が設定したテーマは、わたしが間島にいたとき女性が主人公の作品を想定して探求したテーマと似かよったところがあったのである。

    「どうせなら、先生がじかにペンをとってはどうですか」

    わたしがこう言うと、「パイプじいさん」はあわてて首を振った。

    「わたしは、けちをつけることはできても創作はできません。この演劇の台本は将軍が書くべきです。書いてさえくだされば舞台のほうはわたしが引き受けましょう」

    わたしは確答はしなかった。けれども李東伯のたっての願いがあって以来、わたしの脳裏には前から考えていたヒロイン、血の海の中で夫と子どもを失った悲しみにたえて憤然と立ち上がり、闘争の道を踏み出す素朴な女性の形象がいっそう鮮やかに浮かび上がってきた。ヒロインの魅力的な形象は、わたしを興奮させた。わたしはとうとう紙にペンを走らせはじめた。部隊が漫江に到着するころには台本を半分以上書き上げた。

    わたしにとって演劇の創作は、これがはじめてというわけではなかった。撫松にいたときにも演劇公演をおこない、吉林や五家子でも演劇運動を活発に展開した。だが、武装闘争を開始して以来、演劇をそれほど舞台にのせることはできなかった。一九三〇年代の前半期に遊撃根拠地で演劇運動に熱をそそぐ人がいないわけではなかったが、吉林時代ほどには活発でなかった。時間と努力を要する演目に、遊撃区の芸術愛好家は情熱を傾けることができなかった。ならば、白頭山へ向けて南下行軍をつづける困難な路程で、なぜあえて演劇創作を日程にのぼらせ、それを実現させようと根気よく努力したのだろうか。わたしは大衆の意識化における演劇芸術の絶大な牽引力と効果に大きな期待をかけていた。当時は演劇ほど大衆の心をゆさぶる芸術は他になかった。無声映画がトーキーに発展し、それが一国の枠を越えて世界中に普及される前まで、演劇は芸術界でどのジャンルにも比べられないほど強力な感化力をもっていた。わたしも演劇となると時間を惜しまず見たものである。彰徳学校時代の同窓生のなかには演劇ファンが多かった。有名な劇団が平壌に巡回公演に来るたびに、わたしは康允範と一緒に市内へ行った。演劇は誰が見てもすぐ「すばらしい!」「つまらない」「まあまあだ」などと評価できる一般的で大衆的な芸術である。

    一九二〇年代と一九三〇年代は演劇の開花期、全盛期だった。わたしが彰徳学校に通っていたころは、すでに従来の新派劇に代わって台頭した新劇が観客の目を奪っていた。進歩的な作家、芸術家たちは、無産者大衆のためのプロレタリア演劇運動に心血をそそいでいた。プロレタリア演劇運動家たちは劇団をつくって地方の労働者、農民を訪ねて巡演した。そういう劇団が平壌にもひきもきらずやってきたものである。解放後、わが国の演劇界で名声を博した黄澈、沈影なども一九二〇年代と一九三〇年代から演劇運動に心肝を砕いてきた芸術家たちである。当時はどこででも演劇、演劇と叫んでいたときだった。生徒が五十名程度の田舎の学校でも演劇熱に浮かされていた。こうした時代の風潮にのって、われわれも初期革命活動の時期に演劇運動を展開した。

    『血の海』の台本を完成する過程は、集団的知恵の発現過程でもあった。劇の構成は言うまでもなく、一つのデテール、一つのせりふのためにも、同志たちは貴重な助言をしてくれたものである。

    東崗で撫松県城戦闘の勝利を総括する反日部隊指揮官たちとの合同会議を終えたのち、わたしは主力部隊を率いて白頭山西方の衛星区域である漫江へ向かった。漫江は広大な高原の上の、白頭山にいちばん近い村里で、撫松県の南端に位置していた。ここから南方の多谷嶺を越えれば長白であり、西南方の老嶺を越えれば臨江である。一九三六年当時の漫江は八十余戸の民家が点在する小さな村にすぎなかった。この火田民村は南甸子、陽地村、万里河、杜集洞と同様、撫松地方にはまれな朝鮮人村落の一つだった。安図とは異なり、撫松には朝鮮人が多くなかった。県城から遠く離れている漫江は、人の行き来がまれな山奥の僻村だった。住民がわずかなうえに行き交う旅人もまばらで、見ようによっては人間社会から隔絶した絶海の孤島のような印象さえ与えた。訪れる人がいるとすれば、粗櫛や染め粉などの行商か、塩商人といった人たちだけだった。撫松の有志のなかでも漫江に出入りする人は多くなかった。崔辰庸総管が一、二度、そしてその後任として総管役についた延秉俊が五、六回足を運んだくらいだろう。

    話のついでに、延秉俊がどういう人物なのか少し紹介しておくことにする。彼は洪範図麾下の部隊長の一人だった。洪範図の独立軍が沿海州方面に活動舞台を移したのち、どんな縁故があったのか撫松に来てひところ総管の地位を得て正義府の地方長官を務めたのだが、大衆の人望が厚かった。その後、彼は総管職を退き、大蒲柴河で鍼医になった。大蒲柴河という村は安図と敦化の境にあった。あるとき、その村に行ってきた金山虎が、延秉俊の医術は玄人はだしだとほめそやし、わたしにも一度治療を受けてみるようにとしきりにすすめた。それで、わたしは延秉俊を訪ねていった。わたしの脈を取った延秉俊は、将軍の気力は衰えきっている、鹿茸か野生の朝鮮人参が求められないだろうか、求められれば処方を書いて差し上げる、と言った。彼の処方どおり薬をつくって服用し、かろうじて健康を回復した。祖国に凱旋してかなりの時日が経過したある年、幹部の一人が健康を害して少々苦労したことがあった。そのとき、わたしは大蒲柴河で延秉俊が教えてくれた処方を思い起こしながら、しかじかの薬を使ってみるようにとすすめた。驚くべし、彼は数か月後にわたしの処方が大いに効力を発揮したと言うのだった。それで、それはわたしの処方ではなく、数十年前に満州で延秉俊という医家が教えてくれた処方だと説明した。その延秉俊はどんな因縁からか、漫江をかなりくわしく知っていた。

    漫江の特産物のなかでも自慢できるのはジャガイモだった。この土地のジャガイモは内島山のジャガイモのように赤児の枕ほどのものもあった。漫江川にはコグチマスが多かった。漫江村の住民が使っている器はいずれも木を掘り削ってつくった木器でなければ、白樺の皮でつくったものだった。さじも木製であり、醤油やキムチを漬けるかめもやはり丸木を掘ってつくったものだった。

    行軍隊伍が二本の白樺が立っている漫江村の入口にたどり着いたとき、われわれの来るのをどうして知ったのか、許洛汝村長をはじめ村人たちが桶やくり鉢に甘酒や濁酒を盛って待っていた。県城に塩を買いに行った農民が撫松県城戦闘のニュースを持ち帰って以来、村長は敵の動きをするどく観察するようになり、日本軍の飛行機がたびたび漫江方面に飛来するのを見ては、革命軍がこの村に来るに違いないと確信するようになったと言うのであった。わたしは濁酒を一杯飲みほしてから村長に尋ねた。

    「こうして総出でわれわれを公然と歓迎して、あとのたたりはありませんか」

    「心配ご無用です。この春、革命軍がここに現れて以来、漫江警察隊の連中はわたしらにもぺこぺこしています。まして汪隊長もやられた、撫松県城の日本軍も全滅させられたというニュースを聞いてからは、ただもう怖くて震えあがっている始末です」

    こんなやりとりをしているとき、漫江川の橋の方から農民のにぎやかな声が聞こえてきた。

    「革命軍のみなさん、今度もダンスを見せてくれるんでしょうね」

    春に漫江村に来て演芸公演をしたとき、琿春出身の遊撃隊員数名が舞台に出てロシアの踊りをおどったことがあった。ソ満国境地帯で暮らしてきた琿春出身の隊員らはロシアの歌や踊りがたいへん上手だった。その踊りを見て目を丸くした村人は「や―、これは見ものだ。踊りというのは腕を振り、肩を上げ下げするものとばかり思っていたのに、あれを見ろ、足でドンドン蹴りもするんだな。ともかくあのダンスというのは見るだけのことはある」と言ってはやし立てたものである。

    「はいはい、ダンスだけではありませんよ。それよりもっとすばらしいものをご覧に入れましょう」

    李東伯がほのめかした「すばらしいもの」というのは、演劇を念頭においてのことだった。

    われわれは許洛汝村長の家の一間に指揮部を定めた。この家はわたしの父とも縁が深かった。十年前、孔栄が馬賊に捕われた父を救い出して立ち寄った最初の家がここだった。そのとき許洛汝は孔栄と一緒に父を撫松まで護衛してくれた。わたしはこの家で『血の海』の台本を書く作業をつづけた。田国振が倒れたあとであり、また後日、人民革命軍の隊内新聞『曙光』を主管しながら数編の短編小説まで書いてそれに載せたことのある金永国もまだ入隊する前だったので、台本を書く作業は漫江に来てからもわたしの仕事にならざるをえなかった。李東伯は台本作業の参考にと、祖国で発行された幾種もの新聞、雑誌や単行本をしばしば手に入れてくれた。その出版物のおかげで、国内における政治的出来事や社会経済状況、文学・芸術界の実態をつぶさに知ることができた。

    当時の進歩的な文学・芸術運動は、およそその内容と形式において日本帝国主義の民族文化抹殺政策から民族的なものを擁護し、発展させようとする愛国愛族的なもので一貫されていた。日本帝国主義植民地支配当時のわが国の進歩的な文学は、愛国愛族の精神と自主独立の思想で人民を啓蒙し、演劇、映画、音楽、美術、舞踊など各ジャンルの芸術の発展方向を誘導し、それに盛るべき内容を提示するうえで先導的役割を果たした。「新傾向派」文学と呼ばれた進歩的作家の文学運動は、一九二五年にいたって朝鮮プロレタリア芸術同盟(「カップ」)を誕生させた。「カップ」の創立以来、朝鮮の進歩的文学は労働者、農民をはじめ勤労人民大衆の利害を代弁し擁護するプロレタリア文学・芸術の発展に寄与した。李箕永、韓雪野、宋影、朴世永、趙明熙といったすぐれた「カップ」の作家たちによって、わが国の文壇では『故郷』『黄昏』『面会は一切拒絶せよ』『山燕』『洛東江』など、人民に愛読される数多くのすぐれた作品が創作された。作家のなかにはソウル鍾路の街角に小豆がゆの屋台を出して生計を維持しながらも、人民の精神的糧となり先導者となるりっぱな文学作品を書き上げた人もいる。その一つひとつの作品は凶悪な日本帝国主義の植民地支配を脅かす起爆剤となった。

    「カップ」の作家の声が響くところにはつねに、思想犯の弾圧に血眼の日本軍警と情報要員の黒い影がつきまとった。その声が高まるほど、敵は首かせをいっそう強く締めつけた。二回にわたる検挙旋風により、「カップ」は創立十周年にあたる一九三五年に惜しくもその存在を終えざるをえなくなった。日本帝国主義が強いる「国民文学」(転向文学)に迎合するか、ペンを折ってしまうかという岐路に立たされたときも、大部分の「カップ」出身の作家は進歩的文人としての良心を守り通した。李箕永は内金剛の深山幽谷に閉じこもって焼き畑を起こしながらも、祖国と民族を限りなく愛する良心的な知性人、愛国的作家としての面目を保った。韓雪野や宋影もやはり、かろうじて生計を維持する窮状にあっても節操を曲げなかった。

    日本帝国主義は「カップ」を解散させることはできたが、朝鮮文学に一貫する抵抗精神と愛国愛族の土壌から力強く芽ぶき成長してきたその文学の命脈は断ち切ることができなかった。「カップ」出身の文人たちが獄につながれたり山間僻地に追われていたとき、抗日革命隊伍内の知識人とともに、北部国境地帯の作家と中国本土の赤色区域、社会主義ソ連で活動していたわが国の亡命作家たちは、朝鮮共産主義運動と民族解放偉業に積極的に寄与する斬新で戦闘的な革命文学を創造していた。彼らは白頭の峻嶺と満州広野で血戦に血戦を重ねる抗日闘士を民族の寵児として高く称賛し、彼らへの愛情と共鳴を惜しみなく示した。後日『人間問題』の作者として広く知られた女流作家の姜敬愛は、竜井で間島人民の援軍運動を描いた『塩』という中編小説を書いた。

    詩人の李燦と金嵐人が国境地帯でおこなった創作活動はわれわれの注目を引いた。李燦はわれわれが西間島へ進出したのち、鴨緑江対岸の三水と恵山鎮で朝鮮人民革命軍への限りない憧憬をこめて『雪の降る宝城の夜』のようなりっぱな叙情詩を書いた。金嵐人は東崗で祖国光復会が創建された年の十一月、臨江対岸の中江鎮で表紙に赤旗を描いた同人文芸雑誌『詩建設』を創刊し、抗日武装闘争を憧憬し朝鮮の独立を祈願する革命的な詩を数多く発表した。彼は自分が経営していた印刷所で極秘裏に『祖国光復会十大綱領』を二千部も印刷してわれわれに送ってよこした。朝鮮人民革命軍の戦果に励まされて参軍を企図した作家もいた。小説家の金史良は参軍を決心して満州広野をさ迷ったが、とうとう人民革命軍を捜し出せず、延安へ足をのばして長編紀行『駑馬万里』を書いた。

    新しい祖国建設の時期と反米大戦(朝鮮戦争)の時期、わが国の文壇で創作された『白頭山』『雷鳴』『朝鮮はたたかう』『鋼鉄青年部隊』などの成功作が、解放以前に革命組織に加入したか、参軍をめざした文人たちによるものであったのは決してゆえなきことではない。われわれの武装隊伍には直接参加できなかったが、銃をとった気持でペンをとり、民族の啓蒙に尽くしたこういう作家たちがいたからこそ、われわれは解放直後の短期間に朝鮮人の好みに合った新しい文化をすみやかに建設することができたのである。

    わが国の愛国的芸術家と先覚者は、日本でも映画業を発展させているのに、朝鮮人だからと映画がつくれないわけはない、われわれも先進国のように映画をどしどしつくって民衆に奉仕しよう、そして映画芸術でも自立の能力があることを万邦に示そうという決意で映画芸術建設の困難な処女地を開拓していった。羅雲奎(〔3〕)など良心的な映画人は『アリラン』をはじめ民族的情趣豊かな映画をつくって朝鮮の芸術家の実力を誇示した。

    一九二〇年代と一九三〇年代は、日本色、日本かぶれの濁流のなかで失われていく民族性を固守し、民族的なものを発展させようとする強烈な志向が文学・芸術の各分野で噴出していた時期である。こういう時期に、崔承喜は朝鮮の民族舞踊の現代化に成功した。彼女は民間舞踊、僧舞、巫女舞、宮中舞踊、妓生舞などの舞踊を深くきわめ、そこから民族的情緒の濃い優雅な踊りのリズムを一つひとつ探し出し、現代朝鮮民族舞踊発展の基礎づくりに寄与した。当時、朝鮮の民族舞踊はまだ舞台化の段階には到達していなかった。劇場の舞台に声楽、器楽、話術などの作品がのることはあっても、舞踊作品がのることはなかった。ところが、崔承喜によって舞踊リズムが完成され、それにもとづいて現代人の感情に合う舞踊作品が創作されはじめて以来、状況は一変した。舞踊も他の姉妹芸術とともに堂々と舞台に登場するようになったのである。崔承喜の舞踊は国内にかぎらず、文明を誇るフランス、ドイツなどでも熱烈に歓迎された。

    われわれが西間島へ進出していたころ、国内では日章旗抹消事件という衝撃的な事件が起こり、そのニュースが白頭山のふもとまで舞い込んできた。この事件の発端は、『東亜日報』紙が一九三六年八月、ベルリン夏季オリンピック競技大会のマラソン覇者である孫基禎を写真入りで紹介したとき、彼の胸にあった日章旗を消してしまったことであった。怒り心頭に発した総督府当局は、『東亜日報』を停刊処分に付し、関係者たちを拘束した。そのニュースを聞いたわれわれは、孫基禎の競技成果と日章旗抹消事件を伝える講演をおこなった。人民革命軍の全隊員は、『東亜日報』編集スタッフの愛国愛族の立場と勇断に熱烈な支持と連帯を送ったものである。

    『血の海』の台本ができあがると、わたしはそれを「パイプじいさん」に見せた。台本を読み終えた彼は、これなら上々だと、原稿の束を宙にふりかざし外へ飛び出していった。漫江で演劇を舞台にのせるまでのいくつかのエピソードは、戦跡地踏査記や回想記などに少なからず紹介されている。それらの文章には、記憶がうすれて正確さを欠いていたり、忘れ去られた事柄もあるようだ。ことに、李東伯の苦労がまったく語られていないのは遺憾にたえない。

    自ら舞台監督の役を買って出た「パイプじいさん」は配役の問題からして難関につきあたった。誰も討伐隊長の役を受け持とうとしないのである。論議の果てに、闊達な李東学中隊長にその役を強引に押しつけた。乙男のオモニ(母)の役は最初は張哲九に割りふられたが、のちに金確実にまわされ、甲順の役は金恵順に割りあてられた。討伐隊長役の選抜に劣らず「パイプじいさん」を悩ませたのは甲順の弟、乙男の役だった。十歳前後の幼い少年の役だったが、部隊にはそれに適した小柄の人物は一人もいなかった。それで乙男の役は漫江村の少年にやらせることにした。「パイプじいさん」は演出でもだいぶ手をやいた。彼が演技指導にあたっていちばん心配したのは、乙男役を演ずる漫江の少年だった。ところが思いのほか、この田舎少年が演出家の意図をもっとも敏感に受けとめたのである。そのかわり大人の方の演技がまずくて「パイプじいさん」をやきもきさせた。演技者のほとんどが、舞台に立つとコチコチになって、なんの仕草もできないのである。

    物覚えが速く多感な金恵順でさえ、いざ舞台に立つと目が据わり、せりふもぎこちなくなった。泣くべきところではまったく口を閉ざしてしまい、「パイプじいさん」がなだめたりすかしたり、怒ったりしたが効き目がなかった。彼女が自分の役を思いどおりこなせず毎回指摘されるというのは、どう考えても理解に苦しむことだった。彼女は幼いころ学費がなくて学校にも満足に通えず、学校の垣根越しに見よう見まねで文字や歌を覚えた女性である。わたしは金恵順に、彼女が祖国と間島で身をもって体験したことを一つひとつ想起させ、この演劇はまさにきみのような人が体験したことを描いたものだ、日本軍が射殺した乙男はきみの実の弟だ、考えてみなさい、ついさっきまで姉さん、姉さんと慕っていた弟が血を流して倒れたというのに、どうして姉の胸に恨みの血の涙が流れないというのだ、と諭した。その瞬間から彼女の演技は一変した。わたしは李東学をも強くたしなめた。彼が「パイプじいさん」に、討伐隊長を何人か捕えてこいというなら喜んで捕えてくるが、そんなやつのまねは口が汚れるからできないと突っぱねたからだった。それで、討伐隊長の役を上手にこなすのがきみの戦闘任務だと、二度と口をとがらせないように釘を刺したのである。

    銃と背のう以外にはなにも担いでこなかった遊撃隊員がまたたく間に仮設舞台をつくり、物珍しい演劇をはじめると、漫江の村人たちは驚きの目を見張った。舞台に自分たちがへてきた生活と同じことが再現されるや、胸をかき抱いて演劇の世界に引き込まれ、しまいには甲順とともに泣き、オモニとともに叫び声をあげた。なかには、自分がいま演劇を見ていることも忘れ、いきなり舞台に駆けあがって、乙男を撃ち殺した日本軍討伐隊長に扮した李東学の頭をキセルで殴りつける老人さえいた。演劇『血の海』がはじめて上演された日、漫江の村人は一晩中寝つくことができなかった。純朴な山里の人たちは、その夜だけは零時をはるかに回っても、まだ油灯のもとで演劇の感想を語り合った。ある家からは寄り集まってはしゃいだり笑ったりする声が聞こえてきた。その夜はわたしも夜露にうたれながら長いこと村道を歩いた。公演から受けた印象を語り合い、喜びにひたっている彼らの話し声や笑い声、息づかいを聞くと、とても眠れそうになかった。わたしは比類ない芸術の力に、ただ驚くばかりであった。いまの人の目からすれば、漫江での演劇はまったく素朴なものであった。ところが驚いたことに、その素朴な公演を見てすべての観衆が泣き、笑い、胸をかきむしり、手を叩き、足を踏み鳴らすではないか。その夜、漫江村の小径を歩きながらわたしはこんな思いにふけった。

    (われわれがこの村で公演をしなかったなら、あの人たちはいまごろなにをしているだろうか。許洛汝村長が言ったとおり、おそらく宵の口から油灯を消し、闇のなかで眠りを誘うか、夢路をたどっていることだろう。ところが、この夜更けにも漫江の民家には油灯があかあかと点っている。だから、われわれはこの村に灯をもたらしたことになるではないか。この村に百俵の米を担いできてやったとしても、村人たちをあれほどまで興奮させることはできなかっただろう)

    漫江での演劇公演は山里の素朴な若者や老人を啓蒙し、抗日革命闘争の積極的な参加者にし、後援闘士に変えた。そのとき多くの青年が舞台に駆けあがって熱烈に入隊を申し入れた。漫江は数多くの入隊者を出した土地の一つとなり、われわれの信頼すべき後方補給基地の一つとなった。この演劇が漫江の住民にどれほど深い印象を残したかということは、二十余年後に革命戦跡地踏査団が漫江を訪ねたときにも、地元の人たちが公演のあった場所だけでなく、登場人物の名やくわしい筋書き、さらにはせりふの一部まで生き生きと記憶していたという事実によっても十分うかがえるであろう。革命軍の思想と情操は『血の海』の舞台を通じて、人びとの頭脳と心臓と肺腑に漫江川の流れのごとくひたひたと打ち寄せたのである。一口に言って、抗日革命期の芸術は暗黒を押しのける灯火ともいえ、人びとをたたかいに立ち上がらせる陣太鼓ともいえた。われわれが芸術活動を「太鼓大砲」といったのは、至極正当なことであった。

    現代芸術もそれと同じ使命をおびていると思う。人間が人間らしく自主的に生きていくのに必要な真の思想と真の道徳、真の文化をもたらすのがほかならぬ現代芸術の基本的使命である。人民革命軍の隊員たちは本当に才能があった。つきつめてみれば、芸術は高尚なものではあるが、決して神秘的なものではない。この事実が物語っているように、人民は真の芸術の享受者であるばかりでなく、真の創造者である。演劇『血の海』の公演は遊撃隊員を思想的、文化的に、情操的にりっぱに成長させるのにも大きく寄与した。

    解放直後、わたしは家に訪ねてきた作家たちに、漫江での芸術活動を思い起こしながら、われわれは山中で戦ったとき身近に専業の作家や芸術家がいないのをどんなにもどかしく思ったか知れない、それで自分の手で曲をつくり、台本を書き、演出もした、けれどもこれからはあなたがたが主人だ、あなたがたがりっぱな作品を書いて新朝鮮の建設に立ち上がった人民を励ますべきだ、と話したものである。

    一編のりっぱな詩や演劇や小説が万人の心をゆさぶり、革命的な歌は銃剣の及ばない所でも敵の心臓を射ぬくことができるというのは、じつに抗日革命期の文学・芸術活動によってわれわれが会得した真理である。人びとを革命的に目覚めさせる過程は、革命思想に共鳴させ感動させる過程だともいえる。人間を感動させるもっとも強力な手段の一つは文学と芸術である。いつだったか、わたしは日本の有名な歌手で参議院議員だった大鷹淑子(李香蘭)に、人間の生活には歌もあり踊りもあるものだと言ったことがある。人間の住む所に生活があるのは当然であり、生活のある所には芸術があって然るべきである。芸術のない世界がどうして人間の世界といえ、芸術のない生活がどうして人間の生活といえようか。それゆえ、わたしは人びとにいつも文学・芸術を愛せよと話し、また全国の大衆に文学と芸術を享受し、創造できる人間になれと説いているのである。

    われわれはこの地に、万民が歌と踊りを楽しむ世界的な芸術の王国を築き上げた。これは漫江の素朴な仮設舞台で、たいまつとランプの明かりのもとで『血の海』を上演したときの、わたしの切々たる願いであり夢であった。いまでは全国各地に数百数千の収容能力を有する劇場、映画館、文化会館がりっぱにととのっている。芸術大学も各道にそれぞれ設置されている。わたしは新しい世代がこれらの殿堂で、前の世代がうたいつくせなかった歌を思う存分うたい、白頭山の香気がただよう芸術をたえず創造してくれることを願っている。

    いまは固有の朝鮮語で『ピバダ(血の海)』と呼んでいるが、もとの作品名は『血(ヒョル)海(ヘ)』だった。漫江で『血海』が上演されたあと、それを見た人たち、その演劇公演に直接参与した人たちがあちこちで『血海歌』、または『血海之唱』という題名で公演活動をつづけたようである。その過程で筋書きや登場人物の名も少しずつ変わり、ある所では自分たちにもっと身近な生活素材と入れ替えたりしたようである。当時、われわれは『血の海』についで『ある自衛団員の運命』も舞台にのせた。この演劇には、『血の海』の公演に参加しなかった他の遊撃隊員たちが競って出演した。

    解放後、わが国の作家、芸術家によって、漫江で上演された作品はすべて発掘された。金正日同志は、われわれの手で創作された抗日革命期の戯曲をわが国の革命演劇と革命歌劇の始祖、起源と位置づけ、それを映画や小説、歌劇、演劇に再現する作業をエネルギッシュに指導した。その過程でわれわれの原作にもとづいて革命映画、革命小説、『血の海』式歌劇、『城隍堂』式演劇が創作され、抗日遊撃隊式の芸術活動システムが新たに確立された。

    『血の海』がはじめて映画化されたとき、漫江の素朴な仮設舞台にかかっていたランプとともに、むしろござに座って泣いたり笑ったりしていた村人の姿が思い出された。漫江で『血の海』を上演したとき、その成果を熱狂的に祝ってくれた忘れがたい人たちの顔がもう一度見たい。半世紀を越す歳月が流れているので、当時の老人たちはもうこの世にはいないと思うが、わたしと同年輩の人や子どもたちの幾人かは漫江に住んでいるかも知れない。乙男の役を演じた少年も、生きていれば六十代の老人になっているはずである。

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

      4 女 性 中 隊

    

    

    ひところ朝鮮人は、独立軍唯一の女傑であった李寛麟をさして「万緑叢中紅一点」とたたえたものである。しかし、パルチザンを中核とする抗日の万緑叢中には、朝鮮民族が生んだ数百、数千の紅い花が美しく咲いていた。愛国の一念に燃える朝鮮のオモニや娘たちは、男でさえ耐えがたい肉体的負担と精神的苦痛をへながらも革命の道から退かず、祖国から日本帝国主義を駆逐する聖戦に生命も青春も家庭もささげたのである。そうした誇らしい女性闘士たちを思うと、一九三六年の春、朝鮮人民革命軍の主力師団の編制とほぼ時を同じくして組織された女性中隊が思い出される。

    南湖頭会議以後、白頭山への進出途上で新しい主力師団とともに女性中隊を別個に組織したのは、遊撃隊伍の急速な拡大発展と抗日武装闘争全般の新たな高揚を示唆する驚異的な出来事であったといえる。女性中隊の誕生、これは封建的束縛によって数千年来、家庭に閉じこめられていた朝鮮の女性が堂々と革命闘争の第一線に立ったことを意味する画期的な出来事であった。いまは女性の社会的地位について語るとき、「革命の片方の車輪」という表現を使っているが、抗日革命の時期には女性が革命の片方の車輪であることを肯定する人は多くなかった。まして、女性が銃をとって男子とともに長期間、武装闘争をつづけることができると考える人はほとんどいなかったと言っても過言ではない。

    正直なところ、わたしも最初のころは女性の参軍は無理だと考えた。女性は男子に比べて肉体的に軟弱だという考え、あの弱々しい体で遊撃闘争のあらゆる重荷をになうことは不可能だという先入観がわたしの頭を支配していたのである。もちろん、かつて外来侵略者との戦いで世人を驚嘆させる功労を立て、賛嘆の対象となるエピソードを残した女性たちがいたことを知らないわけではなかった。敵将小西飛騨守如安を討ちとるのに手を貸した平壌の名妓桂月香や晋州の論介のような愛国女性の武勇伝はあまりにもよく知られている。『壬辰録(〔4〕)』を読んだことのある人なら、幸州山城の戦いがいかに激烈をきわめ、その戦いで果たした女性の役割がいかに大きなものであったかを生々しく記憶していることだろう。権慄将軍が京畿道高陽郡の幸州山城に背水の陣を敷き、山城を包囲した三万余の日本侵略軍と手に余る決戦をつづけているとき、地元の女性たちは投石戦を展開している味方の兵士たちにチマに石を包んで熱心に運んだ。幸州山城の女性のその短い愛国チマは後日、朝鮮の主婦が台所仕事をするときやおしゃれ用として着けるスマートなエプロンになった。幸州山城の戦いに由来するそのエプロンは「ヘンジュ(幸州)チマ」と呼ばれている。高麗時代に男装して戦場に駆けつけ、契丹の侵略軍を撃退する戦いで武勲を立てた雪竹花の話もまた有名である。

    歴史は雪竹花のような個々の女傑の参戦物語はいくつか伝えているが、純然と女性だけで組織された戦闘部隊が勇躍戦場におもむき、白兵戦を展開したという記録はこれといって残していない。しかし、われわれの展開した遊撃戦では、女性が看護婦や裁縫隊員、炊事隊員といった補助的な役割だけでなく、戦闘員としての使命も同時に果たさねばならなかった。いったん入隊と決まれば、女性も冷酷な戦争の論理にしたがって動かなければならない。戦争は女性だからと、人道主義をほどこしはしない。状況によっては男子と同じように重い装具を担い幾日も強行軍をつづけなければならず、凍りついた地面に腹ばいになっ

    て銃撃戦を交えたり、ときには白兵戦にも参加しなければならない。政治工作や食糧工作のため敵地に派遣されることもあり、肌を刺す酷寒のなかで土工作業などもしなければならない。積雪寒冷のさなかに露宿しながら何年、何十年戦わなければならないのか、それもわからない。こうした難関に果たして女性がたえられるだろうか。こういう死地に女性をおもむかせるのが果たして正当なことだといえるだろうか。いくら考えても心が定まらなかった。

    吉林時代からわれわれの運動圏内で活動したメンバーのなかには、わたしに入隊の意思を示した女性が少なくなかった。韓英愛も遊撃闘争に参加させてほしいと泣いて願い出た。だが、わたしは東満州に向かうとき、無理やりに彼女を北満州に残した。吉林時代の少年会員のなかにも、入隊したくて敦化までついてきた女性がいたし、中部満州から手紙で入隊の意思を伝えてきた女性もいた。いずれも愛国の一念に燃えた願いではあったが、そうした要望を聞き入れてやることができなかった。当時わたしの頭の中には、女性が武装闘争に参加したいというのは出すぎた欲だ、それは男のやることだ、女性にはそれなりの仕事がある、女性を家庭から引き出して社会革命に参加させるのはよいが、武装闘争までやらせることはできないではないか、という考えがなきにしもあらずだった。

    武装闘争の準備が進み、各地で遊撃隊があいついで組織されるようになると、入隊を熱望する女性の声はいっそう高まった。地下組織で活動していた女性のなかには、他人がなんと言おうと強引に遊撃隊にやってきては、うむを言わせず居座ってしまう者も少なくなかった。形勢がこうなると、われわれも女性の参軍問題を正式に論議せざるをえなくなった。女性参軍の問題が話題にのぼると、一部の既婚者は言下にその可能性を否定してしまった。女性は家事をつかさどり男子は外で活動するのが祖先伝来の慣例だ、李寛麟がひところピストルを腰にさげて独立軍について戦ったのは事実だが、それは千に一つというケースであって、普通の女性がどうして険しい山を駆けめぐり、男子でさえ苦しがる遊撃活動ができるというのか、女性を戦地に引き出すのは冒険だ、と言うのだった。さらには、女性の参軍問題など論議する余地もないと言い張る者もいた。

    しかし、車光秀をはじめ他の同志たちは、そういう主張を即座に一蹴してしまった。――きみたちは、人類史に母権制が長い間存在し、その母権制のもとで男子が女性に保護されて暮らしてきた時代があったことを認めるか。わが子が火の中にあれば、そこに真っ先に飛び込むのも女性だ。まして国が血涙にひたされているというのに、女性だからといってどうして腕をこまねいていられるというのか。女性の参軍はわれわれの姉妹自身の要求であるのみか、時代の要請でもあることを知るべきだ―― 結局、女性の参軍をめぐる論争は見解の一致にいたらず、空転を重ねた。われわれは青年男子で遊撃隊を組織したのち、形勢を見ながら後日論議し直すことにした。

    ところが、こうして棚上げにされていた女性参軍の問題が、なんの意見の衝突もなく全員一致であっさり決まったのである。その契機となったのは、武器奪取のための間島の女性たちの闘争ニュースだった。和竜県の大胆な二人の女性がきぬた棒で日本人巡査を叩きのめして小銃を奪い取ったという快報が舞い込んできて、女性の参軍に反対していた人たちの口を封じてしまったのである。間島全土が武器を手に入れるために立ち上がっていた時期であった。組織を通じて武器獲得の重要さと切実さを知った十八歳のうら若い金寿福は、敵の武器を奪う方法を考え抜いた末、同僚の娘と連れ立って洗濯用のくり鉢を頭に載せ川辺の一本橋のたもとに行った。数日前の大雨で橋は流され、杭しか残っていなかった。二人は終日そこで洗濯するふりをしながら機会がくるのを待った。日暮れどきになってようやく日本人警官が一人現れ、おぶって川を渡せと命じた。金寿福が警官をおぶって川に入ると、もう一人の娘も手を貸すふりをして付き添った。川の真ん中まで来ると、金寿福は靴が濡れるとばたつく警官を水中に押し込み、きぬた棒でめった打ちにした。虐殺された両親の名で復しゅうをとげ武器を奪った二人の娘は、一九三三年の夏に抗日遊撃隊に入隊した。そのとき以来、金寿福には「きぬた棒」というあだながついた。後日、人民革命軍の主力部隊で裁縫隊の責任者を務めた朴洙環もやはり、きぬた棒で敵兵を倒して武器を奪った女性である。数名の女性が組んで警官たちに酒を飲ませて何挺もの武器を奪い取った例もあった。いかなる証書といえども、彼女らが奪った武器のようには朝鮮女性の到達した精神的高さと意志を力強く証言することができないであろう。朝鮮の北部国境地帯と満州の各地域では、女性が自ら奪取した武器を手にして武装隊伍に加わっていた。

    女性たちのこの急進的な進出と深刻な変化はなにを物語るのであろうか。野菜づくりでもしながら不運を嘆いていた女性が、数百年来がんじがらめにされてきた封建的束縛から大胆に抜け出し、勇躍武力抗戦に参加するまでになったのはなぜだろうか。それは武器をとる以外には生きる道のない朝鮮女性の過酷な生活がまねいた必然的な帰結であった。女性が代々受け継いだ遺産は、束縛の鎖と怨恨だけであった。朝鮮封建社会の最大の罪悪の一つは、男尊女卑の戒律により、すべての女性を無人格の存在として束縛し卑しめたことである。女性は子どもを産み、食膳をととのえ、手がふしくれだつほど野良仕事をし、機を織る、一家の下女同様に考えられていた。若くして夫に死なれても、後家を通して死なねばならないのが女性であり、身売りを強いられるのも女性だった。朝鮮を占領した日本帝国主義は、そうした不幸のうえに女性の道具化、商品化という二重の不幸を強い、亡国の民という致命的な烙印を押した。

    抗日革命はそうしたすべての厄運と不条理の根源を払拭してしまう暴風であり、朝鮮の女性を革命の道に導いた世紀の出来事であった。朝鮮の女性はペンではなく、鮮血によって大地に自己の新しい歴史を記しはじめたのである。

    女性入隊者の数が増えるにともない、われわれは彼女たちをいっそういたわるべきだと考えるようになった。銃を握ったとはいえ、女性はやはり女性なのだから、遊撃戦を進める困難な状況下でも女性らしい生活ができるようにしてやらねばならなかった。遊撃隊の隊伍に女性隊員が生まれたときから、われわれはつねに妹の面倒をみる気持で彼女たちに特恵をほどこした。銃もいちばんよいものを与え、寝所もいちばん心地よいところに定め、戦利品もいちばんりっぱなものを選って分け与えた。

    そうする過程で、その特別待遇をさらに高め、女性隊員の隊伍を別個に編制して彼女らの生活単位と軍事行動単位を一元化する必要性を感じた。女性だけの中隊を別個に組織すれば、革命的自負と熱意をいっそう高め、自覚と戦闘力を最大限に発揮させることができ、生活上の不便も少なくすることができると考えた。それでなくても、戦闘員に加えてほしい、銃をとって両親や兄を虐殺した敵を何人かでも倒して恨みを晴らしたいというのが、女性隊員の一致した願いであった。裁縫隊、病院、炊事隊を問わず、すべての女性隊員が異口同音にそういう願いを切々と吐露した。

    わたしが司令部直属の女性中隊を編制しようと決心したのは、撫松で新しい師団を編制するときだった。そのとき新しい師団の根幹となった百余名の民生団(日本帝国主義の手先団体)嫌疑者のなかには、張哲九、金確実をはじめ女性隊員が少なくなかった。民生団嫌疑者の調書が焼却され、それまでの民生団嫌疑者が全員無罪と宣言されたニュースが広がると、あちこちに隠れていた「民生団」の連累者たちがわれわれを訪ねてきたのだが、そのなかにも少なからぬ女性がいた。李桂筍、金善、鄭万金などがそういう女性だった。布団包みを頭にして現れた朴禄金のように個別にやってきた女性隊員も多く、大碱廠と五道揚岔で独自に活動していて、新師団に編入された群小部隊と一緒に集団的に入隊した女性隊員も多かった。

    わたしが迷魂陣密営に行ったとき、そこにいた裁縫隊の金喆鎬と許成淑が戦闘部隊にまわしてくれとせがんで、いくら説得しても聞き入れようとしなかった。裁縫隊の全員が是が非でもわたしについて行くと言うのである。きみたちがみんなわたしについて来てしまったら、軍服は誰がつくるのだと言うと、肩代わりできる病弱な女性隊員がいくらでもいるとのことだった。確かめてみると、迷魂陣密営には裁縫隊、病院、炊事隊に必要な人員を十分割り当ててもなお余るほどの女性隊員がいるのは事実だった。残りの女性隊員は戦闘中隊に繰り入れるか、さもなければより効果的な対策を立てなければならなかった。それでわたしは、テストケースとして女性中隊を別個に組織してみてはどうかと考えた。だが、迷魂陣の女性隊員だけでは一個中隊の人員にはならなかった。わたしは崔賢に、女性隊員たちがどうしても望むなら、女性小隊を組織してみるようにと耳うちをしておいた。

    「女性だけの戦闘中隊を一つ別個に組織してはどうだろうか」

    ある日、朴禄金にさりげなくこう言ってみると、彼女は歓声をあげ絶対賛成だと言った。しかし、金山虎と李東学は首をかしげた。

    「女性だけで満足に戦闘ができるでしょうか。女性だけでは狂暴な日本軍を相手に戦えそうにありません。中隊と小隊の指揮を男子が受け持ってやるなら話は別ですが…」

    金山虎がこう言った。

    「男が指揮するのでは女性中隊、女性小隊と言えないではないか。女性中隊なら指揮も女性にまかせるべきだ」

    わたしは彼の意見に同意しなかった。

    「でも、それが可能でしょうか」

    「きみたちは士官学校や軍事大学を出て指揮官になったというのかね」

    金山虎は言葉につまったが、依然として釈然としない顔つきだった。李東学も「女性中隊か、女性中隊か…」とつぶやきながら首をかしげた。わたしが女性中隊の話をもちだすと、金周賢はただちに拒絶反応を示した。女性だけの中隊を編制して戦場に送り出せば戦いが失敗するのは目に見えている、そうなれば朝鮮人民革命軍の威信はどうなるのか、と言うのだった。漫江付近で女性中隊組織の準備が進められていた一九三六年の四月ごろ、前ぶれもなく男女混成部隊がわたしの前に現れた。男女混成とはいっても、男子は四、五名にすぎず、あとは金喆鎬、許成淑、崔長淑、黄順姫をはじめ全員が女性だった。わたしが金喆鎬に、病身の崔賢を置いてなぜここに来たのかと尋ねると、ほかならぬその崔賢の指図で来たと言うのである。床を上げた崔賢は、女性隊員たちに戦闘部隊にまわしてほしいとしつこくせがまれ、そのなかから健康な女性隊員を選んで小部隊を編制し、将軍の所に行けば願いがかなえられるだろうと言ったとのことである。女性隊員たちからもちこまれた無理難題をわたしに押しつけ、彼女たちの運命までもわたしの処理にまかせようという魂胆に違いなかった。この女性小部隊の隊長は趙という弱輩の男子隊員だった。ひよこのような新入隊員が女性小部隊の隊長になって隊伍を率いてきたのがどうも不釣り合いだったので、そのわけを聞いてみると、許成淑は「わたしらのようなチマ族が崔賢同志の眼中にあるはずがないではありませんか。炊事当番をさせるくらいが関の山で、隊長をさせるはずがありませんよ」と小鼻をふくらませた。副責任者もやはり太炳烈という小柄の年若い新入隊員だった。しかし、実際に隊伍を管理し率いてきたのは見るからに大柄の崔長淑だった。彼女は銃と背のうのほかにも、米をぎっしりつめた袋が入っている鉄釜と炊事道具、それに斧やのこぎりまで背負ってきたのだが、荷物のほうが人より大きいくらいだった。許成淑の荷もそれに劣らなかった。正直に言って、それまで遊撃隊生活をしながら、男女を問わずこの二人のように大きな荷を背負った隊員を見たのははじめてだった。崔長淑の荷をおろしてやったが、それはわたしの力にも余るほどだった。

    「百人力だ!」

    わたしが感嘆すると、太炳烈が「長淑姉さんはギョーザをいっぺんに百個もたいらげるんです。六十個をぺろりとたいらげ、歩哨勤務を終えてからまた四十個たいらげてもきれいに消化してしまう女大将なんです」とおどけた。とたんに爆笑が起こった。崔長淑は太炳烈を横目でにらみつけながら、それは真っ赤なうそだと弁明した。

    「それがどうしてうそだというのだ。ギョーザをいっぺんに百個ぐらいたいらげられなくては、こんな大きな荷が担げるかね」

    わたしが太炳烈の肩をもつと、みんなはまたひとしきり笑いこけた。

    その日、わたしはそれとなく男女隊員の力くらべを仕組んだ。熊のような怪力といわれている男子隊員を呼んで、まず許成淑の背のうを背負わせてみた。彼は幼いときから野良仕事で鍛えられた人で、汪清一帯では指折りの相撲取りとして知られていた。餅を水につけて三十五個も食べたという大の餅好きでもあった。彼は許成淑の荷を担いで難なく立ち上がった。わたしは套筒(旧式小銃の一種)を二挺肩にかけてやりながら、その状態で休憩せずにどれくらい行軍できそうかと尋ねた。四キロくらいは休まずに行けそうだとのことだった。今度は崔長淑の荷を担がせてみた。彼は地面に手をついてやっと立ち上がった。さっきと同じように套筒を二挺肩にかけてやり、これならどれくらい行軍できそうかと聞くと、せいぜい二キロくらいだと答えた。崔長淑にその荷を背負ってどれくらい行軍したのかと尋ねると、てれて答えなかった。彼女に代わって金喆鎬が、大蒲柴河で戦闘したあと、ここまで休みなしで行軍してきたと答えた。それを聞いて全員が目を丸くした。大蒲柴河からここまでならほぼ四〇キロの距離である。男子隊員と崔長淑の力くらべでは崔長淑が勝ったわけである。

    わたしは大蒲柴河付近での女性小部隊の戦闘について許成淑に語らせた。許成淑は顔が浅黒く、体格のがっちりした女性隊員だった。人情に厚い反面、口数が少なかった。だが、必要なことは直截に言ってのける一本気な性分だった。崔長淑を「先鋒大将」とする女性小部隊は、わたしを訪ねてくる途中、食糧が切れて苦労した末に山中である反日部隊に会い、彼らとの共同作戦で大蒲柴河付近の集団部落を奇襲した。女性隊員たちはその戦闘で男子隊員に劣らぬ闘魂を発揮した。反日部隊はりっぱな新式小銃をもっていたが、退却していた満州国警察隊が反撃に転ずるや、臆病風に吹かれてクモの子を散らすように逃げ出した。しかし崔長淑らの女性小部隊は旧式の套筒で敵を物の見事に撃破した。さらには、反日部隊が占めていた地点に攻め寄せる敵までも一手に引き受けて掃滅した。とくにその日、犠牲的に戦ったのは歩哨に立っていた女性隊員だった。彼女は脇腹に銃創を負って血を流しながらも、頑強に敵を牽制した。彼女の射撃で敵兵がつづけざまに倒れた。敵が死体を引きずって逃げはじめると、女性隊員たちは喊声を上げて突撃に移った。反日部隊の隊長は逃げ出す部下たちに向かって「この意気地なしめら! 朝鮮の女たちは套筒でもあんなに勇敢に戦っているというのに、おまえらは逃げ出すのか!」と怒鳴った。隊伍から離脱した反日部隊の隊員たちは、そのときにやっともどってきて追撃戦に加わった。戦闘は勝利のうちに終わった。この戦闘談を聞き、誰もが女性隊員たちの勇敢さと大胆さ、堅忍不抜の精神に感嘆した。

    一九三六年四月、漫江付近の林の中では女性中隊の誕生が正式に宣言された。この中隊は司令部直属にし、小隊と分隊もわたしが編制してやった。初の中隊長には朴禄金が任命された。この女性中隊はわが国の建軍史上はじめての女性戦闘区分隊であった。女性中隊の誕生は数千年来、宿弊となっていた男尊女卑の思想と因習を打破し、女性の精神的・社会的地位を実際に男子と同等の地位につけた一つの出来事であった。古来、男尊女卑がもっともはなはだしく適用され発現したのは、政治分野よりも軍事分野である。もちろん、政治分野でも女性の参政権はほとんど認められなかった。だが、男性にたいする魔力のごとき女性の陰の支配力や影響力が政治や政治家に及んで、国の存亡まで左右した例は多い。しかし政治分野では、ときとして帝王や軍司令官をしのぐ力があったという女性も、軍事分野ではこれといった力を発揮することができなかった。軍事はほとんど男子の独壇場となっていた。われわれは軍事分野での男女平等を実現することにより、それが革命軍に限られたものであるにせよ、女性解放を実際のものにしたのである。

    女性中隊の出現は、朝鮮人民革命軍の全民族的な幅と人民的な性格をきわだたせたという点でも意義があった。革命軍に女性中隊があり、その隊員が男子の軍人に劣らずりっぱに戦っているということは、やがて全民族の知るところとなり、世界を驚嘆させる意義深い話題となった。一九三〇年代後半期の朝鮮国内の新聞に、「金日成部隊には女性隊員も十余名」という記事が載ったことがある。短い記事だったが、それが朝鮮人民の心に投じた波紋は非常に大きかった。女性が男子と同じく銃をとって抗日武装隊伍で勇敢に戦っているというニュースは、朝鮮のすべての女性と人民大衆を大いに力づけた。そのニュースは国内と海外で人民革命軍への入隊を熱望する無数の志願者を生んだ。

    女性中隊を組織した後、われわれはそれが独り立ちできるように細やかに気を配って導き、実戦を通じて鍛えた。女性隊員の政治的熱意と自覚を高めるため、機会あるたびに感化に役立つ話もした。小湯河に留まっていたとき、女性中隊員にキム・スタンケビッチの話をしてやったことが思い出される。キム・スタンケビッチとは、ロシアに生まれ育ち、共産主義偉業に生涯をささげた有名な朝鮮の女性闘士である。本籍地は咸鏡北道慶源郡である。彼女は師範大学を卒業すると小学校の教師になったが、ロシア領内に来る同胞と亡命者が増えてくると教壇を去ってウラジオストクヘ行き、ロシア各地に散らばっている朝鮮人労働者の権益を擁護して献身的にたたかった。ツァーが打倒されたのち、ボルシェビキに入党した彼女は夫と子どもらを家に残して十月革命の獲得物を守る職業革命の道に立った。そしてハバロフスクのボルシェビキ極東部で対外活動を担当する一方、朝鮮独立運動家の李東輝、金立らに働きかけて韓人社会党を組織するよう熱心に後押しした。彼女のめざましい活動は沿海州はもとより、ロシア全土の朝鮮同胞の賛嘆の的となり、積極的な呼応を受けた。極東地方の形勢が反革命に有利に変わり、ボルシェビキ極東部がハバロフスクから撤収することになったとき、彼女は最後まで残り後始末をつけてから汽船に乗った。しかし、不幸にもアムール川の船上で白衛軍に捕われ、銃殺された。最期の瞬間に彼女は敵に向かってこう叫んだ。

    「わたしは死を恐れはしない。卑劣で悪らつなおまえたちの命も長くはない。喪家の狗のごとき輩が共産主義を倒すというのは妄想だ」

    そのとき、彼女の年は三十四歳だった。キム・スタンケビッチとともに、雪竹花、桂月香、柳寛順、李寛麟など有名な女傑たちも女性隊員の親しい精神的朋友となった。

    女性中隊は誕生するやいなや人びとの注目を浴びた。どこへ行っても人民の愛情と尊敬を独り占めにした。五角の星が鮮やかな軍帽をかぶり、肩に騎兵銃をになった女性隊員の姿が遠目に見えても、人びとは「女の軍隊が来た!」と叫びながら村中を走りまわった。女性中隊が人びとに格別に愛されるようになったのは、まず女性隊員がいかなる状況にあっても気高く美しい道徳的品性をもって誠心誠意人民を助け、敬い、品行方正だったからである。どの村に駐屯しても、主人の家の庭を掃き清め、水を汲み、台所をかたづけ、畑の草取りをする女性隊員の姿を見ることができた。女性隊員は村人の前で踊ったりうたったりし、演説をしたり文字を教えたりもした。女性中隊は朝鮮人民革命軍の誇りであり貴い花であった。

    実際のところ、発足当初の女性中隊の武装は貧弱なものであった。大部分が旧式の套筒であったが、なかにはそんな銃すら持っていない隊員もいた。彼女たちに軽くて格好のよい騎兵銃をになわせたかった。それで数回戦闘をしかけたが、騎兵銃はなかなか手に入らなかった。そのうち、西南岔付近に駐屯している満州国軍の守備隊が馬に乗って歩きまわっているという情報を入手した。偵察を通じて、その守備隊が兵舎を設営していることを知ったわたしは、工事場を襲撃することにし、その任務を女性中隊に与えた。そして彼女たちを力づけようと、工事場の近くまで同行した。その戦闘はきわめて印象的だった。いまにも大雨が降り出しそうな空模様だったので、敵兵は作業を中止し、歩哨の警戒も緩んでいた。朴禄金中隊長の銃声を合図に、工事場の付近に伏せていた女性隊員はいっせいに飛び出し敵兵の胸に銃口をつきつけた。あちこちから「手をあげろ!」「手をあげろ!」というするどい声が響いた。一人の敵兵が銃架から銃を取って反抗しようとしたが、張正淑がすばやく銃床で殴り倒した。戦闘は十分足らずで終わった。数名を殺傷し、あとは全員捕虜にした。数十挺の狙撃兵器をろ獲したが、残念なことに戦利品の中に騎兵銃は一挺もなかった。捕虜の話によれば、騎兵銃は騎馬巡察に出た者が全部持っていったということだった。彼らは自分たちを襲撃し生け捕りにしたのが女性遊撃隊であることを知って、驚きを禁じえなかった。

    女性中隊はその後、数々の戦闘で輝かしい偉勲を立てた。大営戦闘や東崗戦闘も女性中隊が見事な腕前を発揮した戦闘である。女性中隊はどの戦闘でも忘れがたい手柄話を残した。張正淑は大営戦闘のとき弾丸を惜しみ、敵の歩哨を拳で殴り倒して突撃路を開いた。金確実をはじめ三人の女性隊員がおぼろ月夜に、銃弾を一発ずつ撃って敵の警備電話線を断ち切ってしまったという神秘めいた話も東崗戦闘が残したものである。歴史家の話によると、女性中隊の活動については、朝鮮総督府管下の咸鏡南道警察部がかなりの記録を残しているという。そこには、金日成部隊の婦女隊員朴禄金以下四十数名が昭和十一年(一九三六年)の陰暦五月初旬、撫松県西南岔の満州国軍守備隊を攻撃したという事実とともに、ほぼ同じ時期に大営を襲撃して小銃十数挺と軍服などをろ獲していったという事実も記録されている。女性中隊による撫松県東崗戦闘の記録もある。

    祖国のために花のような青春をささげた抗日革命烈士の群像を思い起こすたびに、そのなかにいた女性中隊員と大胆無比の女傑たちがしのばれる。女性中隊の初の中隊長朴禄金は中隊をりっぱに統率した。多くの戦友は、彼女の特徴を一言で女傑と表現した。朴禄金が四十一文(約二十六センチ)の地下たびをはいていたといえば、おそらくびっくりする人もいるだろう。遊撃隊の戦利品のなかには地下たびなども多かったが、そんなに大きなものはまれだった。そのため、朴禄金はわらじばきのときが多かった。彼女は汪清にいた当時は区婦女会の主任まで務めたことのある女性活動家だった。暮らしがあまりにも貧しくて、嫁ぐとき布団一組も準備できず、着古しで婚礼をあげた。夫の姜曽竜の方もやはり赤貧洗うがごとしで、初夜の寝具すらととのえられなかった。夫婦は同時に入隊し、汪清遊撃隊の第一中隊に配属された。ある日、第一中隊の政治指導員がわたしのところに来て、朴禄金がお産をしたのだが、彼女が留まっている実家にはおくるみ一つつくる布切れもないと心配するのだった。その話を聞いて急いで行ってみると、本当に布団はおろか、それらしきものさえ見当たらなかった。男やもめの暮らしで娘の産後の面倒までみるのに弱り切っていた彼女の父親は、あいつぐ敵の討伐で転々と住居を変えてきたので、布団などいつ使ったものやら思い出せないくらいだと言うのであった。赤児はぼろに包まれていた。わたしはただちに小部隊を派遣して、布団用の布を手に入れた。裁縫隊員は夜を徹して、それでふんわりした厚手の夫婦用布団と赤児の布団と衣服をつくって送り届けた。ところが朴禄金夫婦は、赤児の衣服と布団は使いながらも、自分たちの布団は使おうとせず、大きな風呂敷に包んで箱の上に大事にたたんでおいた。身を刺すような寒い日でも、その布団には手をつけようとしなかった。姜曽竜が第七中隊の小隊長になって安図独立連隊へ行ったあと、汪清部隊に残っていた朴禄金は、夫の所属する部隊がわたしの部隊に編入されることになったといううわさを聞き、訪ねる決心をした。実家を発つとき、彼女は例の布団を父親に譲ろうとした。だが父親は、金隊長がおまえたちに下さった大事な布団だからおまえたち夫婦が使わねばならぬと言って、無理やりにそれを持たせた。朴禄金が持ってきた布団包みは、そのまま彼女のあだなになってしまった。戦友たちは名前のかわりに彼女を「布団包み」と呼んだのである。

    朴禄金は見かけはむっつりしていたが、思慮深く人情味のある女性だった。人あたりがよく、地下工作の適任者でもあった。こういう点を参酌して一九三七年の初めに、彼女を長白県新興村へ政治工作員として派遣した。彼女に与えた任務は、権永璧、李悌淳を助けて、長白県上崗区一帯の女性を祖国光復会に結集することであった。彼女はその任務の遂行に努めたが、不辛にも敵に逮捕され、投獄された。彼女は李悌淳のように、他人のしたことまで全部自分の仕業だと陳述して、少なからぬ革命家を釈放させた。拷問で血まみれになった同志が意気消沈して監房に倒れていると、革命歌をうたって起き上がらせた。恵山警察署から咸興刑務所に移送されてきた朴禄金は、結核患者が収監されている房に押し込まれた。感染して監獄で死ねというにひとしかった。同房の結核患者は定平農組事件に連座して逮捕された金という名の女性だった。朴禄金は自分の体のことは考えず、重病のその女性を親身になって看護した。死に瀕したその女性はしばらくして保釈になったが、そのかわり朴禄金が病気に感染して床に臥す破目になった。仮釈放された女性の家族が恩返しにと絹のチョゴリと餅を差し入れに来たが、監獄当局はそれを許さなかった。一生涯、人のために多くの愛情をそそいできた人情深いこの遊撃隊の女傑は、仮釈放された女性が臨終を前にして示した涙ぐましい誠意すら受けられず、病苦にさいなまれた末、ついに獄中で目を閉じた。

    女性隊員のなかには馬東煕の妹の馬国花もいた。馬国花はわれわれが西間島地方に進出して活動したとき、十七道溝の坪崗徳でわれわれの部隊の政治工作員であった金世玉の影響を受けて遊撃隊に入隊した。金世玉は馬国花の師であり恋人でもあった。祖国の解放を成就してから所帯をもとうと約束した二人は、すべてを未来に託し、ひたすら革命のために奮闘した。ある日、炊事当番だった馬国花は、台所でトウモロコシがゆを戦友たちの食器についでいるうちに、二人分が足りないことに気づいた。一人分は自分が一食抜けばそれですむが、あとの一人分はどうしたらよいのか。こういう苦しい立場に立たされためらっていた彼女は、金世玉に了解してもらうことにした。兵舎の外に金世玉を呼び出して苦しい事情を話した。

    「世玉さん、わかってほしいの。今晩だけはあなたの分がないものと思って一食抜いてください。本当にすまないわ」

    「すまない? こんなときは当然ぼくが一食抜くべきさ。そのかわり、祖国が解放されたら食事のたびにおかわりするから、そのつもりでいてもらおう」

    金世玉はこんな冗談まで言って、明るい顔できびすを返した。その夜、馬国花は水で飢えをしのいだ恋人を思って寝つくことができなかった。自分が飢えたことは意に介さなかったのである。

    彼らは二人とも祖国解放の日を見ずに戦死した。馬国花が戦死したのち、女性隊員たちは彼女の背のうの中からひとつがいの鶴を縫い取った布団皮を発見した。きびしい風雪のなかで馬国花が結婚用にととのえた持参品だった。世の中にこれほど貴く、これほど悲しい持参品がまたとあろうか。いかんせん、女性戦士は殺伐たる荒野に倒れ、花開かぬ青い夢だけを異郷に残して逝ったのである。女性隊員たちは、その布団皮で故人の屍を包んだ。

    女性中隊は誕生して半年ほどしか存在しなかったが、祖国が永遠に記憶し、人民が末長く見習うべき不滅の偉勲を残した。抗日革命の第一線で武器を手に強敵日本帝国主義を相手に血みどろの戦いをつづけてきた女性戦士こそは、現代朝鮮女性の輝かしい鑑であり、人類解放闘争史の典型ともいうべき女性英雄である。彼女たちは女性の社会的・人倫的平等を真っ先になしとげ、わが国における女性解放の道を血潮をもって切り開いた先駆者であった。

    わが労働党時代は、抗日革命闘争期に女性中隊員が発揮した白頭の革命精神と闘争伝統を継承した無数の女性英雄と女性活動家、女性労働革新者を世に出した。安英愛、趙玉姫、李洙徳、李信子、鄭春実をはじめ現代が生んだ女性英雄の思考と実践を支配したのは白頭の精神であった。わが国の数百万の女性は今日もこの精神で、この地になんぴともあえて侵すことのできない社会主義のとりでを築いている。

    今日わが人民軍には、抗日の革命伝統を継承した多くの女性区分隊がある。銃を握って祖国の防衛線を守っている女性戦士は、ただ人民軍の女性区分隊にのみあるのではない。労農赤衛隊、赤い青年近衛隊にも銃を手にした女性隊員はいくらでもいる。全人民の武装化が実現したわが国では、人口の半数を占める一千万女性のすべてが、有事の際に祖国の寸土をも死守するために銃をとって戦う準備をととのえている。この一千万女性武装隊の原型が、ほかならぬ朝鮮人民革命軍司令部直属の女性中隊なのである。

    

    

      5 白頭山密営

    

    

    われわれが漫江村を発ったのは、季節外れのジャガイモの花がいまを盛りと咲いている八月の末ごろだった。収穫の時期を待っていた火田では麦の取り入れがはじまっていた。隊伍は黙々と南へ進んでいた。戦友たちは連隊政治委員の金山虎から若年の伝令兵である崔金山や白鶴林にいたるまで、誰もが白頭山地区進出の意義をあまりにもよく知っていた。

    白頭山は軍事地形学的見地からすれば「一夫関に当たれば万夫も開くなし」の自然の要害といえた。言わば、守り手には有利で、攻め手には不利だということである。遊撃戦の拡大にあたっては、白頭山にまさる基地はなかった。高麗の尹瓘(〔5〕)や李朝の金宗瑞(〔6〕)も、ほかならぬこの白頭山地区にあって輔国開拓の重任を果たした。南怡(〔7〕)将軍もやはり白頭山の軽石の上で天下平定の雄大な夢を描いた。白頭山こそは朝鮮人民革命軍がよりどころとすべき最適のとりでであった。朝鮮人民革命軍が白頭山に新しい形態の根拠地を設けて国内への進出を強めるからといって、これまで満州の地でわざわざ開拓してきた活動舞台を放棄するようなことは考えられなかった。白頭山を拠点に朝鮮と中国双方の境域を行き来しながら縦横無尽の戦いを進めようというのであった。われわれは天険の白頭山を軍事的要害としてのみ重視したのではなく、それがもつ精神的意味もまた重視した。白頭山はわが国の祖宗の山で朝鮮の象徴であり、五千年の悠久な歴史を誇る民族史の発祥地である。祖宗の山―― 白頭山を朝鮮人がどれほど仰ぎ見たかは、白頭山将軍峰の裾の天池のほとりにある岩に「大太白・大沢守竜神碑閣」と刻まれているのを見てもよくわかる。国家の存立が深く憂慮された二〇世紀初に、大倧教や千仏教関係の人物である天和道人によって立てられた石碑である。それは白頭山を守る天池の竜神がこの国の民に無窮の安寧を与えてくれることを祈願したものだった。

    白頭山にたいする崇拝はとりもなおさず朝鮮にたいする崇拝であり、祖国愛であった。わたしが幼いころから白頭山を祖宗の山としてとくに愛し崇拝してきたのは、朝鮮民族としての自然な感情であった。高句麗の領土拡張時期の扶芬奴や乙豆智の話を聞き、南怡将軍の雄渾な詩句を口ずさみ、尹瓘や金宗瑞の輔国開拓の話に耳を傾けながら、わたしは白頭山に宿る烈士たちの愛国精神に感動し魅せられたものである。成長するにつれてわたしの心にますます高くそびえ立ってきた白頭山は、朝鮮の象徴であると同時に、解放壮挙の象徴となった。白頭山に陣取ってこそ民族の総力を抗争の広場に呼集し、その抗争の最終的勝利を達成することができるという思想は、一九三〇年代前半期の抗日革命闘争がもたらした総括であり、当然の帰結でもあった。

    漫江から白頭山へ行くには多谷嶺を越えなければならなかった。多谷嶺は山里で老いた狩人でさえ方角を見失いやすい太古の原始林に覆われていた。三か月前に先発隊の使命をおびて長白に派遣され、任務を果たして帰ってきた金周賢が案内役になって隊伍を導いた。彼が引率した小部隊は白頭山方面に進出し、その一帯の敵情と地形を偵察し、住民の動向を調べながら手ごろな密営候補地を探索する一方、部隊の進出路を首尾よく開拓していた。われわれは漫江川に沿って谷間の奥に足を向け、多谷嶺のうっそうたる原始林に踏み込んだ。季節からすれば夏はまだ終わっていなかったが、高山地帯の広葉樹は色付き、冷気が

    ただよっていた。

    われわれは多谷嶺を越えるこの行軍途上で、二十六回目の国恥日(朝鮮が日本に併呑された一九一〇年八月二十九日)を迎えた。漫江を発ったわれわれが足ごしらえをし直して南下行軍を急いでいたその時期はまた、第七代朝鮮総督に任命された日本陸軍大将南次郎のソウル到着とほぼ時を同じくしている。わたしは撫松県城戦闘の前に、宇垣一成の後任として南次郎が総督に任命されたことを紙上を通じて知っていたし、彼がわれわれと前後して朝鮮に踏み込むであろうことも推測していた。南次郎のソウル到着と朝鮮人民革命軍の白頭山進出が相前後したことは、われわれの心理に微妙な刺激を与えた。

    日本の朝鮮占領が厚顔無恥な強盗行為であったことは周知の事実である。彼らは当初からその占領を合法的で正当なものと描写したが、「併合」はあくまでも徹底した強盗行為であった。強盗には強盗なりの生活哲学がある。他人のものを強奪しておきながら、それを取りもどそうとする主人を逆に強盗だと強弁するのである。盗人たけだけしのたとえどおり、日本帝国主義者が朝鮮人民革命軍にたいする卑称「匪賊団」「馬賊団」「共匪団」といった類の表現は、いずれもそうした強盗の論理によって考案された蔑称である。強盗が羽振りをきかせる世の中では、すべてが逆になるものである。招かれざる客の南次郎はわがもの顔で白昼堂々とソウルに足を踏み入れるのに、主人であるわれわれが道なき密林をかきわけ自分の国にひそかに入らなければならないとは、なんと痛嘆すべきことか。

    多谷嶺を越えると、わたしは本来の行軍計画を変更し、鴨緑江沿岸を迂回して白頭山へ入ることにした。国境地帯の人民にも会い、国内の同胞にわれわれの銃声を聞かせようという考えだった。われわれが最初に立ち寄ったのは徳水溝だった。部隊には李済宇と亨権叔父が指導した長白地方の地下組織で長年、青年運動にたずさわって入隊した大徳水出身の姜現珉という新入隊員がいた。彼が革命軍に入隊したのは、われわれが撫松地方で活動していたときだった。彼はアヘンを持ち歩きながら牛商いのために撫松に足しげく出入りしているうちに、工作員の斡旋でわたしに会い、遊撃隊にも入隊した。われわれは姜現珉や金周賢の先発隊を通じて徳水溝一帯の住民の動向を具体的に調べた。

    徳水溝は長白一帯の住民地区のなかでも革命化がもっとも進んでいた土地である。そこには三・一人民蜂起後、独立運動家たちによって開拓された反日愛国闘争の伝統と、その闘争を通じてたえず鍛えられてきた信頼できる大衆的基盤があった。徳水溝は姜鎮乾の指導した独立軍の本拠地だった。独立軍は徳水溝に四年制の小学校を設立し、青少年と農民の啓蒙活動にもあたった。八道溝にいた当時、わたしの父もしばしばこの地に足を運んだものである。独立軍関係団体の解体によって独立軍運動が衰退期に入っていたころ、李済宇の武装グループが「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」の綱領をかかげて徳水溝に進出し、軍事・政治活動を展開した。李済宇が逮捕されたあとは亨権叔父が崔孝一、朴且石とともに徳水溝を拠点に、この一帯の大衆を意識化、組織化した。彼らの努力によって、長白地方には白山青年同盟の傘下組織が結成された。この同盟は政治・軍事訓練所を設置し、多数の政治工作員と遊撃隊の後続隊を育てた。朝鮮革命軍武装グループが国内へ向かい、同盟の少なからぬ幹部が投獄された後も、同盟員たちは地道な地下闘争をつづけた。

    われわれは多くの愛国志士と共産主義者によって啓蒙され革命化された大衆的基盤に期待をかけていた。部隊が徳水溝付近に到着すると、金周賢は先発隊として活動したときに信頼できる人物として目星をつけておいた廉仁煥老の家にわたしを案内した。部屋のどこを見ても貧窮にあえぐ田舎医家と見てとれた。鍼術にたけていて徳水溝一帯はもとより、長白、臨江、さらには鴨緑江の向こうからも橇や牛車で招かれるという評判の医者でありながら、薬の元金すら回収できず、妻は毎日パガジ(ひさごの容器)をチマに隠して米をもらい歩く有様だったという。以前、医院の看板をかかげていた八道溝と撫松時代のわが家を思い起こさせる暮らしだった。

    廉老人はすすんでわたしの脈をとり、過労のうえに食をおろそかにしたため気力が衰えていると言って、野生の朝鮮人参を一本差し出した。漫江の許洛汝老もわれわれとの別れぎわに、保養の足しにと張哲九と白鶴林に野生の朝鮮人参を何本か渡したという。

    「日本軍と満州国軍が撫松で、金将軍の率いる抗日連合部隊にやられて数百人もおだ仏になったと聞きましたが、本当ですかな?」

    老人の質問だった。撫松県城戦闘のニュースはすでにここまで伝わっているようだった。わたしが本当だと答えると、老人はひざを打った。

    「よくぞやってくれました! これで朝鮮も生き返ったようなもんですわい」

    われわれに一夜の宿を提供し、一食のジャガイモ入り麦飯を供応したかどで、後日、廉老人は二道崗警察署に引っ立てられて虐殺された。老人がこうむった不幸を思い起こすと、いまでも身震いがする。いつか小部隊を率いてその地方を通過した機会に、わたしはわざわざ廉老人の墓を訪ね、神酒をついでお辞儀をした。

    翌日、われわれは夜明けの露を踏んで大徳水に向かった。眼下に村が見下ろせる台地で、蒸したジャガイモで簡単な朝食をすませた。李東学中隊長には、旗竿を用意し、大徳水に下りて行くとき隊伍の先頭で旗を高くかかげ、ラッパを吹き鳴らすよう指示した。萎縮している人民に朝鮮人民革命軍の威風堂々たる姿を見せてやりたかったからだ。われわれを迎えた大徳水住民の喜びと驚きは大変なものだった。新式の小銃に機関銃までそろえた数百名の朝鮮の軍隊が白昼に、それも旗をかかげ天地をゆるがすラッパの音を響かせて現れたのは、村はじまって以来のことだという。

    わたしはこの土地の人たちにも漫江でのように演劇を見せるつもりで仮設舞台を準備させた。ところが、昼食後に幕をあけようとした公演計画は実現できなくなった。食膳に向かおうとしたとき、不意に敵が押し寄せてきたのである。それで黄色く実った麦畑をはさんで戦闘がはじまった。すっかり実った穀物に被害が及ぶのではないかと気をもんだことをいまでも覚えている。敵は麦畑の向こうから、うねまづたいに接近してきた。敵が麦畑をほとんど抜け出すのを待って射撃の合図をした。隊員はこの戦闘で見事な腕前を発揮した。敵は数十名の死傷者を出し、二道崗方面へ退却した。これが長白に進出しての初の戦闘だった。大徳水で響かせた初の銃声によって、われわれは朝鮮人民革命軍が白頭山に進出したことを祖国の人民に知らせ、敵にも知らせたのである。

    村は祝日のようににぎわった。隣村の人びとまで大徳水に集まってきて、われわれの勝利を祝ってくれた。村人はジャガイモの餅やノンマ麺(ジャガイモの澱粉でつくった麺)をつくってもてなし、隊員たちは歌と踊りでそれにこたえた。わたしがアジ演説をぶつと、それは大きな反響を呼んだ。カイゼルひげの老人はこう言った。

    「将軍が白頭山で『朝鮮独立のために戦う気のある者はみなここに集まれ』と号令だけかけてくだされ。そうすれば三千里津々浦々から人びとが雲集するでしょう。わしも腰まがりの老体とはいえ、犬馬の労をいといはしませぬ」

    あとで知ったことだが、こういう励ましの言葉をかけてくれたのは小徳水の「せむしじいさん」だった。この「せむしじいさん」については「パイプじいさん」もよく知っていた。「パイプじいさん」が軍備団で咸鏡南道通信事務局長を務めていたころ、「せむしじいさん」はそこで中隊長として活動していたというのである。「パイプじいさん」は十余年ぶりに感激的な再会を果たした古い戦友を誇らしげに紹介した。

    「せむしじいさん」の本名は金得鉉だった。金世鉉という呼び名は独立軍当時から使いはじめた仮名だった。彼は先天的なせむしではなく、ただ背骨がひどく曲がっているだけだった。青年のころは腰のしゃんとした胸幅の広い、釣り合いのとれた体だった。その彼がせむしのように腰が曲がってしまったことには、敬意を表して然るべきいわれがあった。彼は咸鏡道生まれだったが、「併合」直後の陰うつな時世に生きる道を求めて徳水溝に移住してきた。この土地は、後にしてきた故郷と祖国へのノスタルジアにひたって生きる流浪民の開拓村だった。失った祖国を取りもどし、故郷へ帰る道を開いてくれるという軍備団が徳水溝に組織されると、金得鉉はためらうことなくそれに入団した。彼は軍備団の資金調達のため、十三歳の大事な娘を他人の養女にすることもためらわず、武器を手に入れるため内戦たけなわの遠いロシアにまで足をのばし、その戦場にも飛び込んだ。しかし、十余年にわたる献身的な活躍のために、後日、他の団友たちよりも長い監獄生活をしなければならなかった。囚人たちは日に十四、五時間も手動織機による機織り仕事を強要された。少し腰をのばしただけでも、鞭と棍棒が容赦なく背中に打ちおろされた。七、八年もつづいたそのおぞましい苦役は、とうとう金得鉉をいまのような体にしてしまった。「せむしじいさん」は廃人のように見えたが、その胸にひめた愛国の熱情と闘争意欲は少しも衰えていなかった。彼が李済宇の武装グループに真っ先に吸収されたのはゆえなきことではなかった。彼は金周賢と会ったときから、われわれの白頭山進出を一日千秋の思いで待ちわびていたと打ち明けた。金周賢は先発隊として長白へ来たとき、すでに彼と親交を結んでいた。

    簡単な演芸公演と演説を終えてから、わたしは部隊に撤収命令を下した。村人たちは、なじんだばかりなのにすげなく行ってしまう法があるか、一晩だけでも泊ってほしいと懇請した。それでわたしは、敵が増援部隊を繰り出していつ攻め寄せるかわからないから、われわれが立ち去れば村が被害をこうむらずにすむ、と発たざるをえない理由を説明した。撤収のさい、道案内をつとめてくれたのはほかならぬ「せむしじいさん」だった。

    わたしは金得鉉老に「祖国光復会十大綱領」と「祖国光復会創立宣言」をプリントしたパンフレットを手渡した。鴨緑江沿岸に進出してこのパンフレットを与えた最初の人は彼だった。それからしばらくして、徳水地区には祖国光復会の下部組織が生まれた。「せむしじいさん」は十六道溝の一分会のメンバーになった。徳水地区の末端組織のなかでも、その分会がもっとも中核的な組織だった。今日の朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)のように模範分会という称号があったなら、その分会が真っ先に模範分会になっていたはずである。金得鉉老は数匹の犬を飼っていた。嗅覚が非常にするどいその猛犬のため、密偵や警官はうかつに彼の家に近付けなかった。それらの犬は不思議なくらい人を嗅ぎ分けた。味方の人ならはじめての訪問者でも吠えなかった。金周賢、金確実、金正淑をはじめ個別工作に出る小部隊のメンバーや連絡員が徳水地区へ行くと、「せむしじいさん」のおかげをこうむったものである。

    いつか、金正淑は単独任務をおびて長白県中崗区方面へ行ってきたことがある。われわれが白頭山に進出したその年の初冬だった。当時、個別任務を受けて出る者は、道中の食糧として生米ではなく握り飯や蒸したジャガイモのような即席の食べ物を携帯した。間島の抗日根拠地でも、個別任務にあたる連絡員はそうしていた。幾人もの人がグループで行動するときは見張りを立てて炊飯することもできたが、一人では火を起こして飯を炊くことはできなかった。「山の人」(遊撃隊のこと)のしるしになるからだった。正淑も蒸したジャガイモをいくつか携帯して腰房子を発ったのだが、途中で凍った乾(ひ)葉(ば)を食べている老婆と子どもに出会った。正淑はあまりにも悲惨な情景を目のあたりにして涙を流した。そして持っていたジャガイモをそっくり渡し、おぼつかない足でやっと山道をよじ登った。後日、正淑は自分がどう「せむしじいさん」の家までたどり着いたのかわからないと語った。我に返ると、「せむしじいさん」夫婦が自分の両脇に座っておもゆの食器とさじを手にしたまま涙ぐんでいたと言うのである。老夫婦はおもゆや緑豆のチジム(お好み焼の一種)をつくり、親鶏までつぶして正淑を手厚く介抱した。そういう介抱がなかったら、自分は生きて白頭山密営に帰れなかっただろうと、正淑は解放後もたびたび語ったものである。

    「せむしじいさん」は、われわれの密営にも何回となく足を運んだ。不自由な体で援護物資を背負ってきては、機をうかがってそっとわたしの所に来たりした。半截溝戦闘のときにも彼は道案内をしてくれた。一九三九年に小徳水の林の中でメーデー祝賀大会を催したときには農民代表として参加し、われわれを喜ばせた。だが一九四二年初に「せむしじいさん」が病死したという悲報に接した。わたしは白頭山にいたころも、その後も「せむしじいさん」をしばしば思い出したものである。

    一九四七年十一月、設立されて間もない万景台革命学院の院児に着せる制服ができあがったという報告があったので、それを着用した院児の姿が見たくて数名よこしてもらったことがある。そのとき、わたしの家に来た子どものなかには「せむしじいさん」の息子の金秉淳もいた。その後、学院を訪ねた金正淑は秉淳と個別に会い、遊撃隊時代からの愛用品だった万年筆を握らせ、熱心に勉強するようにと励ました。一九四九年八月、金秉淳は真新しい将校服に小隊長の肩章までつけてわたしと金正淑のまえに現れた。警備小隊長として配置されてきたのである。まったくの奇縁というほかなかった。その日から彼は一日としてわたしのそばを離れたことがなかった。正淑を失った悲しみもともにし、忠清北道水安堡の前線司令部にも同行し、慈江道高山鎮の最高司令部にも一緒に行って過ごした。その後も、彼は長い間わたしのそばにいた。わたしの身近についてまわる「せむしじいさん」の心づかいを感じるたびに、大徳水村で彼が語った話と小徳水台地の月夜を思い起こしたものである。

    小徳水の台地で宿営した翌日、部隊を馬登廠の樹林の中に移動させて休息をとらせた。わたしも草むらに寝ころんで本を読んでいるうちについ寝込んでしまったのだが、そのとき突然、銃声が響いた。十五道溝方面と二道崗方面からきた敵が南北両方からほとんど同時に攻撃してきたのである。うっそうとした森のため彼我を見分けるのがむずかしかった。われわれがすばやく抜け出せば、挾撃してくる敵に同士うちをさせる絶好の機会だった。われわれは馬登廠の樹林からこっそりと抜け出して十五道溝の台地に登った。そこで敵同士の撃ち合いを見物した。これが小徳水戦闘と呼ばれている馬登廠望遠戦闘である。

    その日、敵同士の猛烈な撃ち合いはたっぷり三、四時間はつづいたであろう。見物するのがあきあきするほどだった。敵は長い間撃ち合いを演じていたが、二道崗側がたまらなくなったのか、先に退却合図のラッパを鳴らした。そのラッパの音を聞いてはじめて、十五道溝側も同士うちをしたことがわかったのか、射撃を中止した。数百名の遊撃隊はいったいどこへ消えたのだろうか。影も形もないのだから、まったく不可解なことではないか。敵はこの不可思議な問題の解答をわれわれの「遁術」に求めたようである。われわれが「遁術」を使って「昇天入地」し「神出鬼没」するといううわさが国境地帯に広がりはじめたのは、この小徳水戦闘があってからのことだと思う。その日、敵は担架が足りなくて、新昌洞の民家の戸という戸をすべて取り外して死体を乗せ、あたふたと逃げ出した。そのため、新昌洞の住民はしばらくの間戸口にかますをかけて過ごさなければならなかった。

    大徳水と小徳水で人民革命軍がとどろかせた銃声は、長白とその対岸の祖国の人民のあいだに大きな反響を呼び起こした。戦闘が終わったあと、ジャガイモ畑が台無しになったことをわれわれが心配すると、ある農民はこう言うのだった。

    「ジャガイモ畑は駄目になったけれど、悪鬼のような日本軍があんなに無様に転がったのを見ると、豊作のジャガイモ畑を見るよりうれしいですわい」

    その後、徳水溝一帯では幾人もの青年が入隊を志願した。彼らの入隊は長白地方で革命軍を急速に拡大させる大々的な参軍運動の幕開けとなった。

    人民革命軍の長白進出と軍事的威勢に敵は色を失った。長白地方の警察機関では警官が集団的に辞表を出し、公職を避ける離職・引退騒ぎが起こった。敵の支配体制には大きな混乱が生じた。二道崗では集団部落の出入りも正門からではなく裏門からしているとのことだった。

    われわれは長白に進出して軍事作戦だけをおこなったのではなかった。大衆を教育し結集する組織・政治活動も進めた。政治工作員によって徳水溝、地陽渓谷一帯では祖国光復会の下部組織が随所に結成された。国内でも組織が結成されはじめた。白頭山周辺の各地に結成されはじめたそれらの組織は、新設される根拠地の信頼するに足る政治的基盤となった。小徳水戦闘のあとにも、われわれは鴨緑江沿岸の村々を巡りながら、長白県の十五道溝東崗、十三道溝竜川里、二十道溝二終点など、いたるところで戦闘をくりひろげた。鴨緑江沿岸一帯は蜂の巣をつついたように騒がしくなった。

    迂回コースをとった目的は十分に達成されたことになる。もう白頭山に入って根城をかまえてもよかった。わたしは金周賢と李東学を先立たせて白頭山密営の候補地へ向かった。主要指揮官と警護隊、それに一部の戦闘中隊が同行した。あとの人員は長白方面でもう少し騒ぎを起こす任務を与えて残しておいた。金周賢、李東学、金雲信らによって探索された小白水谷は、われわれが白頭山地区に定めた国内ではじめての密営候補地だった。小白水谷から西北に十六キロほどの所に白頭山がそびえており、八キロほどの地点には仙五山が、東北に六キロほど離れた樹林の中には間白山がそびえていた。小白水谷の後方に長く横たわっている山は獅子峰と呼ばれた。

    われわれが部隊を率いて小白水谷に来たのは、家を離れた主人が久々にわが家に帰ってきたような慶事だった。抗日革命という大きな歴史の流れからすれば、活動の中心を東満州から白頭山に移したといえる。家を離れていた人が再びわが家に帰ってくれば、それは隣近所の慶事でもあるのだ。しかし、ある詩人の詩にもあるように「山鳥も寂しさにたえかねて飛び去ってしまう」という白頭の深山奥地の小白水谷には、祝ってくれる隣人とていなかった。われわれを迎えたのはそよぐ樹林と谷間のせせらぎのみであった。祖国の人民はまだわれわれが小白水谷に進出したことを知らずにいた。隊伍を組んで四十キロさえ行けば、両腕をひろげてわれわれをあつく抱きとめてくれる祖国の人民といくらでも会うことができた。しかし、その四十キロ向こうには、銃剣をかざしてわれわれを狙っている島国の招かれざる客がいた。その客さえいなかったら、白頭山の雪崩のように一気に駆け下りて、愛する人民と感激的な対面をすることができたはずである。しかし戦いのみが祖国の同胞との出会いをもたらしてくれるのであった。われわれはその戦いのために白頭山地区に進出し、その戦いのために小白水谷に根城を定めたのである。あのときわたしとともに小白水谷に来た人たちは、自分たちが根城としたその深い谷間が後日、世界中の人が訪ねてくる名高い史跡になるとは思いもしなかった。われわれは足跡を残さないように、落葉がたえまなく流れてくる小白水の流れにそって谷間の奥へさかのぼっていった。

    今日、小白水谷を訪れる人びとは、ここが半世紀前までいかに太古然とした寂寞の地であったかを想像だにできないだろう。観光バスや人びとがひんぱんに行き交うりっぱな舗装道路、高級ホテルに比べてもさほど遜色のない踏査宿営所や宿営所村、四季にわたって絶えることのない行列と歌声――いまはこれらがかつての静寂と清爽に取って代わったが、われわれが最初に足を踏み入れた当時は、けもの道すらほとんど見当たらない原始林地帯だった。開闢以来の姿をそのままとどめていた当時の小白水谷は、そのすぐれた景観と天険の要害ともいうべき地勢からして、わたしの気に入った。小汪清の馬村にいたころ、遊撃隊の指揮部が陣取っていた梨樹溝谷の地形も申し分なかった。谷が深く山容も険しくて、敵が簡単には近づけなかった。まれに忍び込むようなことがあっても、撃退するのに好適の地勢だった。獅子峰の下方の合流点から白頭山密営の候補地に入る小白水谷の地形と山容は不思議なくらい小汪清の梨樹溝谷と似ていた。若干違うところがあるとすれば、梨樹溝谷より小白水谷の方が奥行きがあり美しいということだ。谷に深く入っていくにつれ、その違いははっきりしてくる。千山万嶽をしたがえた白頭霊峰のひだに位置する谷間であるため、やはり谷に深みがあり、山容も雄大だった。

    われわれは日暮れ前に、将帥峰の向かい側の山裾と小白水のほとりにテントを張ってその夜を過ごした。わたしは三、四時間以上眠ることはほとんどない。山で戦っていたころも、だいたい午前二時ごろには決まって目を覚まし、灯を点して読書したものだが、その晩は疲れきってそれができなかった。朝起きてみると、霜が降りていた。白頭山地区は他所に比べて冬が長く、降雪量も多い。この地区に降り積った雪はなかなか解けない。六月の末か七月の初旬まで残雪が見られるかと思うと、九月下旬か十月初旬には山頂を薄化粧する初雪を見ることができる。雪が積り積って人の背丈を越すことも多く、そういうときは雪の中にトンネルをつくらなければ行き来ができない。密営の外に出るときは、かんじきをはかないと深い吹きだまりにはまって事故を起こしかねなかった。

    しかし、常時強風と豪雪の脅威にさらされているこのきびしい高山地帯にも四季の区別はあって、われわれはそれぞれの季節がほどこしてくれる恩恵にあずかることができた。老黒山戦闘のときチョウセンヤマタバコをはじめて食べてみたが、たいへんおいしいもので、ご飯を包んで食べるとチシャよりも美味だった。オニタイミンガサは長白県十九道溝の李勲の家ではじめて賞味したが、それもやはり風味があった。白頭山地区にはそういう山菜が多かった。チョウセンヤマタバコは大紅湍の野に多く、オニタイミンガサは三池淵付近に、ヤナギヒゴタイは枕(ペゲ)峰に多かった。炊事隊員が摘んでくるそういう山菜が、白頭山の「住民」の夏の食卓をにぎわしてくれたものである。白頭山密営に定着して生活したとき、炊事隊員はカヤ原の端に畑を起こして野菜までつくった。いろいろな野菜をつくったが、白菜と大根はできなかった。だが、チシャとシュンギクだけはよくできた。小白水のイワナもときおり食卓にのった。当時は多くなかったが、いまは養殖に成功してかなり増えている。

    白頭山密営の候補地に入った翌日、わたしは指揮官たちとともにあたりを見てまわった。先発隊が内定していた兵営の位置も見た。そして幹部会議を開いた。会議では南湖頭を出発して白頭山に来るまでの遠征について総括した。白頭山にかまえて遂行すべき活動についても真剣に討議し、任務を分担した。会議で討議され、その後ただちに実行に移された問題を集約して言えば、緊切な課題として提起された白頭山根拠地の創設を積極的におし進めることであった。それは密営建設と組織建設という二つの意味を包括していた。つまり白頭山根拠地の創設は、白頭山地区に密営を建設することと、白頭山麓の住民地帯に地下革命組織を建設することを意味した。

    われわれが一九三〇年代の前半期に東満州に創設した遊撃区と、後半期に白頭山に進出して創設した白頭山根拠地とでは、内容と形態のうえでかなりの違いがあった。前半期の東満州遊撃区は固定した遊撃区を遊撃活動の本拠とした根拠地で、目に見える公然たる革命根拠地であった。しかし、後半期に創設した白頭山根拠地は、隠蔽された密営と地下革命組織に依拠して軍事・政治活動を展開した目に見えない革命根拠地であった。前半期には根拠地内の人民が人民革命政府の施策のもとで生活し、後半期には地下組織網に網羅された人民が、表面上は敵の支配下にあったが、内実はわれわれの指令と路線にしたがって動いた。また前半期には遊撃区の防御に主力をそそがねばならなかったが、後半期にはその必要がなかった。そのため、遊撃活動を広大な地域で展開できる可能性を得た。言わば、われわれは根拠地の形態を変えることによって、主動的な攻め手の位置に立つようになったのである。したがって、根拠地を拡大すればするほど、活動領域はそれだけ広がるようになっていた。われわれは白頭山密営を中心に長白の広い地域と、やがては白茂高原、蓋馬高原、狼林山脈へと根拠地を国内深部に拡大し、ひいては武装闘争を北部朝鮮から中部朝鮮をへて南部朝鮮にいたる全国的範囲に広げると同時に、党組織建設と統一戦線運動を拡大発展させ、全人民的抗争の準備も強力に推進する計画だった。

    密営網の創設と地下組織網の建設がこのようにわれわれの存亡と生死、ひいては抗日革命の勝敗を左右する焦眉の問題となっていたため、この問題の解決に第一義的な関心を払わざるをえなかった。まず密営の建設を第一義的な課題とし、これを各部隊にまかせた。食糧と衣料を解決する課題は金周賢にまかせた。密営の設置と運営のためのこの二つの問題は、俗に言う食・衣・住の問題でもあった。地下組織網の建設を援助する人材を積極的に探し出し、朝鮮人民の士気を盛り上げて解放の聖業に献身するよう必要な戦闘活動を進めることもやはり重要であったが、この二つの課題は李東学の中隊に委任した。

    指揮官たちは時を移さず白頭山根拠地創設の任務遂行にとりかかった。金周賢と李東学が中隊を率いて出発した。その他のメンバーにも個別の任務を与えて工作地へ送り出したのち、わたしも警護隊と第七連隊の一部のメンバーを率いて黒瞎子溝へ向かった。黄公洞村で別れた部隊の基本メンバーとそこで落ち合うことになっていたのである。

    小白水谷から黒瞎子溝までの道程は非常に印象的だった。そのとき仙五山と三段瀑布を見たのだが、まったくの秘境だった。われわれは道を見失い森林の中で多くの時間を費やした。いまも忘れられないのは大沢温泉へ行ったときのことである。どの方角へどう抜けたものか見当がつかない樹海のただなかを二時間余りさまよった末に、数組の偵察班を各方面に送ったところ、そのうちのある偵察班が一人の老人を伴ってきた。白頭山の裾で独り暮らしをしているという老人で、漫江の方で塩と粟を求めて帰る途中、偵察班に出会ったというのである。われわれは老人に案内されて、大沢にある彼の小屋に行った。小屋のそばにはすばらしい温泉があった。湯がとても熱くて、ザリガニを入れると真っ赤にゆであがるほどだった。われわれはそこで沐浴や洗濯をし、ザリガニをゆでて食べたりした。いつかテレビの画面でアイスランド人が冬のさなかに露天温泉につかっているのを見て、大沢で温泉につかったときのことがまざまざとよみがえってきた。わたしはその老人と多くのことを語り合った。白頭山の裾にまで来て住みついたわけを尋ねると、もとは平地で暮らしていたのだが、時勢が傾くのを見て祖宗の山に登ってきたと言うのだった。

    「どのみち亡国の民の恥を抱いて死ぬのなら、白頭山のふもとで暮らして死にたくなったのです。わたしに千字文を教えてくれた書堂(漢文を教える私塾)の先生はいつも、朝鮮人は白頭山を抱いて生き、白頭山を枕にして死なねばならぬと言っておりました。まったくあの言葉は石碑に刻んでおきたいくらいの金言ですよ」

    眉を寄せて白頭山の方を見つめる老人の視線を追ってはるか彼方を見やると、彼の歩んできた泥沼のような人生の足跡が眼前に広がるようで、おのずと厳粛な心境になった。白頭山麓に生き、白頭山を枕にして死にたいという老人の言葉はわたしを感動させた。

    「で、白頭山での山奥生活の味はどうですか」

    「なかなかいいもんですよ。ジャガイモづくりとノロ鹿狩りの苦しい暮らしですが、日本人の姿を見なくてすむので太るような気がしますだ」

    この老人との話を通じて、わたしは白頭山の存在が朝鮮民族の精神生活においてゆるぎない柱となっていることをあらためて確認し、白頭山を革命の策源地としたことがまったく正しかったことを痛感した。隣人もない独り身で、白頭山で晩年を強く生きぬいている彼は本当に愛国的な老人だった。残念なのは、老人の姓氏を聞かないまま別れたことである。羅子溝台地の馬老人のように、この老人にも書物が多かった。温泉浴をすませて大沢を発ち黒瞎子溝へ向かうとき、老人はわたしに幾冊もの小説をくれた。後日われわれは、この大沢温泉地に戦傷者や虚弱者のための療養所を設けた。

    われわれが黒瞎子溝に到着した後のある日、蛟河地方で活動していた第二連隊のメンバーが訪ねてきた。そのなかには権永璧、呉仲洽、姜渭竜などがいて、久々に旧懐の情を分かち合った。わたしを訪ねてくるまでの彼らの苦労は並大抵のものでなかったという。寒さのなかを一重の服で飢えにたえながら白頭山へ来る途中、ある木材所を襲って牛を手に入れ、そのうちの二頭はわれわれのために引いてきた。見る影もなくやせさらばえた体と破れた夏の軍服姿を見て、わたしは胸が痛んだ。彼らもわたしにとりすがって泣いた。彼らを新しい軍服に着替えさせた。服だけでなく肌着も着替えさせ、脚絆や地下たびも替えさせた。洗面道具もそろえ、それにタバコとマッチも配るようにはからった。

    司令部の命令で蛟河方面から帰ってきた姜渭竜は、朴永純とともに黒瞎子溝、横山、紅頭山地区の各所に密営を設置した。朴永純と姜渭竜は斧一つで一個連隊が十分宿営できるほどの丸太小屋を二、三日で難なく建ててしまう見事な腕をもっていた。長白地区の密営建設では、おそらくこの二人がいちばん苦労したのではないかと思う。曹国安の部隊のメンバーが黒瞎子溝に来て、われわれの部隊の隊員がわずか一日の間に彼らの宿舎を建てる腕前を見て驚いたのも、じつは彼ら二人のせいだったといえる。わたしが黒瞎子溝にしばらく留まっていて小白水谷にもどってきたときには、すでにいくつもの地点の密営地に新しい丸太小屋が建てられていた。司令部と部隊の兵舎、出版所と裁縫所の建物、衛兵所と検問所などが密林のあちこちに生まれた。密営の丸太小屋の戸にノロ鹿の足の把っ手が取り付けられるようになったのは、そのときからだった。粗末なノロ鹿の足の把っ手だったが、わたしにとってはそれが歴史的な時期を画する里程標のように脳裏に刻みつけられている。白頭山のわが「住宅」にノロ鹿の足の把っ手が取り付けられるようになって以来、つまり小白水谷にわれわれの根城が築かれたときから、白頭山密営は朝鮮革命の本拠地、中心的な指導拠点となったのである。

    白頭山密営は朝鮮革命の策源地であると同時に心臓部であり、われわれの中核的な作戦基地、活動基地、後方基地であった。まさにその白頭山密営からやがて、北部、中部朝鮮の各地に数多くの秘密根拠地が扇の骨のようにのびていった。それらの密営から三千里津々浦々に革命の火を点ずるため、権永璧、金周賢、金平、金正淑、朴禄金、馬東熙、池泰環など多数の政治工作員が全国各地に向かい、また白頭山にわたしを訪ねてきた李悌淳、朴達、朴寅鎮など数多くの人民の代表が新たな革命の火種をいだいて再び人民のなかに入っていった。そして人民革命軍は敵を求めて出陣した。革命の運命と直結した大小さまざまの事柄が、ほとんどすべて白頭山密営で構想され設計され、行動に移された。白頭山密営網に属する衛星密営は朝鮮方面にもあり、中国方面にもあった。獅子峰密営、熊(コム)山(サン)密営、仙五山密営、間白山密営、無頭峰密営、小胭脂峰密営などは朝鮮方面に設置されたものであり、黒瞎子溝密営、地陽溪密営、二道崗密営、横山密営、鯉明水密営、富厚水密営、青峰密営と撫松地区の各密営は西間島方面に設置されたものだった。われわれは必要に応じてあちこちと場所を変え、これらの密営をすべて利用した。

    白頭山地区の密営はそれぞれ異なった使命と任務を遂行した。純然たる秘密兵営の役割のみを果たしたのではなく、裁縫所や兵器修理所、病院といった後方密営の役割を果たすものもあれば、工作員の中間連絡所や宿営所の役割を果たすものもあった。白頭山密営網の心臓部は小白水谷の密営だった。そのため、当時われわれは小白水谷の密営を「白頭山一号密営」と呼んでいた。いまは「白頭山密営」とも言い、「白頭密営」とも言っている。最大限の安全と秘密保持のため、そこには司令部直属部署のメンバーと警護隊を含めた一部の基幹部隊だけを常駐させ、出入りをきびしく制限し取り締まった。当時われわれの所に常駐しない部隊や個々の人物が司令部を訪ねてくる場合も、小白水谷の密営ではなく二号密営(獅子峰密営)へ行って会った。二号密営では司令部を訪ねてくる部隊や個々の訪問客を迎え入れたり休息させたり、送り出したりし、ときには彼らに講習や訓練もおこなった。二号密営は司令部を訪ねてくる人のための窓口であると同時に待合所でもあり、面談所であると同時に宿泊所でもあり、また講習所であると同時に訓練所でもあった。司令部を訪ねてくる連絡員の場合も、足跡を残さないようにするため鯉明水の方から登ってきて、小白水谷の入口からは小白水の流れをつたって通わせた。われわれは密営の所在をむやみに教えはしなかった。誰でも知っているのなら秘密ではなく、密営でもない。白頭山密営とその周辺の密営の所在をつぶさに知っていたのは金周賢と金海山、金雲信、馬東熙などのように連絡任務をほとんど一手に引き受けていた数名の人と少数の指揮メンバーだけだった。白頭山密営とその他の密営、そしてそこにいた「住民」が、抗日革命が勝利する日まで自己の存在を隠しつづけることができたのは、まったく幸いなことだったといえる。

    わたしにとって白頭山は青春時代の「わが家」だった。幼いころの故郷の家族とは比べようもない多くの家族がわたしとともにそこで過ごしながら白頭山の風雪にうたれ、今日の祖国を夢見た。白頭山でわたしと苦楽をともにしたかつての白頭山開拓者のうち、いま生き残っている人はわずかにすぎない。そういう事情は、われわれをして次の世代に白頭山のひだひだに宿っているわが党の革命歴史と烈士の闘争業績を紹介し伝えるべき一世としての使命を適時に正しく遂行できなくした。わたし自身も白頭山密営を適時に探してやれなかった。建党・建国・建軍事業、そして戦争、復興建設とあまりにも多くの仕事のため、若いときには白頭山時代の本拠地を訪ねる時間を割くことができなかった。

    朴永純が生きていたころ、次の世代のために白頭山密営の跡を探し出すよう重ねて言った。しかし、往年のあの敏捷な「大工」も、自分の手で建てた黒瞎子溝や地陽溪、横山の密営の跡や青峰、枕峰、茂浦などの宿営地の跡は探し出しはしたが、白頭山密営の跡はとうとう探し出せなかった。だからといって彼らをとがめるわけにはいかなかった。彼らはその密営に行ったことがなかったのである。

    結局、白頭山密営の跡は遅ればせながらわたしが探し出した。久々に暇を得たので、復元された白頭山地区の密営が見たくてそこへ足をのばしたことがある。ところが帰り道、小白水橋のあたりの地形にどうも見覚えがあったので、踏査員たちを小白水谷へ派遣した。百丈余りの切り立った崖岩のある谷間を踏み分けていけば、それほど広くないカヤ原があるはずだから探してみるようにと言った。そして、その谷間は山と山が重なり合っているので、外側からは見分けにくいことをとくに強調した。当時にしてもその地区は恐ろしく険しい所だった。いつだったか、鴨緑江沿岸の参観コースの道路をつくるため、責任秘書と武官に現地踏査をさせたところ、原始林の中で道を見失ってひどく難儀した。それで護衛中隊を送って彼らをやっと捜し出した。じつに迷魂陣に劣らぬ迷宮のような地帯だった。小白水谷に踏み込んだ探査・踏査メンバーはついにスローガンを書き記した樹木を発見し、ついで密営の跡と宿営地の跡も探し出した。こうして、朝鮮革命を継承していく次の世代に、昔どおりの白頭山密営の姿を見せられるようになったのである。

    今日、白頭山は朝鮮革命の二世、三世、四世たちに、一世たちの白頭の革命精神を学ばせる学校となっている。広大な白頭の大地には大露天革命博物館がつくられた。歴史の流れとともに、白頭山のもつ象徴的な意味は豊富なものになった。事実、白頭山はすでに一九三〇年代の後半期に、その本来の象徴的な意味のほかに新しい意味をおびはじめた。死火山であった白頭山から噴出した「光復革命」の溶岩は二千万同胞の注目を引いた。抗日革命の炎が及んだ各地を訪ねた作家の宋影は、その踏査紀行文集に『白頭山はどこからも望める』という表題をつけた。この表題が示しているように、われわれが白頭山に陣取るようになって以来、白頭山はどこからも望める解放の活火山、革命の聖山となったのである。

    

    

    

    

      6 愛国地主 金鼎富

    

    

    世界の政治舞台に共産主義者が登場して以来、万国の無産者は「地主、資本家を打倒せよ!」というスローガンをかかげた。朝鮮の勤労者大衆もこのスローガンを高くかかげ、外国の帝国主義勢力と結託した反動的な搾取階級を葬り去るための、きびしくもはげしい階級闘争を長い間展開してきた。国民府の政党組織である朝鮮革命党左派の人物でさえ、一時は打倒地主、打倒資本家を闘争目標と宣言して打倒旋風をまき起こした。

    われわれも、地主、資本家に反対することを自己の理念とし、闘争目標としていたことを隠すものではない。他人の生血を吸い取る搾取者に反対するのは、わたしが生涯にわたって堅持している原則である。わたしは過去と同様、現在も搾取者に反対している。数億万の勤労者大衆が飢餓線上をさまよっているとき、彼らの膏血をもって築いた財貨を湯水のように使い暖衣飽食する人間にたいしては、これからも憎悪すると思う。

    物質的富の分配における公正さと社会的平等の実現を主張する人道主義的理念は、全世界の進歩的人民が肯定しているところである。われわれは、ごく少数の有産者とその代弁者による政治的独裁、経済的独占、道徳的堕落に反対し、それらに終止符をうつことを自己の神聖な義務とみなしている。もちろん、具体的実践においては搾取階級を打倒する問題と、その階級の個別的存在、個々の有産者にたいする問題は厳格に区別しなければならない。それでわれわれは、抗日革命の時期に、日本帝国主義とその手先である悪質な有産者だけを闘争の的にしたのである。

    しかし、かつて一部の共産主義者は、階級関係において闘争の一面のみを強調しすぎ、愛国的で反帝的な要素をもつ地主や資本家を見るうえで極左に走った。具体的な状況や実態を考慮せず、有産者を政治的、経済的、社会的にむやみに粛清し収奪し迫害する杓子定規的な政策を実施することによって、一連の国々では共産主義にたいする誤った認識が生じるようになった。これは反共に血道をあげている連中に共産主義を中傷する口実を与えた。

    共和国北半部には地主、資本家が存在しない。いまは階級的教育が高い水準で深化され、すべての活動家が階級路線と大衆路線を正しく結合している。富者をすべて悪いと決めつけていた一面的な見解、その経歴や功労にかかわりなく、地主、資本家階級出身の者は誰であれ、一律に取り扱うべきだとした偏狭な観点はなくなったといえる。出身が悪いからと悩んでいた人が朝鮮労働党に入党したり、適所に登用されて明るく暮らしているという話を聞けば、わが身の幸運のように喜ぶのがこの時代の大衆の心理となっている。これは、朝鮮労働党の幅の広い政治がもたらした貴重な結実である。われわれはこうした幅の広い政治を半世紀前にも実施し、現在も実施している。朝鮮の真の共産主義者はすでに抗日革命の時期から民族大団結の旗をかかげ、出身と信教、財産程度の異なる各階層の大衆を一つの勢力に結束するためにたたかってきた。地主金鼎富についての話は、地主、資本家にたいするわれわれの具体的な見解を理解し、われわれが実施している幅の広い政治の歴史的根源を把握するうえでの一助になるのではないかと思う。

    わたしが金鼎富と初めて会ったのは一九三六年の八月末である。地陽溪村へ義援金工作に出かけた小部

    隊が深夜、親日地主だといって、七十過ぎに見える老人以下数名の人を連れてきた。そのときわたしは、馬家子という二道崗付近の林業村で大衆工作にあたっていた。わたしは抑留者名簿に金鼎富という名前が記されているのを見てびっくりした。彼を「親日地主」として引き立ててきたのだから驚くほかはなかった。当時の小部隊責任者を李東学だと回想している人もいるが、わたしの記憶では金鼎富を連行してきたのは金周賢である。わたしは金周賢をきびしく問いただした。

    「金鼎富を打倒対象と断定した理由はなんだね」

    「あのじいさんは土地だけでも、ざっと百五十ヘクタールも持っています。地主一人でそんなに多くの土地を持っているという話を聞いたのははじめてです」

    「で、百五十ヘクタールの土地を所有している地主だからといって、打倒の対象になるという法がどこにあるのだ」

    「司令官同志! 一家の富に三村が滅ぶというのに、あんな富豪なら十村でも滅びますよ」

    わたしは金周賢につぎの理由を聞いた。彼は、金鼎富が日本領事館分館の参事と親しくしており、その参事が慶尚北道永川かどこかから伊藤という日本人資本家を連れてきて、金鼎富に六千円もの大金を融通して材木商を営ませた、金鼎富が車まで一台買い入れて商売を繁盛させることができたのは、日本帝国主義者を後ろ楯にしたからだ、と長々と説明した。

    「まだ他に理由があるのかね?」

    「ありますとも。証拠は一つや二つではありません。金鼎富は護林会長兼農村組合長の役職について、満州国の役所にひんぱんに出入りしているそうです。息子の金万杜もおやじを笠に着て数年間、二道崗の区長を務めました」

    それでは金鼎富に長所はまったくないのかと聞くと、金周賢はとまどった。長所についての世評は聞き出そうとしなかったばかりか、わたしがそんなことに関心をもとうとは考えもしなかったようである。

    「長所ですか? そんな親日分子に長所など、あるはずはないでしょう」

    小部隊責任者の答えは一から十まで否定的なものであった。終始主観的な解釈一辺倒の彼の報告は、なぜかわたしの胸を重くした。階級闘争と階級性しか眼中になかった従来の惰性から大きく脱していなかったうえに、金鼎富にたいする予備知識がなかった彼らは、わたしが長白地区に進出するさい、重要な統一戦線工作の対象として目星をつけておいた彼に「親日地主」だの「反動分子」だのという大げさなレッテルを貼りつけ、本人だけでなくその息子まで捕えてきたのである。これは、われわれの統一戦線方針のみか、祖国光復会の創立宣言文や十大綱領の精神にも反する行為であった。

    そのうえ、彼らは金鼎富の家に電話のあることまで親日派の根拠とした。彼が電話を引いたのはただのぜいたくのためではない、密偵行為に使うためであろう、通話の相手は領事館か警察署、満州国の役所しかないではないか、そんなやつらに電話をするのは密告のためであって、ほかになにがあるのか、と金周賢は気炎を吐いた。事実、当時にしてみれば私宅に電話を引いて使うというのは、庶民には想像すらできないぜいたくであった。だからといって、自宅に設けた電話を親日のしるしとし、利敵行為の手段とまでみなすなら、それこそ牽強付会というものではないか。もし、すべての隊員がこういうふうに人びとを評価するなら、われわれの統一戦線政策は実践において重大な難関に直面する恐れがあった。これは金鼎富一人に限られることではなかった。

    わたしは、小部隊のメンバーを責める前にまず、部下の教育をおろそかにした自分自身を叱責した。わたしが撫松で張蔚華とかかわりをもっていたときにも、一部の人は先入観をもってそれを憂慮した。張蔚華が送った橇数台分の援護物資と巨額の資金を受け取ってはじめて、彼らは有産階級のなかにも善良な人間がいることを認めた。ところが長白に来て、百五十ヘクタールの土地を持っている地主に出会うと、再び憎悪の目で見たのである。

    張蔚華を同行者と認めた人たちが、どうして金鼎富が統一戦線の対象となりうる人物だと思い及ばないのだろうか。これは、統一戦線政策についてのわれわれの教育活動に欠落があることを意味した。われわれのいう各階層の大衆のなかには、経歴や生活境遇の異なる千差万別の人間がいる。そのすべての人間との活動にあてはまる唯一の処方というものはありえない。しかし、どの場合にも参考とすべき原則だけはなければならない。当時、われわれが人びとを評価するうえで基準とした原則は、親日か反日か、愛国愛族の精神があるかないかということであった。祖国を愛し民族を愛し人民を愛し、日本帝国主義を憎悪する人とはすべて手を結ぶことができ、反対に祖国と民族、人民は眼中になく、一個人の享楽と安逸のために親日に走る者はすべて闘争対象になるというのがわれわれの立場であった。わたしはこういう観点から、金鼎富も統一戦線の対象とみなしていた。そして長白に進出すれば彼に協力を願う手紙を届けるか、密営に来てもらって会おうと考えていた。

    「わたしの考えでは、金鼎富にたいするきみたちの評価は図式的で非科学的だ。人をうわべだけで浅薄に評価してはいけない。きみたちが親日地主だという金鼎富は、実際は愛国地主だ。わたしは彼の過去をよく知っている。きみたちは地陽溪で幾人かの話を聞いて金鼎富はこうで、金下士はああだと人をみだりに評価しているが、それはうわべだけを見て内実を知らずに言うことだ。金鼎富がそんなに悪い地主なら、どうして地陽溪の住民が村に彼の頌徳碑を建てたのか。きみたちは地陽溪に金鼎富の頌徳碑があることを知っているのか」

    小部隊のメンバーは、知らないと答えた。それでわたしは彼らに、きみたちが金鼎富の経歴を知ったら、親日地主だとなじりはしないだろう、彼は打倒対象ではなく包容対象であり、反動地主ではなく愛国地主であることをこの場でわたしが保証する、と話した。

    「司令官同志の意図を知らずに金鼎富の取り扱いで誤りを犯しました。小部隊の名で謝罪し、地陽溪に送りかえすことにします」

    自責の念にかられた金周賢の答えであったが、わたしはそれに同意しなかった。

    「わたしも一度会ってみたかった人だから、帰すことはない。こうなったついでに、密営に連れて行ってじっくり語り合ってみたい。きみたちに代わって謝罪はわたしがする」

    その日わたしは、金鼎富を統一戦線の対象とみなせる根拠について知っているかぎりのことを小部隊のメンバーに話してやった。それで、金鼎富の経歴はその日のうちに部隊中に知れ渡った。

    金鼎富の出生年代は一八六〇年代の初めだと思う。われわれが長白地方に進出したとき、彼はもう七十代の老人であった。彼の故郷は平安北道義州郡青水洞である。わたしが吉林で学校に通っていたとき、義州生まれの張喆鎬は、富豪の身にもかかわらず独立軍運動に挺身してきた金鼎富についてしばしば好感をもって話した。金鼎富の息子の金万杜は、張喆鎬と呉東振の青水洞時代の竹馬の友である。独立軍が長白地方で気勢を上げていたとき、金鼎富は軍備団の南部担当部長として活動した。彼は財産をはたいて独立軍に布地や食糧をはじめ各種の給養物資を調達した。軍勢が盛んであったころは、地陽溪でジャガイモの澱粉をとり、水車を設けて穀物を搗いたりして団の食糧に供した。金鼎富の家は吉林、撫松、臨江、八道溝、樺甸などで活動する独立運動家が長白に行き来するときに利用した宿泊所でもあり、会合の場所でもあった。そういう縁からしても、わたしは金鼎富老をおろそかにできない立場にあった。金鼎富は次代の教育のためにも少なからず貢献した。地陽渓の谷間に彼の主管する漢学書堂が建てられたのは一九二〇年ごろだった。小作人の子女を他の土地の子どもらよりもりっぱに啓蒙しようという意欲を燃やした彼は、漢学書堂を新学中心の四年制小学校にかえ、やがてそれを百五十名以上の生徒を擁する六年制私立学校に切り換える革新的な措置をとった。金鼎富は隣村から来る子どもまで入学させた。その宗山私立学校の運営費と教師の給料は小作料でまかなった。学校では自主独立と愛国愛族の思想を植えつける民族教育を実施した。

    地陽溪の小作人は自発的に小作料を納めた。作柄に応じて一俵なら一俵、十俵なら十俵と納められるだけ納めた。それは金鼎富が地主として小作人に土地の量と質に応じた現物納入量を定めなかったからである。地主と小作人のあいだには小作契約さえ結ばれていなかった。いわば、年中の収穫のうち何割は農民が取り、何割は地主に納めるという約束がなかった。一時、地陽溪で金鼎富の小作人であった抗日革命闘士の李致浩は、この世に金鼎富のような善良で太っ腹な地主がいるという話は聞いたためしがない、彼の土地を耕作しながら小作料がいくらなのかも知らなかった、米を何回も借りたが利子をつけて返済したことはない、それでも金鼎富は追及するどころか万事を小作人の自覚にまかせた、村人が彼の家の前に頌徳碑を建てたのはいわれのないことではない、彼が地陽溪の台地に多くの土地を持っていたとはいうが、それは平野部の十五ヘクタールの沃田より別段まさるものではなかった、と話した。

    地陽溪の住民は口をそろえて、金鼎富を「うちのおじいさま」「うちの部長さま」「うちの校主さま」とたたえた。これはありきたりのことではなかった。隣村の地主たちは、金鼎富の徳行をたいへんけむたがった。彼らは自分の小作人が地陽溪を横目でうかがい、金鼎富の小作人をうらやむのではないかと恐れた。それで彼らは、契約なしで好き勝手に小作料を納めさせるというのは度を越した思いやりだ、そんなことをしては三、四年のうちに身代がつぶれてしまうだろう、と金鼎富を説得した。しかし、彼はそんなことにはいっこうに耳を貸そうとしなかった。小作の契約がないからといって、うちの三人家族が飢えるようなことはなかろう、小作人の腹がふくれればわしの腹もふくれ、小作人がひもじければ、わしもひもじいわけだから、人情も持ちつ持たれつだと考えればそれまでだと言い返した。金鼎富はこういう功徳を施す富豪だったので、満州国の役所や日本領事館でも、ないがしろにはできなかった。

    小部隊が引き立ててきた地主のなかには金下士という人がいたが、彼もやはり愛国的な地主であった。彼に金下士というあだながついたのは、旧韓国の新式軍隊で下士官として服務したことがあるからである。彼の本名は金鼎七だった。彼は十代の若さで李朝の軍隊に志願して軍人生活をはじめた人物だった。ひところは朝鮮ではじめての新式軍隊である別技軍に加わり、開化党が甲申政変(〔8〕)を起こしたときには、それに強く共鳴したりした。山村のきこりのように素朴で清楚な彼の姿からは、剛健な政治的信念のほどがうかがわれた。甲午改革のとき王宮護衛の任にあたる侍衛連隊に所属していた彼は、その後、鎮衛隊に転勤し、亡国以後は義兵運動に身を投じ、それが衰えると生業に没頭した。金下士は、旧韓国末期の新式軍隊が存在したほぼ全期間をまじめに服務しとおした軍人であり、李朝軍隊の死滅過程と近代朝鮮の波瀾にとんだ国難を身をもって体験した歴史の生き証人であった。金鼎富の話によれば、彼が長年軍務に服しながらも下士官以上の階級に登用されなかったのは北関(咸鏡道地方の別称)出身であったためだという。金下士は、李朝の為政者が流刑地だと差別する甲山の出身であった。封建朝廷は軍政改革や門閥廃止を唱えながらも、西北関(平安道・黄海道・咸鏡道地方の別称)出身を人材登用から除外した旧時代の遺習を一掃できなかったようである。金下士は十ヘクタールの土地と幾頭もの役牛を持っている地主であったが、思考や行動においては進歩的で進取の気に富む愛国者であった。

    しかし当時、少なからぬ人は、金鼎富や金下士のような人も統一戦線の対象になるというと、あきれた顔をして、そんなに多くの土地を持っているのに包容対象だというのか、それは「階級協調」ではないか、と言ったものである。事実、共産主義者の世界ではマルクスやレーニンの命題が唯一無二の指針となっていた半世紀前までは、われわれがどこかの地主と手を結ぼうとすると、一部の人はマルクス主義からの脱線だと論難し、いずれかの資本家を同盟者にしようとすると、レーニン主義の異端者だとおじけをふるったものである。それは、わが国の具体的特性と朝鮮革命の現実を無視してマルクス・レーニン主義を絶対視し、教条的に適用した結果である。

    解放前の朝鮮農村における階級分化と土地所有関係の変化過程を示す統計資料を見ると、日本人大地主の数が増大するのに反比例して、朝鮮人大地主の数は急減して中地主か小地主になり、または没落したことがわかる。日本帝国主義者は、封建的土地所有関係を維持する方法で総督政治の基盤をかためた。その過程で一部の土着地主は総督府の庇護のもとに土地と資本を増やして商工業に投資する大地主になり、買弁資本家にまでなった。しかし、大多数の朝鮮人地主は中小地主としてとり残された。日本帝国主義の占領と植民地支配によって没落した一部の中小地主が、消極的ではあるにせよ反日愛国を志向したのは自然のなりゆきである。事実、朝鮮の地主、資本家のなかには抗日革命を積極的に援護した人もあり、解放されるとすぐ土地や工場をそっくり国に納めて平凡な勤労者になり、新しい祖国の建設に献身した人もいる。個人の蓄財よりも祖国と民族の繁栄を大切にする良心的な有産者には、共産主義者の施策に反対する政治的理由もなければ、共産主義者の指導する革命運動を妨害するなんの感情的・心理的根拠もないのである。

    もちろん、わたしも幼いころは、地主、資本家といえばすべて無為徒食する寄生虫だと思っていた。わたしが有産者のなかにも良心的な人がおり、したがって彼らを愛国的な有産者と反動的な有産者に区別することができると考えるようになったのは、彰徳学校時代に白善行(愛国的な慈善事業につくした女性)が多くの土地を学校に寄付したということを聞いた後からである。張蔚華との因縁は、わたしにすべての有産者を打倒の対象とみなす人たちの見解を批判的に検討し、それを理論的に否定させるきっかけとなった。陳翰章を通しても、富者にたいする観点をいっそう明確に定立した。もし、われわれがこういう愛国的な人びとを有産者だからといって打倒したり、遠ざけたりすれば、どうなるだろうか。それは革命の支持者を排斥することになり、愛国的な有産者は言うまでもなく、多数の大衆を失う結果をもたらすであろう。大衆はそんな血も涙もない革命には背を向けるであろう。喜ぶのはただ敵だけである。階級闘争におけるささいな誤謬や脱線も結局、敵の戦略に歩調を合わせる最大の利敵行為となる。

    わたしは遊撃隊の隊長として、部下の過失について金鼎富とその一行に謝罪せざるをえない苦しい立場に立たされた。小部隊責任者は、わたしが命令するやいなや待機させていた金鼎富一行を部屋に連れてきた。わたしは夜半に彼らを引き立ててきた部下の無礼な振舞いを深くわびた。金鼎富はなんの応答もなく、敵意と不安の入りまじったまなざしでわたしを見つめていた。他の人の表情も同じであった。おそらくことのなりゆきがどうなるものかと気をもんでいるようであった。彼らにもう少しやさしい言葉をかけてやりたかったが、とりつく島もなかった。こういう冷たい雰囲気ではとうてい対話が不可能だった。

    「どんな軍隊なのかは知らないが、独立軍だったら必要な軍資金の金額を示し、胡(こ)狄(てき)だったら綁票代がいくらほしいのか話してくれ」

    張りつめた空気を破ったのは金鼎富のとげのある声だった。彼の言葉は部屋の雰囲気をいっそう緊張させた。金鼎富とその一行は、われわれを独立軍か胡狄と思っているに違いなかった。綁票とは、胡狄や反日部隊がよく使う人質戦術で、綁票代とは人質を放免するときに取る身の代金のことである。金鼎富自身も胡狄に人質として二、三回捕われてひどい目にあった人である。

    地主一行は息をつめてわたしを見つめていた。法外な身の代金を求められるのではないかと心配しているようだった。そのとき金周賢が十箱のタバコを持って再びわたしの前に現れ、地陽溪村の小店の主人があまりにも辞退するので、タバコ代を払えずそのまま帰ってきたことを報告した。わたしは地主一行に、その小店の主人の人となりを尋ねた。

    「その金世一という人は心のやさしい人です。本人は体が不自由で、妻が米搗き仕事をして細々と暮らしを立てている家です。見るに見かねて雑貨商でも営むようにと、いくらかの金をやったところ、それを元手に小店を出したんです」

    金万杜が一行を代表して答えた。わたしはそれを聞いて金周賢をたしなめた。

    「苦しい生活をしている家だというのに、なんということをしてくれたのだ。主人が拒むからといって、代金も払わずに帰ってくるとは失礼もはなはだしいではないか」

    こんな話が交わされると、驚いたことに部屋の雰囲気ががらりと変わった。地主たちは強い衝撃を受けたらしく、互いに意味深長な目配りでささやき合っていた。わたしの叱責がきつすぎるといった面持だった。再び話しかけるには絶好の機会だった。

    「こんなうっとうしい真夜中にご足労をかけて申し訳ありません。不馴れな土地を歩きまわっているので、ときにはこんな過ちを犯すこともあるのです。部下の無礼な振舞いをどうかお許しください」

    わたしがあらためてこう陳謝すると、彼らはやっと安堵の胸をなでおろした様子だった。

    「では、この部隊はなんの部隊じゃろう? 身なりを見ると胡狄でもなく、往年の独立軍の服装でもないし…」

    金鼎富もわたしに好奇の目を向けた。

    「わたしたちは朝鮮の独立のためにたたかう朝鮮人民革命軍です」

    わたしはこう答えて、長白の有志との初対面の挨拶に代えた。

    「人民革命軍ですって? この前、撫松で日本軍をひどい目にあわせたあの金日成将軍の部隊だというのかね」

    「ええ、その部隊です」

    「金日成将軍はいまも撫松にいらっしゃるんですかな?」

    「金先生、ご挨拶が遅れてすみません。じつはわたしがその金日成です」

    金鼎富は半信半疑の目でわたしを見つめ苦りきった顔をした。

    「七十を越した老いぼれだからと馬鹿にしてくださるな。いくらなんでも縮地の術を使うという金日成将軍が、そんな紅顔であろうはずはない。金将軍はわたしらのような俗人とは違いますぞ。その方は歯も二重の奇人ですわい」

    そのとき、金周賢が横から話に割り込み、あなたの目の前に座っておられる方がほかならぬ金日成司令官だと言った。こうして、金鼎富はやっとわたしが金日成であることを認め、将軍をお見それして申し訳ないと許しを乞うた。そして、「どうせなら、老将よりも若い将軍のほうがましというものだ」と金下士に言った。金下士も、国を取りもどす戦いは一、二年で終わるわけでもないのだから、健康な青年将軍のほうが頼もしい、と相づちをうった。

    われわれは、和気あいあいたる雰囲気のなかで談笑した。その日、彼らはわたしに多くの質問をした。なかでも金万杜は、金将軍は「三日先の天気」も読めるという人がいるが、それは本当なのかという突飛な質問までしてわたしを当惑させた。途方もない質問ではあったが、わたしは面映ゆい思いをしながらも一応は答えざるをえなかった。

    「わたしが三日先の天気も読めるというのは途方もない話です。三日先の天気が見通せるのではなく、朝鮮人民革命軍が人民と連係を保って必要な情報をそのつど入手できるので、情勢が正しく判断できるだけのことです。わたしは、人民が諸葛亮(孔明)だと思っています。われわれは人民の支持と援助がなければ、一歩も動けません」

    「民をそれほど、天のように高く見てくださるとは恐縮のかぎりです。わしらも将軍の大業をお助けしたい気持ですが、なにをすればよいのか教えてくだされ」

    「じつはわたしも、長白に進出してみなさんにお会いして、そのことを相談したかったのです。わたしたちは武器を手に幾年もの間、満州の広野で日本帝国主義侵略者を打倒するための血戦を展開してきました。徒手空拳ではじめた戦いでしたが、人民革命軍はいまいたるところで敵に打撃を与えています。さきほどもお話したように人民の援助がなかったなら、革命軍は今日のような強力な軍隊に育つことができなかったでしょう。爪先まで武装した日本軍を打ち破って祖国を解放するためには、全民族が一致団結して力と心を合わせなければなりません。国を愛する人であれば、地主であろうと資本家であろうと、すべて奮起して人民革命軍を援護すべきです」

    彼らは、わたしの話に大きく励まされたようであった。

    「祖国を愛し同胞を愛する人であるなら、誰であれ革命を支援する義務があり権利があります。先生が地陽溪の台地に数十万坪の焼き畑を起こしたのは、資金と食糧で独立運動を助けようとしたからではありませんか。それで、小作人と独立の志士たちがその意を募って先生の頌徳碑まで建てたのではありませんか!」

    「失礼ですが、将軍はどうして、このわたくしごとき者の過去をそんなによくご存じなのですか」

    「先生のお名前は亡き父を通じても、また呉東振、張喆鎬、姜鎮乾先生たちからもうかがっておりました」

    「父上のお名前はなんと申される?」

    「金亨稷といいます。父は八道溝と撫松にいたころ、先生のことをよく話しておりました」

    「これはまた、なんということだ!」

    金鼎富は目をしばたたいて、わたしをじっと見つめた。

    「金将軍が金亨稷の息子であることを知らないでいたとは…。幾年も片田舎に埋もれてむなしい月日を送っているうちに、時勢の移り変わりも知らぬ俗物になってしまいました。ことはどうであれ、将軍の父上とわたしは近しい間柄だった。…以前、父上が通った土地に部下を率いて来た将軍に会ってみると、この感激をなんと表現してよいかわかりません」

    「わたしもやはり先生のような愛国志士にお会いできて、どんなにうれしいかわかりません。わたしの部下が深いわけも知らず、先生を引っ立ててきましたが、わたしは彼らに、金先生は親日地主でも反動地主でもなく、愛国地主だと話してやりました。わたしが地陽溪の村民のように先生の頌徳碑を建てることはできないまでも、愛国地主を親日地主とみなす不届きなことはいたしません。先生は独立運動のため心身ともにささげてこられたご自身の過去を誇りとすべきだと思います」

    金鼎富は涙をたたえ、重ねて礼を言った。

    「金将軍に愛国地主と言われては、この身がいまここで土くれになっても心残りはありません」

    金万杜も父にならって額が地面につかんばかりにお辞儀をした。他の地主たちは不安と羨望の入りまじったまなざしで金鼎富親子を眺めていた。その気持を察した金鼎富は威儀を正し、同行した地主たちを指さして言った。

    「将軍、実際のところあの人たちも反動地主ではありません。命にかけて保証します。もし、将軍がわたしを信頼してくださるなら、あの人たちを逆賊とみなさないでくだされ」

    「先生が保証する方々なら、信頼できないわけはありません。先生自らが保証するのでしたら、わたしもあの方々を悪くは見ません」

    地主たちは、わたしの返答を聞いてしきりに頭を下げた。最初の対話はこれで終わった。その日の対話はいまでも印象深く覚えている。もし、それが親日分子の罪業を取り調べる審問であったり、なんらかの罪業を告発する弾劾集会のようなものであったなら、わたしはいまも、雨のそぼ降る夜、馬家子の林業労働者の寮で金鼎富一行と深夜までつづけた対話を、これほどなつかしく思い出しはしないであろう。わたしはそのとき、彼らのうち誰が小作人をどのように搾取し、日本帝国主義の植民地政策にどの程度協力し、祖国と民族に恥ずべきことをどれほどしたかについては、まったくたださなかった。かえって、その地主たちが親日分子でないことを既定の事実とし、彼らにたいする信頼をためらうことなく披瀝した。その信頼のため、その夜、彼らは共産主義者にたいする認識を新たにした。事実、その日の会話は初対面の挨拶を交わし心の扉を開いたにすぎない。話し合いたかった基本問題はすべて伏せられていた。われわれの目的はまず、「祖国光復会創立宣言」の精神に即して地陽溪の地主たちを思想的に啓発し、朝鮮人民革命軍への物質的援護に最善をつくすようにし、彼らを通じて長白一帯の有志を革命の傍観者、妨害者から、革命の共鳴者、支持者、協力者に変えることであった。そのためには、まだ彼らとの多くの話し合いが必要だった。しかしわたしは、金鼎富とその息子だけは即刻、地陽溪に帰そうとした。

    翌日、金鼎富老に村へ帰るようにすすめると、彼は、目をむいてわたしの言葉をさえぎった。

    「将軍、昨夜わたしは、本当に多くのことを考えさせられました。このたび、わたしが将軍に会えたのはまったく天地神明の助けだと言わざるをえません。…わたしは以前から祖国と民族のためにつくそうといろいろと専念してきましたが、これといったことはできませんでした。わたしはもう年老いた身です。気力も衰えたが、徳行だけでは民族を救うことができないということがわかりました。晩年にいたって祖国の解放に役立つ道を見出せず思い悩んでいるとき、こうして将軍に出会えたのは天の恵みだと言わざるをえません。わたしが密営に残っていれば、せがれの万杜が地陽溪に帰っても、わたしをかたにして援護物資を送ってよこすことができます。おやじを連れもどすためには遊撃隊に物資を送らなければならない、わたしが遊撃隊に食糧や布地、靴を送るからといって神経を使うことはないと万杜が言えば、やつらも言うことがないではありませんか」

    わたしは老人の話を聞いていたく感動した。その一言一言が良心の叫びとして胸をついた。だが、わたしは彼の言いなりになることはできなかった。

    「ご老人のお気持はよくわかります。その高潔なお言葉だけでも大きな力になります。しかし、ここはご老人の滞在できる所ではありません。これといった居所もないし、食べ物も粗末です。そのうえ、これからだんだん寒くなり、日本軍の討伐も激しくなるでしょうから、どうみても家に帰るほうがいいと思います」

    しかし、老人は頑として聞き入れなかった。彼は、遊撃隊の兵卒として戦うことはできないまでも、国の独立に貢献する絶好の機会を奪わないでほしい、と重ねて懇願した。わたしは金鼎富老をしばらく密営に留まらせ、彼の息子だけを先に帰した。

    われわれは、密営に地陽溪の有志のための宿所を特別に設け誠意をつくして彼らをもてなした。欠乏だらけの山中生活ではあったが、部隊全員がかゆをすするときにも、彼らには非常用として蓄えておいた白米で飯をたいてやった。隊員には葉タバコを供給しながらも、彼らには巻きタバコを与えた。金鼎富はそのとき、密営で誕生日を迎え、一九三七年の正月も過ごした。彼の誕生日は陰暦十二月のある日だったと記憶している。その日になっても彼は家に帰ろうとしなかった。地陽溪から息子が送ってよこすことにした援護物資が到着するまでは密営を離れないと言い張った。わたしは、金鼎富にたいしてはもちろんのこと、彼の一家に罪を犯すかのような自責の念にかられた。七十代の老人を家にも帰らせず、山中で誕生日を過ごさせるのだから、こんな不人情なことがどこにあろうか。

    わたしは敵中工作にあたる隊員に頼んで白米、肉類、酒などの食料品を用意し、老人の誕生日に伝令兵に担がせて彼のいる密営を訪れた。山海の珍味とはいえなかったが、そのとき金鼎富のために設けた誕生祝いは、人民革命軍の歴史ではほとんど前例のないものであった。戦友の結婚を祝うときもそういうご馳走を用意することはできなかった。当時の遊撃隊員の結婚祝いといえば、一膳飯に汁一杯がせいぜいであった。金鼎富はご馳走を見て目を丸くした。

    「旧正月はまだだというのに、これはなんのご馳走なのかね?」

    「きょうは先生のお誕生日です。人民革命軍の名で誕生日をお祝いします」

    わたしは杯になみなみと酒をついで老人にすすめた。

    「金先生、この寒い冬に山中で誕生日を過ごさせて申し訳ありません。ほんの気持だけですが、たくさん召し上がってください」

    杯を受け取った金鼎富の目から涙がこぼれ落ちた。

    「遊撃隊員がトウモロコシがゆをすすりながら国を取り戻そうと苦労しているのを見ると、一日三食の温かいご飯が喉を通りません。まして、この山中でわたしのような者の誕生日まで祝ってくれるとは、将軍のご恩は死んでも忘れませぬ」

    「なにとぞ国の独立がなるまで、お達者でいてください」

    「わたしのような老いぼれはどうなろうとかまいません。けれども将軍だけはお体を大切にして、塗炭の苦しみをなめている民族をきっと救わなければなりません」

    その日、わたしは金鼎富と多くのことを語り合った。寒さがいっそうきびしくなり、山に雪がたくさん降り積もったので、今度はわたしが彼を家に帰さなかった。もしや深山の雪の中で何か変事でも起きてはと、長居したついでに密営で冬を越すようにはからったのである。金鼎富は四か月余りの密営生活で受けた印象を率直に話した。それは、人民革命軍にたいする総合的な印象であると同時に、長い間注視してきた朝鮮共産主義者にたいする集約的な評価でもあった。

    「率直に言って、わたしはこれまで共産主義者をあまりよく思っていませんでした。ところが、金将軍の共産主義はまったく違う。同じ地主でも親日と排日に分けて親日だけを討つのだから、そういう共産主義を誰が悪いと言いましょうか。日本人は遊撃隊を『共匪』と呼んでいるが、それはうそ八百です。… いままで遊撃隊の飯を食べさせてもらいながら多くのことを考えました。もちろん、決意も新たにしたし。わたしの寿命は知れたものです。けれども、余生を誉れ高くまっとうしたい。たとえ死んでも人民革命軍を助けて死ぬつもりです。この金鼎富は生きても死んでも金将軍の味方であることを信じてください」

    金鼎富は密営に来て、われわれの積極的なシンパになった。われわれが教育の対象、義援金工作の対象として連れてきた地主のなかには、農民から後ろ指をさされる者もいた。しかし、金鼎富が彼らの保証人になり、長老格となって全員を牛耳った。そして、彼らがすべて反日愛国の道に立つよう影響を及ぼした。金鼎富は人民革命軍の給養活動の足しにと三千余元もの大金を寄付し、布地や食糧をはじめ各種の物資も調達してくれた。われわれは彼が購入した布地で部隊の全隊員に綿入れと軍服をつくって着せた。

    金鼎富の息子は地陽溪に帰ると、われわれに誓ったとおり、遊撃隊の援護に積極的に乗り出した。彼は村に帰るとすぐさま、役所から引き取った役牛の中から十余頭を売ってかなりの金をつくった。当時、県当局は、地陽溪農民の生活安定というふれこみで荒野を開拓させるため信用貸付の形で数十頭の役牛を彼に提供したのである。その後も彼は県役所に行き、保証書を書いて優良役牛二十余頭を引き取り、それを引いてくる途中われわれに渡し、自分の家のミシンまで援護物資として送ってよこした。

    人民革命軍が白頭山地区に進出して以来、敵は長白の住民にたいする取り締まりと抑圧を強化した。金鼎富の家も監視の対象となった。ある日、金万杜は長白警察署に呼び出されて詰問された。

    「われわれが入手した情報によると、金日成部隊と連係して彼らに大量の物資を渡しているというが、彼らとどんな連係をもって、どういう給養物資をどれほど引き渡したのか、正直に言え」

    金万杜はそらとぼけた顔で大げさに泣きごとを言った。

    「あなたがたは、わたしがあたかも金日成部隊となにか内通しているように思っているが、それは誤解だ。あなたがたの言う連係というのはありもしないし、またあるはずもない。いくらなんでも、共産軍部隊がわたしらのような大地主を手先に利用するはずはないではないか。いまわたしの父が共産軍の密営に抑留されているのは、あなたがたもよく知っていることだ。息子が父を救い出そうと、多少の物資を届けたのが悪いと言えるのか。わたしは家財をいっさい売り払ってでも父を救い出したい気持だ。もしあなたがたがわたしのような立場だったら、そうしないだろうか」

    理屈に合った金万杜の話を聞いた警官は、それ以上詰問せず、彼を放免した。

    彼ら親子は革命軍を援護するため、多くの田畑と役畜を売った。金鼎富は独立軍に食糧と資金を提供するために荒野を開拓して地主になったのだが、独立軍のために使い果たせなかった財力をすべて人民革命軍の援護に費やした。地主、資本家にとって生命ともいえる蓄財を断念し、その蓄財の元手となる財産を国のために惜しみなく差し出すというのは口で言うように簡単なことではない。まさに、ここに金鼎富の愛国心の深さがあり、抗日革命に寄与した功労の高さがある。わたしは抗日革命の全期間、金鼎富のような愛国衷情をいだき、あれほどまでわれわれに思い切った支援をしてくれた大地主を見たことがない。後日、彼が密営に来て自分の目で見て感じたことの一端が『三千里』という雑誌に、わたしとの会見談の形式で発表された。その一部を原文どおり紹介する。

    「『…金日成』といえば国境一帯ではあまねく知れ渡っており、新聞を読んだ人なら誰でも記憶しているであろう。総師長という名で×に近い満人、朝鮮人部下を巧みに統率し、襲撃戦を敢行。軍に頑強に抵抗しながら山中の巣窟を指揮する彼! ひそかに同志を糾合し、諸般事を夢見る彼! 彼は果たしていかなる人間であろうか。金鼎富翁は津々たる興味をもってこの謎の人物と会見したのである。長身で太い声、なまりからして故郷は平安道と思われる。予想外にあまりにも若い血気盛んな三十未満の青年。満州語に精通。隊長らしいところはなく、服装や食事まで兵卒と変わらず、起居、甘苦をともにするところにその感化力と包容力がうかがわれた。

    『ご老人、寒い所でさぞかしご心労のことでしょう』と、やさしく挨拶の言葉をかけては(中略)『…わたしども若い者が暖かい床や安穏な生活を嫌うはずはないでしょう。二、三食、麦がゆがすすれなくても、この苦しみに甘んずるのはそれなりの理由があってのことです。わたしとて血も涙もあり、魂もある人間です。けれどもこの寒い冬に、わたしどもはこうして渡り歩いているのです』

    彼は予想に反して匪賊の首魁らしからず話しぶりが静かで、物腰も粗野ではなかった。彼は金翁をいろいろと慰めながら、いまは厳寒のみぎり、雪中に寸歩を踏むのも容易ならぬゆえ、春にはきっと帰すから安心するようにと言い、部下の看守に特別優待するよう命じたという。…」

    この文章は、恵山にいた朴寅鎮の弟子である梁一泉という人が書いたものである。金鼎富は日本当局の監視と統制下にある言論界に、自分の本心を比較的率直かつ大胆に吐露したようである。人民革命軍の動きにたいする報道管制がきびしかった時期に、雑誌『三千里』がこういう記事を載せたというのは驚くべきことである。

    金鼎富はわたしの勧めどおり汪清蛤蟆塘に移住し、そこで解放の日を見られずに世を去ったという。彼に会ったとき二十代だったわたしも、もう八十を越している。してみると、当時の金鼎富よりも十年ほど年をとっていることになる。八十代ともなってみると、遊撃隊の密営での彼の辛苦がわがことのように、いっそう身にしみて思いやられる。老人のもてなしには誠意をつくしたつもりだが、いたらぬところも多かったと思う。彼をもっと暖かく十分にもてなせなかったことが、いまも心残りである。わたしは金鼎富その人のために墓も移してやれず、墓碑さえも立ててやれなかった。

    思えば、はじめて白頭山に進出したとき、部隊はきわめて困難な状況にあった。金も食糧もなければ布地もなにもなかった。それを金鼎富がいろいろと求めてくれた。それは独立運動の先輩としての朝鮮の真の息子、娘たちへの一世一代の贈物であった。わたしはその恩を忘れることができない。金鼎富のような有産者、大地主が発揮した良心と愛国的美挙―― それは日本帝国主義にたいする全人民的抗争の準備を促すうえで無視できない貢献となり、われわれの偉業にたいする力強い支援となった。一九二〇年代とは違って武力抗争が反日民族解放闘争の主流をなしていた一九三〇年代に、地主や資本家がわれわれを物質的・財政的に、精神的に援助するというのは、命がけの冒険といえた。しかし金鼎富はそれを果たしたのである。これが金鼎富を愛国者とみなす根拠であり、数十年の歳月が過ぎたいまでも彼を忘れられない理由である。

    わが国の南半部にはいまなお地主、資本家がいる。そのなかには億台の有産者もいるという。反動的な有産者もいるだろうが、愛国的な有産者も少なくないであろう。統一された連邦国家での地主、資本家にたいする朝鮮共産主義者の立場と態度はどのようなものか。この問いにたいする解答を求めようとするなら、愛国地主金鼎富についての話を聞くだけで十分であろう。

    

    

    

       第十四章 長白の人びと

    

                   (一九三六年九月~一九三六年十二月)

    

      1 西 間 島

    

    

    白頭山の東部に位置する豆満江北方の各県は、以前から間島または北間島と呼ばれてきた。白頭山西部の鴨緑江以北の地域は俗に西間島と言われていた。西間島は、一九三〇年代の後半期における朝鮮人民革命軍の活動と直結している由緒深い地域である。ここでいう白頭山根拠地とは、ほかならぬ白頭山を中心とする西間島と国内の広大な地域を意味する。西間島の広大な地域は、朝鮮人民革命軍が国内に設置した白頭密営とともに、白頭山根拠地のなかで重要な位置を占めている。したがって中国