回顧録「世紀とともに」第1巻

     はじめに

    

    

    

     およそ、人生の晩年にいたって自己の一生を回顧するのは、じつに感慨深いことである。歩んだ道が違い、見聞きして感じた生活体験が千差万別であるからして、人びとはそれぞれ異なった心境で過ぎ去った日々をたどるのである。わたしはいま、一人の平凡な人間として、近代以後の世界政治においてつねに際立った存在であった一つの国と人民に奉仕した政治家として、忘れえぬ追憶と旧懐の念にひたりながら、自分の一生をふりかえっている。民族受難の悲運にとざされた亡国の初期に生まれ、激動する内外情勢の渦中で人生の第一歩を踏み出したわたしは、幼いころから祖国と運命をともにし、同胞たちと喜怒哀楽を分かちあう道を歩みつづけて、いつしか傘寿を迎えることとなった。人類の生活に未曾有の大きな痕跡を印し、世界の政治地図に刮目すべき変化をもたらした20世紀とともに生きたわたしの一生は、そのままわが祖国と民族が歩んだ歴史の縮図である。もちろん、その道には喜びと成功ばかりあったわけではない。胸をえぐる悲しみや犠牲もあったし、きびしい紆余曲折や難関も多々あった。闘争の道には友人や同志も多かったが、逆に、前途をさえぎろうとする人も少なくなかった。

    愛国の魂は、10代のわたしをして吉林市街の敷石の上で排日の喊声をあげさせもすれば、敵の追跡をかわすきわどい地下闘争も体験させた。抗日の旗を高くかかげたわたしは、白頭の密林で夜露に濡れ、石に枕しながらもひたすら解放の日を信じ、風雪万里、血戦万里を切り開かなければならなかったし、数十数百倍の強敵を向こうにまわして孤軍奮闘しなければならなかった。そして解放はかちとったものの、分断された祖国の運命を救うために幾度も夜を明かし、人民の国をうち立て、それを守る日々にもまた、筆舌につくしがたい災難と不幸に耐えなければならなかった。しかしわたしは、この道で一度も退いたり、たじろいだことはなかった。波瀾万丈の人生行路において、わたしが舵を誤らず、力強く生きてたたかってこられたのは、ひとえに同志と人民がわたしに心からの信頼をよせ、援助してくれたおかげである。

    「以民為天」――人民を天のごとくみなす、というのがわたしの持論であり、座右の銘でもあった。人民大衆を革命と建設の主人として信頼し、その力に依拠するというチュチェの原理こそ、わたしがもっとも崇敬する政治的信仰であり、まさにそれがわたしをして、一生を人民のためにつくさせた生活の本質であった。

    早くから両親を失ったわたしは、幼いときから同志たちの愛と期待のなかで生きぬいてきた。わたしは数千数万の同志とともに闘争の血路を開き、そのなかで生死をともにする同志と組織の貴さを骨身にしみて体得した。

    まだ祖国の解放が期しがたかった1920年代、樺甸の丘でわたしを信頼し、行動をともにしてくれた「ㅌ(トゥ)・ㄷ(ドゥ)(打倒帝国主義同盟)」の最初の同志たちをはじめ、敵の銃弾をわが胸で防ぎ、われわれに代わり莞爾として断頭台に立ったあの忘れえぬ同志たちが、解放された祖国に帰ることもできず、異国の山河で貴い英霊となって永眠している。 闘争の出発点は異なっても、最後はわれわれと同じ道を歩んだ多くの愛国志士たちも、いまはすでにわれわれのそばにいない。

    われわれの革命が勝利のうちに前進し、わが祖国が繁栄して万民がその最盛期を謳歌しているのを見るにつけ、まさにこの日のために一身を鴻毛のごとく投げ出した同志たちへの思いがつのり、忘れえぬその姿がまざまざと脳裏によみがえって眠れぬ夜が少なくない。

    もともと、わたしは回顧録を書こうとは思わなかった。しかし外国の名望の高い政治家や著名な文人をはじめ多くの友人が、わたしの一生が人びとに貴重な教訓を与えるであろうといい、しきりに回顧録の執筆を勧めた。だが、わたしはそれを急がなかった。

    しかし、いまは 金正日 組織担当書記がわたしの仕事をかなり引き受けてくれているので、ある程度時間のゆとりが生まれた。世代が交替し、年老いた革命家も一人、二人とこの世を去り、新しく育った世代が朝鮮革命の重鎮となった。その彼らに、民族とともに生涯をすごしながら体験した事柄や、今日のために烈士たちがどのように自己の青春をささげたかを知らせるのが、わたしの義務ではなかろうかとも考えた。そこで暇を見つけては少しずつ書き記すようになったのである。

    わたしは、自分の一生が決して人並みはずれた特別なものだとは思っていない。ただ、ひたすら祖国と民族のためにささげた一生であり、人民とともに歩んだ一生であったと自負することで満足するのみである。わたしはこの回顧録が、人民を信頼し、人民に依拠するときは天下を得て百戦百勝するが、人民をないがしろにし、彼らに見捨てられたときは百戦百敗するという真理、生と闘争の教訓を後世に残すことになれば幸いである。先に逝った烈士たちの冥福を祈りつつ         

    1992年 4月  妙香山にて

    

    

    目次

    

    

    

    

    

    第1章  悲運にとざされた国

    

    

    1 わたしの家庭

    

    2 父と朝鮮国民会

    

    3 独立万歳のこだま

    

    4 他郷から他郷へ

    

    5 『鴨緑江の歌』

    

    6 わたしの母

    

    7 遺 産

    

    

    

    

    

    第2章  忘れえぬ樺甸

    

    

    1 華成義塾

    

    2 幻 滅

    

    3 打倒帝国主義同盟

    

    4 新しい活動舞台にあこがれて

    

    5 独立軍の女傑李寛麟

    

    

    

    

    第3章 吉林時代

    

    

    1 先進思想の探求

    

    2 尚鉞先生

    

    3 朝鮮共産主義青年同盟

    

    4 組織の拡大をはかって

    

    5 団結の示威

    

    6 安昌浩の時局大講演

    

    7 3府統合

    

    8 車光秀が求めた道

    

    9 旺清門の教訓

    

    10 鉄格子の中で

    

    

    第1章 悲運にとざされた国

    

    1        わたしの家庭

    

    2 父と朝鮮国民会

    

    3 独立万歳のこだま

    

    4 他郷から他郷へ

    

    5 『鴨緑江の歌』

    

    6 わたしの母

    

    7 遺 産

    

    

               時期 1912年4月~1926年6月

    

    

    1 わたしの家庭

    

    わたしの生涯は、朝鮮の近代史において民族受難のもっとも暗い悲劇が折り重なった1910年代にはじまった。わたしの出生前、朝鮮はすでに日本の独占的な植民地となっていた。皇帝の統治権は「韓日併合」条約によってすべて日本の天皇の手に渡り、この国の人民は「総督制令」によって操られる近代版奴隷の境遇に転落した。悠久な歴史と豊かな天然資源、うるわしい山河を誇るこの国土は、日本製の軍靴と大砲の車輪に踏みにじられた。民衆は国権を奪われた悲しみと憤怒に歯ぎしりした。「是日也放声大哭」の余韻が残っていたこの地の山野や屋根の下では、多くの忠臣と儒生が亡国の恨みにたえかね自決して果てた。名もない賎民も破滅に瀕した国運を痛嘆し、屈辱的な「韓日併合」に死をもってこたえた。朝鮮には、警官や一般文官はもとより、普通学校の教師まで金モールの洋服に制帽をかぶり、腰に刀を下げて歩く野蛮な憲兵・警察制度がうちたてられた。天皇の勅令にもとづいて、総督は朝鮮で陸海軍の統帥権をはじめ、朝鮮民族の耳と口を塞ぎ、手足を縛る無制限な権限を握った。朝鮮人が結成したあらゆる政治団体や学術団体は解散させられた。

    朝鮮の愛国者は留置場や監獄で、鉛のついた牛皮の鞭で打たれた。徳川幕府時代の拷問のやり方をそっくり受け継いだ刑吏は、焼き火箸を情け容赦なく朝鮮人の体に突きつけた。

    連発される「総督制令」によって、朝鮮人の白衣にまで墨が振りかけられた。玄海灘を渡ってきた日本の財閥は、「会社令」や調査令などの法令を盾に、祖国のおびただしい宝玉財貨を運び出した。わたしはこれまで世界各地をまわり、かつての植民地国を少なからず見てきたが、他民族の言語や姓氏まで奪い、食器まで持ち去るそのようなあくどい帝国主義は見たことがない。

    当時の朝鮮は文字通り生き地獄だった。朝鮮人は生命はあっても死人も同然だった。「…日本はすべての新たな発明と純然たるアジア流の拷問とを結びつけた前代未聞の野獣性をもって朝鮮を略奪しており、それをひきつづき略奪するためにたたかうであろう」と述べたレーニンの指摘は、きわめて妥当で的を射ているといえよう。

    わたしの成長したころは、他の大陸でも帝国主義者が植民地の再分割をねらって熾烈な角逐をくりひろげている時期だった。わたしの生まれた年にも世界の各地域で複雑な事件があいついで起きていた。その年、アメリカ海兵隊がホンジュラスに上陸した。フランスはモロッコを保護国に変え、イタリアはトルコのロードス島を占領している。

    国内では「土地調査令」が発布されて民心を動揺させた。

    一言でいって、わたしは殺伐とした動乱の時代に生まれ、恵まれない幼年時代を送ったのである。このような時代相はわたしの成長に影響をおよぼさざるをえなかった。

    わたしは父から、わが国の亡国の歴史を聞かされて封建支配層を恨むようになり、血涙をしぼって、国の自主権を取りもどすために一生をささげようと決心した。

    他国の人は軍艦や汽車に乗って世界を巡り歩いているというのに、わが国の封建支配層は冠をつけてロバにまたがり、風流韻事にふけって数百年の歳月を空しく送った。そのうち東西の侵略勢力が艦隊を送りこんで脅かすと、あれほど頑固に閉ざしていた鎖国の門を開いた。こうして封建王朝は外部勢力が思うままに操る利権争奪の取り引き場と化してしまった。

    歴代にわたって事大主義に陥っていた腐敗した無能な封建支配層は、国運が滅亡の危機に陥ったときにも大国に操られながら党争に明け暮れていた。そのため、きょう親日派が勢力を得れば日本軍が王宮を守り、あした親露派が権力を握ればロシア軍が王を護衛し、あさって親露派が勢力を得れば清国軍が宮殿の警護にあたるという有様であった。

    こうして一国の王妃が宮殿の中で外国テロ団の凶刃に倒れ(1895年「乙未事変」)、国王が外国公使館に一年ものあいだ抑留されたかと思えば(1896年「俄館播遷」)、国王の父が外国に拉致されて流配の憂き目にあっても、逆に謝罪しなければならない体たらくだった。王宮の護衛までも外国の軍隊にまかせたのだから、いったいこの国は誰が守るというのだろうか。

    広大無辺のこの世界で、家庭は一つの小さな水滴のような存在にすぎない。しかし、その水滴も世界の一部分であり、世界を離れては存在しえない。朝鮮を亡国の悲運に陥れた近代史の波は、わたしの家庭にも容赦なく押し寄せた。しかし、わたしの家族はその脅威に屈しなかったし、民族とともに喜びと悲しみを分かち、嵐の中にためらいなく身を投じたのである。

    わたしの家門は、金継祥の代に生活の道を求めて全羅北道全州から北にやってきたという。

    万景台に定住するようになったのは曽祖父(金膺禹)の代からである。曽祖父は平壌の中城里に生まれ、小さいときから農業に従事したが、暮らしが立たないので平壌に住む地主李平沢の墓所を管理することにして墓守りの家を一軒世話してもらい、1860年代に万景台に移った。

    万景台はじつに美しいところである。わたしの家のそばにある山を南山というが、その頂に登って大同江を見下ろすと、あたかも一幅の絵を見るような思いがする。他所の財産家や官吏が先を争って万景台一帯の山を買い取り、先祖の墓地として使ったのも、この一帯がきわめて秀麗であったからである。万景台には平安監司の墓所もあった。

    わたしの家は先祖代々小作農だったので、生活がたいへん苦しかった。それに、3代にわたって独り息子がつづいた家門に、祖父(金輔鉉)の代になって男女6人の兄弟が生まれ、10人近い大家族になった。

    祖父はなんとか子や孫を養おうとわき目もふらずに働いた。他人がまだ起き上がらない早朝から村じゅうを歩いて肥やしを集めた。夜は灯火の下で縄をない、わらじをつくり、むしろを編んだ。

     祖母(李宝益)も夜ごと糸をつむいだ。母(康盤石)は叔母たち(玄養信、金九日女、金亨実、金亨福)と一緒に昼は終日畑で草取りをし、夜は木綿を織った。

    叔父(金亨禄)は、家計が苦しいので、九つのときに「千字文」を少し教わっただけで学校には上がれず、幼いときから祖父を手助けして野良仕事をした。

    家じゅうの者が骨身を惜しまず働いたが、かゆも満足にすすれなかった。モロコシを殻ごと臼でひいて炊いたかゆを食べたが、喉につかえて食べづらかったことがいまも忘れられない。

    だから、果物や肉類などにはとても手が届かなかった。ある日、わたしの首にホワギ(風土病の一つ)ができて、祖母がどこからか豚肉を手に入れてきた。その豚肉を食べるとホワギがきれいに治った。そんなことがあってから、わたしは肉が食べたいときは、ホワギにかかったらよいのにと思ったものである。

    わたしが万景台で幼年時代をすごしたとき、祖母は家に時計がないのをいつも嘆いていた。祖母は物欲のない人だったが、他人の家の柱時計だけはたいへんうらやましがった。近所に柱時計のある家が一軒あった。

    祖母がその家の柱時計をうらやんだのは、父が崇実中学校に通いはじめたときからだという。家に時計がないので、祖母はいつもうたた寝をしては朝早く目をさまし、およその時間をはかっては急いでご飯を炊いた。万景台から崇実中学校までは12キロもあるので、早くから炊かないと遅刻するおそれがあったのである。

    ときには、夜中にご飯を炊きながらも、登校時間かどうかわからないので、何時間も眠れずに台所で東の窓ばかり眺めているようなこともあった。そんな日には、祖母が母に「隣へ行って何時か見てきておくれ」と頼んだりした。

    隣家へ行っても母は主人を起こすのがはばかられて、庭に入らず垣根の外にうずくまって、時計が時間を告げるのを待った。そして、その音を聞くと家へ帰って祖母に時間を告げたものだった。

    わたしが八道溝から故郷に帰ったとき、叔母が父の安否をたずねたあと、そんな話を聞かせてくれたのである。そして、お父さんは遠い道を通学して苦労したけれど、成柱はチルゴルのお母さんの実家に行くことになったそうだから、学校が近くていいわね、というのだった。わたしの家では、解放の日まで、祖母があんなにうらやましがっていた柱時計をついに買えずじまいだった。

    わたしの家族はかゆをすすり、貧しく暮らしてはいたが、身内や隣人を助ける心が厚かった。

    「金はなくても生きられるが、人徳がなければ生きていけないものだ」

    祖父はつねに、子どもたちをこう諭した。これがわが家の哲学でもあった。

    父は新しいものに敏感で、向学心が強かった。書堂(漢文を教える私塾)で「千字文」を教わったが、いつも正規の学校へ通いたがったという。

    「ハーグ密使事件」があった年の夏、スルメ村では順和、楸子、チルゴル、新興の四つの学校の子どもたちが集まって連合運動会を開いた。父はその日、順和学校の選手として出場し、鉄棒、相撲、競走など多くの種目で優勝した。ところが、高跳びでは1位を他校の選手に取られてしまった。長く編んで垂らした髪がバーにからんでミスをしたためである。

    運動会が終わると、父は学校の裏山に登り、長く垂らした髪を切り落としてしまった。数百年来の古い因習に逆らい、親の許しを得ずに断髪をするというのは、当時としてはたいへんなことだった。

    祖父は、とんでもないことをした、と怒った。元来わたしの家族は剛直なところがあった。

    その日、父は祖父がこわくて家に入れず、垣根の外にたたずんでいたが、曽祖母が裏戸から連れこんでご飯を食べさせたという。曽祖母は長孫の父を格別かわいがった。父は、自分が崇実中学校へ入れたのも曽祖母のおかげだった、と折にふれて話したものである。曽祖母が祖父(金輔鉉)を説き伏せて、父を新式の学校へ上げてくれたという。封建色の濃かった当時、祖父の世代は新式学校をあまり喜ばなかったのである。

    父が崇実中学校に入学したのは、国が滅んだ翌年(1911年)の春だった。当時は開化の初期で、両班(李朝時代の特権階級)のなかにも学校へ通う者はいくらもいなかった。わたしたちのようにひき割りがゆさえ満足に食べられない家で、子どもたちを中学校へ上げるというのはたいへん力に余ることだった。

    当時、崇実中学校の月謝は2円だったという。その2円をかせぐために、母は順和江でシジミを取って売った。祖父はマクワウリを植え、祖母は夏大根を栽培し、15歳の叔父も兄の学費の足しにするのだとわらじを編んだ。

    父自身も学費をかせごうと、放課後、学校当局の経営する実習場で日暮れどきまで骨の折れる労働をした。それから学校の図書館で何時間か本を読み、夜遅くなって家へ帰っては、何時間かうたた寝をした。

    このようにわが家はその当時、朝鮮のどの農村や村里でもざらに見られる素朴で平凡な家庭だった。他人よりもこれといって目立ったところがなく、特別な点もない貧しい家庭だった。しかし、祖国と同胞のためとあれば、惜しみなく身を投げ出した。

    曽祖父は墓守りだったが、国と郷土を熱烈に愛した人である。

    アメリカの侵略船シャーマン号が大同江をさかのぼって豆老島に停泊していたとき、曽祖父は村人たちと一緒に家々から綱を集め、それを川向こうの乫遊島と万景峰のあいだに幾重にも張り渡した。そして石をころがして海賊船の航路をさえぎった。

    シャーマン号が羊角島近くまで侵入し、大砲や銃を発射して市民を殺害し、財物を略奪し、婦女子に暴行を働いているといううわさを聞いた曽祖父は、村人を引き連れて急ぎ平壌城に駆けつけた。そのとき、城内の人たちは官軍に協力して柴を満載した小舟を何隻もつなぎあわせて火をつけ、シャーマン号に向けて流した。そして船もろとも海賊を残らず沈めてしまった。曽祖父はそのときも大きな役割を果たしたという。

    シャーマン号の撃沈後、アメリカ帝国主義侵略者はまたもシナンドアー号に乗りこんで大同江の河口に侵入し、殺人、放火、略奪を働いた。万景台の人びとはシナンドアー号が侵入したときも義兵を組織し、こぞって祖国防衛に立ち上がった。

    祖父はつねづね「男子は戦場で死ねば本望だ」といって家族みなが祖国につくすよう教え、子や孫をためらいなく革命闘争の道に立たせた。

    祖母も、子どもたちに剛直に生きるよう教え諭した。

    あるとき、日本人がわたしを「帰順」させてみようと、真冬に祖母を連れ出して満州の山野を引きまわし、さんざん苦労させたことがあった。しかし祖母はいつも彼らを下僕のように叱りとばし、革命家の母、革命家の祖母に恥じぬりっぱな行動をした。

    外祖父(康敦煜)は郷里の村に私立学校を設立し、一生を次代の教育と独立運動にささげた熱烈な愛国者、教育者であり、外伯父(康晋錫)も早くから独立運動に参加した愛国者であった。

    父はわたしの愛国心をはぐくむために、幼いころからわたしをたゆみなく教育し、そのような志向と念願をこめて、わたしの名前を国の柱になれと「成柱」とつけたのである。

    父は崇実中学校に通っていたころ、2人の弟と一緒に、家のまわりに自分たち3人兄弟を象徴して3本のドロの木を植えた。当時は万景台にドロの木がなかった。父はその日、2人の弟に、ドロの木は早く育つ木だ、ぼくたちもそのように丈夫に育って国を独立させ、幸せに暮らしてみようといった。

    その後、父は革命運動に従事するために万景台をあとにし、ついで叔父(金亨権)もたたかいの道に立った。

    万景台の生家には亨禄叔父一人が残ったが、ドロの木は3本とも大きく育った。ところが、その木の影が境界を越えて、地主の畑にまで伸びるほどになった。地主は畑に影がさしては収穫が落ちるといって、そのドロの木を無残に切り倒してしまった。それでも抗議一つできない非道な世の中であった。

    国の解放後、家へ帰ったわたしはその話を聞くと、亡き父の清らかな夢が思い出され、くやしくてならなかった。くやしいことはそればかりでなかった。

    生家の前には、わたしが幼いころ友達と一緒に登って遊んだ数本のヤチダモの木があった。20年ぶりに帰ってみると、家の近くにあった木が見あたらなかった。

    祖父はわたしに、亨禄叔父が切ってしまったといった。訳を聞くと、そこにも言うに言われぬ事情があった。

    わたしが山でたたかっていたとき、警官たちはわたしの家族にしつこく迫害を加えたという。

    わたしの家を監視するために、大平駐在所の巡査が交代で見張りをした。大平と万景台は少し離れていたので、夏場になるとそのヤチダモの木陰は彼らの出張所のようになった。彼らは木陰に居座って、暇つぶしに村人たちを呼び出しては尋問をしたり、扇子で風を入れたり、昼寝をしたりした。ときには鶏をつぶして酒を飲んだり、祖父や亨禄叔父に乱暴を働いたりした。

    ある日、あんなに温厚だった叔父が斧を持ち出して一気にその木を切り倒してしまったが、祖父は止める気にもなれなかったという。

    「家がすっかり焼けても、南京虫の焼け死ぬのを見ると気が晴れる、というじゃないか」

    そんな祖父の言葉に、わたしは苦笑してしまった。

    子や孫が革命運動をしていたので、祖父母はたいへん苦労した。 しかし、祖父母はきびしい試練と迫害にもひるまず、節義を守ってりっぱにたたかった。日本帝国主義者はその末期に「創氏改名」を強制したが、祖父母はそれにも応じなかった。わたしの郷里で、姓名を日本式に変えずに最後までがんばったのはわたしの家だけである。

    その他の人たちはみな姓を変えた。姓を変えなければ、都市では日本の官庁が食糧の配給をくれないので、生きていくのがむずかしかった。

    亨禄叔父は、「創氏改名」に応じないというので何度もなぐられ、 駐在所にもしばしば呼び出された。

    巡査が「きょうから、おまえは金亨禄じゃない。貴様の名はなんじゃ?」とたずねると、叔父は「金亨禄です」と答えた。すると巡査はとびかかって、びんたを張った。

    「もう一度いってみろ。貴様の名はなんじゃ?」とまた聞かれても、叔父は同じように「金亨禄です」と答えた。

    巡査はもっと強くびんたを張った。「金亨禄」と答えるごとに頬にこぶしがとんできたが、叔父は最後までがんばった。

    祖父は叔父に、名前を日本式に直さなかったのはほんとうによかった、成柱が日帝と戦っているのに、おまえが名前を変えたらどうなる、なぐり殺されても名前を日本式に変えてはいけない、といった。祖父母に別れを告げて故郷をあとにするときはみな国を解放して帰ると誓って、元気いっぱいわが家のしおり戸を出た。しかし、そのうち祖国に帰ったのはわたし一人だけである。

    一生を独立運動にささげた父は、他郷で31歳を一期にこの世を去った。男の31歳は働き盛りである。葬儀が終わったあと、郷里からやってきた祖母が、撫松の陽地村の父の墓前で声をあげて泣いていた姿が、いまもありありと目に浮かぶ。

    6年後にはまた、母が安図で独立の日を見ずに世を去ってしまった。母が亡くなったあと、遊撃隊に入隊し銃を取って戦った弟の哲柱も戦死した。戦場で死んだので、弟の遺体は引き取る術もなかった。

    数年後には、長期刑を宣告され麻浦刑務所に入獄していた亨権叔父が、残忍な拷問がたたって獄死している。わたしの家では遺体を引き取るようにという通知をうけたが、金がなくて引き取りに行けなかった。それで叔父の遺体は麻浦刑務所の共同墓地に葬られた。

    もともと健康な子や孫が20年のあいだに、みなこのように他郷のあちこちで一握りの土と化したのである。

    解放後、帰郷したとき、祖母はしおり戸の外でわたしを抱きしめ、「父さんや母さんをどこへ残して一人で帰ってきたんだい…どうして一緒に帰れなかったんだい」といってわたしの胸をたたいた。

    祖母の胸がそれほど痛んだのに、はるか他郷に親の遺骸をさびしく葬ったまま、一人で生家のしおり戸をくぐらなければならなかったわたしの気持は、どう表現できようか。

    わたしはそれ以来、他家のしおり戸をくぐるたびに、このしおり戸を出て帰った人は何人で、帰れなかった人は何人だろうかと思うようになった。この国のすべてのしおり戸には、涙にぬれた離別のいわれがあり、生きて帰れなかった肉親にたいするこみあげる懐かしさと、胸痛む喪失の苦しみがまつわりついているのである。

    この地の数千数万の父や母、兄弟姉妹が祖国解放の祭壇に生命をささげた。わが民族が、血と涙と溜息の海を渡り、砲煙弾雨をくぐって祖国を取りもどすまでには、36年もの長い歳月を要した。それは、まりにも高価な代償を支払わされた血戦の36年であった。しかし、そのような血戦と犠牲がなかったとしたら、果たして今日の祖国が想像できたであろうか。われわれの生きるこの世紀は、いまなお恥ずべき奴隷生活がつづく不幸な苦しい世紀となっていたであろう。

    わたしの祖父母は一生野良仕事しか知らずに生きた田舎の年寄りだったが、正直にいって、わたしは彼らの不屈の革命精神に感服し、大いに励まされたのである。

    口でいうのはやさしいが、子どもを育ててみな革命の道へ送り出し、その後にふりかかる苦痛と試練に黙々とたえ、子や孫の後押しをするのは、一度や二度戦闘に参加したり、数年間獄中生活をすることよりもはるかにむずかしいことだと思う。

    わたしの一家のそうした不幸や苦痛は、国を失ったわが民族がなめた不幸と苦痛の縮図にすぎない。数十数百万の朝鮮人が日帝の悪政のもとで飢え死に、凍え死に、焼け死に、なぐり殺された。

    国が滅びれば、山河も人間も決して安らかでありえない。滅んだ国の屋根の下では、国を売り渡した代価としてぜいたく三昧に暮らす売国奴も安らかに眠れないものだ。人間は生きていても喪家の狗にも劣り、山河は境界が残っていても本来の姿を保つのがむずかしいのである。

    このような道理を先に悟った人を先覚者といい、臥薪嘗胆して国に垂れこめた暗雲を払おうと努める人を愛国者といい、おのれの体を燃やして真理を明らかにし、万民を奮い起こして不正義の世の中をくつがえす人を革命家という。

    わたしの父は朝鮮民族解放運動の先駆者の一人であり、1894年7月10日に万景台に生まれ、1926年6月5日、亡国の深夜に恨みをいだいて死去するまで、一生を革命にささげた。

    わたしは父金亨稷の長男として、国が滅んだ2年後の壬子年(1912年)4月15日に万景台で生まれた。

    

    

    2 父と朝鮮国民会

    

    

    父は生涯「志遠」を座右の銘にしていた。

    家庭はもちろん、順和学校や明新学校など、いたるところに「志遠」の2字を大きく筆で書いて貼り出していた。

    いまでも父の筆跡がいくらか残っているが、父は筆字が上手だった。 当時は書道がもてはやされて、名士や名筆の書を手に入れ、掛け軸や額にしたり屏風をつくったりしては自慢にした。わたしもまだ物心がつかないときは、父のそれをそのような一般的な書だと思っていた。父はそれに表具もせずに、よく目のつくところに貼った。

    わたしが物心がつくと、父はわたしに国を愛するよう教え、国を愛するためには大志をいだかなければならないと語った。

    「志遠」とは文字通り、遠大な志をいだけということである。

    父親がわが子に遠大な志をいだけと教えたからといって、何も不思議なことはない。何事であれ、高い理想と抱負をいだき、ねばり強く努力しなければ成功はおぼつかないものだ。

    しかし「志遠」の思想は、個人の栄達や身を立てて名をあげることをめざした世俗的な人生訓ではない。それは祖国と民族のためにたたかうことに真の生きがいと幸福を求める革命的人生観であり、代をついでたたかっても必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神である。

    父はなぜ大志をいだかなければならないのかということについて、多くのことを語ってくれた。それを一言で表現すると、朝鮮人民の反日闘争史といえた。

    …朝鮮はもともと強大な国だった。武芸が発達して戦いに敗れたことがほとんどなく、早くから文化が開けて、その光が海を渡って日本にもおよんだ。ところが李朝500年の腐敗した政治のために、それほど栄えた国が一朝にして滅んでしまった。

    おまえがまだ生まれていなかったとき、日本人は銃剣でわが国を占領してしまった。日本に国権を売り渡した逆臣を「乙巳五賊」といっている。しかし、逆臣たちも朝鮮の魂だけは売り渡せなかった。

     義兵は槍を取って「倭滅復国」を絶叫した。独立軍はわが国を侵略した敵を火縄銃で撃ち倒した。ときには各地で蜂起した人民が万歳を叫び、石つぶてで敵を倒し、人びとはみな大声で人類の良心と世界の正義に訴えた。

    対馬に捕われていった崔益鉉は敵の与える食べ物を拒んで食を断ち、国に殉じた。李儁は帝国主義列強の代表たちの面前で割腹してわが民族の真の独立精神を見せた。安重根はハルビン駅頭で伊藤博文を射殺して独立万歳を叫び、朝鮮人の気概を示した。

    還暦がすぎた姜宇奎老は斎藤総督に爆弾を投げた。そして李在明は、亡国の恨みを晴らそうと李完用を刺している。

    閔泳煥、李範晋、洪範植らの愛国忠臣は、国権守護を訴えて自決した。

    いっとき朝鮮民族は国債補償運動という涙ぐましい運動までくりひろげた。国債というのは日露戦争後、日本から借りた1,300万円の借金のことだ。この借金を返済するため全国の男子がタバコをやめた。高宗皇帝までが禁煙してその運動に合流した。女性たちはおかず代を切りつめ、装身具類を拠出した。結納品を差し出す娘もいた。財産家の童僕や針女、餅売り、もやし売り、わらじ売りたちも国の負債を返すのだと、汗のしみた小銭を惜しみなく差し出した。

    しかし、わが国は独立を保つことができなかった。

    要は、全国の人民を国を取りもどそうという一つの心に結びつけて奮起させ、敵を撃ち退ける力を養うことだ。決心さえすれば力を養うことができ、力を養えば強敵もゆうに退けることができる。

    全国の人民を覚醒させ、決起させてこそ、国権を回復することができるのだが、それは短時日では成就できない。だから遠大な志をいだかなければならないのだ…

    父はわたしの手を取って万景峰に登るようになってから、しばしばこんな話をしてくれた。父の教えは愛国主義思想につらぬかれていた。いつだったか、父は祖父母の前でこんなことをいったことがある。

    「国の独立をかちとれないようでは、生きていてもなんにもなりません。わたしは体が引き裂かれて粉になろうとも、日本人とたたかって勝たなければなりません。わたしがたたかいに倒れたら息子がやり、息子がたたかって果たせなかったら孫がたたかってでも、わたしたちは必ず国の独立をなしとげなければならないのです」

    後日、3、4年あればけりがつくと思った抗日武装闘争が長期戦に移行したときに、わたしは父の言葉を想起したし、解放後、北と南に分断されて相反する道を歩むようになった民族分裂の長年の悲劇を体験しながら、その言葉にこもる深い意味にあらためて粛然とならざるをえなかった。

    その言葉は、父のいだいていた「志遠」の思想と信念、祖国解放の思想と志向であったといえる。

    あれほど暮らしが苦しかったとき、父がなみなみならぬ決心をいだいて崇実中学校に入学したのも、「志遠」の志を成就するためだった。

    甲午(1894年)改革後、乙巳(1905年)条約が締結されるまでの10年余は、内政改革の波に乗って、遅ればせながらわが国に近代的教育制度を樹立するための力が傾けられていた時期だった。新教育の烽火をかかげてソウルで培材学堂、梨花学堂、育英公院という学校が設立され、西洋の新しい文物を教えていたころ、アメリカ宣教師が伝道活動の一環として西朝鮮地方に建てたのが崇実中学校である。

    崇実中学校は全国から生徒を募集した。新学問を志向する多くの青年がこの学校を志望した。歴史、代数、幾何、物理、衛生学、生理学、体育、音楽といった崇実中学校の近代的な課目は、国の後進性を克服し、新しい世界の潮流に足並みをそろえようと願う青年たちの関心を引きつけた。

    父も新学問を学ぶためにこの学校に通ったのだといっていた。4書5経など書堂で教える難解な古い学問は父の気に入らなかった。

    宣教師の教育目的とは裏腹に、崇実中学校は後日、独立運動線上で大きな役割を果たした著名な愛国人士を輩出した。上海臨時政府議政院初代副議長をへて議長を歴任した孫貞道もこの学校の出身であり、臨時政府末期の国務議員として活動した車利錫も同校の卒業生であり、すぐれた愛国詩人尹東柱も同校に通い中退した人である。

     康良煜先生も崇実学校の専門部に通った。当時はこの専門部を崇実専門学校と呼んでいた。崇実中学校は崇実学校付属の中等部である。 崇実学校から反日独立運動家が輩出したので、日本人はこの学校を排日思想の策源地だといった。

    「学問をしても朝鮮のために学び、技術を学んでも朝鮮のために学び、天を信じても朝鮮の天を信じるべきだ」

    父はこのような思想で学友を説き、愛国的な青年学生を結集した。 父の指導で崇実中学校には読書会と一心親睦会が組織された。これらの団体は学生たちを反日思想で教育するかたわら、平壌とその周辺一帯で積極的な大衆啓蒙活動をおこない、1912年12月には、校内で学校当局の非道な虐待と搾取に抗議して同盟休校を起こした。

    父は勉強をしながら学期末休暇には安州、江東、順安、義州など平安南北道と黄海道一帯をまわり、大衆の啓蒙と同志の獲得に努めた。父が崇実中学校在学中に得た最大の収穫は、生死をともにしうる同志を数多く獲得したことだといえる。

    崇実中学校の同窓生のなかには父と人間的に親しく付き合い、国と民族の運命について志を同じくする人が多かった。彼らは度量が大きく、識見が広く、人格がすぐれた人望の高い青年先覚者たちであった。

    それらの同窓生のうち、平壌の人としては李輔植がいる。彼は読書会にも一心親睦会にも関係し、後日、朝鮮国民会を組織するためにも大きく寄与し、3・1人民蜂起のさいも大きな役割を果たした。

    わたしたちが烽火里に住んでいたとき、彼は父に会いにしばしば明新学校へやってきた。

    平安北道出身の同窓生のうちでは、白世彬(白永茂)という枇峴の人が父と親しく付き合った。父が平安北道に行けば、彼が主に道案内をした。彼は朝鮮国民会の国外連絡員だった。1960年12月に南朝鮮で民族自主統一中央協議会が結成されたが、白世彬はその委員として活動したという。

    朴仁寛は崇実中学校時代に父と同じ寄宿舎にいた人である。入学当初、しばらくのあいだは父も寄宿舎にいた。

    1917年春、朴仁寛は黄海道殷栗で光宣学校の教師を勤め、朝鮮国民会に加入した。彼は松禾、載寧、海州などを巡りながら同志を糾合中、逮捕されて1年間海州監獄で苦労をした。彼が光宣学校の教師を勤めていたとき、子どもたちの書いた『半島とわれわれとの関係』という作文がいまも殷栗事績館に展示されている。その作文を読めば、朝鮮国民会の影響下にあった学校の生徒の思想動向や精神世界の一端をかいま見ることができる。

    独立運動家のうち、父ともっとも深く親交を結んでいた人は呉東振だった。

    彼がわたしの家にしばしば出入りしたのも、父が崇実中学校に通っていたころである。呉東振は当時、安昌浩が設立した平壌大成学校に通っていた。たんなる人情関係を越えた思想のうえでの交際だったので、2人の付き合いは最初からひたむきで、熱っぽかった。呉東振が父の思想にはじめて共鳴したのは、1910年の春、慶上谷の兵隊広場(李朝末期の兵営の前にあった練兵場)で開かれた運動会のときであったという。

    この運動会には平壌、博川、江西、永柔などから1万余の青年学生が参加した。

    父はその日、運動会が終わったあとの弁論大会で、わが国が文明国になるには日本の文明を受け入れるべきだという一部学生の主張に対抗して、わが国の近代化はわれわれの力で実現すべきだという趣旨の演説をし、聴衆の耳目を一身に集めた。その演説を聞いた聴衆のなかに、後日の正義府司令呉東振がいたのである。当時を回想するたびに呉東振は、「あの日の金先生の演説はわたしに大きな刺激を与えた」と感慨深く述懐したものだ。

    彼は1913年ごろから貿易商(卸売り商)というふれこみで、ソウル、平壌、新義州など国内の主要都市と中国を往来し、そのつど父を訪ねて独立運動の前途を語り合った。

    最初、わたしは呉東振をたんに善良な商人だとばかり思っていた。だが後日、八道溝と撫松に移ったときはじめて、彼がたいへんな独立運動家だということを知った。

    そのころ、松庵呉東振といえば知らない人がいないほど、彼は広く名を知られていた。財産やバックを見ると、困難な革命運動などしなくても暮らしていける人だったが、彼は銃を取って日帝と戦ったのである。

    呉東振はわたしの父をたいへん尊敬し、深い友情をいだいていた。 義州にある彼の家には多くの人が出入りした。それで離れはそっくり来客の宿所にあてていた。客があまりにも多いので、そこへ女中をおいて客をもてなした。しかし、わたしの父だけは離れではなく母屋に請じ入れ、彼の夫人が手ずから台所で食事をこしらえたという。

     あるとき、呉東振が夫人同伴でわたしの家を訪れたことがあった。そのとき祖母は、記念として真鍮の食器を彼らに贈った。

    わたしが呉東振のことをくわしく書くのは、彼が父の親友であり同志であったということもあるが、わたしの青年時代と深いかかわりがあったからである。わたしは幼いころから彼に格別な親しみを覚えていた。わたしが吉林で勉強していたころ、呉東振は日帝に逮捕された。ずっとあとになって、わたしが反日人民遊撃隊の組織をはかって間島一円をまわっていた1932年3月の初め、彼は新義州地方法院で裁判にかけられた。ガンジーの予審記録文書が2万5,000ページになると聞いて驚いたものだったが、呉東振のそれは、なんと3万5,000ページ、64冊にもなるという。

     裁判当日、数千人の傍聴者が法廷におしかけ、午前の開廷が予定されていた裁判は午後1時すぎになってやっと開かれた。呉東振は審理をいっさい拒否し、裁判長席に駆け上がって朝鮮独立万歳を叫び、法廷を揺がせた。

    狼狽した日本の裁判官はあわてて公判を中断し、被告が欠席した法廷で早々に判決を下した。上訴審で終身刑を言い渡されたが、呉東振はついに解放の日を迎えることができず獄死している。

    われわれが遊撃隊の組織に向けて困難なたたかいをくりひろげていたころ、彼の高潔な節操と闘志をうかがわせる公判の記事と、平壌監獄に護送される編み笠をかぶった彼の写真が新聞に載った。わたしはその写真を見て、呉東振の不屈の愛国心を感慨深く回顧したものである。

    このように、崇実中学校時代に父と親交を結んだ人たちは少なからず不屈の革命家に成長し、後日、朝鮮国民会の根幹となった。

    崇実中学校を中退したあとも、父は万景台の順和学校と江東の明新学校で教鞭をとり、次代の教育に力を入れる一方、同志を集めるために心血をそそいだ。父が崇実中学校を中退したのは、革命活動の舞台を広げ、本格的な闘争をおこなうためだったという。

    父は1916年に休暇を利用して間島に行ってきた。どういう線をたどったのかはわからないが、間島をへて上海に行き、孫文の国民革命派とも連係を結んだ。

    父は孫文を中国ブルジョア民主主義革命の先駆者として高く評価していた。父は、中国で男が弁髪を切り、毎週一日休む制度が実施されたのも、ブルジョア改革派が尽力した結果だといった。

    父はとくに、孫文が中国革命同盟会の綱領としてうちだした民族、民権、民生の三民主義と5・4運動の影響をうけて新たに提示した連ソ、容共、労農援助の3大政策を称賛し、彼を度量が大きく、意志が強く、先見の明がある革命家だと評価した。しかし、孫文が中華民国の建国後、共和政治制度の樹立と清国皇帝の退位を条件に、袁世凱に総統の地位を譲ったのは失策だったと指摘している。

    わたしは幼いころ、父が朝鮮のブルジョア改革運動について語るのもたびたび聞いた。父は金玉均が指導した甲申(1884年)政変が「三日天下」に終わったことをたいへん残念がり、開化党の革新政綱のうち、人権平等、門閥廃止、人材登用、清国にたいする従属関係の廃絶を暗示した独立思想などは、すべて進歩的なものだったと評価した。

    わたしは父の話を聞いて、金玉均をすぐれた人物だと思い、彼の改革運動が失敗しなかったなら、朝鮮の近代史が変わっていたのではなかろうかと思った。

    われわれが金玉均の改革運動と政綱の制約性に注意を向け、それを主体的な観点から分析したのはのちのことである。われわれに朝鮮史を教えた先生は、ほとんどが金玉均を親日派と決めつけていた。解放後、わが国の学界でも長いあいだ、金玉均を親日派扱いした。彼が政変を準備するさい日本人の援助をうけたことが親日の証拠とされた。だが、わたしはそれを公正な評価とはみなかった。それでわたしは歴史学者に、もちろん金玉均の改革運動で人民大衆との連係に関心を払わなかったのは過ちである、しかし、日本の力に依拠したということで親日と評価しては虚無主義に陥る、彼が日本の力を利用したのは親日的な改革をするためではなく、当時の力関係を綿密に検討したうえで、それを開化党に有利に変えるためだった、当時としてはやむをえない戦術だった、と指摘した。父は、金玉均の政変が「三日天下」に終わった主因の一つは、改革派が人民の力を信じようとせず、もっぱら宮廷内部の勢力を頼りにしたためだとして、彼らの失敗から教訓を汲みとるべきだと語った。父が間島と上海に行ってきたのは、それまでうわさにしか聞けなかった海外独立運動の実態を確かめ、新しい同志を獲得して、今後の活動方針を立てるためだったと思う。世界的に見て、当時は植民地民族解放闘争にかんする問題があまり成熟していないときであった。それらの国での独立運動の方式や方法はまだ明らかでなかった。 父が間島と上海に行ったとき、中国革命は軍閥の蠢動と帝国主義列強の干渉によって一進一退の深刻な紆余曲折をへていた。中国革命でも基本的な障害はアメリカ、イギリス、日本などの外部勢力であった。このような事態にもかかわらず、海外に亡命した少なからぬ独立運動家は帝国主義者にたいする幻想にとらわれ、どの大国の力を借りるべきかといった空理空論にふけっていた。

    父は間島の実態を見て、朝鮮の独立は朝鮮人の力によって達成すべきであるという信念をいっそうかたくした。間島から帰った父は、大衆啓蒙と同志糾合のために寝食を忘れて奔走した。

    それは、わたしたちが万景台から江東郡烽火里に転居したあとからだった。父は万景台にいたころのように、昼は明新学校で教え、夜は夜学で大衆啓蒙活動をおこなうなどして、夜遅く帰宅した。

    わたしも父に原稿を書いてもらって、ある学芸会で反日演説をしたことがある。

    父はそのころ、革命的な詩や歌をたくさんつくって子どもたちに教えた。

    大勢の独立運動家が烽火里に父を訪ねた。父も同志たちを訪ねて、しばしば平安南北道や黄海道一帯をまわった。そんななかで中核が育成され、大衆的基盤がきずかれていった。

    このような準備にもとづいて、父は張日煥、裴敏洙、白世彬など愛国的な独立運動家とともに1917年3月23日、平壌学堂谷の李輔植の家で朝鮮国民会を結成した。朝鮮国民会に参加した青年闘士たちは指を切って、「朝鮮独立」「決死」と血書した。

    朝鮮国民会は、全朝鮮民族が一致団結して朝鮮人自身の力で国の独立を成就し、真の文明国家を樹立することを目的とする秘密結社で、3・1人民蜂起を前後した時期、朝鮮の愛国者たちが結成した国内外の組織のうちでもっとも規模の大きい反日地下革命組織の一つであった。

    1917年といえば、国内に秘密結社がほとんどないときである。「韓日併合」後に組織された独立義軍部や大韓光復団、朝鮮国権回復団のような団体は、日帝の弾圧にあって、そのころ残らず解散させられていた。地下運動をして発覚すれば容赦なくつかまる時期だったので、よほどの決心がなくては、そんな活動に参加することなど思いもよらないことだった。志のある人も国内ではどうしようもなく海外へ亡命し、あれこれの反日団体を結成する程度だった。そんな勇気もない人は朝鮮国内で総督府の許可をうけ、かれらの忌諱にふれない程度の消極的な活動をしていた。

    朝鮮国民会はそんなときに誕生したのである。朝鮮国民会は反帝・自主の立場に徹した革命組織であった。 朝鮮国民会の趣旨書は、将来欧米が東洋に勢力を扶植し、日本がそれと覇を争う時期が到来するのは必至である、その機会に朝鮮人自身の力で朝鮮独立の目的を達成するため、同志の結束をはかり、その準備を進めるべきである、としている。

    趣旨書を通してわかるように、朝鮮国民会は外部勢力に期待をかける人たちとは違って、朝鮮の独立は朝鮮人自身の力で成就すべきであるという自主的な立場をとっていた。

    朝鮮国民会は間島に同志を派遣して、当地を独立運動の策源地にする遠大な計画も立てた。

    朝鮮国民会の組織はきわめて緻密であった。朝鮮国民会には準備のできた点検ずみの愛国者だけを厳選して受け入れ、縦の組織体系をもち、会員相互のあいだでも暗号を使った。秘密文書も暗号で作成された。朝鮮国民会は毎年、崇実中学校の新学年度の最初の登校日に、定期的に会員の会合をもつことにした。朝鮮国民会は、その後組織された学校契、碑石契、郷土契といった合法的外郭団体でしっかり偽装した。そして傘下に各区域長をおき、海外人士との連係を保つため、北京と丹東に連絡員を配置した。

    朝鮮国民会は強固な大衆的基盤の上に立った組織であった。朝鮮国民会には労働者、農民、教師、学生、軍人(独立軍)、商人、宗教者、手工業者など各階層が参加し、その組織は国内はもとより中国の北京、上海、吉林、撫松、臨江、長白、柳河、寛甸、丹東、樺甸、興京など国外にも広く伸びていた。

    朝鮮国民会を結成し拡大する過程で、父は張鎬、康済河、康鎮乾、金時雨など多くの同志を獲得した。それら一人ひとりの同志を見つけるために傾けた父の労苦は筆舌につくしがたい。父は一人の同志を得るためには百里の道も遠しとしなかった。

    あるとき、呉東振が黄海道地方に行く道すがら、前触れもなくわたしの家に立ち寄って、父に会ったことがあった。その日、彼はいつもより晴ればれとした顔をしていた。呉東振は、りっぱな人を一人見つけたと自慢した。「孔栄といって碧潼の人だが、まだとても若いんだ。見識が高く、6尺の大男で美男子ときている。性格は重厚で、それに拳法までやるそうだから、昔だったら間違いなく兵曹判書(国防相に相当する)というところだ」

    彼の言葉に父も喜び、「昔から人材の功よりも人材推薦の功を高く評価するといわれているが、そうしてみると、今度の呉先生の碧潼旅行はわれわれの運動に大きな軌跡を印したわけだね」といった。 呉東振が帰ると、父は叔父にわらじをいくつかつくるようにといった。そして翌日、叔父のつくったわらじをはいて旅に出た。 父はひと月ほどして帰ってきた。どんなに遠い道を歩いたのか、わらじの緒がほとんどすり切れていた。それでも父は疲れた様子を見せず、笑顔でしおり戸を開けて入ってきた。父は孔栄という人に会えたので、たいへん満足していた。わたしは幼いころから、このように父から同志を愛し大事にすることを学んだのである。朝鮮国民会は「韓日併合」後の数年間、国内外で父がおこなった精力的な組織・宣伝活動の結実であった。父がこの組織を通して大規模な活動をくりひろげようと計画したのはたしかだった。

    ところが、国民会は日帝の過酷な弾圧をうけた。日帝が朝鮮国民会の存在を察知したのは1917年の秋だった。風のはげしいある日、3人の警官が不意に明新学校を襲って、授業中の父を有無をいわせず逮捕した。 麦田渡し場まで父を追っていった許氏が、渡し場で父からひそかに伝言をことづかり、母のもとへ駆けつけてきた。母は父にいわれたとおり、屋根へ上がって秘密文書を取り出し、かまどの焚き口に入れて焼却した。父が逮捕された翌日から、烽火里のキリスト教信者たちは朝早く明新学校に集まって父の釈放を祈った。平壌と江東一帯の人たちは平壌警察署におしかけて、父の釈放を要請する陳情書を提出した。 父が裁判をうけるという知らせを聞いて、万景台の祖父が亨禄叔父を警察署へ行かせた。裁判に弁護士を雇うべきかどうか父の意向をたずねるためだった。叔父が家産を売って弁護士を雇うつもりだというと、父は叔父の言葉をさえぎった。

    「弁護士も口でものをいい、わたしも口でものをいうのに、わざわざ金を出して弁護士を雇うことはない。なんの罪もない者に弁護などいらない」

    日帝は平壌地方法院で3回にわたって父の裁判をおこなった。そのつど父は、朝鮮人が自分の国を愛し、自分の国のためにしたことがなぜ罪になるのか、わたしは当局の不当な審理を認めることができない、と強く抗議した。

    それで裁判が長引いた。日帝は3回目の公判で強引に刑を言い渡した。

    父が逮捕されたあと、亨禄叔父がわたしたちを万景台に連れ帰ろうと、2番目の外伯父(康用錫)と一緒に烽火里にやってきた。

    しかし、母は烽火里で冬を越したいといった。母が万景台に帰らなかったのは、そこへ訪ねてくる朝鮮国民会の会員や反日運動家と連係を保ち、跡始末をするためである。

    母はすっかり跡始末をすませたあと、翌年の春、わたしたちを伴って万景台に帰った。祖父が外祖父と一緒に牛車を引いて烽火里に来て、引っ越し荷物を運んだ。その年の春と夏、わたしはたいへん憂うつにすごした。 幾晩寝たらお父さんが帰ってくるの、とわたしがたずねるたびに、母は「じきにお帰りになるわよ」といつも同じ返事をした。母はある日、わたしを万景峰のぶらんこ場へ連れていった。そして、わたしを抱いてぶらんこに腰をおろし、こういった。

    「ツンソニ、あの前の大同江の氷がすっかりとけ、木の葉が青くなってもお父さんは帰っていらっしゃらないのね。お父さんは国を取りもどすためにたたかったのに、それがなんの罪になるというの。おまえは早く大きくなって、お父さんの仇を討つんだよ…大きくなったら、きっと国を取りもどす英雄になるのよ」

    わたしは、きっとそうすると答えた。 その後、母はわたしに黙って何度も監獄に行ってきた。そして、帰ってからも監獄でのことはいっさい話さなかった。 あるとき母は、パルゴルに綿打ちに行こうといって、わたしの手を引いて城内に向かった。そしてチルゴルの実家に立ち寄って綿をあずけると、平壌監獄へ向かった。

    外祖母は、わたしをおいて一人で行くようにと何度も勧めた。物心のつかない子を連れて監獄に行くなんてとんでもない、ツンソニが鉄格子の中のお父さんを見たらどんなにびっくりするだろう、といって強く反対した。そのときわたしは六つだった。

    わたしは普通江の木橋を渡ったとたん、一目で監獄の建物をそれと見わけた。監獄の建物を教えてくれた人はいなかったが、建物の異様なたたずまいと周辺の殺風景な雰囲気を見て、あれが監獄だと一人で判断したのだった。

    監獄の外観は人の度肝を抜くほどいかめしく、恐ろしいものだった。鉄門、塀、望楼、鉄格子はもとより、警備員の黒ずくめの服装や目つきにも殺気と毒気がただよっていた。

    わたしたちが入った面会室は、日の射しこまない薄暗い部屋だった。部屋の空気は息づまるほどうっとうしく、よどんでいた。

    父はそんななかでも、いつものように笑っていた。わたしを見るとうれしそうに、よく連れてきてくれたと母にいった。

    囚衣を着た父はやつれていて、すぐには見わけがつかなかった。 顔、首、手、足と体じゅうにあざや傷がついていた。

    父はそんな体で、かえって家族の心配をした。父の毅然とした不屈の気概を見ると、くやしいなかにも、誇らしい気持を禁じえなかった。

    「大きくなったな。家に帰ったら大人のいいつけをよく守り、しっかり勉強するんだよ」 父は看守には目もくれず、泰然としてわたしにこういった。声も以前と変わりなかった。その言葉を聞いたとたん、涙がこみあげた。わたしは大きな声で「はい、お父さんも早く帰ってきてください」と答えた。父は満足げにうなずいた。それから母に向かって、筆売りや櫛売りが来たら面倒をみてやってほしいといった。それは革命同志を念頭においた言葉だった。わたしはその日、父の不屈の姿を見て、一生忘れられない感銘をうけた。その日の印象のうちもう一つ忘れられないのは、面会室で李寛麟に会ったことだ。彼女は平壌女子高等普通学校技芸科に通いながら朝鮮国民会の会員として活動していたのだが、幸いにも警察の魔手が彼女にはのびていなかった。

    李寛麟は朝鮮国民会の会員であるクラスメートと一緒に父に面会に来たのだった。封建色の濃かったそのころ、若い女が監獄、それも思想犯を訪ねるというのは並大抵のことでなかった。監獄に出入りしたと知られたら、嫁にも行けない世の中だった。そんなときに、モダンガールが思想犯に面会に来たので、看守も驚いて彼女に慎重な態度をとった。李寛麟は明るい表情で父と母を慰めた。

    そのとき監獄へ行って父に会ったのは、わたしにとっては一大事件だった。わたしを監獄に連れていった母の気持も理解できた。父の体の傷跡は、悪魔のような日本帝国主義の存在を肌で感じさせた。わたしは父の傷跡から、世界の多くの政治家や歴史家が日本帝国主義について分析し評価したよりもはるかに生なましい、たしかなイメージを得た。

    そのときまで、わたしは日本の軍隊や警察からそれほど乱暴をされたことがなかった。万景台に戸口調査や清潔検査に来た日本の警官が、言いがかりをつけて障子紙を鞭で突き破り、障子戸を釜にたたきつけて蓋を割ったりしたのは見たことはあったが、罪科のない人の体に負わせたそんなむごい傷は見たことがなかったのである。

    その傷跡は抗日革命闘争のあいだ、ずっとわたしの脳裏から離れなかった。そのときの面会でうけた衝撃はいまもわたしの心に大きな痕跡を残している。

    父は1918年秋、刑期を終えて出獄した。亨禄叔父が祖父と一緒に担架をかついで監獄に行き、村人たちは松山里から万景台におれる道の入口で父を待った。

    めった打ちにされて体じゅう傷だらけになっていた父は、かろうじて足を運び、監獄の門を出てきた。

    その姿を見た祖父は歯ぎしりし、父に、早く担架に乗るようにといった。

    しかし父は、「自分で歩いていきます。命があるかぎり、どうして敵の前で担架に乗っていけましょうか。それみよがしに自分の足で歩いていきます」といって、毅然と足を踏み出した。家に帰った父は、叔父たちを前に座らせてこう語った。

    「わたしは監獄で、水でももっと飲んできっと生きて出獄し、あくまでたたかおうと決心した。世の中でいちばんあくどいのが日帝だというのに、そんな奴らを放っておくわけにいかないではないか。亨禄や亨権も日帝とたたかうんだ。死んでも仕返しをしなくてはいけない」

    わたしは父の言葉を聞きながら、将来、わたしも父のように日本帝国主義者と命をかけてたたかおうと心に誓った。

    父は病床にいても本を読んだ。父はしばらくのあいだ、眼病をよく治すという大おじの金承鉉の家で保養をしながら、監獄ではじめた医学の勉強をつづけた。その家から父はりっぱな医書をたくさんもらってきた。父は崇実中学校にかよっていたときからその家で医術を教わり、医書を熱心に読んだ。 父が表向きの職業を教師から医師に変える決心をしたのも、おそらく獄中にいたときだったと思う。 父は健康が回復する前に、平安北道に向けて旅立った。破壊された朝鮮国民会の組織を立て直すためだった。 祖父は、一度決心したことはあくまでやりとおすのだ、と父を励ました。 父は故郷を発つ前に『南山の青松』という詩を残した。それは、体が引き裂かれ粉になろうとも代をついで屈せずにたたかい、三千里錦繍江山(朝鮮の美称)に独立の新春をもたらそうという父の誓いを詠んだものである。

    

    

    3 独立万歳のこだま

    

    

     父はたいへん寒い日に家を出た。 わたしは、いまかいまかと春を待った。衣食に事欠くわたしたちには寒さも大敵だった。多少暖かくなると祖母は、もうすぐツンソニの誕生日だね、といって心配そうな表情をした。わたしの誕生日のころは花が咲き、北国へ行った父も寒さのために苦労することはあまりなくなるだろうが、春の端境期にわたしの誕生日をどう祝おうかと心配するのだった。 わたしの家では食糧の切れる春でも、わたしの誕生日には白米のご飯とアミを入れて焼いた卵を膳に乗せてくれた。かゆすら腹いっぱいすすれないわたしの家では、卵一個もたいしたご馳走だった。しかしその年の春は、誕生日などに気をつかうゆとりがなかった。 父の逮捕事件がわたしを驚かせたうえ、遠くにいる父が気がかりでならなかったのである。父が家を発ってからしばらくして、3・1人民蜂起が起こった。3・1人民蜂起は、日帝の10年にわたる野蛮な「武断統治」のもとで蔑視と虐待をうけた朝鮮民族の積もり積もった恨みとうっ憤の爆発であった。

    「併合」後の10年は、朝鮮を一つの巨大な監獄に変えた中世的恐怖政治の銃剣のもとで、朝鮮民族が言論、集会、結社、示威の自由など、いっさいの社会的権利と財貨を奪われ、苦痛をなめた受難の時代、暗黒の時代、飢餓の時代であった。

    「併合」後、秘密結社運動と独立軍運動、愛国文化啓蒙運動などによって不断に力を蓄積してきた朝鮮民族は、暗黒の時代、収奪の時代を甘受することができず、憤然と決起したのであった。

    天道教、キリスト教、仏教など宗教界の人士と愛国的教師、学生の主導下に3・1人民蜂起は綿密に計画され、推進された。甲申政変、衛正斥邪運動、甲午農民戦争、愛国文化啓蒙運動、義兵闘争と連綿と受け継がれ、昇華した朝鮮人民の民族精神は、ついに自主独立を叫び、火山のように噴出したのである。

    3月1日、平壌では正午の鐘の音を合図に数千人の青年学生と市民が将台丘にある崇徳女学校の運動場に集まり、「独立宣言書」を朗読し、朝鮮が独立国家であることを厳粛に宣言した。そのあと、「朝鮮独立万歳!」「日本人と日本軍隊は帰れ!」というスローガンを叫びながら激烈な街頭示威を断行した。示威隊列が街頭に進出すると、数万人の群衆がこれに合流した。

    万景台とチルゴルの住民も隊伍を組んで平壌におしかけた。わたしたちは朝早く食事をとり、家族みなが独立万歳のデモに参加した。出発するときは数百人にすぎなかった示威隊列は、やがて数千人にふくれあがった。群衆は太鼓とどらを打ち鳴らしながら「朝鮮独立万歳!」を叫び、普通門に向かって行進した。七つだったわたしも、すりきれた履き物をはいて示威隊列に加わり、万歳を叫びながら普通門の前までいった。わたしは城内に向かって怒涛のように前進する大人についていくのが難儀だった。それで、ときどきばたついて邪魔になるわらじを脱いで手に持ち、駆け足で隊伍に追いついていった。大人たちが独立万歳を叫べば、わたしも一緒に万歳を叫んだ。 敵は騎馬警察隊と軍隊を出動させて、いたるところで群衆に刀を振りまわし、銃弾を乱射した。おびただしい人が倒れた。しかし、群衆はひるまずに肉弾となって敵とたたかった。普通門の前でも熾烈な乱闘がくりひろげられた。その日は、わたしが生まれてはじめて、人間が人間を殺すのを見た日であり、朝鮮民族の流血を目撃した日でもあった。幼いわたしの胸は怒りに燃えたぎった。日が暮れてあたりが暗くなると、村人たちは松明を持って万景峰に登り、ラッパを吹き鳴らし、太鼓やブリキ缶をたたきながら独立万歳を叫んだ。

    こうした闘争が何日もつづいた。わたしも母や亨福叔母と一緒に万景峰に登り、万歳を叫んで夜遅く帰った。母は群衆の飲み水や松明 用のおがらを運ぶために忙しく立ちまわった。

    ソウルでは高宗の葬儀に参加するため地方から上京した農民が合流し、数十万の群衆が命がけで示威を展開した。

    長谷川総督は示威を鎮圧するため、竜山駐屯第20師団の兵力を動員した。彼らは銃弾を浴びせ、刀を振るって示威群衆を野蛮に虐殺した。瞬時にしてソウルの街は血の海と化した。

    しかし、示威参加者は前列が倒れれば後列が、後列が倒れればそのつぎの隊列が進み出て前進をつづけた。

    他の地方でも人民は、銃剣で示威群衆を弾圧する敵の野蛮行為にもひるまず、血を流して英雄的にたたかった。

    幼い一女生徒は、国旗を振りかざしていた右手を切り落とされると左手に持ち替え、左手まで切られて動けなくなるまで前進をつづけ、「朝鮮独立万歳!」を叫んで日帝の軍警を戦慄させた。ソウルと平壌での示威を発端にして、蜂起は3月中旬には全国13のすべての道を震撼させ、満州、上海、沿海州、ハワイなど、海外にいる朝鮮同胞にも波及して全民族的な抗争に発展した。民族的良心のある朝鮮人は職業、信教、老若男女の別なくこぞって蜂起に参加した。 封建的道徳に縛られて外出さえままならない民家の婦女子や、最下層の賎民扱いされていた妓生たちも隊伍を組んで示威に決起した。 蜂起が起きてから1、2か月のあいだは全国が独立万歳の声にどよめいた。しかし、春が去り、夏になると、その気勢はしだいに衰えていった。 何か月か万歳を叫び、気勢をあげれば、敵も思い直して手を引くだろうと多くの人は信じていたが、それは甘い考えだった。それくらいの反抗にぶつかったからといって、日帝がやすやすと朝鮮を手放すはずがなかった。

    日本は朝鮮を手に入れるために、大きな戦争を3回も強行している。

    すでに400年前、豊臣秀吉の臣下である加藤清正と小西行長らが数十万の大軍を率いてわが国に攻め入った。これを「壬辰倭乱」という。

    また19世紀中葉にいたり、明治維新によって開化の道に入るやいなや、日本支配層のなかで真っ先に唱えられたのが「征韓論」だった。

    「征韓論」は、日本の繁栄と帝国の威力伸張をはかって武力で朝鮮を征服すべし、という日本軍国主義集団の侵略的な主張であった。

    「征韓論」は日本の政界や軍部内部の意見の不一致で、当時は日の目を見るにいたらなかったが、「征韓論」者は反乱を起こして半年以上も内戦をつづけた。

    このように、帝国政府に反旗を翻して大規模の反乱を起こした「征韓論」の首唱者西郷隆盛の銅像は、いまもなお日本にでんと立っているという。

    日本は朝鮮を併呑するために清国と、そしてロシアとも戦争をした。アメリカとイギリスが日本の後押しをした。

    日本の軍閥がどれほど冷酷非情かということは、つぎのような話を通してもうかがい知ることができる。

    日露戦争で旅順での戦いを指揮したのは乃木だった。彼が203高地を占領するさい、日本軍は山頂まで死体を積み重ね、それを梯子がわりにして高地に這い上がっていった。旅順の白玉山の祠堂には戦没者の一部が葬られたが、なんとそれは2万5,000体を上まわったという。

    多大な犠牲を払って戦争には勝ったが、最初のふれこみとは違って、シベリアも満州も手に入れることができなかった。うかつにも軍閥の宣伝にのせられて後家や孤児になった日本人がむしゃくしゃしていたおり、乃木が帰還するといううわさを聞いて彼らは埠頭に集まってきた。せめて腹いせでもしようとしたのである。

    ところが船から降りる乃木の胸に遺骨箱が三つも抱かれているのを見て、彼らは口をつぐんでしまったという。乃木もその戦いで3人の息子を一人残らず失ったのである。

    この話の真偽のほどは定かでないが、日本の占領者が朝鮮をやすやすと手放さないだろうということだけは明白だった。

    ところが3・1運動を指導した上層部の人たちはこうした歴史の教訓を忘れ、人民のもりあがった闘争気勢とは裏腹に、最初から運動の性格を非暴力的なものと規定した。そして、「独立宣言書」を作成して朝鮮民族の独立意志を内外に宣言することで満足した。彼らは運動がそれ以上拡大し、民衆主導の大衆的闘争に発展するのを望まなかったのである。

    はなはだしいことに、民族運動の一部の指導者は「請願」の方法で朝鮮の独立を達成しようとした。ウィルソンの「民族自決論」が発表されると、彼らはアメリカなど連合国代表がパリ講和会議で朝鮮の独立を決議するかもしれないという途方もない幻想をいだき、恥ずべき請願運動をおこなった。金奎植など数人が「独立請願書」をたずさえて列強代表の宿所を訪ねまわり、訴えもし、哀願もした。

     しかし、連合国の代表たちは、少しでも多くの分け前にあずかろうと神経を使うだけで、朝鮮問題などは眼中にもなかった。

    そもそも民族主義運動の上層部が、ウィルソンの「民族自決論」に期待をかけたこと自体が間違いだった。「民族自決論」は、アメリカ帝国主義が10月社会主義革命の影響力を防ぎ、世界を牛耳るためにうちだした偽善的なスローガンにすぎなかった。アメリカ帝国主義は「民族自決」の欺瞞的なスローガンをかかげて多民族国家であるソ連を内部から瓦解させ、植民地弱小国の人民が独立闘争で団結できないよう分離させる一方、戦敗国を犠牲にしてその領土をせしめようと画策したのである。

    20世紀の初期すでに「桂――タフト協定」で、日本の朝鮮侵略を「承認」したアメリカ帝国主義が、朝鮮の独立を支持するはずがなかった。歴史には強大国が小国に同情し、弱小国の人民に自由と独立をプレゼントした前例などない。民族の自主権はもっぱらその民族自身の主体的な努力と不屈の闘争によってのみ保全し、獲得することができるのである。これは世紀と世代をへて、歴史によって検証された真理である。

    高宗皇帝は日露戦争のときとポーツマス講和会談のとき、アメリカに密使を派遣して、日本の侵略戦争を暴露し、朝鮮の独立保全に協力してくれるよう訴えた。しかし、アメリカは日露戦争で日本が勝つよう八方から支援を惜しまなかったし、戦後処理の問題を討議するポーツマス講和会談では会談の結果が日本に有利になるよういろいろと援助した。ルーズベルト大統領は、公式文書でないといって高宗皇帝の密書を黙殺した。

    高宗はハーグの万国平和会議に再び密使を派遣して「乙巳条約」を不法と宣言し、世界の正義と人道主義に訴えて国権を保全しようとはかった。しかし、日帝の執拗な妨害工作と各国代表の冷淡な反応によって、会議に送った皇帝の書簡は効を奏さず、列強に同情を訴えた密使の涙ぐましい努力は挫折の苦汁をなめさせられた。高宗は日帝の圧力で、密使派遣の責任を負い、純宗に王位を譲った。

    ハーグ密使事件は、封建支配層の根強い事大意識を揺さぶる一つの大きな警鐘となった。万国平和会議場を赤く染めた李儁の血は、のちの世代に、世界のどの強大国も朝鮮の独立をもたらしてくれないということ、他人のおかげをこうむって独立を成就することはできないということをはっきり警告した。

    民族主義運動の上層部がこの教訓を銘記せず、再びアメリカと「民族自決論」に期待をかけたのは、彼らに崇米事大主義思想が根深く残っていたからである。無能な封建支配層は、かつて国が危険に陥るたびに大国を頼りにし、彼らの力を借りて国運をもりかえそうとした。 この悪癖が民族主義運動の上層にもそのまま移ったのである。3・1人民蜂起は、ブルジョア民族主義者がもはや反日民族解放運動の指導勢力になりえないことを示した。

    3・1人民蜂起を主導したリーダーたちの階級的制約性は、彼らが日本の植民地支配秩序を真っ向から否定するまでにいたらなかったところにあらわれている。彼らは日本の支配秩序を認める枠内で、自己の階級的利益を保つ若干の譲歩をかちとることに運動の目的をおいていた。それは後日、かなり多くの人が改良主義者に転落したり、ひいては日帝と妥協して「自治」を提唱する思想的基盤となった。

    そのころ、わが国には改良主義を打破する先進思想がなかったし、そのような先進思想を階級の指導理念にしてたたかえる産業プロレタリアートの大軍もなかった。歴史の浅いわが国の労働者階級はまだ、マルクス・レーニン主義を新しい時代思想として定立し、その旗のもとに広範な勤労者大衆を結集する使命を担った自己の党をもっていなかった。

    日帝の悪政に苦しむわが国の人民大衆が真の闘争の進路を見いだし、自己の利益を正しく擁護する前衛をもつまでには、さらに遠く険しい道を歩みつづけなければならなかった。

    3・1人民蜂起を通して、朝鮮人民は強力な指導勢力なくしては、いかなる運動も勝利しえないと痛感した。

    何百万もの大衆が国を取りもどす共通の志向をいだいて抗争の巷に馳せ参じたが、労働者階級の指導、党の指導がなかったために、彼らの闘争は分散性と自然成長性をまぬがれず、統一的な綱領と戦闘計画にもとづいて闘争を展開することができなかったのである。

    3・1人民蜂起は、人民大衆が民族の独立と自由をめざすたたかいで勝利するには、必ず革命的な党の指導のもとに正しい戦略戦術をもち、闘争を組織的におし進め、事大主義を徹底的に排撃し、自己の革命勢力をしっかり準備しなければならないという深刻な教訓を残した。

    3・1人民蜂起を通して、朝鮮人民は他人の奴隷となって生きることを欲しない自主精神の強い人民であり、国を取りもどすためにはいかなる犠牲も恐れない不屈の気概と熱烈な愛国心をもった人民であることを全世界に誇示した。

    この蜂起によって、日本帝国主義者は手痛い打撃をうけた。日本の占領者は朝鮮人民の反日感情をなだめるために3・1人民蜂起後、形式上ではあるが、「武断統治」を「文化統治」に変えざるをえなかった。

    3・1人民蜂起を契機として、わが国におけるブルジョア民族主義運動の時期は終焉を告げ、朝鮮人民の民族解放闘争はしだいに新たな段階に進みはじめた。

    暗雲の垂れこめた祖国の山河を揺るがし、世界万邦に響き渡った独立万歳の声は、夏じゅうわたしの耳から消え去らなかった。その万歳の声は、わたしをして年にくらべてずっと早く物心をつかせた。示威群衆と武装警官の激闘で火花を散らした普通門前通りで、わたしの世界観は新たな段階へ跳躍した。大人たちにまじり、つま先立って独立万歳を叫んだそのとき、わたしの幼年時代はすでに終わったといえるであろう。

    3・1人民蜂起は、わたしを人民の隊伍のなかに立たせ、わたしの網膜にわが民族の真のイメージを焼きつけた最初の出来事であった。わたしの心に雷鳴のように響き、長いあいだ消え去らなかった独立万 歳のこだまに耳を傾けるたびに、わたしは朝鮮人民の不撓不屈の闘争精神とヒロイズムにたいして大きな自負を覚えるのである。その年の夏、わたしたちは父の手紙を受け取った。父は手紙と一緒に「金不換」という中国の墨と筆を送ってよこした。習字の勉強をするようにと、とくにわたしに送ってくれた贈り物だった。わたしは硯に「金不換」を濃くすって、どっぷり筆につけ、白紙に「アボジ(父)」という3字を大きく書いた。 家族たちは夜、灯火の下で手紙をまわして読んだ。亨禄叔父は3回もくりかえして読んだ。鷹揚な叔父だったが、手紙はいつも年寄りのように丹念に読んだ。 母はざっと目を通すと、手紙をわたしに手渡し、大きな声で読んで祖父母に聞かせるようにといった。学齢前だったが、父から朝鮮語の読み書きを教わっていたので、わたしは字が読めた。

    わたしがよどみなく手紙を読むと、祖母は糸車をまわしていた手を休めて「いつ帰るといっていないかい?」とたずねた。そして、わたしの返事を待たずにひとりごちた。

    「ロシアに行ったのやら満州に行ったのやら…今度はずいぶん長い旅なんだね」

    わたしは母が手紙をじっくり読まなかったのが気になって、床に入ってから、父の手紙の内容を記憶をたどりながら小声で話した。母は、祖父母の前では決して手紙をゆっくり読むようなことをしなかった。そのかわり、チョゴリのおくみに手紙をしまっておいて、畑仕事の合間に一人で読んだものである。

    わたしが手紙の内容を記憶をたどって話すと、母は「もういいから休みなさい」といって頭をなでてくれた。

    父はその年の初秋、家族を連れに帰ってきた。わたしたちが父に会うのは1年ぶりのことだった。

    その間、父は義州、昌城、碧潼、楚山、中江など平安北道一帯と満州地方で朝鮮国民会の組織を立て直し、同志を獲得し、広範な大衆を結集する活動を精力的にくりひろげた。

    父が青水洞会議(1918年11月)を招集したのもそのころだった。平安北道の朝鮮国民会組織代表と各地域の連絡員が参加したこの会議では、破壊された国民会の組織をすみやかに立て直し、広範な無産民衆を組織にしっかり結集する活動方針がうちだされた。

    父は、満州の消息とともに、ロシアやレーニンの話、10月革命が勝利した話などをとくにくわしく語ってくれた。父は、ロシアは労働者、農民をはじめ無産大衆が主人となる新しい世の中になった、とうらやましげに語るかと思えば、新生ロシアが白衛軍と14か国の武力干渉者の攻撃をうけて試練をなめている、といってもどかしがったりもした。

    それらの話は生き生きとしたディテールと事実に裏打ちされていたので、わたしは、その間、父が沿海州に行ってきたのではないかとさえ思った。

    満州同様、沿海州も朝鮮独立運動の一つの基地であり、重要な集結地であった。3・1運動当時、極東地方に居住する朝鮮人は数十万に達していた。この地方には朝鮮から亡命した愛国志士と独立運動家が多かった。李儁一行がここを経由してハーグへ行き、柳麟錫と李相卨もここ(ウラジオストック)で13道義兵連合司令部を結成している。李東輝をリーダーとする韓人社会党が朝鮮最初の社会主義グループとしてマルクス・レーニン主義を普及しはじめたのも当地であり、大韓国民議会という露領臨時政府が組織され、内外にその存在を宣言したのもやはりこの地方だった。洪範図と安重根もこの地域に拠点を置いて軍事活動を展開した。

    沿海州地方に亡命した朝鮮の独立運動家と愛国的人民は、各地で自治団体と反日抗争団体を結成し、国権回復をはかって猛烈な活動をくりひろげた。沿海州に基地があった独立軍部隊は、慶源、慶興をはじめ咸鏡北道一帯に進出して日本軍警を襲撃し、敵の統治と国境警備を大きな混乱に陥れた。一時、満州地方から移動してきた独立軍がここで大部隊を編成し、赤軍と協同してソビエト共和国を擁護して戦った。

    帝国主義連合勢力とそれに追従する国内の敵が、誕生したばかりのソビエト政権を圧殺しようと四方八方から執拗に攻撃していたとき、数千人の朝鮮青年がパルチザンや赤軍に加わって手に武器を取り、人類が理想として描いてきた社会主義制度を守るために血を流し、生命をささげた。国民戦争の英雄を追悼して立てた極東地方の記念碑には、朝鮮人の名前も大きく刻まれている。

    ソ連の極東地方を舞台に一時、精力的な独立運動をくりひろげた洪範図、李東輝、呂運亨などは、民族解放運動にたいする支持をとりつけようと、レーニンにも会った。

    沿海州地方における朝鮮独立運動家の活動は、外部勢力の介入と派閥同士の対立によって黒河事件のような悲しむべき惨事もあったが、朝鮮の民族解放運動線上に無視できない足跡を残したといえる。

    同志を得るために父が沿海州に行ってきたのではないかというわたしの推測は、あながち根拠のないものではなかった。

    父は家族たちに北部国境地帯人民の示威闘争の話をしてくれたし、家族は父に、3・1人民蜂起のさい古平面の人たちが勇敢にたたかったことを話した。

    その日の父の話のなかで、つぎの言葉はいまもわたしの記憶にはっきり残っている。

    「強盗が家に押し入って刀を振りまわしているのに、いくら大声で命乞いしても、強盗が聞き入れてくれるはずはない。家の外にいる者も強盗だとしたら、わめき声を聞いても駆けつけてきて助けてくれはしないだろう。殺されないためには自力で強盗とたたかわなければならない。刀を持った者とは刀を持ってたたかわずには勝つことができない」父はすでに、独立運動にたいする新たな見解と決心をいだいていた。あとで知ったことだが、3・1運動当時とそれを前後した時期に、父は北部国境一帯と南満州地方に活動の拠点を設け、国内外の出来事を注視しながら民族解放の進路をたえず模索していた。父はわが国の社会階級関係の変化過程にも深い関心を向けた。

    3・1運動の教訓が示しているように、示威をやったり万歳を唱えたりするだけでは侵略者は引き下がらない。だからといって、独立軍のたたかいだけでも国は取りもどせない。全土が日帝の監獄と化し、銃剣の林におおわれたのだから、各地で全民族が立ち上がり、力を合わせて侵略者とたたかわなければならない。そのためにはわれわれもロシアのように民衆革命をやらなければならない。民衆が銃剣を手に立ち上がって敵とたたかい、国を取りもどし、搾取と抑圧のない新しい世の中をうち立てなければならない。

    それは父が苦心の末に到達した結論だった。それがほかならぬ無産革命方針である。

    おびただしい流血の痕跡を残しただけで、独立運動が沈滞から抜け出せなかったとき、そんなやり方ではいけないと悟った父は、民衆革命を主張した。

    ロシアで10月社会主義革命が勝利してから、父は共産主義思想に共鳴しはじめた。そしてその後、3・1運動を契機に自分の思想を定立し、わが国の民族解放運動を民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換させようという確固とした決心をいだいたのであった。

    父は1919年7月、青水洞会議で無産革命の歴史的必然性を論証し、それにもとづいて、8月には中国の寛甸県紅通溝で朝鮮国民会の各区域長と連絡員、独立運動団体の責任者会議を招集し、わが国の反日民族解放運動を民族主義運動から共産主義運動へと方向転換する方針を正式に宣言すると同時に、時代の変化に足並みをそろえ、民族自体の力で日本帝国主義を打倒し、無産民衆の権益を保障する新たな社会を建設する課題を示した。

    民族主義運動から共産主義運動へ方向転換するという方針をうちだしたことは、反日民族解放運動線上における父のいま一つの業績である。

    父は無産革命にたいする自分の理念を、つねづね、食べ物のない人には米を与え、着る物のない人には衣服を与える新しい世の中をつくることだ、と素朴な言葉でいいあらわした。そして、実践活動を通して労働者、農民をはじめ勤労民衆に先進思想を教え、各種大衆団体を組織してそれらを拡大し、彼らを一つの革命勢力に結集していった。いま一つの父の業績は、新しい武装活動を準備し、武装グループを団結させる活動でおさめた成果であった。父は「請願」や「外交」ではなく、武装活動によってのみ国を取りもどせるという確信をいだき、新たな武装活動の準備をおし進めた。父の構想は、無産階級出身の愛国的青年を選抜して軍事幹部に育成し、既成の武装団体の指揮官や下層兵士の思想を改造して、その隊伍を無産革命のできる労働者、農民の武装力に転換させようというものだった。

    父はこうした方針を提起し、独立軍の各部隊に朝鮮国民会の会員を派遣して、武装隊のあいだでの先進思想の普及、武器の購入、軍事幹部の養成、軍隊の戦闘力の強化などの活動をいろいろと指導した。一方、武装グループの団結をはかって大きな力をそそいだ。当時、父の最大の苦衷は独立運動隊伍の団結の問題であった。 間島と沿海州地方には多くの独立軍部隊と独立運動団体があった。一夜明けると、韓族会だの、大韓独立団だの、太極団、軍備団だのと称する団体が出現した時期であった。こうした独立運動団体が南満州地方だけでも20余りあった。それらが連合し団結していたとしたら、いずれも大きな力を発揮したであろう。しかし、分派分子は最初から他の団体を嫉視排斥し、ヘゲモニー争いにふけった。こうした事態を正さなければ、独立運動の隊伍は分裂して人民から見捨てられるか、敵に各個撃破されるおそれがあったし、方向転換の大業もおし進めることができなかった。 そんなわけで、父は大韓独立青年団と広済青年団の軋轢が激化しているということを聞くと、寛甸へ急行し、そこに何日もとどまって両団体の指導者を説得し、統合を実現させた。父の尽力によって、興業団や軍備団など鴨緑江沿岸一帯の武装団体は国民団として統合を果たした。 既成の武装団体を労働者、農民出身で組み直し、共産主義運動をめざす武装活動の道に新たに進出させ、さまざまな系統の武装グループを統合して活動上の分散性をなくそうというのが、新しい武装活動を準備しながら父がいだいた志向であったといえる。

    父は晩年まで、方向転換方針を実践するために心を砕いた。そうしているうち難治の病気にかかってしまった。

    寛甸会議で共産主義運動への方向転換方針が宣言されたのち、民族主義者のあいだでは思想的分化過程が促進された。

    父が病床に伏せっていたとき、同志の一部は逮捕され、一部は変節し、一部は離散していたので、あくまで共産主義運動を進めようと東奔西走する人はあまりいなくなった。

    民族主義者のなかでも、保守的人間は相変わらず古い枠にこだわって新しいものを受け入れようとしなかったが、先進層のかなりの人物は新しい道を選択して、後日、われわれと手をたずさえて共産主義革命を進めた。

    共産主義運動をすべしという父の思想は、わたしの成長にとって豊かな滋養分となった。

    

    

    

    4 他郷から他郷へ

    

    

    

    父が活動の拠点をたびたび移した関係で、わたしたちは何度も引っ越しをしなければならなかった。

    わたしがはじめて故郷を発ったのは五つのときだった。その年の春、わたしたちは烽火里に移ったのである。

    そのときは祖父母をはじめ身内の者と別れながらも、別にさびしいとは思わなかった。まだ物心のつかない年だったので、離別を悲しむよりも、新しい土地、新しいものにたいする好奇心のほうが強かったのであろう。しかし、中江に転居したその年の秋は胸が痛んだ。わたしたちが北の最果てに移ると聞いて、家族たちもたいへんさびしがった。父のやることにはなんでも支持し賛成した祖父も、子や孫が100里も離れたところに行くと聞いて唖然とした。父は、離別をひかえてさびしさをかくせない祖父を慰めようと心を砕いた。土縁の上で、これを最後と祖父の仕事を手伝いながら、父がいった言葉がいまもわたしの耳にはっきり残っている。

    「わたしは要視察人物に登録されているので、朝鮮のどまんなかでは動きがとれません。わたしが出獄するとき、彼らはわたしに、運動をやめて家で百姓でもやれといいました。しかし、わたしは100度監獄に入ることがあってもたたかうつもりです。日帝はむごい奴らです。独立万歳を唱えるだけでは国は取りもどせません」

    わたしたちが中江へ引っ越す日、亨禄叔父は父に、遠くへ行っても故郷を忘れないでほしい、来る暇がなければ手紙だけでもたびたび出してくれるように、といってはげしく泣いた。

    父も叔父の手をとって放さなかった。

    「わかった。故郷は忘れない。故郷を忘れるものか。いまはこの世のめぐりあわせが悪くて別れるけれども、いずれ独立したらみんな集まって楽しく暮らせるだろう。おまえは小さいときからわたしの世話をして、手が腫れるほどわらじを編んでくれたのに、きょうはまた大家族の暮らしをまかせて発つのだと思うと心苦しくてならない」

    「兄さん、そんな水臭いことをいうものじゃありません。お父さんとお母さんはぼくが引き受けますから、兄さんはしっかりたたかって、ぜひ志をとげてください。ぼくはここでその日を待っています」 別れぎわに交わされた2人の言葉を聞いて、わたしもこみあげる悲しみをおさえることができなかった。国が独立したらまた故郷に帰ってくると母はいったが、はたしてその日はいつのことか、そのときは漠然として、もどかしく感じるばかりだった。事実、そのとき故郷をあとにした父と母は、二度と万景台に帰れぬまま、なじみのない異国の土に葬られたのである。 わたしは祖父母と別れるのが名残惜しくて、何度も後ろをふりかえった。 生まれ育った山河を離れて遠い他郷へ越していくのはいやだったが、一つだけは心が安らぐ思いがした。それは中江に行けば平壌監獄から遠ざかるからだった。父が刑期を終えて出獄したあとも、わたしは不安をふりはらうことができなかった。日本人がまた父を監獄につかまえていくのではないかと心配だった。物心のつかなかったわたしは、ソウルや平壌から遠く離れた山里へ行けば、監獄もなく、日本人の姿も見ないですむと無邪気に考えていたのである。

    平壌から中江まで何里かとたずねると、100里だとのことだった。わたしは100里と聞いてすっかり安心した。日本人がそんな遠いところまではついて来ないだろうと思ったのだった。

    中江は朝鮮でいちばん寒いところだといわれた。しかし、父が安全だったら寒さくらいはいくらでも我慢できると思った。

    引っ越しの荷物は食器とさじを包んだ母の風呂敷包み、そして父が肩にかけた細長い袋が全部だった。烽火里にいくときはそれでも長櫃や机、真鍮の器、素焼きの器などがあったが、今度はそれもなかった。

    父の友人が一人同行した。わたしたちは新安州で汽車を降り、价川、熙川、江界をへて中江までずっと歩き通した。江界の方にはまだ鉄道が敷かれていなかった。父は、わたしが遠い道のりを歩いていけるだろうかと心配した。母もわたしがついて来られないのではないかと気をもんでいるようだった。七つにすぎなかったのだから、わたしが父や母の心配の種になったのも無理はない。

    わたしは通りすがりの牛車にときどき乗せてもらったほかは、ほとんどの道のりを歩き通した。わたしの一生で最初になめた大きな肉体的試練だった。

    江界に到着したわたしたちは、南門の外にある宿屋に一晩泊まって、翌日また旅をつづけた。宿屋の主人は江界地方の地下組織メンバーと一緒に、わたしたち一行を親切にもてなしてくれた。江界から中江までの200キロのあいだには、峠や、まったく人影のない地帯が多かった。

    背嚢嶺を越えるとき、母がたいへん苦労した。三つの哲柱を背負い、風呂敷包みを頭に乗せているうえに、わらじがすり切れ、足が腫れて苦しそうだった。

    中江に着いたとき、わたしはがっかりしてしまった。そこにも平壌の黄金町や西門通りのように日本人が大勢いたからである。朝鮮人は故郷で暮らせずにあちこち流浪しているのに、彼らはこんな僻地にまで入りこんで主人顔をしているのだった。

    父の話では、朝鮮人の住むところはどこにも日本人が入りこんでいるとのことだった。中江には警察署や留置場もあり、憲兵隊もいた。わたしは中江に行ってみてはじめて、朝鮮全土が一つの監獄のようなものだということを身にしみて悟った。日本人は中江上通りの半ば以上の土地に彼らの移住民地帯を設けていたが、そこには学校も商店も病院もあった。中江の人たちは、日帝がこの地方にあらわれたのは10年前のことだといった。「乙巳保護条約」後、わが国の山林伐採権を奪った日帝は、新義州に営林廠を、中江に支廠を設け、日本人伐採夫をこの地方に移住させたのだった。伐採夫とはいうものの、実際は系統的な軍事訓練をうけた「在郷軍人」が多数をしめ、有事にはいつでも出動できる半軍事集団だった。中江には彼らのほかにも、かなりの武装警官と正規軍の守備隊が駐在ていた。父が家族を連れて中江へ移ったのは、独立運動家の出入りが多い当地で医院を開業し、それを拠点にして反日闘争をより積極化するためだった。医者という肩書きをもてば、敵の監視から容易に逃れることができるし、人との接触が比較的自由にできるからである。わたしたちは康基洛の宿屋に旅装を解いた。康基洛はわたしたちのために、いちばん閑静で清潔な部屋をあけてくれた。父は出獄後、間島に行ってくる途中、中江に何日か逗留したが、そのさいもわたしの家族が入ることになったこの部屋に泊まったという。 康基洛は宿屋の看板を出して、歯科と写真屋を同時に営みながら、内実は中江に居を定めて、父が国内にいるときは朝鮮国民会の国外組織と父との連絡をつけ、国外にいるときには朝鮮国民会の国内組織と父との連絡をつける任務を果たしていた。父はこの宿屋を通して、臨江、長白、中江、碧潼、昌城、楚山など鴨緑江流域一帯で活動している内外の独立運動家と連係を結んだ。康基洛は中江でひとかどの人士だったので、役所にも自由に出入りした。彼が役所で入手した情報は父の活動にたいへん役立った。わたしは父を手伝って見張りをしたり、宿屋へ訪ねてくる独立運 動家の使いをしたり、中上、中徳などをまわって秘密の連絡をしたりした。中江の思い出で忘れられないのは、わたしよりも大きい日本人の子と相撲をとって腰投げで倒したことである。わたしは朝鮮人の子をいじめる日本人の子を見ると、放っておかなかった。宿屋の主人はあとのたたりを恐れたが、父は朝鮮人を見下す者には絶対に頭を下げてはいけないといって、わたしの度胸のある行為を支持してくれた。そのころ中江では反日気勢が高まり、方々でビラ散布、同盟休校、悪質手先の懲罰といった事件が続発した。日帝は中江におけるこれらの変化を父と結びつけて見るようになった。中江警察署では平安南道警務部の通報にもとづいて父を「不逞鮮人」「特号甲種要視察人」として登録し、監視した。康基洛は面事務所で、たまたま父の名前の下に赤線を引いた戸籍謄本を見た。彼は、警察が金先生を逮捕しようとマークしているから、早く身を避けるのがよいと知らせてくれた。そんなときに、中江警察署が父を逮捕しようとしているということが巡査の口からもれた。父はもはや中江にとどまっていられなくなった。わたしたちは再び荷物をまとめ、寒風の吹きすさぶ国の北端の地をあとにして、異国に渡らなければならなかった。

    中江から一足踏み出せば中国である。中徳の渡し場で小舟に乗って鴨緑江を渡るとき、こらえようもなく涙がこみあげてきた。中江を発てば4度も引っ越しをすることになる。中江は見知らぬ土地で親しめなかったが、いざそこを発って異国へ行くとなると、中江も故郷のような思いがした。なんといっても中江は祖国の一部だった。わたしに子守歌をうたってくれ、ぶらんこに乗せてあやしてくれたところが万景台だとすれば、中江は烽火里とともに、朝鮮はどこもかしこも日帝の監獄だということを悟らせてくれた忘れえぬ土地だった。わたしたちが中江を発つ日は天候もいつになく陰惨だった。晩秋の落ち葉が渡し場にも吹き寄せて、もの悲しく転がっていた。空には渡り鳥が群れをなして南の方へ飛んでいった。その鳥を見ると、なぜかいっそううら悲しくなった。中江をあとにするこの旅が、母には祖国と永別する旅となったし、弟の哲柱もこの川を渡ってからは祖国に帰れなかった。人間が一生を生きるあいだには、いろいろな悲しみにぶつかるものだ。しかし、それらの悲しみのなかでも最大の悲しみは亡国の悲しみであり、亡国の民となって祖国を離れる悲しみである。故郷を離れる悲しみがいくらつらいとはいえ、祖国に別れを告げるときの悲哀にはくらべられない。故郷を生みの母にたとえ、他郷を継母にたとえるならば、その他郷より何倍もなじみのない異国はなににたとえられようか。招く人も、迎えてくれる人もいず、言葉も通じない異国で暮らすのだと思うと、幼心にも気が滅入り目の前が真っ暗になった。しかし、祖国を離れる深い悲しみも、国を取りもどそうという父の志のためには黙ってたえなければならなかった。

    船頭は、満州への移民が増えるばかりだ、朝鮮人の身の上はどうしてこんなにも哀れなのか、と嘆いた。

    父は、故郷の沃土を捨てて海外に流れていく人がどれほどいるかわからないといった。

    国が滅びる前もこの国の民は空腹をかかえ、満州やシベリアの荒野へ群れをなして渡っていった。生存権を失った民は極刑を覚悟し、命がけでこの地を脱出した。移民の群れは米国やメキシコなど遠い米州にも流れていった。「四季おりおり花が咲き、種をまけば百穀がおのずと実り、1日3時間働けば3年内に金持ちになれる」という甘言につられて農民や流浪民が太平洋の彼方、アメリカ大陸へ渡っていった。そこで彼らは未開人扱いされ、食堂や富豪の邸宅で雑役夫になるか、熱い日ざしの照りつける農場でたえがたい苦役に従事したのである。

    それでもそのときは、まだ国号をもつ自分の国があった。国が滅んだあとは、数千数万の農民が農地を奪われ、なじみのない満州の荒野へ落ち葉のように散らばっていった。親子代々住みついた郷土には、一攫千金を夢見る日本の金満家や商人たちが群れをなして押し寄せ、土地を肥やしてきた主人は追われる身となって、国境を越えてさまよわなければならなかったのだから、国権を失った民の身の上が落ち葉や路傍の石にたとえられないわけがあろうか。

    それら流浪民の子孫が、いまは自分の亡父が捨てた祖先の地に毎日のように訪ねてきている。それらの海外同胞に会うたびに、わたしは鴨緑江で見た流浪民の姿を思い出すのである。

    臨江へ行ったとき、ほかのことには違和感を覚えてなじめなかったが、一つだけはよいことがあった。それは日本人の姿をあまり見かけなくなったことである。

    中国遼寧省の辺境にある商業都市臨江は、わが国と南北満州に通ずる要衝の一つであった。

    日帝はそのときはまだ中国の領域に公然と手をのばせなかったので、ひそかに特務を送りこんで独立運動家を脅迫するだけだった。だから、臨江は中江にくらべて革命活動に有利だった。

    臨江で、父はわたしに半年以上も中国人教師をつけて中国語を習わせたあと、わたしを臨江小学校の1学年に入れた。わたしはこの学校に入学してから本格的に中国語を習いはじめた。その後は八道溝小学校と撫松第1小学校で中国語の勉強をつづけた。

    わたしが若いころから中国語を自由に使いこなせたのは、ひとえに父のおかげだったといえる。

    父がなぜわたしに早くから中国語を習わせ、中国人の学校に入れたのか、当時はよくわからなかったが、いまにして思えば、「志遠」の思想にもとづく父の先見の明がわたしを大いに助けてくれたといえる。あのころ父がわたしに中国語を習わせなかったとしたら、四半世紀を中国ですごしたわたしは、行く先々で大きな言語の障壁にぶつかっていたであろう。

    正直な話、われわれの闘争舞台はほとんど満州地方であったので、もしわたしが中国語を知らなかったなら、中国人と親しく交われなかったはずであり、彼らとの反日連合戦線も成功裏に実現できなかったであろう。どだい、敵の弾圧がはげしい東北の地にあえて足を踏み入れることすらできなかったであろう。

    わたしが中国の服を着て街に出て中国語で流暢に話すと、猟犬のようによく臭いをかぎつける日本の密偵や満州の警官でさえ、わたしが朝鮮人であることを見分けることができなかった。結局、わたしが中国語を習ったのは、朝鮮革命に大きなプラスになったといえるだろう。

    父は旧知の盧京頭の世話で、家を1軒借りて医院を開業した。一間は薬局兼治療室にあて、表に「順川医院」という大きな看板をかけた。部屋の中にはセブランス医専の卒業証書もかけてあった。おそらく平壌を発つ前に、誰か友人に頼んで手に入れたものだろう。

    何か月もたたずに、父が名医だといううわさが立ちはじめた。何冊かの医書を読んだだけで開業した父が名医といわれるようになったのは、医術のおかげではなくて仁術のおかげだった。父はどこへ行っても人間を大切にした。故郷も祖国も奪われ、悲しみの多い異国暮らしをしている朝鮮同胞をいたわり、面倒をみる父の至誠には、格別なものがあった。

    「順川医院」を訪れる患者のうちには、なにも持たないか、わずかの金を持ってくる人が少なくなかった。

    父は彼らが薬代の心配をすると、いつも、金を払いたかったら国が独立したあとで払いなさい、いまはわれわれが異国で貧しく暮らしているが、遠からず国を取りもどし、再び鴨緑江を渡る日が来るだろう、と慰めるのだった。

    臨江のわたしの家にも、烽火里でのようにいつも客が多かった。患者も多かったが、大半は反日独立運動家だった。

    外伯父の康晋錫が臨江で白山武士団を組織したのもそのころだった。白山武士団は平安道地方の独立運動家を中心に組織されたものである。「白山」とは白頭山を指していた。

    当時、満州地方に居住していた朝鮮の先覚者は、「白山」という名称を非常に貴んだ。彼らは、撫松地方に設立した朝鮮人私立学校にも白山学校という名前をつけた。わたしが1927年12月に撫松で組織した青年組織も白山青年同盟と呼んだ。

    白山武士団は臨江と長白一帯に組織された群小独立軍団体のなかで、比較的規模が大きく隊伍のととのった武装グループだった。この武装グループの本部は臨江県にあった。白山武士団の国内活動地点は、中江、楚山、厚昌などの平安北道一帯と、遠く平壌、順川、江西地方にもおよんでいた。平壌で秘密青年団体のメンバーとして活動した外伯父は、満州で武士団を組織するまで臨江のわたしの家ですごし、いっとき伐採労働をした。武士団が組織されると外務委員を勤め、平安南北道一帯で政治工作や軍資金の募金のためにせわしく歩きまわった。

    外伯父は武士団の指揮官と連れ立って、よくわたしの家に立ち寄った。辺大愚も来たし、白山武士団の財務を担当していた金時雨も来た。指揮官たちはわたしの家に泊まることが多かった。

    ほかの客はみな奥の間で休んだが、外伯父はいつも、わたしたちの部屋で枕の下に拳銃を隠して寝た。

    父は寛甸会議で宣言した方向転換の要請にもとづいて、先進思想を踏まえた武装闘争のための準備に多くの力をそそいだ。父が紅土崖にしばしば行ったのも、白山武士団と連係を結ぶためである。

    ある夜、目をさましたわたしは、灯火の下で外伯父が父と一緒に拳銃を分解しているのを見た。それを見た瞬間、わたしの脳裏にはなぜか、3・1独立万歳示威のさい普通門前通りでみた光景が生なましくよみがえってきた。そのとき示威参加者は熊手と棍棒しか持っていなかった。ところが、あれから1年もたたないうちに、ついに外伯父が銃を手にしているのを見ることになったのだ。おびただしい人民の死が残した血の教訓によって、朝鮮の先覚者は銃を取ったのである。 数日後、父はわたしに、中江から弾丸と火薬を運んでくるようにといった。税関で大人をきびしく取り締っているので、わたしにまかせようと決心したようだった。 わたしは覚悟を決めて中江に渡り、鞄に弾丸と火薬を入れて無事に帰ってきた。税関で警官は乗船者を念入りに調べていたが、なぜかわたしは少しもこわくなかった。

    外伯父はその後、国内で武装グループ活動をするため臨江を発った。

    ところがそれからひと月もたたずに、中江憲兵隊の金得秀伍長が臨江にやってきて、外伯父が逮捕されたという知らせを伝えた。金得秀は憲兵伍長だが、しばしば父の使いをした良心的な人だった。わたしが学校から帰ると、その知らせを聞いた母が涙ぐんでいた。外伯父が逮捕されたので、家じゅうが騒然とした。外伯父は臨江を発ったのち、武装グループを引き連れて慈城、价川、平壌一帯で猛烈な活動をくりひろげたが、1921年4月、平壌で日帝警察に逮捕され、15年の長期刑を宣告された。そして13年8か月の服役後、保釈で帰宅し、1942年に死去した。 故郷で美風会という啓蒙団体を組織し、賭博、飲酒、迷信などの追放運動をしていた外伯父が、救国運動に乗り出すまでになったのは、外祖父康敦煜と父の影響によるものだった。 革命は少数の特殊な人間だけがするものではない。真理に目覚め、よい影響をうけていれば、誰でも世界を改造し変革する革命闘争で目を見張るような偉勲を立てることができるものである。 外伯父を逮捕した日帝は、臨江に多くの密偵や私服警官を送りこんで父を逮捕しようとした。そこで父は、夜は臨江郊外の友人の家に難を避け、昼は家に帰って仕事をした。

    もはや臨江にもいられなくなった。わたしたちはまたも荷物をまとめ、異国の他郷から他郷へ引っ越さなければならなかった。家じゅうの者が荷物を頭に乗せたり、背負ったり、かついだりして臨江を発つことにした。だが、どうしても人力では運ぶことができず、方士賢という伝道師が橇を引いてわたしたちの住みつく長白県八道溝まで同行することになった。彼は、臨江から八道溝までは100キロほどだといった。

    臨江と同じく八道溝も鴨緑江ぞいの国境の街だった。臨江対岸の中江に日本の憲兵隊や警察官駐在所があったように、八道溝対岸の葡坪にも日本憲兵隊分遣所と警察官駐在所があった。

    葡坪は朝鮮の北端にあったが、独立運動の主な舞台が満州に移ったので、日帝はこの一帯にも暴圧網を稠密に張りめぐらせた。葡坪から送りこまれた密偵と憲兵、警察は毎日のように八道溝へ渡ってきて、血眼になって愛国者の行方を探索した。

    わたしの家は八道江と鴨緑江が落ち合う地点の近くにあった。父はその家に「広済医院」という新しい看板をかけた。

    わたしの家の右隣には朝鮮国民会会員の金氏が住み、左隣にはそば屋のいま一人の金氏が、道路の向こう側にもやはり、そば屋を出して暮らしを立てている金氏が住んでいた。

    父の指導をうけて、鴨緑江沿岸の武装部隊に物資を系統的に提供していた商人の兄弟も金氏で、近所に住んでいた。このように、わが家を囲む4軒の金氏はだいたいよい人たちだった。

    ただ後ろの1軒は毛色が違っていた。後日判明したところでは、その家の主人孫世心は葡坪警察署が送りこんだ密偵だった。彼も以前は中江に住んでいたが、日本警察機関の指示で八道溝に渡り、父を監視していたのである。父は八道溝でもさまざまな階層の人と付き合った。そのなかには黄という思想家もいた。彼は南社木材所で庶務係を勤めているうちに先進思想の影響をうけて革命の道に踏み出し、内々わたしの父の連絡任務を遂行していた。黄は任務をうけるとすぐ八道溝を発ち、各地をまわってそれを果たして帰ってくるとまた新しい任務を待った。 彼は父と一緒に酒の膳をはさんで、長時間話しこむこともあった。

    『朝日新聞』の記事をとりあげて熱っぽい調子で時局を論ずることもあった。

    父が釣りに行くときは、彼も唐辛子味噌を入れた壷を持って一緒に行き、網を打ったり、魚の腹を割いたりした。彼がこのように3年間もわたしの家に出入りしたので、ある年はわたしたちと中秋を一緒にすごしもした。

    父は彼の案内で、80キロも離れたところにある南社木材所をたびたび訪ねて労働者を啓蒙し、彼らを反日組織に結束した。羅竹普通学校の教員たちも父の指導をうけた。ある年はこの学校で同盟休校事件が起きて、そのうわさが遠くまで広がったこともあった。父がしばしば通ったところの一つは葡坪礼拝堂だった。礼拝堂とはいっても、先の尖った屋根に十字架があるそんな建物ではなく、屋根に板瓦をふいた普通の家で、仕切りの壁をはらった二間つづきの部屋を使っているのが民家と違うだけだった。

    父が八道溝に移って以来、その礼拝堂は大衆教育の場や国内革命家の集合場として利用された。父は、礼拝のある日は葡坪に渡っていって人びとを集め反日宣伝をした。ときにはオルガンを弾きながら、歌も教えた。

    父が行けない日は、母や亨権叔父が礼拝に来た人たちに反日宣伝をした。わたしも哲柱を連れて礼拝堂に行き、父からオルガンを教わった。

    葡坪の町には、父が利用した秘密連絡場所がところどころにあった。

    葡坪駐在所の掃除夫をしていた人も情報活動をした。彼が駐在所の情報を探知して郵便物委託所に知らせると、委託所の主人が父に伝達した。

    わたしも父の使いでしばしば秘密連絡を取りに出かけた。葡坪駐在所につかまった愛国者に衣服と食べ物を差し入れに行ったこともあった。わたしがもっとも頻繁に行ったところは郵便物委託所だった。父にいわれて、わたしは『東亜日報』『朝鮮日報』などの新聞や雑誌をはじめ、朝鮮で発刊される出版物をそこから持って帰った。父は亨権叔父の名義で『東亜日報』支局を開いた。それで、収入のない代わりに、新聞はただで取ることができた。

    わたしは週に2度ほどその委託所に行った。川が凍る前は、葡坪を往来するのが難儀だった。

    しかし川が凍ってからは、2日に1度行くこともあった。わたしが勉強で忙しいときは、亨権叔父も取りにいった。郵便物がたくさん来たときは、わたしと叔父が一緒に行って運んでくることもあった。郵便物は主に小包、雑誌、日本で出版された医書だった。

    わたしたちは葡坪を往来するさい、しばしば憲兵補助員の洪鐘宇の世話になった。彼は父の影響で革命のシンパになった人だった。彼との関係がはじめからスムーズに結ばれたのでないことはもちろんである。

    わたしたちの住む八道溝も、葡坪憲兵分遣所の管轄区域だった。 駐在所の巡査や税関の官吏もこの分遣所の指示をうけていた。国境地帯にある憲兵機関はたいへんな権限をもっていたのである。

    父と組織のメンバーは憲兵監視所の動静を探り、彼らもやはりわたしの家に監視の目を光らせた。

    憲兵補助員の制服を着た洪鐘宇がわたしの家の薬局にあらわれたとき、わたしはすっかり緊張し、父や母も警戒した。

    彼は落ち着かない表情で薬局の中をしばらく見まわしてから、口を開いた。

    「きょう、わたしが先生を訪ねたのは、ほかでもなく安州の張順鳳さんのあいさつを伝えるためです。わたしが国境の方へ転勤することになったとき、彼はわたしに、厚昌に行ったら面倒でも金亨稷という親友を訪ねてくれといったのです。わたしもかねがね先生にお目にかかって、ぜひ教えをうけたいと願っていました」

    憲兵の制服を着た者の言動にしては、意外にも謙虚だった。しかしその日、父は彼に心を許さなかった。

    「中江の金得秀伍長とはあんなに親しくしていらっしゃったのに、いったいきょうはどうしたのです?」

    洪鐘宇が帰ったとき、母のいった言葉だった。

    「彼の憲兵服を見ると、つい平壌監獄が思い出されてね」

    父は、あいさつを伝えようとわざわざ訪ねてきたのにすまないことをした、今度洪鐘宇が来たら親切にもてなそう、といった。洪鐘宇はその後も、わたしの家に出入りした。 ある日、父は母にこんなことをいった。

    「洪鐘宇がわたしの家を探りにきたのなら、わたしは彼を通して憲兵隊を探ってやる。もし失敗したらわたし1人が危なくなるだけだが、彼の心をひるがえすことができたら、われわれの仕事にたいへん役に立つ。中江には金得秀、葡坪には洪鐘宇といったふうに、金亨稷の行くところにはどうせ憲兵がつきものなのだからな」

    その日から、父は洪鐘宇を積極的に教育した。憲兵補助員相手のよそゆきの作法はやめて、同胞として真心をもって接し、厚くもてなした。心を許して付き合ってみると、彼は民族的良心のある人だった。彼の故郷は平安南道順川で、故郷で百姓をして苦労したが暮らしが立たないので、運を開こうと憲兵補助員の試験をうけたという。ところが3・1人民蜂起のさい、示威群衆を野蛮に弾圧する憲兵や警察の身の毛のよだつ蛮行を目撃してからは応試したことを後悔し、そのまま百姓をつづけようと思った。そのやさきに合格通知書が舞いこみ、教練の呼び出し状が届いた。こうして洪鐘宇は憲兵補助員になったのである。

    日帝は「武断統治」から「文化統治」に移行するさい、「官制改革」の名のもとに国内の憲兵機関を縮小し、警察機関を大々的に新設拡張すると同時に、国境地帯の憲兵機関を補強した。朝鮮人憲兵補助員はその大半を警察に繰り入れるか国境地帯に移した。そんな関係で洪鐘宇も厚昌に来たのだった。

    ある日、洪鐘宇は父を訪ねてきて、憲兵隊の武器を奪取して独立運動に参加したいといった。父は彼の勇断を高く評価した。

    「君が独立運動に乗り出そうと決断を下したのは、じつに見上げたことだ。日帝の軍服をまとったからといって、魂まで汚すことはできまい。5,000年の歴史を誇るわれわれが、日帝の奴隷になりさがり、それに甘んずるわけにはいかないではないか。だが、わたしは君がいまの職務にとどまって、われわれの仕事を助けてくれるほうが有益だと思う。君が憲兵の制服を着ていれば、いろいろと独立運動を支援することができるだろう」

    洪鐘宇はその後、父にいわれたとおり独立運動家を支援した。彼はしばしば父を訪ねて、何日の何時から何時までは自分が渡し場の監視当番だから、川を渡る人がいればその時間を利用するように、と知らせてきた。このような方法で彼はしばしば革命家の渡江を助けた。 父も彼のおかげで何回も危機を脱した。父によくない兆しがあると、洪鐘宇はさっそく八道溝にやってきて、「巡査が来るはずだから注意しなさい」といったり、母に「金先生が帰ったら、何日か田舎の方においでになるように伝えてください」と耳打ちしたりした。 ある日、憲兵分遣所の所長から対岸で活動している独立運動家と朝鮮人の動静を探る任務をうけ、八道溝に渡ってきた洪鐘宇は、葡坪駐在所の巡査が父を捕縛して渡し場の方に連行していくのを目撃した。

    洪鐘宇は巡査の前に立ちはだかって、こうなじった。

    「この先生は憲兵隊の仕事を助けている人だ。どうして分遣所に知らせず勝手に逮捕するのだ。今後、金先生のことでなにか問題がもちあがったら、貴様たちは手出しせんでおれに知らせろ」

    巡査は平謝りにあやまって、父の手の縄をほどいた。こうして父は危機を逃れることができた。

    あるとき、巡察から帰った憲兵が分遣所の所長に、八道溝の金医師は思想家らしいから、逮捕して尋問してはどうか、といった。

    洪鐘宇は「情報資料」を記録した憲兵日誌を広げて、これらの資料はすべて金医師から入手したものだ、思想家の動静を探るには、思想家のようにふるまわなくては彼らの内情を探れない、金医師は憲兵隊を助けている功労のある人だ、といった。その「情報資料」というのは、彼がつくりあげた偽りの資料だった。

    1923年5月に憲兵補助員制が廃止されると、洪鐘宇は家族と一緒に中国に渡ってきて、自分も独立運動をしたいといいだした。もう日帝機関に勤務する気になれないというのだった。

    その日、父は彼を説得するのに苦労した。父は彼に、故郷に帰り警察機関のようなところに入って、これまでのようにわれわれの仕事を助けてもらいたい、それが独立軍に入って活動するよりもっとわれわれを助けることになる、と説いた。そして、故郷に帰ったら万景台を訪ねて、わたしの父母にあいさつを伝えてほしいと頼んだ。

    洪鐘宇は故郷に帰ると、さっそく万景台を訪ね、祖父母に父のあいさつを伝えた。父からいわれたとおり故郷で巡査になった彼は、上役にたびたび願い出て、1927年から大平駐在所に勤務した。彼は赴任早々駐在所の給仕に酒や豚肉、ミカンを持たせて、万景台のわたしの家を訪ね、祖父母に新年のあいさつをした。万景台も大平駐在所の管轄区域だった。

    洪鐘宇は生前、わたしの父の意にたがわず、朝鮮民族としての良心をもって、いつもわたしの一家を保護してくれた。彼が大平駐在所に転勤したのも、万景台のわたしの家を保護するためだった。彼が南里を担当していたあいだは、わたしの祖父や亨禄叔父も日帝からそれほど迫害されなかった。駐在所の所長がつねづね彼に、金亨稷一家は排日思想家の家柄だから十分警戒し、随時家宅捜索をするようにといっていたが、洪鐘宇は、いつもふだんと変わったことがないといってかばってくれた。

    解放直後、各地で人民が親日派を捕えて袋叩きにしたときも、洪鐘宇は無事だった。彼は故郷で恩給巡査を勤めながらも、住民に悪事を働かず、彼らが日本の法律に背いても見逃していたので、恨まれるようなことがなかったのである。

    彼は過去の経歴のことで誤解をうけたが、自分のしたことを一度も口に出さなかった。普通の人だったら誤解を解くためにも、わたしに手紙を出したはずだが、彼はそうしなかった。

    祖国解放戦争ののち数年たって、わたしは順川にいる洪鐘宇を探し出した。探し出してみると彼はすでに還暦をすぎた年寄りだった。それでもわたしは、彼を道幹部学校へ送って勉強させた。

    洪鐘宇は道幹部学校を出てからも、その性分にたがわずつつましやかに、静かに暮らした。彼は晩年をそっくりわたしの父の革命事績の発掘にささげた。

    洪鐘宇のように国と民族のために信念をもって生きようと決心した人には、巡査の制服や職業が問題にならなかった。要は職業や服装ではなく、思想と精神にあるのである。

    次代の教育は、八道溝時代にも依然として父が関心を払った分野だった。父は教師の肩書きを医師の肩書きにかえたあとも、教壇に立っていたときのように次代の教育に多くの力をそそいだ。学校や夜学を通して大衆を啓蒙し、有能な人材をどしどし養成してこそ、国を取りもどし、富強な独立国家を建てられるというのが父の信念だった。

    1924年の夏、三源浦では朝鮮小学校教員のための夏期講習会が開かれたが、そのとき、生徒に教える教育の内容や歌の曲目は父が具体的に決めたものだった。

    父の努力によって、八道溝の谷間に朝鮮人学校が設立された。この学校には葡坪の青少年もやってきて、自炊をしながら朝鮮語を学んだ。父はつねづねこういっていた。

    「次代の教育は国の独立と建国の基礎だ」

    「人間は読み書きができなければ獣と変わらない。読み書きができてこそ、人間の本分をつくし国も取りもどせるのだ」

    わたしは父のこの言葉を銘記して熱心に学んだ。わたしの通った八道溝小学校は4年制の中国人学校で、授業は中国語でおこない、課目も中国のものだった。市内には朝鮮人学校がなかった。

    それで、わたしは家に帰ると、父から個人教授をうけた。父はわたしに朝鮮語と地理、朝鮮史を教え、レーニンや孫文、ワシントンなど世界の偉人についても話してくれ、また進歩的な小説や書籍を何冊か指定し、読んだあとで感想を発表するよう系統的に読書指導もした。そのおかげで、わたしは『朝鮮の偉人』『朝鮮英雄伝』『露国革命史とレーニン』といった本や新聞、雑誌をたくさん読むことができた。父はわたしの勉強をきびしく監督した。勉強を怠ると、わたしや弟の哲柱はいうまでもなく、亨権叔父まで前に立たせてふくらはぎを鞭で打った。 母もわたしの勉強に関心を払った。わたしが学校から帰って山に柴刈りにいこうとすると、母は「柴刈りはいいから、勉強しなさい」といっては、多くの時間を勉強にあてるようにしてくれた。

    わたしは、母が着るものも満足に着られず苦労しながらも、わたしのためにそのように気を配るのを見て、どうすれば母に喜んでもらえるだろうかといつも思案した。それで、運動靴を買うようにと母がくれた金を持って葡坪に行き、母のゴム靴を1足買って帰ったことがある。

    すると母は「おまえは幼くても考え深いんだね。母さんは靴なんかどうでもいいんだよ。おまえたちが熱心に勉強してりっぱな人になってくれれば、母さんはうれしいのよ」といった。

    母は、わたしが明るく朗らかに育つよう真心をつくした。 それで、わたしはいじけることもなく、楽天的に育つことができた。思えば、わたしのいちばんの腕白盛りは八道溝時代だったようである。ときには、大人が舌打ちするほどのいたずらをしたこともあった。だが、いたずらのない少年時代をどうして少年時代だといえよう。 鴨緑江の氷に幅1メートル以上の大きな穴をうがって、川辺に1列に並び、その穴を飛び越えて遊んだ八道溝時代の冬を思うと、いまでも70年前の童心がよみがえるような思いがする。わたしたちは、あの氷の穴を飛び越せない子は、大きくなって朝鮮の軍人になる資格がないといって、その穴を飛び越えた。子どもたちは朝鮮の軍人になれなくてはと、氷の穴めがけて懸命に走ったものだった。歩幅の小さい子や臆病な子は氷の穴を飛び越えることができずに、穴の中へ落ちることがあった。そんなとき、濡れネズミになった子の家では、火鉢で服を乾かしながら、あの平壌の家の成柱のために村じゅうの子が凍えてしまいそうだ、といって嘆いた。成柱が八道溝の大将だといううわさが立っていたので、村の大人は自分の子のことをこぼすたびに、わたしの名を引き合いに出したものである。

    ときには、夜遅くまで八道溝の裏山で兵隊ごっこをして、さんざん大人の気をもませたこともあった。そんなときは、八道溝の人たちが夜通し眠れずにわたしたちを探して歩いた。そんなことがたびたび重なったので、大人たちは子どもをきびしく見張った。しかし、果てしない大空にはせる自由奔放な童心をどうして閉じこめておくことができよう。

    あるとき、わたしと一緒に勉強していた金鐘恒が、彼の家の倉庫にある雷管箱から雷管を一つ持ち出してわたしたちに自慢した。その倉庫には独立軍部隊に送る武器や被服、履き物がうずたかく積まれていた。金鐘恒の兄たちは日本の会社の代理店を通して、作業服や地下足袋などを多量に仕入れ武装部隊に送っていた。彼らは独立軍に物資を送るため、2隻の船と馬をそろえて各地を往来し、商品を大量に卸し値で買ってきた。

    わたしたちはその日、火鉢を囲んでカボチャの種をかじりながら遊んだのだが、金鐘恒は雷管を唇にあててさかんに口笛を吹いた。そのうち、雷管に火花が飛んで爆発した。そのおかげで、彼は体じゅうに傷を負った。

    彼の兄は彼を布団袋にくるんで背負い、わたしの父のところへ飛んでいった。雷管のために傷を負ったことが警察に知れるとたいへんなことになるので、父は金鐘恒を家にかくまって20余日のあいだ治療した。

    わたしはそんなことがあってから、金鐘恒一家が独立軍部隊に軍需物資を調達する愛国商人であることを知った。

    そのころは、まったく分別がないといえるほどの冒険もした。それでも、わたしの心の影は晴れなかった。

    成長するにつれて、わたしの心には亡国の苦悩がつのるばかりだった。

    

    

    

    5 『鴨緑江の歌』

    

    

    

    1923年の初め、父はわたしを前に座らせて、小学校を卒業する日も遠くないが、この先どうするつもりかとたずねた。

    わたしは、上級学校に進んで勉強をつづけたいと答えた。わたしを上級学校へ上げるのは父や母の平素からの希望でもあった。それなのにあらたまって将来の抱負を聞かれたのだから、わたしはちょっといぶかしく思った。

    父は慎重な面持ちでわたしを見つめ、これからは朝鮮に行って勉強をするのがよいといった。

    その言葉もやはり、わたしには思いがけないことだった。朝鮮に帰って勉強するには親の膝元を離れなければならない。わたしはそんなことを考えたことがなかった。

    そばで針仕事をしていた母が驚いて、まだ年端もゆかないのに、どこか近くの学校へやってはいけないだろうかといった。

    父はすでに決心をしているようだった。当分はさびしかろうが、ぜひ成柱を朝鮮にやるべきだ、と父はくりかえした。父は一度いった ことはたやすく取り消すようなことをしなかった。おまえは小さいときから親について歩いて苦労した。これから朝鮮に行けばもっと苦労するだろう。それでもお父さんは、おまえを朝鮮に送ろうと決心した。朝鮮に生まれた男児なら当然、朝鮮をよく知るべきだ。おまえが朝鮮で、わが国がどうして滅んだかをはっきり理解するだけでも大きな収穫だ。故郷へ帰って、人民がどれほど悲惨な暮らしをしているかを体験するがいい。そうすれば、おまえは自分のなすべきことをおのずと悟るだろう。

    父はこのようなことを真剣な表情で語った。わたしは父の志を体して、朝鮮に行って勉強すると答えた。そのころは、朝鮮でも金持ちの子弟は先を争って外国へ留学したものだった。アメリカや日本のような国に行ってこそ、知識が開け、学問も修められるというのが、一つの風潮となっていた。それでわれもわれもと外国へ行っているとき、わたしは朝鮮へ帰ることになったのである。 父の考え方は一風変わっていた。わたしはいまも、あのとき父がわたしを朝鮮に送ったのは正しかったと思っている。いずれにせよ、父は11にもならない息子を人跡まれな100里の道のりを1人で旅立たせたのだから、尋常な性分ではなかった。それがかえって、わたしには力となり信頼となった。正直にいって、あのときの気持はそう単純なものではなかった。

    祖国へ帰って勉強せよというのだから異存はなかったが、父母や弟と別れるのがつらかった。それでも故郷へ行ってみたいという気持は強かった。祖国にたいするあこがれと、一家だんらんの雰囲気から離れたくないという未練が執拗に交差する複雑な心のうねりのなかで、わたしは落ち着かない気持で数日をすごした。母は父に、せめて少し暖かくなってから行かせてはどうかといった。幼い子に1人で100里の旅をさせるのだから、母が心配するのももっともなことだった。父はそれにも同意しなかった。

    母は100里の旅をするわたしのことを内心気にかけながらも、父が計画した日にわたしを発たせようと、夜を明かしてトゥルマギ(周衣)とポソン(朝鮮の足袋)をつくった。父がいったん決心したことだったので、母はなにもいわなかった。それが母の気性でもあった。出発の日をひかえて父はわたしに、八道溝から万景台まで100里だが、1人で行けるかとたずねた。わたしは行けると答えた。すると父は、わたしの手帳に路程図を書いてくれた。厚昌、和平などと地名を記し、各地点間の里数も書きこみ、電報は2度打つことにし、1度は江界で、そのつぎは平壌で打つようにといった。わたしが八道溝を発ったのは陰暦正月の晦日(陽暦3月16日)だった。朝から吹雪で、風がたいへん強かった。八道溝の友人たちがわたしを見送ろうと、鴨緑江を渡って厚昌の南側まで12キロもついてきた。道づれになってやるといってどこまでもついてくるのを、やっと説得して帰した。

    いざ旅に発ってみると、さまざまな想念が1度に頭の中で渦巻いた。100里の道程のうち、50里は人跡まれな山や峰のつらなる険しい地帯である。それらの高い山を1人で越えるのはたいへんなことだった。厚昌から江界にいたる道の両側に広がる樹林には、昼間も猛獣が出没した。

    あのとき、100里の道を歩いた苦労はたいへんなものだった。直嶺や狗峴(明文峠)のような峠を越えるときはさんざんな目にあった。五佳山嶺は1日がかりで越えた。歩いても歩いても果てがなく、峠の向こうにつぎつぎと峠があらわれた。

    五佳山嶺を越えると足に水ぶくれができた。幸いに嶺の下で会った老人が、足の裏のまめをマッチの火で焼いてくれた。

    月灘をへて五佳山を越えたあと、和平、黒水、江界、城干、前川、古仁、清雲、熙川、香山、球場をすぎ价川まで来て、そこから汽車に乗って万景台にたどり着いた。

    价川から新安州まではニキーシャというイギリス製の小さい機関車が引く軽便鉄道が敷かれ、そこから平壌までは現在のような広軌鉄道が敷かれていた。价川から平壌までの運賃は1円90銭だった。わたしは100里の道を歩きながら、多くの親切な人たちに会った。あるときは、あまりにも足が痛んで通りすがりの農民の橇に乗せてもらった。別れるときお金を出すと、その金で飴を買ってくれた。

    なかでも忘れられないのは、江界旅館の主人だ。夜遅く江界市内に着いて宿屋を訪れると、彼が門の外で親切に出迎えてくれた。新式の髪形をして、パジ、チョゴリを着た背の低い人で、親切でうちとけやすかった。彼は父から電報をもらって、わたしを待っていたといった。

    わたしの父を「金先生」といって尊敬していた宿屋の老婆もわたしを見ると、4年前、父に手を引かれて中江に向かっていたときは小さかったのに、こんなに大きくなったのかと孫にでも会ったかのように喜んだ。老婆はとっておいた牛のばら肉の汁を温めたり、ニシンを焼いたりして、自分の孫たちにもたべさせないでわたしをもてなした。 晩には新しい布団を出してくれた。このように宿屋の人たちはわたしに誠意をつくしてくれた。

    翌朝、わたしは江界郵便局で、父にいわれたとおり八道溝の父母に電報を打った。電文1字につき3銭で、6字を越すと1字ごとに1銭ずつ割増し金を払わなければならないといわれたので、発信紙に「穐泳桂此勘峻(江界無事到着)」の6字を書きこんだ。

    あくる日、宿屋の主人はわたしを車に乗せて送ろうと自動車事業所へ行ってきた。彼は、車の故障で10日ほど待たなければならない、予約をしておいたから親戚の家に来たつもりで待つようにと勧めてくれた。わたしは、好意はありがたいが早く発たなければならないと答えた。彼はそれ以上引きとめようとせず、わらじを2足くれ、狗峴の方に行く牛車を世話してくれた。 价川駅前の西鮮旅館の主人も心のやさしい人だった。そこで宿をとったわたしは、15銭の食事を頼んだ。宿屋の食事にも等級があって、そこでは15銭のものがいちばん安かった。主人はそれには関係なくわたしに50銭の食事を出してくれた。わたしは金がないので、50銭の食事はとれないというと、彼はお金のことは心配しないで食べるようにといった。

    宿屋ではまた、客に敷布団と2枚の毛布を出して50銭ほど取った。ふところに残った旅費を計算してみると、毛布を2枚もかけるゆとりはなかった。それでわたしは、毛布を1枚だけくれといった。主人はそのときも、他の客がみな布団を敷き、毛布を2枚かけて休むのに、1枚だけかけるのはよくない、金はいらないから安心して使うようにというのだった。

    朝鮮人は国を奪われて亡国の民となり、貧しく暮らしてはいたが、祖先伝来の人情と良風美俗はそのまま受け継がれていた。今世紀の初めにしても、わが国には無銭旅行者が少なくなかった。自分の家や村を訪ねてくる旅人には、金を払わなくても、食事をもてなし泊めてやるのが朝鮮の風習だった。そんな風習は西洋人もうらやましがったものである。わたしは100里の道を歩きながら、朝鮮民族が善良で道徳的な民族であることを痛感した。

    西鮮旅館の主人も江界や中江の宿屋の主人と同様、父の指導と影響をうけた人だった。七つのとき中江に移っていくときも感じたことだったが、父にはそのような同志や知己が行く先々にいた。

    わたしは、わたしたち一家を身内のように喜んで迎え、世話をやいてくれる人たちを見ると、父はいつ、あんなにたくさんの人と親しくなったのだろう、あのような同志を得るためにどれだけ足を運んだことだろうか、と思った。

    各地に友人がいたので、父は旅先で、なにくれとなく彼らの世話になった。わたしもずいぶん彼らの世話になった。

    100里の道を歩いたときの印象のうち、いまも忘れられないのは、4年前まで灯油をともしていた江界市に電灯が明るくともっていることだった。江界の人たちは電気が引かれたと喜んでいたが、わたしは日本化が進む町の風景を見ると、うらさびしい思いをおさえられなかった。

    祖国にわたしを送るとき、朝鮮を知らなければならないと切々と語った父の言葉の意味がひしひしと胸にくいこんできた。わたしは父の言葉を噛みしめながら、悲運にとざされた祖国の姿に目をこらした。 わたしにとってこの100里の道のりは、祖国を知り、人民を知るようにしてくれたりっぱな学校だった。

    八道溝を発ってから14日目の1923年3月29日の夕暮れ、わたしはついに生家の庭に足を踏み入れた。

    とっつきの間で糸車をまわしていた祖母が履き物もはかずに庭に飛び下りて、わたしを抱きしめた。

    「誰と一緒に来たんだい?」

    「なにに乗ってきたんだい?」

    「父さん、母さんは達者かい?」 祖母はわたしに返事をするいとまも与えず、一気にいろいろなことをたずねた。 部屋でむしろを編んでいた祖父も飛び出してきた。

    祖母は、1人で歩いてきたというわたしの返事がすぐには信じられず、「なんだって、ほんとうに1人で来たというのかい?おまえの父さんは虎よりもこわい人だよ」といって舌打ちした。

    その日は家じゅうの者が集まって、わたしの話を聞きながら夜を明かした。

    山河は変わりなく情趣にあふれ、美しかったが、村のすみずみには貧困の色が以前より濃くにじみでていた。

    わたしは万景台で何日かすごしてから、外祖父が学監を勤めている彰徳学校の5学年に編入し、祖国での勉強をはじめた。わたしはチルゴルの母の実家に寄宿して学校に通うことになった。

    じつは、母の実家はわたしを世話するだけのゆとりがなかった。そこでは外伯父の康晋錫のことでとりこんでいた。外伯父が投獄されてから警察の監視と迫害がきびしくなり、獄中の外伯父の健康も思わしくなかったので、家じゅうの者が心を痛めていた。暮らし向きも、引き割りがゆやおからを混ぜたご飯で口すぎをしているありさまだった。2番目の外伯父は百姓仕事だけでは暮らしが立たないので、牛車を引いてかろうじて生活難を打開していた。

    しかし母の実家では、わたしの前では生活の苦しさをそぶりにも見せず、わたしが勉強に打ちこめるよう気をつかった。わたしのために、母屋の奥の間をあけ、石油ランプをつるし、ござを敷いてくれた。わたしの友達が3人、4人とおしかけてきてもいやな顔をしなかった。彰徳学校は、外祖父をはじめチルゴル一帯の先覚者が愛国文化啓蒙運動の時勢に乗って、国権の回復につくそうとして建てた進歩的な私立学校だった。 旧韓国末期と「韓日併合」後、わが国では救国闘争の一環として愛国的な教育運動が猛烈に展開された。国権喪失の恥ずべき本源が国の後進性にあることを痛感した先覚者や愛国志士は、教育こそ国家発展の礎であり根本である、教育の振興なくしては国の独立も社会の近代化も望めないと悟り、各地で私立学校設立の運動をくりひろげた。この運動の先頭には安昌浩、李東輝、李昇薫、李商在、兪吉浚、南宮檍などの愛国的な啓蒙運動家が立っていた。各地に組織された学会でも教育運動をおし進めた。全国を巻きこんだ教育文化運動の熱風のなかで、数千校の私立学校が生まれ、封建のきずなのなかで眠りこんでいた朝鮮の知性を呼びさました。孔子、孟子の教理を説いた書堂が新式学問を教える学堂や義塾に改編され、青少年に愛国心を鼓吹したのもそのころだった。民族主義運動の指導者たちは例外なく、教育を独立運動の出発点とみて財力と情熱をそそいだ。テロリズムを独立運動の基本方策にして、李奉昌、尹奉吉の義挙のような世人を驚かす事件をたえず背後で指揮してきた金九も、初期には黄海道一帯で教育事業にたずさわっていた。安重根も南浦地方で学校を設立し、青少年を教育した知識人だった。

    西朝鮮地方の有名な私立学校は、安昌浩が主管した平壌の大成学校と李昇薫が私費を投じて設立した定州の五山学校だった。これらの学校からは著名な独立運動家や知識人が輩出した。

    外祖父は、彰徳学校から安重根のような人物が1人だけ出ても光栄だといい、わたしに熱心に勉強し、りっぱな愛国者になるようにと励ました。

    わたしは、安重根のような有名な烈士にはなれないまでも、国の独立のために身を投げ出す愛国者になると答えた。

    彰徳学校は西朝鮮地方の私立学校のなかでもかなり規模の大きい近代化された学校で、200人以上の子どもたちが学んでいた。当時としては小さい学校でなかった。学校が一つあれば、それをよりどころにして周辺の住民をすみやかに啓蒙することができた。それで、平壌地方の住民と有志は彰徳学校を重視し、各方面から学校の後援を惜しまなかった。

    白善行も彰徳学校に巨額の資金を寄付した。本名よりも白後家という通り名で知られている彼女は、解放前、平壌の慈善事業家として名声が高かった。20前に夫に死に別れた彼女は、80の老齢になるまで独身ですごし、小銭を集めて金持ちになった。金の儲け方が大胆、独特で早くから話題になった。現在、勝湖里セメント工場に属している石灰石鉱山の土地も、一時は彼女の所有地だったという。彼女が見捨てられていた禿山を捨て値で買い取り、日本の資本家に買い値の数10倍の高値で売ったのが、現在、勝湖里セメント工場に属している石灰石鉱山の土地だという。

    1枚の文書で国土を日本帝国主義者に売り渡した逆臣を弾劾する声が天を衝いているとき、ソロバンすらはじけない平凡な女性が、勘定高い日本の資本家と取り引きして莫大な利益を得たといううわさを聞いて、人びとは武勲談を聞くように痛快がった。

    白善行が人びとの尊敬をうけたのは、彼女が社会のために多くの有益なことをしたからだった。彼女は巨富を得たが富貴な生活を好まず、きわめて質素に暮らし、一生をかけて蓄えた財産を社会のために惜しみなく使った。その金で橋をかけ、公会堂を建てた。彼女の金で建てた平壌公会堂の建物は、いまも練光亭の前に原状のまま残っている。

    勉強をはじめて数日後のある日、外祖父はわたしに5学年用の新しい教科書を持ってきてくれた。わたしは一かかえもある本をもらって、胸をときめかせながら教科書を1冊1冊広げてみた。ところが『国語読本』をめくってみて気分が悪くなった。それは日本語の教科書だった。

    日本帝国主義者は朝鮮民族の「皇民化」をはかって、日本語の常用を強制した。占領初期すでに、彼らは官公庁や裁判所、学校における公用語は日本語にすると公示し、朝鮮語の使用を禁じた。

    わたしは外祖父に、日本語の本をどうして国語読本だというのかとたずねた。外祖父はなにもいわずに溜息をついた。

    わたしは小刀で『国語読本』の文字のうち「国」の字を削りとり、そこへ「日」の字を書き入れた。『国語読本』が簡単に『日語読本』になってしまった。日本の同化政策にたいする抵抗心がわたしにそうさせたのである。

    彰徳学校にしばらく通っているうちに、教室や道路、遊び場などで日本語で話をする子らに行きあうことがあった。友達に日本語を教える子もいた。それを恥としたり、悪いと思う子もいなかった。国が滅んだので、朝鮮語もなくなってしまうと思ったのだろう。

    わたしは日本語を習おうとあくせくする子に、朝鮮人は当然朝鮮語をつかうべきだと言い聞かせた。

    わたしが八道溝から祖国に帰り、チルゴルへ行った日、村人たちは時勢の話を聞こうと母の実家に集まってきた。そして満州で何年も暮らしたので、中国語が達者なはずだから、ひとつ聞かせてもらおうかといった。彰徳学校では子どもたちが中国語を教えてくれとせがんだ。しかしわたしは、りっぱな自分の国の言葉があるのに外国の言葉をつかう必要はないと断った。

    わたしは祖国に来て、たった1度中国語をつかったことがある。 ある日、外伯父が城内へ見物に行こうとわたしを誘った。いつもは仕事に追われて見物などに出かけることのない外伯父だったが、その日は、わたしのためにわざわざ時間を割いたのだった。久しぶりに帰郷したのだから、きょうは外で一緒に昼食でも食べようといって、わたしを平壌城内へ連れ出したのだった。わたしたちは市内をひとまわりぶらついてから、昼食をとろうと西平壌の中華料理店に入った。いまの烽火山ホテルの界隈には中華料理店が数軒あった。 料理店では売り上げをあげようと、店の主人が出入口に立って「いらっしゃい」「いらっしゃい」といって、愛想よく客を迎え入れた。彼らは金を儲けるために、他の店と張り合って客を誘っているのである。

    わたしたちが入った料理店の主人は、たどたどしい朝鮮語でなににするかとたずねた。わたしは主人がはっきり聞きとれるように、中国語で焼餅(中国風の焼パン)を2皿注文した。主人は目を丸くしてわたしを見つめ、中国人の子ではないかとたずねた。

    わたしは、そうではないが何年か満州に住んでいたので中国語を少し話せると答え、中国語でしばらく話した。料理店の主人は、幼いのに中国語がたいへん上手だといって喜んだ。そして、満州に住んでいた子に会えたので、祖国が思い出されてならない、といって涙ぐんだ。

    主人は焼餅のほかにも、注文もしていない料理を食卓に並べ、たくさん食べてくれといった。わたしたちは最初は遠慮したが、結局主人からふるまわれた料理も食べた。食事を終えてから勘定をしようと金を出すと、主人は焼餅代も受け取らなかった。

    外伯父は家に帰る道すがら、きょうは自分がおごるつもりで出かけてきたのに、おまえのおかげで思わぬご馳走になったなと大声で笑った。この話は外伯父を通して村じゅうに広がった。

    わたしは希望どおり康良煜先生が受け持つ学級に編入された。 わたしがチルゴルに行ったのは、康良煜先生が崇実学校を中退し、彰徳学校に就職して間もないころだった。先生は、学費がつづかず中退したといって残念がった。暮らしがあまりにも貧しいので、先生の夫人(宋石貞)が実家へ逃げ帰ったほどだった。夫人の両親は、おまえは人徳に乏しく「糟糠の妻」とはたたえられないまでも、貧乏が辛抱できないで夫を捨てるとはあきれた女だ、それくらい貧しくない朝鮮人がいまどきどれほどいるというのだ、嫁にいけば飽食暖衣の結構な身分になるとでも思ったのか、つべこべいわずに早く帰ってわびを入れるのだ、ときびしく叱責して夫人を追い返したという。この話だけでも、康良煜先生一家の暮らし向きのほどがおしはかれるであろう。

    わたしは先生の夫人を、粛川のおばさんと呼んだ。夫人の故郷が平安南道の粛川だったからである。わたしが遊びにいけば、粛川のおばさんはいつもおから飯を炊いてくれた。それがまた、たいへんおいしかった。

    解放直後、康良煜先生の誕生祝いにいったわたしは、夫人と彰徳学校時代のおから飯を思い出したことがある。

    「おばさん、わたしはいまでも、チルゴルでおばさんが炊いてくださったおから飯のことを折りにふれて思い出します。あのころはずいぶんおいしくいただいたものです。20余年も他郷で暮らしたものですから、お礼もいえませんでしたが、きょうはそのお礼をいわせてください」

    わたしの言葉に夫人は、「貧乏なものでお米がなく、おからのご飯しか出せなかったのに、お礼だなんてとんでもないことです。おからのご飯がおいしいといったところで、知れているではありませんか」 といって涙ぐんだ。そして、彰徳学校時代に将軍のもてなしをおろそかにした償いをするといって、手づくりの料理をもてなしてくれた。ある年、夫人はわたしの誕生日を祝って、手ずから仕込んだ百花酒という酒を贈ってくれた。百花酒とは百種の花でつくった酒のことである。 その風流な名には好奇心をそそられたが、わたしはすぐには杯を傾けることができなかった。1椀の白米のご飯さえ食べることができず、いつも腹をすかせていたあのころの夫人の姿が目の前に浮かんで、杯をあげることができなかったのである。

    国を失った民族の悲哀を骨身にしみて体験したわたしには、故郷の一本の草木や一株の穀物が以前より何倍も貴重に思えた。それに、康良煜先生が子どもたちにたえず民族意識を鼓吹したので、わたしは家庭でも学校でも愛国的な影響を多くうけたわけである。そのころ、先生は子どもたちに愛国心を植えつけるため、たびたび遠足や修学旅行を催した。

    なかでも黄海道の正方山への修学旅行が印象深かった。 解放後、康良煜先生が最高人民会議常任委員会の書記長や共和国副主席を歴任した関係で、わたしは先生と仕事のうえで会う機会が多かった。そんな機会に、われわれは彰徳学校時代の修学旅行や、正方山の成仏寺、南門楼について感慨深く回想したものである。彰徳学校時代の追憶のうちでいま一つ忘れられないのは、康良煜先生の唱歌の授業である。それは、わたしたちが待ち遠しく思う時間の一つだった。

    先生は玄人はだしのテナーだった。その美声で先生が『前進歌』や『少年愛国歌』をうたうときは、子どもたちは息を殺して聞きほれたものだった。

    いまにして思えば、先生が教える唱歌のメロディーは、わたしたちに愛国的な情緒をはぐくんでくれたのである。わたしはその後、抗日武装闘争の時期に彰徳学校時代に教わった歌をしばしばうたった。あのころ教わった歌の歌詞やメロディーは、いまでもはっきり覚えている。

    祖国に帰ってみると、故郷の人たちの暮らしは以前よりもはるかに苦しくなっていた。

    毎年、春の種まきの時期になると、極貧家庭の子どもたちは学校に来られなかった。農作業が忙しいうえに食糧が切れ、ツルボ、ナズナ、ヒルガオなどの根を取って食糧の足しにしなければならなかった。市日には山菜を売って食糧を買おうと市内に行く子や、親の手伝いで幼い弟の子守をする子もいた。貧しい家の子は、アワやモロコシ、ヒエの飯で弁当を包んできた。それさえなくて弁当を持たずにくる子も少なくなかった。

    チルゴルや万景台には、家庭の事情で学校へ通えない子が大勢いた。わたしは学校へ行けずに家にいる子を見ると、気の毒でならなかった。

    わたしはそんな子どもたちのために、学期末休暇に万景台へ行って夜学を開いた。学校へ通えない子どもたちを夜学に集めて読み書きを教えることにしたのである。最初は1学年用の『朝鮮語読本』を使って朝鮮語からはじめた。そのあと課目を増やして歴史、地理、算数、唱歌も教えた。それはわたしの一生で最初の素朴な啓蒙活動だった。

    わたしは友達と連れ立ってたびたび城内に行っては、平壌市民の暮らし向きも万景台やチルゴルの人たちとあまり変わらないことを知った。

    平壌の人口は10万だったが、そのうち生活を楽しんでいるのは少数の日本人とアメリカ人だけだった。アメリカ人は平壌でも景色がいちばん美しい新陽里一帯に邸宅を構えて豪奢な生活をし、日本人は平壌一の繁華街といわれる本町や黄金町一帯に居住地域をしめてぜいたくに暮らしていた。

    アメリカ人の住む「西洋村」や日本人居住地域にはレンガ造りの家屋や商店、礼拝堂が増えたが、普通江一帯やペンテ通りには貧民窟が増えた。

    いまは普通江の岸辺にチョンリマ通り、慶興通り、烽火通りといった近代的な街が建設され、人民文化宮殿、平壌体育館、アイススケート・リンク、ヘルス・センター蒼光院、超高層住宅のような大きな建物がそびえて、昔の姿を探すすべもないが、わたしが彰徳学校に通ったころは、そのあたりに掘っ立て小屋がひしめきあっていたものである。 わたしが祖国に帰った年は、平壌地方に伝染病まではびこって市民が難儀をしていた。そのうえ、洪水の被害まで重なって全市民が筆舌につくしがたい苦しみをなめた。『東亜日報』はその年の水害の惨状を伝え、平壌市内総戸数の半数におよぶ1万余戸の家屋が浸水の被害をこうむったと報じた。

    いま、普通江広場の裏手に世界最大の105階建て柳京ホテルが建設中であるが、その一帯でわたしたちの祖父母がどんなにみすぼらしい小屋に住み、苦しい生活をしたか、いまの若い人たちには想像すらできないであろう。

    わたしはあの当時、そうした現実にふれながら、勤労人民が豊かに暮らせる社会を渇望し、日帝侵略者と地主、資本家をいっそう憎むようになった。

    わたしが彰徳学校に通っていたころ、日本で関東大震災があった。そのうわさがチルゴルにも伝えられて、生徒たちを激昂させた。朝鮮人が地震をよいことにして暴動を企てている、というデマを流した日本の右翼が軍隊を動員して、数千人の朝鮮同胞を虐殺したというのだ。 この事件はわたしに大きな衝撃を与えた。

    わたしはそのうわさを聞いて、日本は口先では「一視同仁」とか「日鮮融和」を唱えているが、実際は朝鮮人を犬畜生のように見ていることをあらためて痛感した。

    それからというものは、わたしは日本の巡査が乗りまわす自転車を見ても黙っていなかった。板に何本も釘を打ちつけて道路に埋めておけば、どんな自転車でも間違いなくタイヤをパンクさせることができた。

    日帝を憎み祖国を愛する思想と感情は、わたしたちがつくった音楽遊戯『13の家』にも表現されている。その音楽遊戯は、13人の児童が舞台にあがって歌をうたいながら、ボール紙でつくった13道の地図を貼りつけて朝鮮地図を仕上げていく踊りである。

    1924年秋の運動会ではこの音楽遊戯を上演したのだが、公演の最中に運動場に巡査があらわれて、すぐ中止しろと怒鳴った。小さな運動会をするにもあらかじめ警察当局の許可をうけなければならなかったし、たとえ許可をうけたにしても巡査の立ち会いのもとでしなければならない時世だった。

    わたしは康良煜先生に、自分の国の山河を愛し、歌や踊りをするのがどうしていけないのか、彼らがなんといおうと公演をつづけるべきだと主張した。

    康良煜先生がほかの教師たちと一緒に巡査の不当な干渉に抗議したので、『13の家』の公演をつづけることができた。

    わたしたちのような小学生ですら、このように強い愛国心と反抗心をいだいていたのだから、大人たちのことは言わずもがなである。わたしが祖国に帰った年の夏、平壌では靴下工場労働者のストライキがあった。新聞がこの争議を大々的に報道した。わたしはそのニュースを聞いて、日本は欺瞞的な「文化統治」にしがみついているが、いまに3・1人民蜂起よりも規模の大きな抵抗にぶつかるだろうと思った。

    このように2年をすごし、彰徳学校の卒業を数か月後にひかえたある日、外祖父から、父が再び日帝警察に逮捕されたという思いがけない知らせを聞いた。天が崩れ落ちる思いだった。わたしは激しい憤怒と敵愾心に襲われた。チルゴルでも万景台でも、大人たちは顔色を変え、わたしの様子をうかがった。

    わたしは父の敵、わたしたち一家の敵、朝鮮民族の敵を討つために生命を賭してたたかおうと決心し、出発の準備をした。

    わたしが八道溝へ行くといいだしたとき、母の実家では、学校を卒業してから行くようにと勧めた。万景台の祖父もわたしをいろいろと説得した。何か月かすれば学校も卒業だし、天気も暖かくなるから、そのときに行くようにというのだった。

    わたしはそうすることができなかった。父に不幸が襲ったのに、わたしがどうして安閑とここで勉強をつづけていられようか。一刻も早く行き、幼い弟たちを連れて苦労している母を助けなければならない、わたしはこれからどこへ行こうとも無駄には死ぬまいと思った。わたしの決心をひるがえすことができないと知った祖父は、それでは決心どおりにするがよい、父が獄につながれたのだから、これからはおまえが出る番だといった。あくる日、わたしは身内の人たちに見送られて故郷をあとにした。

    その日、祖父母も泣き、叔父も泣き、家族みんなが泣いた。

    わたしを平壌駅まで見送った外伯父(康昌錫)もむせび泣き、チルゴルの同級生康允範も泣いた。

    彰徳学校時代の同級生のうちでいちばん親しかったのは康允範だった。彼も気の合った友達がいなかったので、よくわたしの家に遊びにきた。わたしたちは、なにかにつけて城内に出かけたものだった。発車時間になったとき、康允範はわたしに弁当と1枚の封筒をくれた。そして、君とここで別れたらいつまた会えるかわからない、別れるのがさびしくて 2、3行したためた、汽車のなかであけてみるようにといった。わたしは彼にいわれたとおり、汽車が動きだしてから封筒をあけてみた。封筒の中には短い手紙とお金が3円入っていた。 わたしはそれを見て胸が熱くなった。よほどの友情がなければ、とてもそんなことができるものではない。あの時節、子どもが3円の金を工面するのはまず不可能ともいえた。わたしは父の敵を討とうと出発はしたものの、じつは旅費が心細かった。康允範は、そのわたしを窮地から救ってくれたのである。彼がそれだけの金をこしらえるのはたいへんだったに違いない。解放後、彼がわたしを訪ねてきたとき、さっそく 20年前餞別をもらって大助かりしたと礼を述べると、彼は、実際、金を工面するのが容易でなかったと打ち明けた。それはまったく財産家の100万円にもまさる金額だった。清らかで美しい友情のこもったあの3円の値打ちをいったいなんで測れようか。金から友情は生まれないが、友情からは金でもなんでも生まれるものだ。

    康允範はそのときわたしに、将軍は山で国を取りもどそうとして 戦ったが、自分はとりたててなにもしたことがないといった。それでわたしは、これから力を合わせて新しい国を建設しようではないかといった。わたしは彼に、建国事業で最大の難問は幹部が足りないことだが、学校を建てる仕事をなにか引き受けてくれまいかと頼んだ。彼は喜んで承知した。しばらくたって趙村に学校を建てた彼は、その名をつけてほしいといってきた。わたしは三興中学校と名づけてやった。 三興とは知・徳・体の三つを興すという意味で、深い知識、気高い道徳品性、壮健な体力をそなえようということである。

    康允範はその後、総合大学建設の重責をにない、その任務をりっぱに果たした。いまでは大学一つ建設するのはたいして問題にならないが、あのころは資金や資材が乏しく建設技能者も足りなかったので、困難が少なくなかった。彼は隘路にぶつかるとわたしを訪ね、わたしの家に泊まって夜通し相談をした。

    彼は解放の道に向かうわたしを見送ってくれた忘れえぬ同志であり、親友であった。わたしはいまでも、あの日、平壌駅でわたしを見送って涙ぐんでいた彼の姿が忘れられない。

    成柱!君と別れるのだと思うと涙が出てたまらない。いま別れたらいつまた会えるだろうか。ぼくたちは千里離れていても彰徳学校時代を思い出そう。故郷を思い、祖国を思おう。

    彼がくれた手紙には、こんな文章がしたためてあった。 わたしはそのような友情と信義に励まされ、険しい峠を一つひとつ踏み越えていった。万景台を発ってから13日目の夕方、葡坪に到着した。わたしは渡し場に着いてからもすぐには鴨緑江を渡る気になれず、土手の上にたたずんでいた。八道溝へ渡ろうにも、わたしが通ってきた祖国の山河がしきりにまぶたに浮かんで、わたしを引き止めるのだった。

    わたしが故郷を発つとき、しおり戸の外でわたしの手をなで、上着の襟を合わせてくれ、吹雪を心配して目をうるませた祖母や祖父の姿がまざまざと脳裏によみがえって、歩みを移すことができなかった。土手を越えて川を渡ったら、とめどなく涙があふれでそうに思えた。冷たい風が吹き荒れる国境に立ち、苦しみもだえる祖国の山河をふりかえって見ると、なつかしい故郷へ、故郷の家へ駆けもどりたい衝動に駆られた。

    祖国ですごした歳月は2年にすぎなかったが、その間わたしは多くを学び、体験した。

    もっとも貴重な体験は、朝鮮人民がどのような人民であるかを深く理解したことだった。朝鮮人民は素朴で勤勉、しかも勇敢で剛毅な人民である。困難や試練に屈しないたくましい人民、礼儀正しいうえ人情に厚く、しかも不義にたいしては決して妥協しない人民であった。 民族改良主義者は研政会の看板をかかげて反動的な「自治」運動をくりひろげていたが、労働者、農民、青年学生など広範な人民大衆は血を流して日本帝国主義に抵抗していた。わたしは彼らの姿から、いかなる力をもってしても傷つけることのできない民族の尊厳と鋼鉄のような独立の意志をはっきり読みとった。それ以来、わたしは朝鮮人民をこの世でもっともりっぱな人民だと思い、そのような人民を正しく組織し動員すれば必ず国を取りもどせるということを確信するようになった。

    わたしは「文化統治」の名のもとに増えてゆく日本の軍隊、警察、監獄や、祖国の財貨を洗いざらい奪い去る貨車や貨物船を見て、日帝こそ朝鮮人民の自由と尊厳の凶悪な圧殺者であり、朝鮮人民にたえがたい貧困と飢餓を押しつけるあくどい搾取者、略奪者であることを悟った。

    祖国の息づまるような現実を見たわたしは、朝鮮民族はもっぱらたたかいによってのみ日帝を駆逐し、独立した祖国で幸せに暮らせるということを確信した。

    祖国を一刻も早く取りもどし、それらすべてを永遠にわれわれのもの、朝鮮のものにしたいという願望がわたしの胸に炎のように燃えさかった。

    わたしは警官の目を避けて、葡坪渡し場の下手の方にもう少し下りてゆき、早瀬のあたりで鴨緑江の氷の上へ重い足を踏み出した。幅が30メートルそこそこの川を渡れば八道溝の市街があり、その川沿いの通りにわたしの家があった。しかし、わたしは川を渡ることができなかった。祖国を離れたらいつまた、この川を渡ってこられるだろうかという思いが胸をえぐった。

    わたしは後ろの土手に転がっている小石を一つ拾って握りしめた。

    祖国のしるしとなり、祖国を思い出させるものであったら、なんでも大事にとっておきたかった。

    その日、わたしは鴨緑江のほとりで、苦しい心理的体験をした。 その体験はわたしの胸にいやしがたい傷跡を残した。それでわたしは祖国に凱旋したとき、国内の愛国者がわたしを歓迎して催した宴会の席上でも、真っ先に鴨緑江を渡ったときの気持を語ったのである。 わたしは誰かがつくった『鴨緑江の歌』をくちずさみながら、ゆっくりと川の向こう側へ足を踏み出した。

    

    

    

         1919年3月1日

    

         この身 鴨緑江を渡りし日

    

         年ごと この日きたりても

    

         誓い果たさずんば われ帰らず

    

    

    

         鴨緑江の流れよ 祖国の山河よ

    

         故郷にまみえるは いつの日

    

         死しても忘れえぬ 誓いあり

    

         祖国をこの手に帰りなん

    

    悲憤やるかたなく、わたしは祖国の山河を何度もふりかえった。

    朝鮮よ、朝鮮よ、わたしはおまえのそばを離れてゆく。おまえと離れてはしばしも生きていけないわたしだが、おまえを取りもどすため鴨緑江を渡ってゆくのだ。鴨緑江を渡れば他国だが、他国に行ったとておまえを忘れられようか。朝鮮よ、わたしを待っていてくれ。こんなことを考えながら、再び『鴨緑江の歌』をうたった。

    わたしはその歌をうたいながら、いつまたこの地を踏むことができるだろうか、わたしが生まれ育ち、祖先の墓があるこの地に再び帰る日は、いったい、いつのことであろうか、こう思うと幼い心にも悲しみをおさえることができなかった。わたしはそのとき、祖国の悲惨な現実を目の前に描き見、朝鮮が独立しなければ再び帰ってはくるまい、と悲壮な誓いを立てたのである。

    

    

    

    6 わたしの母

    

    

    わたしが八道溝の町に足を踏み入れたときは、もう日が暮れていた。不安に駆られながら100里の道を歩いたわたしだったが、いざ家に着いてみると思わず緊張した。

    ところが、母は思いのほか落ち着いて余裕のある表情をしていた。母はわたしを抱きしめ、「お母さんはまだそんなことを1度も経験したことがないのに、おまえは1人で100里の道を行ってきたんだね。さすがに男の子だけのことはあるんだね」といって喜んだ。

    わたしは故郷の消息を手短に伝え、父の安否をたずねた。母は声を落として無事だと答え、ほかのことはなにもいわなかった。

    わたしは母の顔色を見て、父が一応難を逃れたものの、まだ、すっかり危険が去っていないので人目を忍び、用心をしているのだと気づいた。

    わたしは万景台を発つときにもらった旅費を切りつめて買ってきた菓子を弟たちに与えた。そして家族たちと夜通しつもる話をしたいと思った。

    ところが、夕食を用意した母はわたしに、ここは敵の監視がきびしいからすぐ発つようにというのである。父がどこにいるともいわずに、お父さんは無事にほかへ行っているから、おまえも行くのだというのだった。平素あんなにやさしくて慈しみ深い母が、わたしの気持にはおかまいなく、きびしい冬のさなかに100里の道を歩いて帰り、それも2年ぶりに会った息子を一晩も泊めずに、その夜のうちにまたほかへ発たせようとするのだった。わたしは呆然とした。弟たちも連れていくようにといわれてやっと、お母さんはどうするつもりですか、とたずねた。

    「母さんは新坡に出かけている叔父さんの帰りを待たなくてはならないんだよ。叔父さんが帰ったら家財を整理し、あとかたづけもしなくてはならないし。だから母さんの心配はしないで早く発ちなさい」

    母はこういった。そして臨江の盧京頭の家を訪ねていくようにといい、誰にも気づかれないようにそっと発つのだと念を押した。それから、宋監督に橇を頼んだ。

    宋監督は母の頼みを快く聞き入れた。彼の本名は宋秉徹だったが、まるで工事場監督のように威張りたがったので、八道溝の人たちは本名を呼ばずに彼を宋監督と呼んでいた。

    わたしたちは宋監督の世話で橇に乗り、臨江に向けて八道溝を発った。

    わたしは一生を革命運動にささげ、数知れぬ離別と出会いを経験したが、このときのような特異な出来事はあとにも先にも1度しかなかった。

    万景台からほぼ15日ものあいだ歩いて帰り、旅装を解くいとまもなく、その夜のうちにまたそこを発たなければならなかったわたしは、母のことが頭にこびりついて離れなかった。

    母はやさしく、温和な人だった。父は革命運動にたずさわったせいか、剛毅できびしかった。どちらかというと、あたたかい愛情をそそいでくれたのは母の方である。

    わたしが2年前、勉強をしに祖国へ行くことになったとき、わたしを手放すのをあれほど悲しんだ情深い母だった。

    万景台の祖母が、虎よりもこわい人だといったほどの父の前では、母もどうしようもなかったのであろう。じつはあのとき、わたしは母が人知れず泣いたと思っている。

    母の性分からして、それが息子でなくても、100里の道を歩いてきた13歳の子が日暮れに家の前を通りかかったとしたら、まず家に呼び入れてご飯を食べさせ、泊めてやったに違いない。

    ある年の春、川向こうの厚昌から左足と首すじにできものができて重態に陥った子が、伯父におぶさってわたしの家に来たことがある。家庭の不和で親が離婚し、伯父の家に身を寄せている気の毒な子だった。

    診察を終えた父が母に、この子は足を手術すれば当分歩けないだろうから、治るまで家においてやろうといった。母はそれがよいと、さっそく承知した。手術後、毎日1回、蜂蜜に小麦粉とソーダを混ぜた練り薬を傷口に貼ってやるのだったが、母は父の手助けをして、うみで汚れた傷口の手当てをしながらも、いやな顔を見せたことがなかった。

    真心をこめて看病したかいがあって、数日後、その子は全快し、家に帰ることになった。

    子どもを引き取りにきたその子の伯父が、わたしの父に1円札を1枚差し出し、「治療費を計算すれば何百円だしても惜しくないですが、暮らしが立たないもので、ほんの気持だけです。これでも治療費だと思って、どうかこのお金でお酒でも…」といって言葉じりを濁した。

    そばにいた母が「なにかと不自由している方に治療費など、そんな心配はしないでください。わたしはかえって、病気のお子さんに食事も満足にしてあげられなくて、心苦しいくらいです」といった。それでも、その子の伯父は、ぜひお金を受け取ってほしいといってきかなかった。金持ちならいざ知らず、山で松葉をかき集め、それを売って治療費を工面するほかなかったはずの人から1円の金を差し出されて、わたしの両親はすっかり当惑した。父は母の方をふりかえり、断れば誠意をむげにしりぞけることになるが、どうしたものかと困った顔をした。すると母は「誠意はうけなくてはいけません」というと、すぐ町に出かけてカナキンを5尺買ってきた。そしてそれをその子の手に持たせて、もうすぐ端午だから、帰ったら服をこしらえてもらうのよ、といった。当時、カナキン1尺が35銭だったから、患者が出した1円に75銭を足して、5尺の布地を買ってやったことになる。母は暮らしが貧しくても、打算や欲というものを知らなかった。

    「人間はお金がなくて生きられないのでなくて、寿命が足りなくて生きられないのだ」「お金はあってもなくなったり、なくてもまたできたりするものだ」

    これが母の信条だった。母はこのように心が清く、温厚な人柄だった。たまに父がなにか気に障って怒るようなことがあっても、「ごめんなさい」「気をつけます」と謝り、口答えをすることがなかった。わたしたちがいたずらをして衣服を汚したり、物をこわしたり、家の中で騒いだりして、祖母からなぜ子どもを叱らないのかといわれても、母は「そんなことで叱ることはありません」と答えるだけだった。革命運動にたずさわる夫を持ったのだから仕方がなかったにしても、たんに女性として見れば、母の生涯は力に余る苦労のしどおしだった。母は父とむつまじく暮らした日があまりなかった。父が独立運動に奔走していたので、おのずとそういうことになった。父が江東で教師をしていたころ、それでもおよそ1年間は楽しく暮らしたといえるだろうか。そして八道溝に移って1、2年父と一緒に暮らしたのがせいぜいというところではなかったろうか。父が下獄し、出獄後は病気をわずらい、また警察の監視をうけながら転々と居所を変え、死去したあとはわたしまで革命運動で家をあけたのだから、母は一家だんらんの楽しみを味わえず、一生気苦労がたえなかった。

    万景台にいたときも、母は12人もの大家族の総領の嫁としてなにかとせわしかった。夫とその親に仕えるのはいうまでもなく、掃除、食事のあとかたづけ、洗濯、機織りなどで休むまがなく、昼は終日野良で働いたので、頭を上げて空を仰ぐゆとりもなかった。封建色が濃く、礼儀作法のやかましかったあのころ、大家族の総領の嫁としての務めを果たすのは容易でなかった。まれにご飯を炊いても、母はせいぜいおこげを食べ、かゆを炊けば、いちばん薄いかゆをすすらなければならなかった。

    仕事がきつくてやりきれないと、母は叔母と連れ立って礼拝堂へ行った。松山はいま軍事大学のあるところで、そこに長老教系の礼拝堂があった。南里とその周辺にはキリスト教信者がかなりいた。現世では人間らしい生活ができないので、キリストの教えを守り、せめて来世でも「天国」に行きたいと思うのだった。

    大人が礼拝堂に行くときは、子どもたちもついていった。信者を増やそうと、礼拝堂ではときどき子どもたちに飴やノートをくれた。子どもたちはそれをもらう楽しみで、日曜日には連れ立って松山に出かけた。

    わたしも最初は好奇心に駆られて、友達と一緒にときどき松山へ行った。しかし、子どもの気持に合わない厳粛な儀式や牧師の単調な説教に嫌気がさしてからは、礼拝堂にあまり出入りしなかった。ある日曜日、わたしは祖母がつくった豆のおこしを食べながら父にいった。

    「お父さん、ぼく、きょうは礼拝堂へ行かないよ。お祈りするのを見ていてもつまらないもん」

    父は、まだがんぜないわたしを前に座らせてこういった。

    「行く、行かないはおまえの勝手だ。実際のところ礼拝堂にはなにもないのだから、行かなくてもいい。おまえはキリストよりも自分の国を信じ、自分の国の人たちを信じなければいかん。そして、国のためにつくそうと考えなくてはいかんのだ」

    わたしは父の話を聞いてからは、礼拝堂へほとんど行かなかった。 チルゴルで学校へ通ったときも、礼拝堂に行かないと先生に叱られたが、わたしは1度も行かなかった。わたしは、キリストの福音が朝鮮人民の悲劇とはあまりにも縁遠いものだと思った。キリストの教理には人道主義的な側面も多分にあったが、民族の運命を憂えて思い悩んでいたわたしは、救国へと呼びかける歴史の叫びにいっそう耳を傾けたのである。

    思想からいえば、父も無神論者だった。しかし、ミッションの崇実中学校に通ったので、父の周辺には信者が多く、したがってわたしも信者との付き合いが多かった。わたしが成長過程でキリスト教の影響を多くうけたのではないか、と質問する人がいる。わたしは宗教の影響はうけなかったが、キリスト教信者から人間的に多くの援助をうけた。そして、彼らに思想的影響もおよぼしたと思う。

    全世界の人が平和でむつまじく暮らすことを願うキリスト教の精神と、人間の自主的な生き方を主張するわたしの思想とは、矛盾しないものとわたしは考えている。

    わたしは母が礼拝堂へ行くときだけ松山へ出かけた。母は礼拝堂に通いながらも、キリストを信じなかった。

    ある日、わたしは母にそっとたずねた。

    「お母さん、お母さんは神様がほんとうにいると思って礼拝堂へ行くの?」

    母は笑って、頭を横に振った。

    「なにかがあって行っているんではないの。死んだあとで天国に行っても仕方がないじゃない。ほんとうはね、あんまり骨がおれるので、ちょっと骨休みがしたくて通ってるのよ」

    その言葉を聞くと、母が気の毒になり、いっそう好きになった。母は礼拝堂で、祈祷の最中にも疲労のため居眠りをした。そして牧師が最後になにかいい、みなが「アーメン」と唱えて立ちあがると目をさますのだった。「アーメン」の声がしても目をさまさないときは、わたしがそっとこづいて、母に祈祷が終わったことを知らせた。ある日の夕方、わたしは子どもたちと一緒に万景台の裏手の峠にある葬具小屋の前を通りすぎた。村で葬式のときに使う葬具をしまっておく小屋だった。幼いころ、わたしたちはその葬具小屋がとてもこわかった。

    その前を通りすぎるとき、1人の子が「あっ、あそこから幽霊が出てくる」と叫んだ。わたしたちは小屋からほんとうになにかが出てくるように思えて、どっと逃げ出した。履き物が脱げるのも気づかなかった。

    その夜はこわくて家にも帰れず、みな友達の家に泊まり、朝になって家へ帰る途中、履き物を見つけてはいた。家に帰ってそのことを話すと、母はこういった。

    「そんなところを通るときは歌をうたうもんよ。歌をうたったら、向こうの方がこわがって出てこないからね」

    歌をうたえば恐怖心が消えるだろうと思って、そう教えたのだろう。そんなことがあってから、わたしは葬具小屋の前を通るときは、いつも歌をうたったものである。

    平素はあれほど温順で人のよい母だったが、日帝にたいしては妥協を知らず、じつに気丈だった。

    烽火里で父を逮捕した日帝警察が、数時間後、わたしの家を襲って捜索したときのことである。彼らが秘密文書を探し出そうと、家の中をひっかきまわしはじめると、母は激怒して、「見たかったらみるがいい」と叫び、衣服を投げつけたり引き裂いたりして恐ろしい見幕で立ち向かった。彼らは気をそがれて、すごすごと立ち去った。わたしの母はそんな母だった。

    その夜、鴨緑江の岸辺では吹雪がはげしく吹き荒れた。 樹林を根こそぎ吹き飛ばさんばかりのすさまじい風の音にまじって、野獣の鳴き声が聞こえてくる深夜の暗闇は、わたしの心の亡国の傷跡をいっそううずかせた。

    わたしはおびえる弟たちを抱きしめ、国境の暗い氷の上を橇に乗っていきながら、革命の道は平坦な道でなく、母の愛も平凡な愛ではないと思った。

    わたしたち3人は寒くて布団をかぶり、がたがたふるえた。暗い夜だったので、弟たちはおびえてわたしにしがみついた。

    わたしたちは吾仇俳という朝鮮側の岸辺の村で一晩泊まり、翌日臨江に到着した。

    そこで盧京頭に会ってみると、彼は以前わたしたちが臨江にいたとき住居を世話してくれ、しばしば父を訪れて国運を論じた顔見知りの宿屋の主人だった。彼はわたしたち兄弟を大事な客としてもてなしてくれた。

    その家は七間からなり、背中合わせに二部屋ずつ仕切られた間取りになっていたが、わたしたちは閑静な2番目の部屋に案内された。台所の反対側には客室が三つあった。それらの部屋はいつも泊まり客でにぎわった。満州から臨江をへて朝鮮に行く人や朝鮮から臨江をへて満州に行く人は、おおかたこの宿屋に泊まった。盧京頭の家は独立運動家の宿泊所のようなものだった。

    盧京頭は反日思想に徹した民族主義者で、性格は温和だったが、主張を曲げず剛直なところがあった。彼は宿屋を営み、そこからあがる収益の一部を割いて独立運動家を援助していた。泊まり客を相手にその日暮らしをしていた彼は、そこで労働をしていたといえよう。彼がどのようないきさつで、臨江に腰を落ち着けるようになったかはつまびらかでない。うわさによれば、盧京頭は独立運動の資金を工面するためタングステン鉱を運び出した事件に関係して、一時、丹東地方に身を避け、ほとぼりがさめるのを待って、安全な避難所を求めて臨江に移ってきたという。

    彼の本籍は大同郡古平面下里だった。下里は順和江をはさんでわたしの故郷南里と隣合っている村である。元来、篤農だった彼は、わたしの父と知り合ってから独立運動に奔走するようになったという。それで、百姓をやめて行商をやっているのではないかと家族に憎まれたともいう。彼は引き潮のたびに順和江を渡って南里の父に会いにきた。そんな縁があってか、彼はわたしたちにいっさいひもじい思いをさせず、親身になって保護してくれた。

    わたしとわたしの家族にとって、盧京頭は大恩人だった。1か月近くのあいだ、彼は自分たちのものを惜しみなく使ってわたしたちの世話をやきながらもいやな顔一つ見せず、わたしの前ではいつもにこにこしていた。あるとき、自腹を切って撫松にいる父を市外電話で呼び出してくれた。おかげで、わたしは生まれてはじめて電話をかけてみた。そのとき父が、子どもたちの声を聞きたいというので、わたしたち兄弟は、母につづいて順に電話口に出たのだった。

    母は約束の日に亨権叔父をともなって臨江にやってきた。そして来るなり、街の見物をしようといってわたしたちを外へ連れ出し、中華料理店に入った。母はわたしたちに餃子を一皿ずつ注文してくれて、いろいろなことをたずねた。

    わたしは最初、1か月近くも他人にあずけた子どものことを思ってご馳走をしてくれるのだろうと思ったのだが、実際は、そのあいだのわたしたちの様子を水入らずで聞きたくて連れ出したのだとわかった。

    その間、宿屋に不審な人があらわれておまえたちのことをたずねたことはないか、よそへ遊びにいったことはないか、おまえたちが盧京頭さんの家に来ていることを知っている人は誰々か、などとこまごまとたずねた。そして、どこへ行っても決して金亨稷の子だといってはいけない、ほかへ移るまで万事に気をつけるようにと、くりかえし念を押した。

    臨江に来てからも、母はわたしたちのために安心して眠れなかった。真夜中に外で小さな物音がしても、寝床から起き上がって息を殺し、耳をすませた。

    子どもたちに災いがふりかかってはと、片時も心を安めることのできない母が、わたしたちを臨江に送り出すときは、どうしてあんなに断固とした態度をとることができたのであろうか。

    思えば、それは真の母性愛、革命的な愛情だった。 世の中で母の愛情ほどあたたかく、真実で、変わりのない愛情はないであろう。叱っても鞭で打っても痛くないのが母の愛情であり、子どものためなら空の星でもとろうとするのが母の愛情である。それは代価を求めない。 いまもあのころの母の面影が、ときどきわたしの夢に浮かぶ。

    

    

    

    7 遺 産

    

    

    

    わたしが八道溝に住んでいたころ、しばしばわたしの家を訪ねた黄氏は、父の生涯に大きな痕跡を残した人である。厚昌で日本警察から父を救い出した人が黄氏だった。

    父は国内組織とのつながりをつけるために葡坪へ渡り、アジトのそば屋の近くで、待ち伏せしていた警官に逮捕された。日帝に父を密告したのは、わたしの家の裏手で宿屋を営んでいる孫世心だった。彼は三日にあげずわたしの家を訪ねては、「金先生」「金先生」といって父にへつらった。そのとき父は、彼が密偵であることに気づかなかった。総督府警務局は、地下組織を探り出そうとして父の逮捕を極秘に付し、平安北道警察部に高官を急派して父の調査にあたらせた。一方、葡坪警察官駐在所の巡査部長秋島といま一人の巡査が、父をただちに厚昌警察署を経由して新義州の道警察部まで護送することになった。 日帝が父を逮捕し、ただちに新義州へ護送することにしたのは、鴨緑江沿岸で活動中の独立軍に父を奪還されるおそれがあったからだった。父が葡坪警察官駐在所に拘留されているときは、家族との面会が許されなかったので、父が新義州に護送されることを誰も知らなかった。そんなとき黄氏が駆けつけて父のことを知らせ、母にこういった。

    「おくさん、わたしが家産を売り払ってでも、弁護士をつけて裁判の結果を見届けますから、あまり心配なさらないでください。ところで、お宅にお酒があったら何本かいただけませんか」

    彼はきつい酒を数瓶と干しメンタイ20尾を背負い袋に入れて、ひそかに父のあとを追った。

    朝早く出発した巡査たちは、昼ごろ烟浦里の居酒屋に着いた。彼らは腹がへったといって、主人に食事の用意をさせた。一行のあとを追って烟浦里に着いた黄氏は、居酒屋に入り様子を見計らって背負い袋から酒瓶を取り出し、巡査たちに勧めた。

    彼らは最初のうちは、罪人を護送中だからと断ったが、黄氏からしきりに勧められると、「うん、なかなか話せる」といって、ちびりちびりやりだした。黄氏は罪人にも飯は食わさなくちゃと巡査たちを説いて、父の片手の手錠をはずさせた。黄氏は酒をかなり飲んだが酔わなかった。彼は酒豪だった。

    やがて秋島と部下の朝鮮人巡査はその場に酔いつぶれて、いびきをかきはじめた。

    そのすきに父は黄氏から手錠をはずしてもらい、2人一緒に居酒屋を飛び出して、向かいのピョジョク峰に登った。頂上近くにたどりついたとき、雪が降りはじめた。

    酔いがさめた2人の巡査は驚きあわて、銃を撃ちながら父を追撃した。そんなわけで、父はピョジョク峰で黄氏と別れ別れになり、その後、彼とは会う機会がなかった。

    解放後、わたしは黄氏を探そうと方々あたってみた。あの困難なときに生命を投げ出して父を助けてくれた人が、国が解放されてからはなかなか名乗り出ないのである。

    黄氏は父に代わって断頭台に立つことさえ辞さない真実の友人であり、同志であった。

    黄氏のような誠実な同志の援助がなかったなら、あのとき父は死地を脱することができなかったであろう。父の親友たちが、父は友人に恵まれているといったのは、いかにもうなずけることである。父が国と民族のために一身をかえりみず、多くの独立運動家と生死、苦楽をともにしたので、そのまわりには多くの大衆や革命同志、親友がいたのである。

    わたしは後退の時期(1950年、祖国解放戦争の戦略的後退の時期)、李克魯先生からも、父の脱出とかかわりのある話をくわしく聞くことができた。

    戦争が起きた年の初秋、共和国政府は現物税の納付を促すため数人の閣僚を全権代表に任命して各地方に派遣した。当時、無任所相であった李克魯先生も平安北道に派遣された。

    先生が任務を果たしていたとき戦略的後退がはじまり、わたしは江界地方に行っていた。ある日、内閣にその間の報告をしたいといってわたしを訪ねた彼が、だしぬけに烟浦里の居酒屋の話をもちだした。彼は厚昌郡で仕事を終え江界に向かうとき、郡内務署長を伴って烟浦里に立ち寄り、わたしの父が脱出した居酒屋へ行ってみたが、当時の建物がそのまま残っていたというのだった。江界と厚昌はそのころは平安北道に属していた。

    一生を南朝鮮と海外ですごし、解放後、共和国の創建前に北半部へ移ってきた李克魯先生から、烟浦里の居酒屋の話を聞くのは、まったく意外なことだった。いまのように父の事績が広く公開されているときならいざ知らず、当時はまだ烟浦里の居酒屋のいわれを知っている人はほとんどいなかったのである。

    わたしは好奇心に駆られて、李克魯先生にたずねた。

    「李先生はどうしてわたしの父の経歴をご存知なのですか?」

    「わたしはすでに20年前から金亨稷先生の名声をうかがっていました。吉林で、ある奇特な方が将軍のご一家のことをいろいろと話してくれました。戦争が終わったら、尊父の伝記を書こうと思っています。ただ文才がないのでためらっているのです」

    いつもは無口で物静かな李克魯先生が、その日はすっかり興奮して多弁になった。

    われわれは騒々しい内閣の執務室を抜け出て、人の往来の少ない禿魯江(将子江)の岸辺を散策しながら1時間あまり語り合った。

    李克魯先生に父の話をしたのは、黄貴軒の父親黄白河だった。当時、李克魯先生は新幹会代表団の一員として満州地方に出かけていた。 代表団は5・30暴動と8・1暴動で被害をこうむった朝鮮同胞の救済を目的にしていた。暴動の被害者が続出したので、新幹会の指導部がその救済に満州地方へ代表団を派遣することにしたのであった。

    そのとき李克魯先生は瀋陽で崔一泉に会った。吉林に行ったら黄白河に会うようにと勧めたのは崔一泉だった。

    李克魯先生は彼にいわれたとおり吉林に行ったさい、黄白河に会って救済事業の援助をうけ、わたしの父の話も聞いた。それ以来、烟浦里が厚昌郡にあり、厚昌郡がわたしの父の主な活動縁故地であることを知ったというのである。

    新幹会が李克魯先生を満州地方に代表として派遣したのは、彼がこの一帯で多年教育事業にたずさわったからだった。先生は内島山の独立軍部隊で一時訓練都監を勤め、撫松の白山学校と桓仁県の東昌学校で教鞭もとった。それだけに、先生が満州で父のことを聞いたというのは、十分ありうることだった。

    「郡内務署長は居酒屋の件を知りませんでした。わたしは、そんなことでは厚昌郡の恥だと批判してやりました。そして、内務署長に責任をもって居酒屋を保存するよう依頼しました」

    李克魯先生は、若い者たちが烈士の闘争の歴史を知らないようでは道義をわきまえない人間になる、活動家たちは伝統教育をやっていないようだ、と心配していた。

    創建して2年にすぎない若い共和国が存亡の岐路に立たされていたきびしい試練の時期に、革命伝統を固守しなければならないという先生の話を聞いて、感謝の念がこみあげた。祖国解放の戦いに倒れた烈士の霊魂がわれわれに、戦いに勝て、祖国を最後まで守り抜け、と絶叫しているという思いをわたしは禁じえなかった。

    朝鮮は滅亡したと騒がれていたときに、李克魯先生から聞いた烟浦里の話はわたしを力づけた。

    黄氏と別れた父は終日、山中をさまよい、烟浦里の居酒屋からさ ほど遠くない柏嶺でみすぼらしい壕舎を見つけ、主人に助けを請うた。父は主人と姓名を名乗りあい、彼が全州の金氏であることを知った。壕舎の主人は、柏嶺の深い山奥で同本同姓の革命家に会ってこんなうれしいことはない、といって好意をよせ、父を誠意をつくして助けた。金老人は壕舎近くの粟塚の中に父をかくまった。そのとき、足や膝など父の下半身はすっかり凍傷を負っていた。父はすき間から冷たい風が吹きこむ粟塚の中で何日も体を縮めて身動きもできずに隠れていたので、難治の病気にかかったのである。 老人は粟塚の中に握り飯や焼きジャガイモを入れてくれ、父を保護した。 父を逃した秋島は上司からきびしく叱責された。平安北道警察部は厚昌から竹田里までの鴨緑江流域に水ももらさぬ警戒網を張り、連日捜査をつづけた。しかし、柏嶺の粟塚には注意を向けなかった。父は状況を正確に判断し、適切な隠れ場を選んだといえよう。

    その間、金老人は鴨緑江へ下りていって、川が凍ったかどうかを確かめ、父に長い竿を使って川を渡る方法を教えた。まだ氷が厚くなかったので、軽率に川を渡っては危険だったのである。

    父は金老人に教えられたとおり、氷の上に竿を置き、両手でそれを押しながら這っていった。竿を握っていれば川に落ちこんでも溺れ死ぬ心配はなかった。まったく奇抜な渡河方法だったが、川を渡りながら父はまた凍傷を負った。そのときの凍傷が1年後、父が撫松で死去するいま一つの禍根となった。

    苦心惨憺、必死の努力で鴨緑江を無事に渡った父は、数日間トロズ村で治療をうけ、そのあと孔栄と朴振栄の案内で撫松へ向かった。孔栄と朴振栄は張喆鎬の指揮する正義府所属撫松駐屯独立軍の隊員だった。

    父が呉東振の紹介で孔栄と知り合うようになったいきさつは前に述べた。

    孔栄は碧潼郡の出身で、碧潼独立青年団にいたころと、碧坡別営で武装隊員として活動していたころから父の指導をうけたまじめな青年で、父とはきわめて親しい間柄だった。彼はわたしの家に来ると、いつも「成柱」「成柱」といってわたしに目をかけてくれた。わたしも後日、彼が共産主義者になってわれわれの同志、戦友となるまでは、彼をおじさんと呼んでなついた。父の死後、万里河ですごしていた彼は1週間に1度ほど米やたきぎを持ってわたしの家を訪れ、母を慰めた。彼の夫人も山菜をたくさん持って夫と一緒にやってきた。彼はわたしの父の死を悼んで長いあいだ喪服を着ていた。

    父は彼らと連れ立って撫松に向かう途中、漫江のあたりで馬賊につかまり、またも災難にあった。方々に土匪がはびこっているときだった。軍閥が各地で刀剣を振りまわして勢力争いをし、混乱した不安定な社会が大勢の土匪を生み出したのだった。暮らしが立たなくなった最下層の人びとのなかにも、土匪の仲間になった人が少なくなかった。そのうえ、日本帝国主義者も反日勢力を弱めるために匪賊団にもぐりこんで上層部を操ったり、別個に土匪をはびこらせたりした。土匪は群れをなして住民地区の家屋を襲っては財産を奪ったり、通行人を捕えては金品を巻き上げたりした。気に障れば、人の耳をそいだり、首をはねたりするなど残忍な野蛮行為もためらいなくおこなった。それだけに、父を護衛していく2人も緊張せざるをえなかった。

    父は医師だと身分を明かしたが、粗暴な馬賊は、医師なら金がたくさんあるはずだといって釈放しようとしなかった。医師に金のあろうはずがない、病気を診てやってかろうじて口すぎをしている、あんたたちのなかに患者がいたら診てあげよう、帰っても官憲に告発しないから放してくれといって、いろいろとなだめすかしてみたが、いっこうに聞き入れようとしなかった。

    なりゆきを見ていた孔栄は、夕食後、彼らがアヘンを吸いながら気をゆるめたすきにランプを消し、わたしの父と朴振栄を逃がした。そして拳法を使って10人ほどの馬賊をなぎ倒し、土匪の巣窟から脱出した。活劇を思わせる劇的なシーンであった。

    このときの孔栄の自己犠牲的な行為にたいして、父はしばしば感慨深く回想したものである。孔栄は同志のためにはおのれをかえりみない献身的な闘士であった。数日後、父は撫松で張喆鎬に会った。彼は数年前まで測量にたずさわっていたが、そのときは軍人になって独立軍の一個中隊を指揮していた。彼は父の容体を見て心を痛め、健康が回復するまで自分たちが世話する住居で休むようにといった。ほかの人たちもそうするように勧めた。

    実際、父の病状は養生を怠ればさらに悪化する状態にあった。父もそれを知らないはずがなかった。それは、冬のうちでももっともきびしい寒さがつづくころだった。しかし、父は病んだ体に湿布をするいとまもなく、すぐ北方に向かって旅立った。

    張喆鎬中隊長が父を目的地に案内した。そのとき、父が行ったのは華甸と吉林だった。父が凍傷の病躯をおして、あわただしくこの地方をまわったのは、独立運動団体の単一戦線への統合と反日愛国勢力の団結を促すためだった。そのころ、独立運動家のあいだでも党創立の問題が論議されはじめていた。思想が発展し、革命の理念化が深化するにともなって政党政治は時代の趨勢となり、世界の政界に急速に普及していた。ブルジョア政客も共産主義者もともに政党政治を志向した。10月革命を転機にして、アジア諸国でもあいついで共産党が創立された。新しい思潮の普及につれて、東方でも政党政治の時代が到来したのである。1921年には隣邦の中国でも共産党が創立された。こうした背景のなかで、朝鮮の先覚者も民族解放闘争を政治的に指導する組織をつくる作業をおし進めたのである。 政党政治は、その指針となり基礎となる思想と理念の創始と発展を前提としており、それなくしては政党政治は不可能だといえる。ブルジョア民族主義は朝鮮の近代史に一つの思潮として登場し、民族解放運動を指導してきたが、自己の政党をもてないままに凋落していった。民族解放闘争の舞台にはブルジョア民族主義にとって代わって新たな共産主義思潮が台頭した。ブルジョア民族主義がもはや民族解放闘争の旗じるしとなりえないことを痛感した新しい世代の先覚者のなかでは、共産主義を信奉する人たちが急激に増えていった。民族主義陣営でも、多くの先進分子が共産主義運動に方向を転換した。 寛甸会議で提示された方向転換の方針は、宣言にとどまったのではなく、民族主義運動の内部で先覚者によって実践に移されつつあった。寛甸会議の方針を真っ先に実践に移しはじめたのは呉東振だった。 彼の指揮する独立軍部隊には、寛甸会議後、マルクス・レーニン主義の思潮に共鳴する人が少なくなかった。日帝はこの時期に台頭した新しい勢力を「第3勢力」と規定している。日本警察の捕縛を脱した父が撫松をへて吉林に行った1920年代の中ごろは、民族運動内部で方向転換を志向する革新派と、それに反対する保守派の分化過程が進んでいるときだった。

    こうした大勢を見きわめた父は、方向転換の理念を実現しうる政治組織の誕生期が到来したと判断した。

    満州地方における朝鮮人の民族運動は、そのときまで国権回復の理念のもとに主に直接の武装活動と教育、民生問題を基本にする自治活動の形で進められた。ところが、彼らにはその運動を政治的に指導する組織がなかった。こうした実情から、父は吉林一帯で活動する革新系民族主義者とともに、満州地方に散在する各軍事団体と自治組織にたいする政治的指導を保障する新たな組織をつくる準備に取り組んだ。 その最初の活動が、父の発議で吉林の牛馬巷で招集された会合だった。会合は1925年の初め、吉林市北山のふもとにある朴起伯(朴一波の父親)の家で開かれた。これには梁起鐸、玄河竹、呉東振、張鵾鎬、金史憲、高遠岩、郭鐘大など独立運動の元老と中堅人物が参加した。

    彼らは独立運動を統一的に指導する政治団体の必要性をひとしく認め、近い将来、某種の唯一党を創立する決議を全会一致で採択した。 会合では党創立と関連したさまざまな原則的問題も協議された。

    李寛麟の回想によれば、会議での最大の争点は党の名称だった。党名を朝鮮革命党と高麗革命党のどちらにするかという問題である。だが結局、名称も大事だが、活動目的に合わせて党の任務と綱領を正しく設定することがいっそう重要であるということで、高麗革命党とすることに決まり、綱領の討議に移ったという。

    牛馬巷会議に参加した独立運動の指導者たちは、1年後、国内から来た天道教革新派代表と衡平社代表、そして沿海州から来た代表と連席会議を開き、「現今の私有財産制をなくし、現存の国家組織を撤廃して共産制度による世界単一国家の建設」をめざす高麗革命党を創立した。病床にあった父はこの会議に参加できなかった。

    父は北山と江南公園を参観し、新安屯の青年団体幹部に会ったあと撫松に帰り、電話でわたしたちに臨江を発つよう命じた。 臨江を発ってしばらく行ったとき、わたしたちは張喆鎬中隊長がよこした麻の冠をかぶった2人の独立軍隊員に行き会った。彼らが麻の冠をかぶってきたのは、特務の目をそらすためだった。わたしたちは彼らが引いてきた馬橇に乗って撫松に向かった。父は撫松の市街地から16キロほど離れた大営に来て、わたしたちを出迎えた。顔には病気の症候が色濃かったが、明るく笑っている父の姿を見ると、いろいろな心配が吹き飛んでしまうような気がした。わたしは弟たちの手をとって前へ駆け出した。

    弟たちはわたしがあいさつするいとまもなく、父にまつわりついて、2か月間の積もる話をわれ先に話しだした。

    父は弟たちの甘えごとにいちいち応じながらも、わたしの顔から視線を離さなかった。

    「祖国の水はたしかにいいようだ。おまえを朝鮮に送ってからは夜もおちおち眠れなかったが、こんなに大きくなったんだな」と、父は喜んだ。

    その日、わたしたちは一家水入らずで一晩中語り明かした。父の脱出を助けた黄氏と全州の金老人のことや、漫江の土匪の巣窟での孔栄の勇敢なたたかいについての話を聞いたのも、その晩のことだった。わたしは祖国で実感したことを話し、朝鮮が独立しなければ二度と鴨緑江を渡らないという決心を父に語った。父は頼もしげにわたしを見つめて、朝鮮の息子なら当然そうあるべきだとうなずき、朝鮮を知るための勉強を彰徳学校で終えたと考えずに、新しい土地に来てからも祖国と民族を知るために勉強に励むのだ、と慎重な面持ちでいった。数日後、わたしは撫松第1小学校に編入した。そこでもっとも親しんだのは張蔚華という中国の少年である。彼は撫松で2番目とも3番目ともいわれる財産家の息子であった。彼の家は数十人の私兵をかかえていた。撫松県東崗の朝鮮人参畑はほとんどが彼の家のものだった。張家では毎年、秋になると人参を掘って馬やラバに乗せ、他の地方へ行って売った。人参を売りにいくときは、私兵の行列が4キロほどにもなったという。張蔚華の父親は名だたる財産家だったが、帝国主義を憎み、祖国を愛する良心的な人だった。張蔚華も同様だった。わたしは後日、革命活動中に彼らのおかげでたびたび危機を脱することができた。朝鮮の子のうちでは高在鳳、高在竜、高在林、高在洙らと親しんだ。 父が撫松を中心に革命活動をくりひろげていたころは、中国の反動軍閥が親日的な傾向を強め朝鮮人愛国者の活動をなにかと妨害していたので、状況はきわめて不利だった。それに、平壌と葡坪での2度にわたるきびしい拷問と脱出時の凍傷がたたって、父の健康はすぐれなかった。しかし、父は革命闘争を少しもゆるめなかった。

    小南門通りのわが家には「撫林医院」という新しい看板がかけられた。実際のところ、父は他人を治療できる状態ではなかった。むしろ治療をうけなければならない身だった。それにもかかわらず、父はすぐまた遠くへ出かけた。 そのときは、みんなが父を引きとめた。張喆鎬、孔栄、朴振栄など撫松に出入りする独立運動家も引きとめ、わたしや亨権叔父も止め、父のすることならどんなことでも賛成し無言で助けていた母も、今度だけは出かけないようにと哀願した。

    しかし、父は決心をひるがえそうとせず、とうとう撫松をあとにした。内島山一帯で活動している独立軍の上層部が行動の統一を欠き、いくつかの派に分かれて勢力争いをしているため、部隊が瓦解するおそれがあるという知らせが届き、父は強い不安に駆られていたのである。

    張喆鎬の指示をうけた人が安図まで父につきそった。彼は2人分の食糧として5升ばかりの粟と味噌一壺を背負い袋に入れ、斧と拳銃1挺をふところに忍ばせて撫松をあとにした。目的地までには数十里の無人の境が横たわっていた。その無人の境を行くときはずいぶん苦労したそうである。夜は野外でたき火をたき、体をおおうものもなく丸太の積み木にもたれてうとうと眠ったが、父のはげしい咳に、同行者はずいぶん気をもんだという。

    父は安図から帰ってからも、ひどい咳に悩まされた。それでも数日すると、そんな体で白山学校の認可をうけるために奔走した。

    白山学校は、国内で私立学校運動が活発に展開されていたころ、それに歩調を合わせて、撫松地方に移住した朝鮮の亡命者と先覚者たちが農民の協力を得て設立した、歴史の古い私立学校だった。

    初期の白山学校の大きさは、父が通った万景台の順和書堂ほどにすぎなかったという。だから、それは今日の農家の二つの部屋を合わせたほどのものにすぎなかった。ところが、そんなに規模の小さい白山学校でさえ経営難で長年閉校しなければならなかったのである。わたしたちが撫松に移った当時は、白山学校の復活運動が本格化していた。日帝の言いなりになっていた軍閥当局が学校を認可しようとしないので、父はずいぶん苦労した。元来、父はどこへ行ってもまず教育問題に関心を向け、各地に学校を設立していた。 父は開校式の前夜、木工工場でつくった机や椅子を張喆鎬と一緒に馬車に積んで白山学校へ行った。

    「撫林医院」の看板をかけて医者の仕事をつづけながらも、父の心はいつも学校の方にあったのである。

    白山学校の名誉校長を勤め、じかに教鞭をとることはなかったが、父は教育内容や後援事業に関心を向け、学校で演説もすれば課外活動の指導にも努めた。

    白山学校で使った『国語読本』は父が執筆したものだった。父は白山学校を復活させてから柳河県三源浦へ行ってきたあと、その教科書を朴起伯(朴凡祚)という人と共同でつくったのだった。父が教材を執筆すると、有志たちがそれを三源浦で印刷し、満州各地に配付した。三源浦には教科書を印刷する正義府管轄下の印刷所があった。石版印刷だったが、できあがった本はりっぱなものだった。満州各地の朝鮮人学校では、ここで印刷した教科書を使って勉強した。 父は撫松で教育問題と関連した会議を何度も開き、安図や樺甸、敦化、長白などに有能な人を送って、朝鮮人が住んでいるところにはどこでも学校や夜学を設けるようにした。長白県十八道溝得英村の育英学校も当時設けられた学校である。のちの朝鮮革命軍の隊員であった「トゥ・ドゥ」のメンバー李済宇と抗日闘士姜燉も当校の出身である。白山学校の運営が軌道に乗ると、父は再び満州各地を巡って独立運動家と接触した。その時期の活動での中心は、独立運動の統一団結をはかることであった。方向転換の路線を実現するためにある種の単一の党を創立することが日程にのぼっていたときだけに、その基礎となる独立運動隊列の団結をはかるのは、誰もなおざりにできない焦眉の時代的急務であった。父の晩年はすべてそれにささげられたのである。 当時、東北3省に割拠していたさまざまな群小独立運動団体は三つの府に統合され、満州には正義府、新民府、参議府の3府が鼎立する新しい時代が到来していた。しかし、それら3府もそれぞれ勢力圏の拡張をめざして派閥争いに明け暮れ、民衆の指弾をうけていた。そうした状況のもとで、父は統一団結こそ寸秒を争う歴史的な重大課題であると確信し、その実現をはかって1925年8月、撫松に国内外の朝鮮国民会代表と武装団体代表を集めて、独立運動隊列の統一団結をはかる対策を討議し、民族団体連合促進会を結成した。 そのとき父の構想は、この促進会を動かして単一党の創立を早めようというものだったと思う。父は寸秒を惜しみ、連日、以前の何倍もの仕事をした。父はもう余命がいくばくもないと予感していたようであった。父はその後、しばらくして重態に陥った。1926年春から、父は病床に寝たきりの身となったのである。 父が病に倒れたという知らせを聞いて、各地から多くの客が訪ねてきた。わたしが学校から帰ると、土縁の上にはいつも見慣れない履き物が5、6足置かれてあった。彼らはみな、病気によいという薬を持って父を見舞った。どんなに金に困っている人でも、ほとんどが朝鮮人参の一株は持って訪ねてきた。しかし、病勢が改まった父の体には、薬も効き目がなかった。春は地上の万物に生の息吹をそそぎ、新しい季節を謳歌していたが、悲しいことに、多くの人たちがあれほど待ち望んだ父の健康だけは回復させることができなかった。 わたしも学校へ通う心のゆとりをなくしていた。ある朝、わたしは登校中、父のことが気になって家にもどってきた。 父は、「なぜ学校へ行かないのだ?」ときびしくとがめた。 わたしはなんとも答えられず、溜息をついた。 父は、「学校へ行きなさい。男児がそんなことでは大きなことをやれん…」といって、わたしを学校へ行かせた。 ある日、呉東振が張鎬と一緒に吉林からやってきた。彼は、撫松会議の方針にそって反日愛国勢力の結集に努めてきたが思いどおりにいかず、苦心の末、相談かたがた見舞いにきたといい、分裂をこととする人たちの行為をののしった。

    短気な張喆鎬は、そんなわからず屋たちとは手を切るべきだ、と腹を立てた。

    2人の言葉を注意深く聞いていた父は、彼らの手をとって、「いや、それではいけない。骨がおれても統合は必ず実現させなければいけないのだ。統合し、武力をもって敵と戦わずには、独立をとげることができない」と言いふくめた。

    彼らが帰ると、父は李朝時代以来たえずくりかえされている党争について話し、そのために国まで滅んだのに、独立運動をするという人たちがいまだに覚醒せず、四分五裂して党争に明け暮れているのだから困ったことだ、と慨嘆した。そして、党争を根絶せずには国の独立も文明開化も不可能だ、党争は国力を弱める根源であり、外部勢力を引き入れる媒介者だ、外部勢力が入ってくれば国は滅びるほかない、おまえたちの代には必ず党争を根こそぎにして団結をとげ、民衆を立ち上がらせなければならない、と強調した。

    わたしが学校から帰ると、父は看病しようとするわたしを枕元に座らせて、いろいろな話をしてくれた。そのほとんどは父の生涯の体験談で、教訓的なものが多かった。

    そのなかでいまも忘れられないのは、革命家がいだくべき三つの覚悟についての話である。

    「革命家はどこにいても、つねに三つの覚悟ができていなければならない。餓死、殴死、凍死、つまり飢え死にする覚悟、なぐり殺される覚悟、凍え死にする覚悟をもって最初にいだいた大志を守りぬくのだ」

    わたしは父のこの言葉を深く胸に刻んだ。

    友と友情についての父の言葉も教訓的だった。

    「人間は困難なときに交わった友を忘れてはいけない。家庭では両親に頼り、門を出れば友に頼れというが、どちらも意味のある言葉だ。生死と苦楽をともにする真の友は事実上、兄弟よりも近しいのだ」

    その日、父は友と友情について長時間話した。

    …お父さんは同志を得ることから闘争をはじめた。金や拳銃を手に入れることから独立運動をはじめる人もいるが、お父さんはどこへ行っても、すぐれた同志を求めた。すぐれた同志は天から降ったり地から湧いたりするものではない。金や宝石を掘るように努力して自分で見つけ、はぐくまなければならない。だからお父さんは一生涯、朝鮮と満州の広野を足が棒になるほど歩きまわったのだ。お母さんもそれで始終、客の接待に努め、いつも腹をすかして苦労した。

    国と民衆を思う真情があれば、りっぱな同志はいくらでも得られる。要は志であり、心構えである。金はなくても志さえ通ずれば、同志になれるのだ。百万の金をもってしても得られない友情を一杯のおこげ湯や一粒のジャガイモで得られるのも、みなそのためである。お父さんは財産家でもなければ、勢力家でもないが、りっぱな友人をたくさんもっている。それが財産といえるなら、お父さんは財産のなかでも最大の財産を持っているわけだ。お父さんは同志のためならなにも惜しまなかった。だから、同志たちも命を賭してお父さんを守ってくれた。お父さんがこれまでいろいろな困難にうちかって祖国の解放運動に献身できたのは、同志たちがお父さんに私心のない援助をよせてくれたからだ…

    父は病床にあっても、懐かしく思い出されるのが友人であるといい、多くのりっぱな同志と交わるよう、重ねて強調した。

    「同志のために死ねる人であってこそ、りっぱな同志が得られるのだ」

    そのときの父の言葉は、いまもわたしの脳裏に深く焼きついている。 母は何か月ものあいだ寝食を忘れて、病魔との苦しいたたかいをつづける父を心をこめて看病した。それはこの世の誰もまねることも、代わってすることもできない涙ぐましいまでの至誠だった。しかし、その超人的な至誠も父を救うことができなかった。

    1926年6月5日、父は故郷から数百里離れた異国の小さな屋根の下で、亡国の恨みを晴らせず、ついにこの世を去った。

    「わたしらが故郷をあとにするときは、独立を果たして一緒に帰ろうといったのに、わたしは行けそうにない。国が独立すれば、君が成柱を先に立たせて故郷へ帰るのだ。志を果たせずに逝くのかと思うと、心が重い。成柱を頼む。成柱を中学まで進ませたかったが、無理なようだ。できることなら、たとえかゆをすすってでも中学までは勉強させてほしい。それから、下の弟たちのことは成柱にまかせればよい」 その日、母に残した父の遺言はこのような話からはじまった。父はいつも持ち歩いた2挺の拳銃を母に手渡し、こう頼んだ。

    「わたしが死んだあとでこの拳銃が見つかったらことだから、地中に埋めておき、成柱が大きくなって、たたかいの道に立つとき渡してもらいたい」

    そのあと父は、わたしたち3人兄弟に最期の言葉を残した。

    「わたしは志をとげずに逝く。だが、おまえたちを信じている。おまえたちはつねに国と民族の体であることを忘れてはいけない。骨が砕け、身が粉になろうとも、必ず国を取りもどすのだ」

    わたしは声を上げて泣いた。父の死は、わたしの胸中に渦巻いていた亡国の悲しみをほとばしらせた。

    父は生涯、国のためにわが身を裂き骨を削り、その末に世を去った。度重なる残酷な刑と凍傷によって致命的な痛手をうけたときも、屈することなく民衆のなかに入り、同志を訪ね歩いた父だった。力がつきると杖にすがり、ひもじいときは雪をほおばっても後ろをふりかえったり、ためらったりすることなく、いちずに前進をつづけた父だった。 父は生前、どの党派にもくみすることなく、どんな権力も追い求めず、ひたすら国の解放と勤労人民の幸せを願って、ためらいなく身をささげた。父には物欲も私利私欲もなかった。金ができれば子どもたちに飴を買ってやりたいのが人情だが、それを我慢して1銭、2銭とためた金でオルガンを買い、学校に寄贈した。自分のことを考える前に同胞を思い、家庭を思う前に祖国のことを考え、寒風にさらされながら一生を休むことなく歩んだ父だった。人間としても清廉に生き、革命家としても潔白に生きた。

    わたしは、父が家庭の暮らし向きのことを話すのを一度も聞いたことがない。わたしは、思想や精神の面で父から譲りうけたものは多いけれども、財物や金銭はなに一つ相続しなかった。いま、わたしの生家に展示されている農具や家具はすべて祖父が残したもので、父から譲られたものではない。

    「志遠」の思想、三つの覚悟、同志獲得の思想、2挺の拳銃―― これが父から譲りうけた遺産の全部であった。それらはきびしい困難と犠牲を前提にして残された遺産であった。けれども、わたしにとってこれ以上貴い遺産はなかった。

    父の葬儀は社会葬としてとりおこなわれた。葬儀の当日は、小南門通りが埋まるほどに弔客が集まった。南北満州の各地と間島から、そして国内から、平素、父を慕っていた大勢の同志や友人、弟子、以前治療をうけた人たちがぞくぞくと撫松にやってきた。撫松県長も金箔香紙の束を持って参列し、父の霊前で焼香し、涙を流した。

    父の墓地は、小南門通りから4キロほど離れた頭道松花江のほとりの陽地村に定められた。父は生前、その村をしばしば訪れた。村人たちと語り合ったり病気の治療をしたりしながら、一家親族のように親しく付き合ったのだった。父は没後も、ふだん親しんだ人たちのなかにいたかったに違いない。

    その日、小南門通りから陽地村にいたる4キロの道すじは、慟哭の声にみちていた。独立運動家たちは柩輿をになって歩きながら声を上げて泣いた。

    撫松地方の朝鮮女性は、父の葬儀の日から15日ものあいだ頭の白いリボンを取らなかった。

    わたしはこうして父を亡くした。一瞬にして父を亡くし、師を失い、指導者を失った。父はわたしにとって生命を与えてくれた肉親であると同時に、幼時からわたしを革命の道へと導いてくれた師であり、指導者であった。父の死はわたしにとって大きな打撃であった。わたしの胸は埋めることのできない喪失によって空虚になった。

    あるときは、ひとり川辺に座って遠く祖国の空を眺め、涙を流すこともあった。

    思えば、わたしにたいする父の愛情はひとかたならぬものであった。わたしが少し成長してからは、いつも真剣に国と民族の将来について話してくれた父だった。このうえなく厳格でありながらも、はかり知れなく深いのがわたしの父の愛情だった。もはやそのような愛情、そのような指導をうけることも、望むこともできなくなった。

    しかし、わたしを悲嘆の淵から立ち上がらせたのは、父のまたとない遺産だった。「志遠」、三つの覚悟、同志獲得、2挺の拳銃…

    すぐには、なにをすべきか見当のつかない、暗澹とした悲しみのなかでも、わたしはその遺産から力を得、歩むべき道を模索しはじめたのである。

    

    

    

    

    第 2 章

    

    

    忘れえぬ樺甸

    

    

    1 華成義塾

    

    2 幻 滅

    

    3 打倒帝国主義同盟

    

    4 新しい活動舞台にあこがれて

    

    5 独立軍の女傑李寛麟

    

    

    

    

                時期 1926年7月~1926年12月

      

    

    

    1 華成義塾

    

    

    

    葬儀のあと、父の友人たちは撫松に数日間とどまって、わたしの身の振り方を相談した。

    彼らの保証と紹介で、わたしが華成義塾に向かったのは1926年の6月中旬のことだった。

    それは、わが国で 6・10万歳示威闘争が起きた直後のことである。

    6・10万歳示威闘争は、3・1人民蜂起後、民族解放闘争の舞台に新たに登場した共産主義者によって指導された、大衆的な反日示威闘争であった。

    わが国の民族解放闘争が民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換するうえで、3・1人民蜂起が分岐点となったのは世人の知るところである。この3・1人民蜂起を通じて、ブルジョア民族主義がもはや民族解放闘争の旗じるしになりえないと痛感した先覚者たちのあいだで、新しい思潮を追う気運が急激に高まり、彼らの活動によってマルクス・レーニン主義が急速に伝播しはじめた。

    3・1人民蜂起の翌年、ソウルでは労働共済会という労働団体が出現し、ついで農民団体、青年団体、婦人団体などの大衆組織が続出した。

    それらの組織の指導のもとに、わが国では1920年代の初めから無産民衆の権益を守り、日帝の植民地政策を排撃する大衆闘争が力強く展開された。1921年には釜山埠頭労働者のゼネストが断行された。その後、労働者のストライキがソウル、平壌、仁川などの産業中心地をはじめ多くの地方でつぎつぎに起きた。労働運動の影響のもとに、日本人大地主や悪質な朝鮮人地主にたいする農民の小作争議が載寧ナムリ原や岩泰島などで起こり、植民地的奴隷教育に反対し、学園の自由を要求する青年学生の同盟休校が各地でくりひろげられた。

    「武断統治」の銃剣の上に「文化統治」のベールをかぶせた日本帝国主義者は、「中枢院」に親日派を何人か引き入れて朝鮮人の政治参与を奨励しているかのように見せかけ、「民意暢達」の美名のもとに朝鮮文字による新聞、雑誌の発行を数種許可しては、福祉社会が到来したかのように喧伝したが、朝鮮民族はそのような欺瞞に惑わされることなく反侵略闘争をつづけた。

    労働運動をはじめ大衆運動の発展は、それらを統一的に導く強力な政治的指導勢力の出現を求め、その歴史的要請にこたえて、1925年4月、ソウルで朝鮮共産党が創立された。当時は、ヨーロッパ諸国でも労働者階級の政党が数多く出現していたときである。

    朝鮮共産党は、現実に対応した指導思想に欠け、隊列の統一を保てず、大衆のなかに深く根を張れないなどの根本的制約によって、労働者階級の前衛としての役割を十分に果たせなかったが、その創立は新旧思潮の交代と民族解放闘争の質的変化を示す意義ある出来事として、労働運動、農民運動、青年運動などの大衆運動と民族解放運動の発展を促した。

    共産主義者は新たな全国的反日示威を準備した。 そのようなときに、李朝最後の王純宗が死んだ。彼の死は朝鮮民族の反日感情を強く刺激した。王の訃に接した朝鮮人は喪服をまとい、老若男女の別なく声をあげて痛哭した。国の滅亡後も純宗は最後の王として李王朝を象徴していたが、その彼が亡くなったのだから、積もりに積もった亡国の悲しみが号泣となってほとばしったのである。楽隊の吹奏に合わせて学生たちのうたう歌声に、人びとの悲しみはさらに深まった。

    

     さよなら昌徳宮よ

     永遠に いつまでも

     われは行く 北邙の山河

     さびしいところへ

     いま行けば いつ

     ふたたび帰れようか

     二千万白衣の同胞

     無窮なれ

    

    民衆の慟哭は、日本の占領者たちを強烈に刺激した。朝鮮人が群がって泣いていると、ただちに日本の騎馬警察隊が出動し、銃剣や棍棒を振りかざして強制的に解散させた。小学校の児童にまで容赦なく棍棒の洗礼が浴びせられた。国が滅んでも悲しまず、王が死んでも泣かずに口をつぐんでいろというのだ。これがほかならぬ「武断統治」から「文化統治」へと衣替えした総督政治の実態であった。

    彼らの極悪非道な弾圧は、炎のように燃えあがる朝鮮人民の反日感情に油をそそぐ結果となった。

    共産主義者は人民大衆の反日気勢に乗じて、純宗の葬儀を機に、全国的規模で反日示威闘争をくりひろげることを計画し、ひそかにその準備をおし進めた。

    ところがその秘密が、示威闘争準備委員会に潜入していた分派分子によって日帝側に漏れ、反日示威の準備は仮借ない弾圧をうけることになった。

    しかし、愛国的人民は示威闘争の準備を中断しなかった。

    6月10日、純宗の柩輿が鐘路を通っていたとき、数万のソウル市民が「朝鮮独立万歳!」「日本軍は帰れ!」「朝鮮独立運動家は団結せよ!」と叫びながら、大衆的示威をくりひろげた。「文化統治」の7年間、積もりに積もった恨みと怒りがついに「独立万歳!」の喊声となって爆発したのである。

    12歳前後の普通学校の子どもたちも隊伍を組んで示威に参加した。示威者たちは武装した軍警とはげしいたたかいをくりひろげた。

    だが6・10万歳示威闘争は、分派分子の策動によって日帝の野蛮な弾圧をはねかえすことができずに失敗した。ブルジョア民族主義者の事大思想が3・1人民蜂起の失敗をまねいた根本原因の一つであったとすれば、初期共産主義者の分派行為は6・10万歳示威闘争を破綻させた禍根であった。火曜派はこの闘争を分派的立場から指導し、ソウル派はそれに対抗して妨害工作をおこなった。

    6・10万歳示威闘争が発端となって、朝鮮共産党指導部の主要メンバーはほとんどが検挙された。

    6・10万歳事件を契機に「文化統治」の欺瞞性と狡猾さは余すところなく暴露された。この運動を通して、朝鮮人民はいかなる逆境のもとでも必ず国を取りもどし、民族の尊厳を守る不屈の意志と闘争精神を誇示した。

    もし、共産主義者が派閥観念を捨てて統一的にたたかいを組織し、指揮していたならば、6・10万歳運動は全民族的な闘争へと拡大し、日帝の植民地支配により強力な打撃を与えたであろう。

    6・10万歳運動は、分派を克服せずには共産主義運動の発展も、反日民族解放闘争の勝利もありえないという深刻な教訓を残した。

    わたしは当時、6・10万歳運動の結果を自分なりに分析してみた。 わたしが不審に思ったのは、この闘争の組織者たちが、なぜ3・1運動当時の平和的方法をそのままくりかえしたのかということだった。

    「千日養兵、一日用兵」という言葉もあるが、人民大衆を一度たたかいの場に立たせるためには、彼らを目覚めさせ組織化し、十分な訓練をほどこさなければならない。

    ところが6・10万歳運動を組織し指導した人たちは、徹底した事前準備もなしに、銃を手にした軍警の前に赤手空拳の大衆を数万人もくりだしたため、悲惨な結果をまねくほかなかったのである。立ち上がるたびに大勢の死者を出し挫折を余儀なくされる反日運動の実情を思うと、無念で眠ることもできなかった。その失敗はわたしの血を沸かせ、日帝を打倒して祖国を取りもどそうという意志をかためさせた。わたしはそうした思想的衝動を胸にいだき、華成義塾でしっかり

    勉強して父の遺訓、母の念願、民衆の期待にこたえようと決心した。華成義塾は独立軍の幹部養成を目的に、1925年初に設立された正義府所轄の2年制の軍事政治学校であった。民族再生の道を実力の培養に求めた独立運動家と愛国的啓蒙活動家は、一般校の設立とならんで軍事人材の養成を目的とする武官学校の設立にも積極的に取り組んだ。彼らの努力によって満州各地には、新興講習所(柳河県)、十里坪士官学校(汪清県)、小沙河訓練所(安図県)、華成義塾(樺甸県)をはじめいくつもの武官学校が設立された。 これら武官学校の設立運動には梁起鐸、李始栄、呉東振、李範奭、金奎植、金佐鎮など独立運動の巨頭が中心的な役割を果たした。 華成義塾の入学対象は正義府傘下の各中隊から選ばれた現役軍人であった。上部から入学生数が割り当てられると、中隊別に優秀な青年を選抜して送り、2年間の教育課程が終われば、その成績によって新しい地位を与え、出身中隊に送りかえすのである。独立軍以外から個別人士の紹介で入学する青年が若干いるにはいたが、そんな例はまれだった。それで血気にはやる若い人たちは、ひそかにこの学校への入学を志望したものである。

    現在、華成義塾時代の同窓生のうち、当時を回顧できるほどの人はほとんどいない。

    父の生存中、わたしは自分の前途や家庭の暮らしについてあまり気を使わなかった。しかし、父の死後は、わたしの身の振り方や家の暮らしをめぐる複雑な問題におのずと関心を向けざるをえなかった。 わたしは父を亡くした悲しみと悩みで茫然自失の状態にありながらも、ぜひ父の志を受け継いで一生を独立運動にささげようという一念と、事情が許せば、母には負担となっても上級学校に進もうという抱負を秘めて前途の問題を熟考した。 父は死を前にして、わたしを中学まで送れと遺言したが、家庭の状態を考えると、上級学校に進みたくてもそれをいいだせなかった。わたしが進学すれば、学資を工面する重い負担が母一人の肩にかかるが、母が洗濯や裁縫などの賃仕事で得るわずかの収入では、貧しい家計をやりくりしながら、わたしに毎月学資を送るのは無理であった。父が世を去ると、その助手役をつとめていた亨権叔父もたちまち職を失った。父が残した薬局には薬がいくらもなかった。そうしたときに、父の友人たちが、わたしに華成義塾で勉強するようにと勧めてくれたのである。父が世を去るとき母に残した遺言には、わたしの進学問題も含まれていた。わたしを上級学校へ送るときは、手紙を出して父の友人たちの援助をうけるようにというのが、母と叔父に残した父の最後の頼みだった。

    母はそのとおり何人もの人たちに手紙を書いた。人情に支えられずには一日として生きていけないせちがらい世の中だったので、母は気後れしながらもそうするほかなかった。こうしてわたしの身の振り方が、父の葬儀後、撫松に残っていた独立運動家のあいだでおのずと取りあげられたのである。

    呉東振は、義山崔東旿に紹介状を送ったから華成義塾へ行くのだ、華成義塾で軍事を学ぶのがおまえの抱負にも合うだろう、口論では独立が達成できないというのがおまえのお父さんの考えではないか、学校を卒業すれば、その先の問題も自分たちが責任をもって解決するから、義塾でしっかり勉強するのだ、というのだった。

    父の友人たちは、将来、わたしを彼らのあとを継ぐ人材に育てようと計画していたようである。独立軍の指導者たちが後進の育成に関心を払い、人材の養成を重視するのはよいことだった。

    わたしは呉東振の申し出に快く応じた。わたしの前途をそれほど深く考えてくれる独立運動家たちの真情が、わたしにはほんとうにうれしかった。わたしを武官学校に送って独立運動の人材に育てあげようという彼らの意図は、一生を祖国解放偉業にささげようというわたしの志向にも合っていた。軍事的対決によってのみ日帝を打倒でき、軍事に通じてこそ独立運動の戦列に立つことができるというのが、当時のわたしの見解だった。いまやその夢を実現する道が開かれたのである。わたしは、華成義塾で学ぶのが反日独立闘争の舞台へ進む近道であると考え、明るい気持で樺甸へ出かける支度を急いだ。 外国のある政客がわたしに、主席は共産主義者であるのに、どうして民族主義者の運営する軍事学校へ進学したのか、とたずねたことがあった。もっともな質問だと思う。 わたしが華成義塾に入学したのは、まだ共産主義運動をはじめていないときだった。わたしの世界観は、マルクス・レーニン主義を理念とするほど完全に成熟した段階にあったのではない。当時までわたしが共産主義を知識として摂取したものがあったとすれば、撫松で『社会主義大義』と『レーニン一生記』というパンフレットを読んだことだけであり、社会主義の理念が実現した新生ソ連の発展した様子をうわさで聞いて、社会主義・共産主義社会にかぎりないあこがれをいだいていただけである。わたしのまわりには、共産主義者より民族主義者のほうが多く、居住地を移すたびに通った各学校の教師も、共産主義思想より民族主義思想を鼓吹した。われわれは、いずれ新しい思潮にとってかわられる運命にありながらもまだその影響力は無視できない、半世紀以上の歴史をもつ民族主義の包囲の中にあったのである。

    義塾には前途有望な青年が多く、そこでは政治教育とならんで軍事教育をおこない、授業料を取らず無料で勉強させるということが、わたしに樺甸へ向かう決心をさせたのだった。学資を工面する力がないにもかかわらず上級学校へ進みたいという希望と、父の遺志を継いで祖国解放の道へ踏み出そうという抱負を同時にいだいていたわたしにとって、それ以上理想的な教育環境と条件を考えることはできなかった。

    正直にいって、当時、わたしは華成義塾の教育に少なからぬ期待をかけていた。2年のあいだ義塾で教育をうければ、中学の課程を終えるだけでなく、軍事を余分に学べるという喜びもあった。

    いざわが家をあとにすると、わたしは何度も後ろをふりかえった。父の亡骸が葬られている陽地村を眺め、遠くでわたしを見送る母や弟たちの姿を見ると心が乱れ、軽い足どりで道を急ぐことができなかった。幼い弟たちの面倒を見ながら苦労する母のことが気にかかった。撫松のような不案内な土地で、母が独力で暮らしを立てるのは、当時の実情では容易なことでなかった。旅に発つ者は後ろをふりかえってはいけない、という母の言葉を噛みしめながら、わたしは気をとりなおした。 撫松から樺甸までは陸路で120キロほどの道のりだった。金のある人なら箱馬車に乗って容易に行き来できる道のりだったが、旅費の乏しいわたしには、そんなぜいたくは許されなかった。

    樺甸は松花江と輝発河の合流点から20数キロ離れたところにある、吉林省管内の山あいの町で、南満州では指折りの独立運動中心地の一つだった。

    わたしが家を発つとき、撫松のある独立運動家が、華成義塾はひどい財政難に陥っているから苦労するだろう、と心配してくれた。独立軍の財政が全般的に窮迫しているだけに、華成義塾の生活条件もよくないであろうが、そんな困難などは問題でなかった。幼いころから木綿の服を着、引き割りがゆをすすって育ったわたしには、華成義塾がいかに貧しくても万景台のわが家よりはましだろうと思えたのである。 わたしがわずかながら不安を覚えたのは、年が幼く、軍人の経歴も皆無というわたしを華成義塾がどう迎えてくれるだろうか、ということだった。しかし、樺甸には金時雨がおり、義塾にも康済河のような父の友人がいると思うと心強かった。 わたしは樺甸に到着すると、母にいわれたとおり、まず金時雨を訪ねた。彼は正義府に属する樺甸総管所の総管だった。総管所とは、管轄区域内に居住する朝鮮人の生活上の便宜をはかる自治的な機構である。そのような総管所は撫松にもあったし、磐石や寬甸、旺清門、三源浦などにもあった。金時雨は慈城郡にいたころから父と連係を保っていた独立運動家だった。3・1人民蜂起後、中国に渡って臨江や丹東一帯で活動したが、1924年からは樺甸に移っていた。彼は樺甸の町に精米所を設けて独立運動資金を調達する一方、大衆の啓蒙に努めた。

    彼が設けたのが南大街にある永豊精米所だった。彼は総管の職務を遂行するかたわら精米所を経営し、そこからあがる収益で独立軍に食糧を送り、華成義塾とその付近にある朝鮮人模範小学校に財政的な後援もしていた。

    わたしは臨江にいたころから、金総管の北国の人らしい豪放な気質と剛直な性格に引きつけられて、彼を心から慕い、尊敬していた。金総管もわたしに息子や甥のように目をかけてくれた。

    庭で鳥小屋の手入れをしていた金時雨夫妻は、わたしを見ると歓声をあげ、懐かしげに迎え入れてくれた。庭には足にぶつかるほど鶏が多かった。

    わたしは金時雨の案内で華成義塾を訪れた。金時雨は精米業者に特有なぬかのにおいの発散する上衣を着て、わたしを華成義塾に連れていった。義塾は輝発河のほとりにあった。満州のどこでもよく見られる勾配の急なわらぶきの屋根と青レンガ造りの黒みがかった壁が、ケヤキ林の合間から見えた。校舎の裏手に運動場をはさんで寮があった。

    校舎も寮も思ったよりみすぼらしかった。だが、建物がみすぼらしいことなどどうでもいい、建物は貧弱でもりっぱなことをたくさん学べればそれでいいではないか、と自分に言い聞かせた。

    それでも、運動場は大きくてりっぱだった。わたしは校舎に向かいながら、期待と好奇の目で義塾の全貌を注意深く眺めた。わたしたちが八道溝にいたとき、呉東振が寒い冬の日に防寒帽もかぶらずに訪ねてきて、父と華成義塾の設立問題について話し合ったことが思い出された。その義塾に入学することになって校舎を眺めるわたしの胸に熱い感慨がよみがえった。

    小柄で額のはげあがった、中年の印象のよい塾長が自室でわたしを迎えてくれた。彼が義山崔東旿先生だった。

    義山先生は、33人衆と呼ばれる3・1人民蜂起主導者の一人である天道教第三世教主孫秉熙の弟子であった。彼は孫秉熙が設けた講習所を卒業すると、故郷の義州に帰って書堂を開き、天道教徒の子女を教育することで独立運動をはじめた。3・1運動に参加した彼は、その後中国に亡命して天道教宗理院を設立し、亡命同胞のなかで愛国的な布教をおこなった。

    塾長は、父の葬儀に参加できず一生の悔いを残したといって非常に胸を痛めた。彼は総管と長時間、父の思い出話をした。

    その日、崔東 先生がわたしにしてくれた訓戒はきわめて印象的だった。

    「成柱はちょうどよいときに義塾に来た。独立運動は秀才を求める新しい時代を迎えている。洪範図や柳麟錫のようにがむしゃらに戦う時代はもうすぎた。日本の新式戦法、新式武力を制圧するには、われわれにも新式戦法と新式武力がなければならないが、それを誰が解決するのか?ほかでもない成柱のような新しい世代が解決しなければならないのだ…」

    塾長先生はそのほかにも教訓になることを多く語ってくれた。彼は、宿所や食事の条件がよくないことを再三強調し、あれこれと困難は多かろうが、朝鮮独立の将来に期待をかけてそれをたえ忍ぶのだ、と激励してくれた。初印象からして温厚で、驚くほど話上手な人だと思った。その日、わたしは金時雨の家で夕食のもてなしをうけた。質素だが主人夫妻のまごころのこもった食膳の前で、父の世代に属する人たちと向かい合ってみると、感慨無量だった。

    膳には酒も一本置いてあった。金時雨の晩酌用だろうと思っていると、総管は意外にも、杯に酒をついでわたしに勧めるのだった。

    わたしは恐縮し、あわてて両手を振った。生まれてはじめて大人扱いをされてすっかりとまどってしまった。父の葬儀のとき、わたしがひどく悲しむ様子を見て、張喆鎬が酒を勧めてくれたことがあるが、それは喪主としてうけた酒であって、それ以上のものではなかった。ところが金時雨は、わたしを成人のように扱うのだった。言葉づかいも以前とは違って、対等な者にたいするそれだった。

    「君が来ると聞いて、お父さんのことが思い出されてならなかった。それで酒を一本用意させたのだ。君のお父さんは樺甸に見えると、いつもこの膳の前でわたしが勧める杯をうけたものだ。きょうは、君がお父さんに代わってこの杯をうけてくれ。君ももう家長ではないか」

    総管はこういって気さくに酒を勧めるのだが、わたしは軽々しく杯を受け取ることができなかった。指先でつまめるほどの小さな杯だったが、そこにははかりしれない重みがあった。金時雨がわたしを成人として遇してくれたその場で、わたしは国と民族のために、今後、りっぱな大人としてふるまわなければならない、と厳粛な使命感で胸を熱くした。

    彼は、塾長先生とは相談ずみだから、寮へ入らずここにいるようにといって、わたしに寝室兼書斎の自室をあけてくれた。

    金亨稷先生が臨終を前にして、成柱をよろしく頼むと手紙を書いてよこしたのだから、自分にはそれを守る義務がある、というのだった。撫松でも樺甸でも、父の友人はこのようにわたしのために誠意をつくしてくれた。父にたいする義理を守ろうとすればこそ、誰もがみなそうしたのであろう。わたしは当時、そうした誠意や義理について多くのことを考えた。その底には、国の独立にりっぱにつくしてほしいと願う、父と同世代の人たちの切々とした期待があった。その期待はわたしに、朝鮮の息子、新しい世代としての重い責任を感じさせた。わたしは、父の遺訓を深く胸に刻んで学習と訓練に励み、民衆の期待にこたえようと、かたく心に誓った。翌日からわたしは、華成義塾でなじみのない軍官学校の生活をはじめた。崔東旿先生がわたしを教室に連れて入った。学生たちはわたしを見ると、小さい独立軍が来たといって珍しがった。どこかの中隊で使い走りでもしていて転がりこんできた若造だろうと思っている様子だった。

    40人余りの学生のなかで、わたしと同じ年ごろの者は一人も見あたらなかった。ほとんどが 20前後の青年で、なかには黒いひげづらの子持ちという人もいた。みなわたしの兄とも叔父ともいえる人たちだった。

    塾長がわたしを紹介すると、みないっせいに拍手をした。

    わたしは先生が決めてくれた、窓ぎわのいちばん前の席に座った。わたしの横には、第1中隊から来た朴且石という学生が座っていた。彼は授業がはじまるたびに、教室に入ってくる教師の経歴や性格上の特徴を、かいつまんで教えてくれた。

    彼がもっとも尊敬の念をもって紹介した教員は、軍事教官の李雄だった。李雄は正義府の軍事委員で、黄埔軍官学校出身だということだった。当時は、黄埔軍官学校の出身だといえば、誰でもたいした人物としてかつぎあげられるころだった。父親がソウルで大きな薬局を経営しているので、彼はそこから送られてくる多くの朝鮮人参を補薬として使っている、いささか官僚風を吹かせるのが欠点だが、博識で多芸多才なので学生たちの受けがいいということだった。

    朴且石は、華成義塾では朝鮮史と地理、生物、数学、体育、軍事学、世界革命史などの課目を教えているといって、紙に義塾の日課を書いてくれた。

    後日、武装闘争を進めていたとき、わたしの胸にいやしがたい痛手を残した朴且石との因縁はこのようにして結ばれたのだった。彼はのちに道を踏み誤ったが、華成義塾時代はわたしと肉親のように付き合い、格別な友情を分かち合ったものである。

    その日の午後、第6中隊出身の崔昌傑が十数人の仲間と一緒に、わたしを訪ねて金時雨の家にやってきた。おそらくわたしの初印象がよかったのだろう。それに、わたしがそんな幼い年で入学したことに好奇心がわき、語り合ってみたいと思ったのであろう。

    崔昌傑は頭に大きな傷跡があった。広い額と黒い眉毛がなかなか男性的だった。長身で体格のよい彼は、頭の傷跡さえなければ美男子ともてはやされたに違いない。彼の話しぶりや物腰には人の心を引きつける気さくなところがあった。最初の対面で早くも彼は、わたしの胸に消しがたい印象を残した。

    「成柱は14にしては大人びているよ。その幼い年でどう独立軍の生活をし、華成義塾にはどうやって入学したんだ?」

    崔昌傑の最初の質問だった。彼は長年同じ屋根の下でともにすごし、友情を結んだ10年来の知己にでも会ったかのように、終始、口もとに笑みを浮かべて、わたしの顔から目を離さなかった。

    わたしは、彼が知りたがっていることをありのまま手みじかに答えた。

    わたしが金亨稷の長男だと知ると、彼らは驚き、羨望のまなざしを向けた。そしていっそう親しみを見せながら、わたしが体験した祖国の様子を知ろうと、いろいろと質問を浴びせた。やがて、わたしは崔昌傑の独立軍時代の生活をたずねた。 彼は、自分の頭の傷跡がどうしてできたかということから話をはじめた。ユーモアをまじえておもしろおかしく語るその話しぶりが傑作だった。彼の話しぶりの特徴は、自分をつねに三人称の位置において話すことである。彼は、「おれがそうした」「おれがだまされた」というところを「崔昌傑がそうした」「崔昌傑がだまされた」といっては、聞き手を笑わせた。

    「崔昌傑が梁世鳳の下で兵卒をしていたときのことだ。ある日、開原方面で密偵をひっとらえて帰る途中、旅館に泊まったのだが、間抜けな崔昌傑は、密偵を前にこっくりこっくり居眠りをしたんだ。数里もの道を歩いたもんで、疲れていたんだね。そのすきに密偵は繩をほどき、斧で崔昌傑の頭をなぐりつけて逃げたんだ。幸いに急所をはずれていた。崔昌傑の頭にできた〝勲章〟はそんなあきれた歴史を秘めているのだ。人間たががゆるむと、崔昌傑のようにならんともかぎらん」

    1、2時間、腹を割って話し合ってみると、彼はじつに愉快な人間だった。青年時代に付き合った友人は数百、数千人にのぼるが、崔昌傑のように自分をいつも三人称の位置においてよどみなく話す、そんな傑作な人間を見るのははじめてだった。

    その後、生活をともにするなかで、わたしは彼の経歴をくわしく知ることができた。彼の父親は撫順で小さな旅館を経営していた。父親は息子に家業を手伝ってもらいたいと望んだが、崔昌傑は国を独立させるのだといって家を飛び出し、軍隊に入った。彼が独立軍にいたとき、祖母が孫の気持をひるがえそうと何度も三源浦に面会に行ったが、崔昌傑はそのたびに、国が滅んだいま、そんな旅館にしがみついている場合ではないといって志を曲げなかったという。

    わたしは、崔昌傑、金利甲、桂永春、李済宇、朴根源、康炳善、金園宇のほかにも、南満州や国内の各地から反日運動を志して華成義塾に集まってきた多くの青年と知り合った。

    彼らは午後になると、わたしと語り合うため毎日のように金時雨の家にやってきた。わたしはそんなに大勢の学友がわたしを訪ねてくれるのがうれしくもあり、驚きもした。こうしてわたしは最初から、同年配でもない、五つも十も年上の人たちと付き合うようになった。青年学生運動と地下革命活動をしていた当時、わたしの戦友のなかに年長者が多かったのはそのためだった。

    わたしは華成義塾に入学して何日もたたずに、義塾の財政が撫松の独立運動家が話していたよりもずっと苦しいことを知った。華成義塾で財産といえるほどのものは、古びた机と椅子、いくつかの運動器具だけだった。

    しかし、わたしの抱負は大きかった。建物は狭くうす汚れていても、その朽ちたわらぶきの屋根の下で育つ青年たちはなんと頼もしいことか! 金はなくても、前途有望な青年が大勢集まっているという点では、華成義塾は長者だといえた。わたしは、それがなによりもうれしかった。

    

    

    2 幻 滅

    

    

    わたしはすぐ華成義塾の生活にとけこんだ。2週間ほど学んでみると、学課も別段むずかしくはなかった。 義塾の学生がもっとも苦手とする課目は数学だった。ある日の数学の時間に、何人か指名されて誰も解けなかった長い四則計算問題をわたしがすらすらと解くと、彼らは目を丸くした。何年も正規の教育をうけられずに独立軍生活をしたのだから、無理もないことだった。それからというもの、わたしは数学のために往生させられた。頭を使うのが嫌いな何人かのひげづらの青年が、数学の宿題を出されるたびに訪ねてきては、手を焼かせるのである。その代償といおうか、彼らはわたしにいろいろな体験談を聞かせてくれた。そこには聞く価値のあるものが多かった。はげしい肉体的負担が要求される教練のときも、彼らはいろいろとわたしの力になってくれた。そうしたなかで、わたしたちは深い胸の内をつつみかくさず打ち明ける親しい仲になった。ちびの新入生が年長者の荷にならなければ幸いだと思っていたわたしが、学習や教練で学友たちに負けることがなく、また日常生活でも自他の区別をつけずみんなのなかにとけこんだので、彼らも年齢の違いを越えてわたしと親しんだ。だから、わたしを取り巻く環境は恵まれていたといえる。しかし、その後いくらもたたずに華成義塾の教育がわたしの気に入らなくなってきた。父の友人たちが設立した学校であり、父の縁故者が主管し運営する学校ではあったが、わたしはそこに前の世代が残した、思想と方法における古いものを発見したからである。ブルジョア民族主義運動の歴史は数十年を数えるが、義塾の教育にはそれを集大成し、批判的に分析、総括する理論がなかった。ブルジョア民族主義者は数十年ものあいだ民族主義運動を指導したが、その運動の指針となり教訓となりうる論文や教科書一つまともに書いていなかった。華成義塾を訪れる独立軍の巨頭や愛国の志士も、演台をたたいて漠然と独立を達成しようと叫ぶだけだった。革命勢力をどう編成し、大衆をいかに動員し、独立運動隊伍の統一団結をどのように実現すべきかという方法もなければ、武装闘争の教範や戦術なども満足なものがなかった。朝鮮史の課目は王朝史本位のもので、世界革命史もブルジョア革命史が中心であった。華成義塾で教えるのは民族主義思想と、旧韓国の臭気がただよう旧式の教練だけだった。 民族主義思想にどっぷりつかった教員たちは反日と民族の独立について多くを語ったが、彼らの主張する闘争方法は立ち後れたものだった。学校当局は戦歴のある独立軍隊員を招いていろいろな武勲談を聞かせた。ところがその武勲談を通して鼓吹するのは、安重根、張仁煥、姜宇奎、李在明、羅錫疇などの烈士が適用したテロリズムであった。学生たちは、独立軍の幹部を養成する軍官学校ともあろうものが、口先ばかりで実弾射撃用の弾もなく、いつも木銃で訓練しているのだから、どうして日本軍を追い出せるのかと不平を鳴らした。あるとき、一人の学生が、いつになったらわれわれも新式銃を扱えるのか、と軍事教官に質問したことがあった。教官は困惑し、いま独立軍の幹部が軍資金を集め、アメリカかフランスから武器を買い入れる計画で猛烈に活動しているから、間もなく手に入るだろうといいつくろった。何挺かの銃を得ることすらままならず、何千キロも離れた欧米諸国に期待をよせる有様だったのである。 教練の時間に、すねに砂袋をつけて走るたびに、わたしは、こんなことで日本軍を打ち負かせるだろうかと疑問をいだいたものである。かつて数万にのぼる全毓準の東学軍は、牛金峙峠でわずか1,000人の日本軍を抑えられず、粉砕されてしまった。当時、日本軍は新式銃で武装していた。東学軍は100人が1人を倒すだけでも、公州を落としソウルまで一挙に攻めこめる有利な形勢にありながらも、あの貧弱な装備と軍勢では惨敗するほかなかったのである。 義兵の武力も東学軍にくらべて、とくにまさっている点はなかった。義兵にも新式銃がいくらかあるにはあったが、その数は限られ、大半の兵士は刀や槍または火繩銃を使っていた。義兵闘争を、火繩銃と38式小銃との戦いだったと歴史家が評しているのもそのためだと思う。銃弾を1発撃つたびに火をつけなければならない火繩銃をもって、毎分10発以上も発射できる38式小銃を制圧するには、いかに苦しい忍耐力を要し、どれほど困難な戦いを展開しなければならないかは、想像にかたくないであろう。火繩銃の性能が義兵だけの秘密であったあいだは、日本軍はその銃声を聞いただけでも胆をつぶして逃走したものだが、その性能を知ってからは、恐れるどころかばかにしてかかったのだから、戦いの結果はいわずと知れたことである。両班の道徳と戒律に縛られていた儒生出身の義兵は、冠をかぶり、不自由な道袍(男子の礼服)姿で戦ったという。 そのような義兵たちを日本軍は大砲と機関銃でなぎ倒した。日本の軍事力が当時とはくらべようもなく強大になっているのに、砂袋をつけて訓練をしていて、はたして戦車や大砲、軍艦、飛行機などの近代兵器や重装備をどんどんつくりだしている帝国主義の強力な軍隊を撃破できるだろうか。わたしがなによりも失望したのは、華成義塾の思想的な立ち後れだった。 学校当局が民族主義一点張りで、他の思想はすべて警戒していた状況では、学生もおのずとその流れに従うほかなかった。 華成義塾には王朝政治に未練をいだいたり、アメリカ的民主主義に幻想をもったりする青年もいた。そうした傾向は、世界革命史の学科討論の時間にもっとも顕著にあらわれた。教師から指名された学生は、講義で学んだ内容をそのまま反復し、資本主義の発展について長々と述べた。彼らのそのような教条的な学習態度がわたしには不満だった。政治課目でも、朝鮮の独立と朝鮮の民衆という生きた現実を考察することがまるでなかった。ただ、教科書や教授要綱にもられている内容を機械的に教え、反復させるだけなのである。実践的問題、朝鮮の将来にかかわる問題で討論を進めるべきだと考えたわたしは、いましがた発言した学生に、わが国では独立後、どのような社会を築くべきだろうかとたずねた。彼は、資本主義の道に進まなければならない、とためらいもなく答えた。朝鮮民族が日本に国を奪われたのは、他の国ぐにが資本主義の道を歩んでいるとき、朝鮮では封建支配層が風流韻事にふけって無為に歳月を送ったためだから、そのような過去をくりかえさないためにも資本主義社会を築かなければならない、というのである。ある学生は封建王朝を再建すべきだと主張した。民主主義社会をうち立てるべきだとか、勤労人民が主人となる社会をうち立てるべきだと主張する学生はいなかった。民族解放運動が民族主義運動から共産主義運動へと方向転換をしているときであったにもかかわらず、そうした時代の思潮にはまるで関心をよせていないようだった。 独立後、どのような国を建設するかというのはそのときになって決めることで、独立する前から資本主義か王政復古かを論ずるのはばかげたことだといって、腕をこまぬいている学生もいた。

    わたしはそんな討論を聞きながら、華成義塾でおこなっている民族主義教育が時代後れであることをいっそう痛切に感じた。封建王朝を再建するというのも、資本主義へ進もうというのも、ともに時代錯誤ではないかと思うと、わたしはもどかしくてならなかった。 わたしはたまりかねて立ち上がり、わが国ではヨーロッパ諸国のようにブルジョア革命をすることもできなければ、古い封建支配機構をそのまま復活させてもいけないといった。資本主義や封建社会は、いずれも富める者が勤労者大衆を搾取してぜいたくをする社会だ。独立後、朝鮮にそんな不公平な社会をつくるわけにはいかない。機械文明の発達に目を奪われて資本主義の病弊を見ないなら、それは誤りだ。封建王朝を再建するというのも論外だ。国を外部勢力に売り渡した王政になぜ未練をもつのか。いったい歴代の王がやったことはなにか。民衆を搾り、正論を吐く忠臣を流罪に処し、首をはねたことのほかになにをしたというのか。われわれは朝鮮の独立後、祖国に搾取と抑圧のない社会、労働者、農民をはじめ勤労者大衆が幸せに暮らせる社会を築かなければならない… 多くの学生がわたしの主張に共鳴した。搾取と抑圧のない万民平等の富強な社会を築こうというのに、誰が反対するだろうか。崔昌傑も授業が終わるとわたしの手を握り、りっぱな討論だったといって支持してくれた。わたしが共産主義という言葉を一言もつかわずに共産主義思想をみごとに吹きこんだと痛快がるのであった。

    華成義塾のもつ制約性は、民族主義運動自体の制約性を物語っていた。わたしは華成義塾を通じて民族主義運動の全貌をうかがうことができた。そのころ独立軍は弱体化し、勢力争いをこととしていた。1920年代の前半期に国内や鴨緑江沿岸でしばしばくりひろげられた実際的な軍事活動はほとんど影をひそめ、管轄区域に閉じこもって軍資金を集めるだけというのが実情であった。

    「朝鮮民族を代表する挙国政府」と自称していた上海臨時政府の人たちも、「自治派」や「独立派」といった派閥をつくって、はげしい地位争いをくりひろげていた。臨時政府の首班がひんぴんと交替したのもそのためだった。ときには、年に2回も内閣が改造されることすらあった。 臨時政府の要人は、パリ講和会議のさい、「朝鮮独立請願書」がアメリカをはじめ連合国代表の悪辣な妨害によって、上程すらされなかったことから当然教訓を汲みとるべきであるにもかかわらず、民族の尊厳を傷つけながら卑屈きわまる「請願」をつづけていた。はなはだしいことに、「米国会議員東洋視察団」が上海をまわってソウルを訪れたときは、国内の親米事大主義者を動かして、それらの議員たちに朝鮮人参や銀製品など各種の高価な物品を贈らせるようなことまでした。

    しかし、その臨時政府も1920年代の中ごろになると、資金難で形骸すら維持しがたくなり、しまいには蒋介石重慶政府の食客になりさがってぶざまに生き長らえた。 政治的動揺のはげしい資産家階級出身の民族運動指導者のうち、少なからぬ人たちは勤労人民大衆の革命的進出に恐れをなして敵に投降し、変節した。彼らは「愛国の志士」から日帝の走狗、民族改良主義者に転落し、民族解放運動を阻害するようになった。 日帝は「文化統治」を標榜し、朝鮮人が国の独立を望むならば政治的に日本の統治に反対しないで協力すべきだ、日本の植民地支配下での自治権を獲得するために努め、文化を向上させ、経済の発展をはかり、民族性を改良しなければならない、と説いた。それをうのみにしたのがほかならぬ資産家階級出身の民族運動指導者たちであった。彼らは「民族改良」と「実力養成」のベールをかぶって教育と産業の「振興」、各個人の「自我修養」「階級協調」「大同団結」「民族自治」などを唱えた。そのような改良主義の風は華成義塾にも吹きよせた。 金時雨の家の奥の間はいつも、わたしと政治問題を論じ合おうとして訪ねてくる青年たちでにぎわった。わたしが金時雨の書斎にあるマルクス・レーニン主義の書籍を熱心に読んでいたときだったので、 話題はおのずと政治問題へと移ったのだった。わたしは撫松にいたとき、『レーニン一生記』や『社会主義大義』のような本を何冊か読んでいたが、樺甸ではさらに多くの本を読んだ。 以前は本の内容を理解することにとどまっていたけれども、華成義塾に入学してからは、本を読んでもつねに、それらの古典にある革命の原理を朝鮮の現実と結びつけて考えた。朝鮮革命の実践との関係では知りたいことが一つや二つではなかった。日帝を打倒して国を取りもどさなければならないのだが、どのような方法で目的を実現すべきか、祖国を解放するたたかいでは、どの対象を敵と規定し、どの階層と手を握るべきか、国の独立後はどのような道のりをへて社会主義・共産主義を建設しなければならないのか

    … わたしにはこのすべてが未知の問題であった。そうした問題の解答を得るため、本を手にすると類似した内容が見つかるまで、根気よく読み進んだ。とくに植民地問題が述べられているくだりは十度、二十度とくりかえして読んだ。そんなわけで、友人が訪ねてきても話題には事欠かなかった。 わたしたちは新しい思潮やソ連についての話をもっとも多くした。そんな話をした日は、学生たちもみな搾取と抑圧のない新しい世界を描きながら、なかなか帰ろうとしなかった。彼らは王政復古や資本主義、民族の改造などを主張する理論より、そんな話のほうがはるかに興味があるといった。その日その日をなるがままにすごしていた学生たちのあいだで、しだいに新しいものにたいする憧憬が芽生えはじめた。

    しかし、校内ではレーニンや10月革命について自由に話をすることはできなかった。学校当局がそれを禁じていたのである。わたしの心の中では、華成義塾にたいする期待がしだいに崩れていった。

    

    

    

    

    3 打倒帝国主義同盟

    

    

    

    華成義塾の時代的立ち後れは、わたしに古い方式を踏襲すべきではないという考えをいだかせた。何挺かの銃を手にして、小規模の武装グループが鴨緑江を行き来しながら日本の巡査を何人か射殺し、軍資金を集めてまわるやり方では、国の独立は果たせないという考えが、日とともに強くなった。 わたしは、新しい方法で祖国解放の道を切り開かなければならないという決心をもちはじめた。新しい道を歩むべきだという点では、学友たちの見解も同じであった。しかし、そのような見解をもっている学生は多くなかった。大多数の学生は新しい思潮を容易に受け入れようとせず、警戒し、排斥した。 華成義塾では共産主義の書籍を読むことすら禁じられていた。 わたしが『共産党宣言』を学校へ持っていくと、学友はわたしの脇腹をこづいて、そんな本は家で読め、と忠告した。学校当局がなによりも警戒し、重大視しているのが赤色系の本であり、その軽重によっては退学処分もありうると脅かされたというのである。わたしは、統制がこわくて読みたい本も読めないようでは大事を果たせない、真理と認めた本は退学させられるようなことがあっても読むべきだ、と主張した。

    『共産党宣言』は金時雨の書斎にあったものである。書斎には共産主義関係の書籍が多かった。彼の書斎は、民族解放運動が民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換していた当時の時代相と、時代の流れに乗ろうとする金時雨自身の立場を物語っているといえた。 華成義塾当局がそんな本を禁じているので、わたしは不満を覚えずにいられなかった。義塾の戒律がどうであろうと、新しい思想に心酔し、それを深く知ろうとするわたしの情熱をおさえることはできなかった。わたしは当局の要求を無視して共産主義書籍を耽読した。そのうちに、そういう本を読みたがる学生が列をなすほど増えたので、 わたしたちは読書の順番と時間を決め、期限内に返納するようにした。 新しい思潮を学ぶ学友のあいだで、無言のうちに決められたこの読書規律は概してよく守られた。 ところが、性格が大まかな桂永春は規律をきちんと守らなかった。 彼は読書期限をよく守らず、読書の場を選択するうえでも慎重さを欠いた。『共産党宣言』を一人で10日間も持ち歩いたので、ほかの友達に早くまわすようにと促すと、少し書き抜きをしたいから、もう2日だけ待ってほしいといった。 桂永春は翌日、登校もせず、ひそかに寮を抜け出した。午前の授業が終わって昼食の時間になっても彼はあらわれなかった。わたしたちは、輝発河の岸辺の茂みの中で腹ばいになって一心に本を読んでいる桂永春を発見した。

    わたしは彼に、本に熱中するのはよいが、講義をサボろうとせず、 時と場所を選んで読むようにと穏やかに忠告した。 彼は注意すると答えたが、翌日の歴史の時間に本をそっと読んでいるところを教師に見つかった。本は塾長先生の手に渡り、大騒ぎになった。 学校当局はそれがわたしを通じて金時雨の書斎から持ち出されたと知ると、わたしと総管のところへ歴史教員をよこして抗議した。 彼は金時雨に、華成義塾を援助すべき総管ともあろう人が、左翼の本を読んでいる学生を見ても見ぬふりをするのは総管らしくない行為だ、これからは学生がそんな本を読まないよう取り締ってほしい、といった。そしてわたしには、成柱も気をつけるのだ、と脅した。わたしは学校当局のやり方に憤慨した。

    「人間が健全な人格をそなえようとすれば、多方面にわたる知識を摂取すべきではありませんか。学校当局はなんのために新しいものをさかんに摂取すべき青年から、世界的に公認されている先進思想を研究する権利まで奪おうとするのでしょうか。マルクスやレーニンの書籍は町の本屋でも買えるし、字を読める人なら誰でも読んでいるのに、なぜ華成義塾だけはそういう本を読んではいけないというのか、理解できません」 わたしは華成義塾への不満を、金時雨にこうぶちまけた。 彼は溜息をつき、それは正義府の施策であり、学校当局の方針でもあるのだから、自分の力ではどうすることもできない、と答えた。

    人間の価値を決める基本的尺度が思想であれば、教育の価値、学校の価値を決める基本的尺度も思想である。ところが華成義塾当局は、時代の流れに合わない陳腐な思想をもって新しい思潮の波を防ごうと、無駄な努力をしているのである。この事件を機に、学生たちは校内にマルクス・レーニン主義を探究するグループがあることに気づいた。当局は退学だ、厳重処分だと騒ぎたてたが、それはかえって進歩的青年のあいだで共産主義思想への憧憬と好奇心をあおる結果となった。事件後、わたしのところへ左翼書籍を借りにくる学生の数が急激に増えた。 わたしはそれらの青年のなかから、志を同じくし、生死をともにできると思える人たちを選んで、一人ひとり会いはじめた。 父が生前つねに強調していたことは、同志とよく交わり、多くの同志をもてということだった。いかに正しく、りっぱな目的をもっていても、生死をともにする同志がいなければその遠大な志は成就できない、といった父の言葉をわたしはいつも肝に銘じていた。わたしは多くの学生と付き合ったが、そのなかには第1中隊出身の李という青年もいた。彼は頭がよく、実力があり、性格も温和だったので学友から愛されていた。ところが、意外なほど思想は保守的だった。世界革命史の時間に王政復古を真っ先に主張したのも彼だった。平素、通りすがりに一言二言、言葉を交わす程度だった彼とわたしが胸襟を開いて付き合う仲になったのは、朝鮮人模範小学校の高等班とサッカーの試合をしたときからである。その日、フォワードとして活躍した彼は、相手の選手と衝突して足を痛めた。 わたしは寮に入って寝食をともにしながら、10日余り彼の看護をした。そうしているうちに彼とうちとけた仲になったのである。 彼は、世界革命史の時間に自分が王政復古を主張したのはばかげたことだった、成柱がいうとおり、わが国は独立後、働く人たちが豊かに暮らせる社会へ進むのが正しいようだ、早く日本侵略者を追い出し、みんなで幸せに暮らしてみたいものだ、といった。 わたしは彼に、いま華成義塾でしている教練をうけるくらいで日本軍に勝てると思うのか、日本を世界5大強国の一つに数える人たちもいるのに、小銃一つまともなものがない独立軍の力だけでそんな強敵を倒せるだろうか、と聞いてみた。すると彼は、敵と戦うには身体を鍛え、射撃に上達すべきであって、ほかにどんな方法があるというのだ、長年独立運動をしてきた人たちのやり方に従うのが当然で、それ以外に方法はないではないか、と答えるのだった。 わたしは、そうではない、そんなやり方では独立はできない、いま、その方法を見つけるためにマルクスやレーニンの本を読んでいるのだが、学ぶべきことが多い、日本帝国主義者が共産主義思想を中傷し、頑迷な民族主義者も社会主義を排斥しているが、金持ち連中が社会主義をそしるからといって、労働者、農民の子であるわれわれが、共産主義がどんなものであるかを確かめもしないで頭から悪いと決めつけるのはよくない、真の独立運動家、愛国者となるにはマルクス・ レーニン主義を深く学ぶべきだ、といった。わたしの言葉を聞いて深く考えこんでいた彼は、共感を覚えたのか、自分にもそんな本を貸してもらえないかといった。わたしは、傷が治ったら本を貸してやる、いまは治療に努め、早く床を上げるようにと励ました。新しい思潮にたいする憧憬はとどめがたい力となって華成義塾内に広がり、民族主義にしがみついているかたくなな学生を除いて、全校生のほとんどが先進思想を信奉するようになった。わたしは、進歩的な青年学生を仲間に語らって読後討論会をしばしば催した。討論会は金時雨の家か塾監の康済河の家、または輝発河の岸辺などでおこなった。総管の書斎で討論会を開くときなどは、金時雨がなにくれと気を配って、客はもちろん家族も書斎に出入りできないようにした。ときには縁側に座って雑用をしながら、見張り役もつとめてくれた。そんなときわたしは、彼の無言の行動に厚い人情と支持を感じたものだった。わたしたちが康済河の家を討論会の場に選んだのは、彼の息子の康炳善がわたしと親しいからでもあったが、康済河自身が父の友人であり、思想的傾向もよかったからである。 康済河は民族主義者であったが、共産主義を排斥しなかった。むしろ、わたしが訪ねていくと前へ座らせ、共産主義の宣伝さえした。

    自分たちは年をとっているのでもうだめだが、君たちは共産主義的な方法でもいいから戦って勝利しなければならない、というのだった。それがわれわれには少なからぬ力となった。彼の家には共産主義書籍も何冊かあった。いまふりかえってみると、あのとき、われわれは朝鮮革命と関連した実践的問題をもって、かなり高いレベルの討論をしたものだと思う。そのような討論を通して、青年たちは朝鮮革命にたいする見解と立場を統一させることができたのである。ある日、金時雨の家でそのような討論をしていると、わたしの看護をうけていた李君が松葉杖をついて訪ねてきて、約束の本を貸してくれといった。彼は、友人たちがみな新しい道を歩んでいるとき、自分一人寮で寝ていると、落伍者になりそうに思えてやってきたというのである。こうして、彼もわれわれと同じ道を歩むようになった。資本家は金儲けが格別の楽しみだというが、わたしにとっては同志を集めることがまたとない楽しみであり、喜びであった。同志一人を得る喜びがどうして一個の金塊を得る喜びにくらべられようか。同志獲得のたたかいは、このように華成義塾時代に第一歩を踏み出したのである。それ以来、わたしは生涯を同志の獲得にささげた。りっぱな同志がたくさん集まってくると、わたしは、彼らをどのように組織的に結束し、活動の規模を広げるべきか、と思い悩んだ。友人たちにもわたしの考えを打ち明けた。それはおそらく九月末ごろの会合だったと思う。

    わたしはそのとき、組織の必要性について多くのことを語ったように記憶している。国を解放して勤労民衆が幸せに暮らせる世の中をつくるためには、遠く険しい道を切り開かなければならない。われわれが隊伍を拡大し、頑強に血戦をくりひろげていくならば十分に勝利できる。組織をつくり、大衆をそのまわりに結集して覚醒させ、彼らの力で国を解放しなければならない。そんな意味のことを話すと、みな喜んで、早く組織をつくろうといった。わたしは、組織をつくるには準備を十分にしなければならないし、われわれと思想を同じくし、ともにたたかえる同志をもっと多く吸収しなければならない、といった。会合では、今後、組織のメンバーとして受け入れる対象を定め、誰それは誰を受け持ち、また誰それは誰を担当して工作する、というふうに任務分担もした。ところで、われわれが新しい組織をつくれば、もう一つの派が生まれるではないかと憂慮するむきもあった。わたしはそれに答えた。われわれがつくる組織は民族主義者や共産主義者の分派とは全然異なる新しい型の革命組織だ。それは派閥争いをしようという組織ではなく、ひたすら革命をめざしてたたかう組織だ。われわれは革命に自分たちのすべてをささげてたたかい、またたたかうことで満足するだろう…

    われわれは準備期間をへて、中国の国慶節=双十節(10月10日)に組織結成の予備会議を開き、そこで組織の名称と性格、綱領、活動規範などを討議し、それから1週間後の1926年10月17日に金時雨の家で正式に組織を結成した。演台もない質素なオンドル部屋で、会合は静かに進められた。だが、その部屋にみなぎっていた活気と情熱は、60数年の歳月が流れたきょうも忘れることができない。その日は、同志たちも興奮し、わたしも興奮した。組織を結成する場に実際に臨んでみると、なぜか世を去った父が思い出され、朝鮮国民会のことが頭に浮かんだ。父は朝鮮国民会を結成するために何年ものあいだ数千里の道を歩いて、各地に散在する同志を糾合した。国民会の結成後は、その理念を実現するために生涯をささげ、この世を去った。そして、果たせなかった志を息子たちに託した。骨が砕け身が粉になろうとも国を必ず取りもどさなければならない、といった父の遺志を継いでいく途上で、ついに最初の実が結んだかと思うと、胸が高鳴り、涙が流れた。われわれが結成した組織の綱領には、父の理念も含まれていた。その会合に参加して熱弁を吐いた青年たちの顔がいまもありありとまぶたに浮かぶ。崔昌傑、金利甲、李済宇、康炳善、金園宇、朴根源…のちに裏切りはしたが李鍾洛と朴且石も、革命に血も肉も惜しみなくささげる、と戦闘的な盟約をした。話上手な者もいれば口下手な者もいたが、みなりっぱな発言をした。わたしも当時としてはかなり長い演説をした。会合でわたしは、われわれが結成する組織を打倒帝国主義同盟、略称「ㅌ・ㄷ」とすることを提議した。打倒帝国主義同盟は、反帝、独立、自主の理念のもと民族解放、階級解放を実現するために、社会主義・共産主義を志向する新しい世代の青年が歴史の陣痛のなかで創造した、純潔かつ清新な新しい型の政治的生命体であった。われわれは社会主義・共産主義建設を目的としてこの同盟を結成したが、民族主義者から過度に左翼的な組織だという疑念をいだかれないように、組織の名称を打倒帝国主義同盟としたのである。われわれはそれほど民族主義者との関係を重視していたのである。組織の名称を打倒帝国主義同盟としようという提案は、全会一致で可決された。わたしが発表した「トゥ・ドゥ」の綱領も無修正で採択された。「トゥ・ドゥ」は文字通り帝国主義一般の打倒をめざす組織であったから、スローガンも雄大なものであった。打倒帝国主義同盟の当面の課題は、日本帝国主義を打倒して朝鮮の解放と独立を成就することであり、最高目標は朝鮮に社会主義・共産主義を建設し、ひいてはすべての帝国主義を打倒して世界に共産主義を建設するというものだった。われわれは、この綱領を実現するための活動方針も採択した。会合の参加者たちには謄写した規約も配付した。

    会議では、崔昌傑がわたしを打倒帝国主義同盟の責任者に推薦した。われわれは手に手をとって輝発河の岸辺に走っていき、歌をうたい、祖国と民族のための革命の道で、生きても死んでも運命をともにしようと、悲壮な誓いを立てた。その日、わたしは目がさえて一睡もできずに夜を明かした。感激と興奮のあまり眠ることができなかった。正直にいって、われわれはあのとき、全世界をたたかいとったかのような感激と喜びに包まれていた。金の山の上に座った億万長者の喜びと、この喜びとをどうして比較できようか。当時、共産主義運動内部には派手な看板をかかげた組織が多かった。われわれは組織をつくったばかりである。規模のうえではまだそうした組織に比肩できなかった。世間では「トゥ・ドゥ」が出現したことさえ知らないときであった。にもかかわらず、われわれが「トゥ・ドゥ」を結成して、あんなに熱狂的な気分にひたったのは、それが従来の組織とは完全に異なる、新しい型の共産主義的革命組織であるという誇りからであった。

    「トゥ・ドゥ」はある派閥から分かれてできた組織ではなく、そのメンバーも分派に加わっていたとか、亡命団体から抜け出てきた人たちではなかった。文字通り白紙のように清く汚れのない新しい世代であった。「トゥ・ドゥ」の血には不純なものがまじっていなかった。そのメンバーもいずれ劣らぬすぐれた人たちだった。演説をしろといえば演説をし、論文を書けといえば論文を書き、歌をつくれといえば歌をつくり、拳法をやれといえば拳法もする頼もしい若者たちだった。いまの言葉でいうと「一当百」「一騎当千」の青年たちである。そんな青年が集まって新しい道を切り開こうと奮い立ったのだから、その意気たるやたいへんなものだった。

    「トゥ・ドゥ」のメンバーはその後、われわれが切り開いた革命偉業が困難にぶつかるたびに、おのれを犠牲にして血路を開いた。彼らは朝鮮革命の中核部隊としてつねに先導的役割を果たした。金赫、車光秀、崔昌傑、金利甲、康炳善、李済宇など「トゥ・ドゥ」の申し子たちは、その多くが闘争の先頭に立って英雄的にたたかい、潔い最期をとげた。だが、なかにはそうでない者もいた。せっかくりっぱなスタートを切りながら、革命闘争が深まるなかで「トゥ・ドゥ」の理念を放棄し、裏切り者に転落した者たちを思うと、残念でならない。いまは、「トゥ・ドゥ」時代にわたしと手をたずさえてたたかった人が、一人も残っていない。祖国の独立と無産民衆の社会を描き見ながら水火をいとわずたたかった数多くの「トゥ・ドゥ」の息子や娘が、このすばらしい世の中を見ることができずに、若くしてみなわたしのそばを離れていった。彼らは青春をささげてわが党と革命の礎をきずいたのである。わが党の歴史では、「トゥ・ドゥ」を党の根源とみなし、「トゥ・ドゥ」の結成を朝鮮共産主義運動と朝鮮革命の新たな出発点、始原とみている。その根源からわが党の綱領と、わが党の建設と活動の原則が生まれ、わが党創立の根幹が育った。「トゥ・ドゥ」が組織されたときから、朝鮮革命は自主性の原則にもとづいて新しい歩みを踏み出したのである。われわれがかかげた打倒帝国主義同盟の理念と気概については、解放直後、崔一泉(崔衡宇)が『海外朝鮮革命運動小史』の中で「『トゥ・ドゥ』と 金日成 」というタイトルでその一端を紹介していると思う。その数年後、革命軍が創建され、ついで祖国光復会が生まれて二千万の総動員を声高らかに叫んだとき、さらに、その隊伍を数千、数万の支持者、共鳴者が衛星のように取り巻く革命の全盛期が到来したとき、わたしは、樺甸で「トゥ・ドゥ」を結成したころを感無量の思いでふりかえったものである。

    

    

    

    4 新しい活動舞台にあこがれて

    

    

    

    華成義塾は学校運営資金の不足で、さまざまな困難に直面していた。義塾の学生数は100人にみたなかったが、独立軍の実情でそれだけの学生を養うのは容易なことでなかった。正義府が主人であったが、資金は十分にあてがえなかった。民衆から一銭、二銭と集めた軍資金で、行政、軍事、民事などの枠組をととのえ、国家なみの体裁をなんとか保たなければならない正義府にとって、学校に大金を投ずるのは無理であった。華成義塾当局は資金難を打開するため、周期的に学生たちを学校運営資金の募集工作に送り出した。学生たちは20人が一組になって出身中隊に帰り、武器を受け取っては2か月のあいだ正義府の管轄区域をまわって資金を集め、期限になると他の組と交替した。そのようにして金を集めても、何か月もたたずに底をついた。すると今度は吉林へ出むいて、正義府に支援を要請するのだった。あるとき、崔東旿塾長が越冬用の資金を受け取るため、塾監を正義府本部へ送った。

    ところが塾監は空手で帰り、第3中隊長はひどい男だといって憤慨した。華成義塾用にとっておいた金を第3中隊長が横領し、自分の婚礼費に使ってしまったというのである。どんなに多くの金をつぎこんだのか、村じゅうの人に何日も飲食物をふるまってもまだ余ったので、近隣の村人たちまでもてなしたという。それを聞いて、わたしは怒りをおさえることができなかった。正義府の金庫にある金だからといって、天から降ってくるわけではない。それらの金は、民衆がかゆをすすり、食事を欠かしていながらも、祖国を取りもどしてもらおうと小銭をため、軍資金として納めたものである。金がないと、わらじをつくって売ってでも軍資金を納めてはじめて心が安らぐ朝鮮人民だった。

    第3中隊長はそんなことは眼中にもないようだった。私利私欲にどれだけ目がくらんで、中隊長ともあろう者がそんな汚らわしい横領行為をするのだろうか。銃をとって敵と戦う使命をになった指揮官がそんな不正をはばかりなく働いているのは、独立軍の上層部が変質している一つの証拠といえた。

    「乙巳条約」(1905年)後、崔益鉉の指揮する淳昌義兵の敗報を聞いて数百人の義兵を集め、全羅道一帯で猛活躍していた一義兵隊長は、部下が民衆の財産を略奪したことを知ると、慨嘆のあまり部隊を解散して山中に隠遁してしまったという。その義兵隊長が民衆にたいする侵害をいかに大きな恥辱、罪悪としていたかは、この一事からもよくおしはかれるであろう。第3中隊長の非行は結局、人民にたいする侵害だといえた。

    わたしは臨江にいたころ、何人かの独立軍隊員が朝鮮へ渡り、農民の牛を奪って帰ったことで後ろ指をさされるのを見たことがあった。その部隊の指揮官はわたしの家を訪れたさい、父からきびしく叱責された。当時、独立軍が軍資金を集めに管轄区域の朝鮮人居住地にあらわれると、その地域の責任者は、金や米を割り当てた書付けをつくって村じゅうの家にまわした。住民はそこに記されているとおり、金や食糧を軍資金として納めなければならなかった。貧しい農民にとって、それは大きな負担だった。ところが独立軍の方ではそんなことにはおかまいなく、一銭でも多くの資金を集めようとあくせくし、それぞれ管轄区域を定めては、負けず劣らず勢力範囲を広げた。独立軍のなかには、軍資金を集めて帰る他の武装グループを脅迫して金を奪い去る者もいた。大小の武装グループが競い合って人民の金をかき集めた。彼らは民衆をたんに納税者、金や食糧、宿所を提供するしもべとしかみていなかった。そうした非行は封建社会の官僚の行為と少しも変わらなかった。

    玉貫子(纓に通す玉製の小環)をつけた朝鮮の封建支配層は、王宮で人民を搾取する新しい税制をつぎつぎと考案しては、あくことなく民衆のふところをはたいた。かつて、封建政府は景福宮を建てるために莫大な金を使い、それを補うために門税(通行税)というものまで考え出した。そのようにして集めた金でせめて大学や工場でも建てていたなら、後世の人から感謝されたであろう。華成義塾の進歩的青年は、中隊長がそんなに堕落したのでは、独立軍ももうおしまいだと嘆いた。しかし、彼らはただ非難し、慨嘆するだけだった。今日のように公正な社会なら、軍人や人民が世論を高めて提訴するとか、同志裁判にかけてこらしめてやれるだろうが、法もなく軍紀も乱れていた当時では泣き寝入りするほかなかった。 正義府には民事を担当する機構があるにはあったが、それは看板だけで、軍資金を払えない人を連行して鞭打つことはあっても、中隊長のような者の違法行為には目をつぶっていた。彼らの法には上層部の人間だけがくぐれる抜け穴があったのである。わたしはこの出来事を機に、独立軍とすべての独立運動家に警鐘を鳴らそうと決心した。けれども、それをどう鳴らすかが問題だった。崔昌傑はただちに学生代表を選び、第1中隊から第6中隊まで残らず抗議してまわろうといった。正義府が出している『大東民報』のような出版物に投稿して、独立軍の官僚行為を暴露しようという者もいた。それも一つの方法とはいえたが、第3中隊長と同じような立場にある正義府本部や他の中隊長、出版物の編集者たちが、それを受けとめるかどうかが問題だった。わたしは、確信のない方法で日時を長引かせることなく、独立軍の各中隊に檄を飛ばそうといった。みな賛成し、わたしに檄文を書けといった。

    それは「トゥ・ドゥ」結成後、われわれが民族主義者に加えた最初の批判であった。はじめて書く檄だったので、意に満たなかったうらみはあるが、みんなの賛同を得たので、金時雨に頼んで、正義府の連絡員が来れば渡してもらうことにした。檄は連絡員によってすぐ各中隊に伝えられた。反応はかなり大きかった。軍資金を横領して婚礼費に使った本人はもとより、自尊心を傷つけられたり、正義府が非難されたりするのを黙っていない呉東振さえ、檄を読んで大きな衝撃をうけたらしかった。翌年の初め、わたしが吉林で勉強するようになったとき、彼はわたしの前で檄の件をもちだした。第6中隊に寄ったとき、中隊長や小隊長と一緒にそれを読んだというのである。

    「その檄を読んでわしは第3中隊長をこっぴどく叱りつけた。中隊長の地位からはずそうかとさえ思った。そんなやからが独立軍の体面を汚しているのだ」 呉東振は独立軍の上層部が変質していることを率直に認めながらも、その収拾策が立たないのをもどかしがった。わが目で見、肌で感じながらも独立軍の堕落が防げず、ただ腕をこまぬいて見ていなければならないのだから、あのはげしい気性の呉東振がどんなにやりきれない思いをしたことだろうか。わたしは呉東振の話を聞いて、独立軍の腐敗が、われわれ若い世代を悩ませているばかりか、良心的な民族主義者をも悩ませていることを知った。

    けれども、一枚の檄をもって独立軍の政治的・道徳的堕落を防ぐことなどとうてい不可能であった。 独立軍はますます救いがたい下り坂を歩んでいた。資産家階級の利益を守り、それを代弁する民族主義軍隊としての独立軍の運命はもはや決まっていたのである。人民をないがしろにし、彼らに過度の経済的負担をかけている点では、華成義塾の学生も独立軍とさほど変わるところがなかった。彼らも軍資金調達の工作に出ると、管轄区域をまわってわれ先に財物や食糧をかき集めた。軍資金の提供をしぶる人には愛国心がないといいがかりをつけ、独立軍をばかにするのかと脅かしては豚や鶏のような家畜でも納めさせた。彼らは、学校では粟飯ばかり食わせている、おかずがどうだなどといって不平を鳴らした。ある日、寮の食堂で夕食をとっていた学生が、また粟飯に菜っ葉汁だ、こんなものしか食わせられないのか、と難癖をつけ、舎監の黄世一と言い争った。黄世一は職務に忠実な人だった。ところが食事の質が少しでも落ちると、学生たちは、舎監はなっていないと非難するのであった。わたしは解放直後、義州で郡人民委員会副委員長を勤めていた黄世一と会って華成義塾時代の思い出話をしたことがある。そのとき彼は笑いながら、自分は華成義塾時代の教訓が忘れられず、里へ行っても食事のことでは絶対にとやかくいわないことにしているといった。

    わたしは、華成義塾で粟飯に不平を鳴らすような人間は、卒業後、独立軍にもどっても食事に文句をつけるだろうし、とどのつまりは金や権力に目がない醜悪な人間に転落するほかないだろうと思った。 問題は、そのような人たちが2年後、将校となり、独立軍の中隊や小隊を指揮するようになることである。飢え死にする覚悟はおろか、粟飯を食べる覚悟すらできていない軍隊に、はたしてなにが期待できようか。独立軍運動を中心とする民族主義運動一般にたいする失望と華成義塾の教育にたいする幻滅は、わたしの胸の中でいよいよ大きくなった。華成義塾はわたしの期待を満足させることができなかったし、わたしは華成義塾の期待にこたえることができなかった。華成義塾がわたしの望む学校になれないように、わたしも華成義塾が期待するような学生にはなれなかった。華成義塾にたいするわたしの不満と、わたしにたいする華成義塾の不満は正比例の関係にあった。わたしは、マルクス・レーニン主義の先進思想に心酔すればするほど、華成義塾の教育から遠ざかり、ますます深く苦悩の深淵に落ちていった。わたしが義塾を遠ざければ、わたしをそこへ送った人たちの信頼を裏切り、彼らにわたしの将来を託した父の遺志にも背くのではなかろうか。父の葬儀に参加するため数十里の遠くから駆けつけてわたしを慰め、旅費を持たせて旅立たせた呉東振、義塾に来たわたしに酒までついでくれた金時雨、そして崔東旿や康済河のことを思うと、申しわけなさで胸がいっぱいになった。

    そのような人たちへの義理を欠かさないためには、不満があっても華成義塾の教育を受け入れなければならない。我慢して2年間の学業を終え、配属された中隊でおとなしく独立軍生活をすれば、彼らにたいする面目も立つであろう。独立軍で生活するからといって、新しい思潮を研究し、「トゥ・ドゥ」の基盤を広げる活動ができないわけでもなかった。 しかし、そのような体面のために、自ら保守的だと断じた教育となれあって、いいかげんにすごすなど考えられないことだった。わたしはそんなふうに古い教育と妥協したくはなかった。ではどうすべきか?家へ帰って叔父から薬局の仕事を受け継ぎ、家計を助けるべきだろうか。さもなければ瀋陽かハルビン、吉林のような都市で上級学校へ進むべきだろうか。このような複雑な心理的葛藤の末、わたしは華成義塾を中退し、吉林の中学に入ろうと決心した。吉林を樺甸につぐわたしの運命の停車場として選んだのは、そこが満州各地から朝鮮の反日独立運動家や共産主義者が大勢集まる政治的中心地だったからである。実際、そういう意味で吉林は「第二の上海」と呼ばれていた。中国本土では、上海が朝鮮革命家の集結地であった。わたしは、樺甸という狭い枠を越えてより広い舞台に進出し、「トゥ・ドゥ」の結成によって第一歩を踏み出した共産主義運動を、より高い段階に引き上げて本格的にくりひろげてみたかった。それが華成義塾を中退する主な理由だった。

    わたしが華成義塾を半年後に中退して吉林へ移ったのは、わたしの生涯における最初の大勇断であった。第二の勇断があったとすれば、それは南湖頭会議後、新師団の編制にさいして「民生団」の文書包みを焼き払ったことだといえよう。 わたしはいまでも、あのとき華成義塾を中退して吉林へ行き、青年学生のなかに入る勇断を下したのは正しかったと思っている。わたしが華成義塾を適時に去らず、その枠のなかに閉じこもっていたとしたら、その後、朝鮮革命を急速な高揚へと導いたあのすべての行程はそれだけ遅延したであろう。わたしが義塾をやめて吉林へ行くというと、「トゥ・ドゥ」のメンバーは驚いた。わたしは彼らに、「トゥ・ドゥ」を結成したからには、その組織と理念を四方に広げなければならない、華成義塾にとどまっていてはなにもできそうにない、こんな学校に通ったところで意味があるとは思えない、わたしがここを去ったあと、君たちも機会をみて独立軍部隊やその他適当なところへ行き、そこに腰をすえて「トゥ・ドゥ」のネットを広げ、大衆のなかへ入るのだ、君たちはみな組織のメンバーなのだから、どこで活動しようとも組織の統一的な指導をうけなければいけない、といった。何人かの同志とは吉林で再会することを約束した。 華成義塾の中退問題については、すでに金時雨とも相談してあった。

    「家へ帰ってからも相談してみますが、じつのところ華成義塾での勉強はどうもわたしの気持に合いません…お金はなくても吉林へ行って中学に通ってみたいのですが、どうすればよいでしょうか」 わたしがこんなふうに胸中を打ち明けると、総管はたいそう残念がった。それでも義塾の中退には反対しなかった。

    「君がそのつもりなら、友人たちと相談して斡旋してあげよう。人間は誰でも自分に合う馬車があるものだ。華成義塾の馬車が気に入らなければ、自分の馬車に乗っていくがいい」 わたしの華成義塾への入学を誰よりも喜び、歓迎した金時雨がそのように理解してくれたので、わたしの重い気持はひとしお軽くなった。総管は、崔東旿塾長が悪く思わないように、中退してもあいさつはきちんとし、お母さんに会ってから吉林へ向かうときは、必ずここに寄るようにといった。金時雨を納得させるのは思いのほかスムーズにいった。けれども、崔東旿塾長との離別はたえがたい苦痛をともなった。最初、先生は怒って長々とわたしを責めた。男児が一度志を立てたからにはそれを貫くべきだ、中退するとは何事だ、義塾の教育が気に入らないから中退するというが、この乱れた時代に万人の要求をかなえてくれる学校がどこにあるというのか、と声を荒らげた。そして、くるりと背を向け、窓の外に目をやった。先生は、窓ぎわに立って、雪の降る空をうつろに見やっていた。

    「成柱のような秀才が気に入らないというのなら、わしもこの学校をやめる」先生の爆弾のような言葉に、わたしはたじろぎ、一言も返せなかった。塾長先生に向かって学校の教育がどうのこうのと非難したのは、ひどすぎるような気がした。やがて崔東旿先生は怒りを静め、わたしに近づいて肩の上に手を置いた。

    「朝鮮を独立させる主義なら、民族主義だろうが共産主義だろうがわしはとやかくいわん。とにかく、きっと成功するんだ」 先生は運動場に出てからも、かなり長い時間、教訓とすべき話をいろいろとしてくれた。先生の頭と肩に雪が降り積もった。わたしはその後、大雪に打たれながらわたしを見送ってくれた先生の姿を思い浮かべるたびに、先生の肩の雪を払おうとしなかった自分のいたらなさを胸痛く思い返したものである。

    それから30年たって、わたしは平壌で崔東旿先生と感激的な再会をした。わたしは首相で、先生は在北平和統一促進協議会の幹部であったが、その対面はあくまでも師と弟子とのそれだった。樺甸でかかげた「トゥ・ドゥ」の理念は、戦争の試練にうちかったこの地で、社会主義として開花していた。

    「結局、あのとき、成柱首相が正しかったのです!」 先生が顔をほころばせてわたしの幼名を呼んだとき、わたしの追憶は数十年の歳月をさかのぼって、雪の降りしきる華成義塾の運動場へともどっていった。波乱に富んだ政治生活のうねりのなかで一生を生きてきた老師は、なんの説明も注釈もないこの短い表現で30年前のわたしとの対話をしめくくった。わたしが華成義塾を中退したことでは、母も賛同してくれた。最初、学校をやめたと聞いて、母は顔色を変えた。しかし、わたしが中退したわけを包み隠さず話すと、胸をなでおろした。

    「おまえはいつも学資の心配をしているけれど、お金のことでくよくよするようではなにもできやしない。学資はどんなことがあっても送ってあげるから、必ず志をとげるのですよ。新しい道を進む決心をしたからにはさっそうと歩くんです」 母の言葉は、抱負を新たにして撫松に帰ったわたしを大いに力づけた。撫松に帰ってみると、小学校時代の多くの友達が貧苦に追われて上級学校へ進めず、先の見通しも立たずに家庭に埋もれていた。わたしは彼らを革命の道へ導こうと思った。

    「トゥ・ドゥ」を結成したばかりで、その根を四方へ広げようと決心していたやさきだったので、なんなりと早くはじめなければという気持だった。わたしは少年たちを先進思想で教育し、革命の道へ導くために、撫松市内と周辺の愛国的少年を集めてセナル少年同盟を結成した。

    1926年12月15日のことである。セナル少年同盟は文字通り日帝を打倒して祖国を解放するセナル(新しい時代)、古い社会をうちこわして新しい社会を築く明るい未来をめざしてたたかう共産主義的少年組織であった。

    セナル少年同盟の結成は、打倒帝国主義同盟の活動範囲を広げる重要な契機となった。同盟がうちだしたスローガンも雄大なものだった。われわれは朝鮮の解放と独立をめざしてたたかおうというスローガンをうちだすとともに、それを実現するために新しい先進思想を学び、さらにそれを広範な大衆のあいだに広く宣伝することなど、当面の課題を示した。 わたしはセナル少年同盟の課題を実現するための組織原則と活動体系、同盟員の生活規範を定め、吉林へ向かう日まで同盟員の生活を指導した。

    1926年12月26日には、「トゥ・ドゥ」とセナル少年同盟の組織経験を生かし、母を助けて反日婦女会を結成した。母は、父の死後、革命闘争を積極的に進めていた。母は撫松県の城内はもちろん、近隣の広範な農村地域までまわって各地に夜学を開き、朝鮮の女性に国字を教え、革命的に教育していた。 撫松にしばらくいたあと吉林に向かうとき、わたしは約束通り樺甸に金時雨を訪ねた。金時雨は、金史憲先生がわたしの父と親しい間柄だったといって、手紙を書いてくれた。わたしが訪ねていけば入学の労をとってもらいたいと記した紹介状だった。金時雨と会ったのはそれが最後であった。金時雨はわたしの忘れがたい人たちのなかでも、もっとも印象深い人物の一人である。彼は寡黙な人だったが、国の独立のために多くのことをした。大衆の啓蒙と次代の教育から武器の購入、資金の調達、国内工作員の道案内、秘密文書や秘密資料の伝達、武装団体の統合と行動の統一にいたるまで、彼が関与しない分野はほとんどなかった。彼はわたしの父の活動を積極的に助けたばかりでなく、わたしの活動も誠意をもって後押ししてくれた。われわれが「トゥ・ドゥ」を結成した日、外で見張りに立ち、誰よりも喜んでくれたのも金時雨だった。彼はわたしと別れてからも永豊精米所の経営をつづけて独立軍に食糧を送り、朝鮮人学生を熱心に後援した。中国で内戦が起きたときは、革命後援会の委員長となって、日本軍や蒋介石軍の侵害から樺甸在住朝鮮人の生命、財産を守るために苦闘した。彼が祖国に帰ったのは1958年のことである。生涯、民族のためにあれほど多くのことをしながらも、彼はそのことを誰にも話さなかった。そのためにわたしも彼の行方がわからなかった。彼は前川で重病を患い、臨終が迫ったと知ってはじめて、子どもたちに、わたしの父やわたしとの関係を話した。それを聞いた息子が驚いて、そんな深い因縁がありながらどうして一度も将軍を訪ねなかったのか、将軍がお父さんに会ったらどんなに喜ぶだろう、将軍はいま前川を現地指導中だからいまからでも遅くない、お父さんが身動きできないなら、わが家へお招きするのが道理ではないか、と促した。そのとき、わたしはたしかに前川郡を現地指導していた。 金時雨はこの言葉を聞いて、かえって息子を叱った。

    「わしが死ぬ間際に昔のことを話すのは、おまえたちになにかそのおかげをこうむらせたいからではない。わが家にはそういう来歴があるのだから、おまえたちも将軍によくお仕えしろといいたかったのだ。国事に多忙な将軍をたとえ片時でも引きとめてはいけない」 彼は昔から一徹な性分だった。息子の言葉に従っていたら、彼とわたしは再会できたであろうに、残念というほかない。それはわたしにとって生涯晴らすことのできない痛恨事となった。わたしは華成義塾時代を思い、「トゥ・ドゥ」時代をかえりみるたびに、いつも金時雨のことを思い出す。彼を抜きにしてわたしの樺甸時代について語ることはできない。われわれが樺甸で新しい思想を普及し、「トゥ・ドゥ」を結成した忘れえぬ日々に、陰でわたしの力になって最大の援助をしてくれたのが金時雨なのである。

    「トゥ・ドゥ」が不敗の隊伍に成長しえたのは、彼のような誠実な人たちから多くの支持をうけたからである。わたしはそのような人民の期待を胸に秘め、大きな抱負と決心をいだいて吉林へ向かった。

    

    

    

    5 独立軍の女傑李寛麟

    

    

    華成義塾を中退して撫松に帰ってみると、以前のようにわが家を訪れる独立運動家は多くなかった。 昼夜の別なく訪問客の絶えなかったかつてのわが家の様子にくらべると、あまりにも寂寞としていた。わたしが撫松でうけた印象のうち、脳裏に強く焼きつけられているのは、李寛麟の姿である。彼女はわたしの父が死んだあと、わたしの家で起居していた。呉東振は彼女をわたしの家へよこすとき、君は金先生にずいぶん世話になったのだから、そのことを思っても撫松へ行って成柱のお母さんをよく助けてあげるのだと頼んだそうである。李寛麟は南満女子教育連合会の仕事をしながら、わたしの母の話友達になってくれた。 李寛麟は大胆で楽天的な女性だった。文武を兼備した女性で、彼女のように美貌で気性がはげしく、大胆きわまりない女傑は、当時、朝鮮には二人といなかったであろう。封建思想が強く、女性が外に出るときは顔を隠して歩かなければならなかった当時、男装をして馬を乗りまわしている李寛麟に出会うと、人びとは別世界の人間ででもあるかのように珍しがって彼女を眺めた。ところが、何日か一緒にすごしてみると、彼女は以前にくらべてどことなく元気がなかった。わたしが華成義塾をやめたことを知ると、彼女はびっくりした。人びとのあこがれの的である軍官学校を中退したと聞いては、驚くのも当然である。しかし、義塾を中退した理由とその一部始終を話すと、よく決心したといい、わたしが吉林へ行くことにも賛成してくれた。けれども彼女のさびしげな表情は消えなかった。 民族主義系の学校を否定して思想的に決別したわたしの行動が、彼女に衝撃を与えたようだった。感受性の強い彼女は、わたしの生活における変化を目撃して、独立軍の末路、民族主義の末路をより深刻に予感したようだった。母の話を聞いても、彼女は以前とはだいぶ変わり、口数も少なくなったという。 最初のうちは、単純に、適齢期がすぎた未婚の女性にありがちな一種の悩みからくるものだろうと思った。彼女はそのとき28歳だった。14、5歳ともなると髪を結いあげて嫁ぐ早婚時代のことで、28ともなると、そんな年では、と嫁のもらい手がなかった。李寛麟のように婚期を逸したオールドミスが一生の問題で悩むのは十分ありうることだった。 そんなふうに沈んでいる彼女を何度も見かけたので、わたしはある日、近ごろどうしてそんなにやつれて元気がないのか、とたずねた。

    李寛麟は溜息をつき、年をとるばかりでなにもかも思いどおりにいかないからだというのだった。成柱のお父さんが生きていたときは、日に10里、20里と歩いても疲れを知らなかったけれども、お父さんが亡くなってからはなにをしてもおもしろくなく、腰に下げている拳銃もさびがつくほどだから、どこに心の支えを求めていいのかわからず困っている、独立軍はどう見ても大きなことができそうにない、いまの独立軍の状態はお話にならない、上に立つ年よりたちはなにを考えているのか、格式ばるばかりで顔も見せないし、働きざかりの男たちは家のことにかかりきりだし、若者たちは女の尻を追いまわしてばかりいるのだから…つい最近も精悍な若い兵隊がお嫁さんをもらうと、独立軍を捨てて間島の方へ行ってしまった、みんな人の顔色をうかがいながら、一人二人と逃げ出している始末だ、年になって嫁をもらうのは当然なことだが、嫁をもらったからといって銃まで投げ出したら、朝鮮は誰が独立させるのか、みんなどうしてそんなにふがいないのかわからない、と嘆かわしそうにいった。わたしははじめて、彼女が悩み、うつうつとしている訳を知った。娘の身で嫁にも行かず、独立運動に奔走しているのに、血気さかんな男たちが銃を捨て安息の場を求めて逃げ出しているのだから、彼女も憤慨せずにはいられなかったのであろう。 教育をうけた娘たちが開化の波に乗り、新女性を気取って歩くのが風潮となっていたとき、李寛麟はコルトを下げ、鴨緑江を渡っては日本の軍警と激戦をくりひろげた。

    女性が男装をして武器をとり、職業軍人として外敵と戦った例は、わが国の歴史にはまれなことだと思う。わたしがここでとくに李寛麟の生涯をふりかえってみるのも、その点を重視したからである。男尊女卑の因習が根強く残っていた当時のわが国で、女性が拳銃を下げて戦場に出陣するというのは思いもよらないことだった。朝鮮女性が外敵に抵抗した方法は時代によって異なっていたといえるが、われわれはそこに一つの共通点を見いだすことができる。それは、それらの抵抗が多くの場合、封建儒教的な貞操観にもとづく、消極的な形で表現されていることである。外敵が侵入して人民を殺戮し、苦しめたとき、女性たちは凌辱のはずかしめをうけまいと、深い山中や寺院に難を避けたものだった。逃げきれなかった女性は自決によって敵に抵抗した。壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)のさい、国に登録された烈女の数は忠臣の30倍以上にのぼったというから、わが国の女性の貞節がいかにかたかったかをうかがうことができるであろう。崔益鉉が対馬で食を断って国に殉じたとき、彼の夫人は3年の喪に服したのち自決して夫のあとを追ったという。人倫上それは、国には忠誠をつくし、夫には貞節をつくす至上の道理だと評価されるであろう。しかし、ここで考えてみるべき問題がある。誰もがみな死を選ぶならば、誰が敵を討ち、誰が国を守るのかということである。国の近代化によって、朝鮮女性の思考方式や人生観にも変化が生じた。身を避け、自決をはかるなどの消極的方法で敵に抵抗していた朝鮮女性が、男子とともに軍警の銃剣の前に胸をさらして反日デモを決行し、敵の官公署に爆弾を投げるようになったのである。 しかし、女性独立軍として銃をとり、異郷の地で10年余りも武力抗争を試みた女性は李寛麟をおいてはないであろう。美貌の李寛麟は、行く先々で言い寄る若者を突き放すのに苦労した。容貌や学識、家庭の環境からすれば、学校の教師にもなれたし、良縁を得て裕福に暮らせもしたであろうが、彼女はわが身を惜しみなく独立運動にささげた。彼女の父親は、朔州で数ヘクタールの土地と山林、そしてわらぶきではあるが十間もの家を持って自作する中産階級であった。彼は李寛麟が12の年に妻に先立たれて2年後に後妻をめとったが、それは16歳の娘だった。李寛麟はわずか二つ年上の女を母とは呼べなかった。それに父親はきわめて封建的で、娘が15になるまで学校にも上げようとせず、適当な相手を見つけて嫁にやることばかり考えていた。ほかの子どもたちが学校へ通うのを見るとうらやましくて、勉強をさせてくれとねだっていた彼女は、わからず屋の父親に腹を立てて、15の年に家を飛び出した。彼女は父親が外出したすきに、そっと家を抜け出して鴨緑江の氷の穴の前に服と履き物を脱ぎ捨て、その足で義州へ向かった。そこで彼女は遠縁にあたる人の世話で養実学校に入った。そして半年ほどゆっくりと勉強をしたあと、秋の初めに学資を送れと父親に手紙を書いた。娘が身投げしたものと思い、悲嘆に暮れていた父親は、手紙を読んで大喜びし、とるものもとりあえず義州へ駆けつけた。彼は娘に、もうおまえの勉強を妨げはしないから、入り用があったらいつでも手紙を寄こせといった。 李寛麟はそれ以来、学資にわずらわされることなく勉強に励んだ。そして学業成績がよかったので、平壌女子高等普通学校の技芸科に推薦された。

    このように1年、2年と勉強をつづけるうちに、世間のことに目が開かれ、ついにわたしの父の保証を得て朝鮮国民会に入会した。れっきとした革命組織の一員として地下活動に参加するようになったのである。彼女がわたしの父から「志遠」の意味を教わったのもそのころだった。彼女は平壌女子高等普通学校と崇実中学校、崇義女学校、光成高等普通学校などで、同志獲得の工作をひそかに進めた。ある日、彼女はピクニックがてらに万景台に遊びにきた。そして、わたしの家で父と活動上の相談をしたり、母の仕事を手伝ったりした。交通が不便なときだったが、景色がよいので、春になると崇実中学校や光成高等普通学校などの生徒も大勢、弁当をたずさえて万景台へピクニックにきた。

    平壌で3・1人民蜂起が起きると、彼女はデモ隊の先頭に立って勇敢にたたかった。デモが阻止されると寮へ帰ってちょっと息抜きをしては、また万歳を叫んで学友を励ました。蜂起が失敗し、デモの主謀者にたいする検挙旋風が吹き荒れると、彼女は郷里に帰り、職業的な独立運動家となった。亡国の運命のもとで、のうのうと学校で勉強などしていられないと思ったのである。最初は呉東振が組織した広済青年団の総務として活動した。

    彼女は満州へ渡る前に、故郷で2人の日本人警官を拳銃で射殺して鴨緑江の氷の穴に投げこみ、世間を驚かせたこともあった。独立軍に入隊後、資金を募集するため国内に入った彼女が、警官の不審尋問をうけたことがあった。頭上の包みには拳銃が隠されていた。絶体絶命だった。警官は包みの中を見せろと迫った。彼女は包みを解くふりをして、すばやく拳銃を引き抜き、警官を茂みのなかへ引きこんで射殺した。 資金の募集で国内にひっきりなしに出入りしていた彼女は、ほかにもいろいろと危険な目にあった。あるとき呉東振から任務をうけ、平安南道一帯に出かけて資金募集工作にあたったことがあった。工作を終えて国内組織の同志と一緒に本営へもどる途中、三道湾で一泊したとき、その付近にいた武装グループがあらわれて彼女たちを脅迫した。2人には数百円の現金があった。彼らは拳銃を引き抜いて空砲を放ち、金を出せと2人を脅した。同行者は青くなって所持金をそっくり差し出した。しかし、李寛麟は一銭も出さず、大声で叱りとばして彼らを追い払ってしまったのである。われわれが抗日武装闘争をしていたときは遊撃隊に女将軍が多かったが、そのころはまだ、朝鮮にそんな女性はいなかった。高等普通学校時代は刺繍や裁縫などを教わる世間知らずの女学生だったが、彼女は、それほど勇敢で大胆だった。一時、『東亜日報』や『朝鮮日報』は李寛麟のことをでかでかと報じたものである。 李寛麟はまた、節義のかたい気丈夫な女性だった。

    3・1人民蜂起後、南満州では独立運動団体の統合運動が活発に進められていた。しかし、彼らはいずれも他派を無視し、自派をおしたてるので、統合がうまくいくはずがなかった。統合の話し合いは、いつも無意味な口論と摩擦で空まわりしていた。 父は統合運動が直面している難関を打開するため、独立運動の元老を表に立たせようと決心し、第一候補として白羽の矢を立てたのが梁起鐸だった。敵の監視下にある彼をソウルから南満州まで連れ出すのは容易なことでなかった。父は慎重に考えた末、適切な案内役として李寛麟を選び、梁起鐸に送る手紙を持たせてソウルへ送った。梁起鐸は民族主義者のあいだに大きな影響力をおよぼしていた。平壌で漢学者の家庭に生まれた彼は、早くから愛国的な新聞活動と教育運動に従事し、大衆を反日独立精神で教育するため大きな力を傾けた。梁起鐸は朝鮮ではじめて『韓英辞典』を編纂し、また国債補償運動を指導したことで知られていた。彼は「百五人事件」で獄中生活も何年か送り、新民会や上海臨時政府(国務委員)、高麗革命党(委員長)の組織にも関与した。彼は呉東振とともに正義府も組織した。そうした経歴によって、彼は所属にかかわりなく独立運動家の尊敬をうけていた。

    ソウルに入った李寛麟は刑事に捕えられ、鐘路警察署の留置場に入れられた。そして連日あくどい拷問にかけられた。刑吏は彼女の鼻に唐辛子水を流しこんだり、竹針を爪の裏に刺したり、後ろ手に縛り上げて天井につるしたりした。あるときは、彼女を床に寝かせて顔に板を置き、それをぎゅうぎゅう踏みつけもした。拷問のたびに、中国から来たのか、ロシアから来たのか、なんの目的で来たのかと責めたてては殴ったり蹴ったりした。あげくのはてに、水でこねた灰を両足に塗りつけて石油をふりかけ、それに火をつけて焼き殺してしまうと脅かした。 それでも彼女は屈せず、自分は仕事にありつけずにさすらっている女だ、どこか金持ちの家で針女か子守でもしようと思ってソウルに来た、なんのために罪のない人間をつかまえて、こんなひどい目にあわせるのか、と抗議した。

    こうして李寛麟は1か月ものあいだがんばりとおして釈放された。彼女は身動きもできないほどの体だったが、とうとう梁起鐸を興京へ連れて帰ったのである。そのときにうけた拷問がたたって、彼女は興京に到着すると、そのまま寝こんでしまった。みんな懸命に介抱したが、回復の兆しがないので、ある老医を呼んで診てもらった。ところが、脈をとった医者は、胎脈だ、と途方もない診断を下した。有名な美人をちょっとからかってみようとしたのかもしれない。 李寛麟があっけにとられて、いったいそれはどういう意味かと問い返すと、医者は、子をはらんでいると答えた。彼女は医者がいい終わるのも待たずに、木枕をつかんで投げつけ、こう怒鳴った。

    「なんだって?若い女が嫁にもいかず、独立運動に乗り出して銃をとって戦っているのになにがおもしろくなくて、そんなふざけたことをいうのか。あたしに恥をかかせてなにが得になるのだ。もう一度いってみな!」

    仰天した医者は、履き物もはけずに逃げ出した。 李寛麟がそれほど気丈な女性だったので、父も彼女にはいつも重要な任務を与えた。父の指示なら、彼女はどんなことでもした。平壌へ行けといわれれば平壌へ行き、ソウルへ行ってこいといわれればソウルへ出かけた。緊急な連絡任務があれば進んで引き受け、女性の啓蒙をまかせられれば、それもした。 父が国内工作に向かうときは、彼女が随行して父を護衛し、仕事の手助けをした。彼女が歩いた道はじつに数千里になるであろう。義州、朔州、楚山、江界、碧潼、会寧などの北部国境地帯や間島地方はもちろん、順安、江東、殷栗、載寧、海州などの西朝鮮地区や遠く慶尚道にいたるまで、彼女の足跡が印されていないところはほとんどない。 彼女は、若い娘の身で白頭山を股にかけたわが国で最初の女性だった。 一生のうちでもっとも熱い祝福をうけるべき黄金のような青春時代に、彼女はこのように他郷の露にうたれながら、女性としては力に余る軍人生活を送ったのである。愛国の一念に燃えて2挺の拳銃を腰に、騒々しい世の中をぬって縦横無尽に活躍した彼女が、衰退する独立運動を前にして煩悶する様子を見ると、わたしは胸が痛んだ。 わたしが吉林に向かう支度をはじめると、彼女は、自分も吉林へ行ってなにかしてみるつもりだといった。しかし、彼女はその決心を実行に移せなかった。わたしは吉林で勉強していたころ、孫貞道の家で2、3度彼女に会った。そこで、わたしは時局の話をしてほしいという彼女の要請に応じて、朝鮮革命の見通しについて長時間話した。彼女はわれわれのやり方に好感をよせたが、正義府の枠を踏み越えようとはしなかった。彼女は共産主義を支持しながらも行動に移せない民族主義の左派だった。わたしは、民族主義運動の凋落を前に煩悶する李寛麟の様子を見ると、もどかしくてならなかった。民族主義の陣営には彼女のように、私生活を犠牲にして独立運動に献身する愛国の志士が少なくなかった。しかし、すぐれた指導者がいなかったため、彼女のように胆力があり、節操のかたい女性もなす術を知らずにいるのだった。「トゥ・ドゥ」 が第一歩を踏み出したばかりのときだったので、彼女はわれわれの運動圏にも合流できなかった。父が生前あれほど信頼し、目をかけていた李寛麟が心の支えを失って悩むのを見て、わたしは、わが国の民族解放運動内に朝鮮の愛国勢力を一つにまとめて導く真の指導勢力が存在しないことを痛嘆した。李寛麟の苦悩する様子を見ると、わたしはわれわれ新しい世代が革命のためにいっそう奮起しなければならないと思った。彼女のように正確な羅針盤を持てずに悩みもだえる愛国者のためにも、一日も早く万人を共感させうる新しい道を切り開き、国の独立を志向するすべての人が一つの流れに合流してたたかっていける革命の新しい時代をきずこう、とわたしは決意を新たにしたのである。 わたしはこのような決心をいだいて吉林へ向かう準備を急いだ。 吉林で李寛麟と別れてから、わたしは50年ものあいだ彼女を探しつづけた。われわれが東満州で遊撃隊を組織して活動していたとき、隊員のなかには20代の女性が多かった。男子と同じ気概と闘志をいだいて民族解放史の新しいページを開いていく彼女たちの勇敢な姿を見るたびに、わたしは独立軍の女傑李寛麟のことを思った。彼女がどこでなにをしているのか、その行方がわからず、わたしはうつうつとして心が安まらなかった。いろいろなルートを通して探してみたが、彼女の運命も行方もいっこうにわからなかった。 祖国の解放後、彼女の故郷の朔州に立ち寄ってもみたが、彼女はそこにもいなかった。

    われわれが彼女の行方をつきとめたのは1970年代の初めだった。党歴史研究所の所員が八方手をつくして調査した末、彼女が一男一女をもうけ、中国で暮らしていることを確認したのである。 李寛麟と一緒に戦った人たちのなかでも、孔栄や朴振栄のように「トゥ・ドゥ」の影響で共産主義に共鳴した人たちは、われわれと手をとって新しい道を切り開いた。彼らはみな、革命家らしく誉れ高い壮烈な最期をとげている。しかし、李寛麟は自分を導く正しい指導者にめぐり会えず、結局、最後まで闘争をつづけることができなかった。それでも、呉東振が生きているあいだは、寛甸会議の無産革命方針を貫くために奔走し、ずいぶん苦労した。わたしが吉林に移った年(1927年)の夏、李寛麟は張鎬らの独立軍隊員と連れ立って内島山に行き、そこにテントを張ってジャガイモを植えて暮らしながら大衆啓蒙に努めた。おそらく、呉東振は内島山村を開拓して、独立軍の活動拠点にしようとしたのであろう。しかし、呉東振が逮捕されてからは、そうした活動もうやむやになってしまった。民族主義左派勢力のうちでも共産主義の潮流にもっとも大きく傾いたのが呉東振だったが、その彼がつかまったのだから、寛甸会議の方針を貫くだけの人材はいなくなった。正義府内に共産主義の同調者が何人かいるにはいたが、非力であった。

    3府の統合によって国民府が出現すると、民族主義の上層部は急激に反動化し、共産主義を口にすることすらむずかしくなった。国民府の指導者は共産主義に同調する民族主義左派を日帝警察に密告し、暗殺したりする背信行為をあえてした。李寛麟も国民府テロリストのたえまない追跡と脅迫を避けてさまよった。そうした末に中国人と結婚し、家庭に埋もれてしまった。上には短く下には長しという言葉のとおり、家庭をきずくことすら意のままにならなかったのである。荒涼とした満州に明星のようにあらわれ世人の耳目を集め、敵を戦慄させた「独立軍の花」「万緑叢中紅一点」はこのようにむなしくしぼんでしまったのである。 彼女はいうなれば、民族主義という木船に乗って遠洋に乗り出した独立運動家だった。苦難と試練の折り重なる反日独立抗争の激浪逆まく果てしない大洋を進むには、あまりにももろい船だった。そんな小船ではとうてい祖国解放という目的地まで行き着けるはずがなかった。 その船に乗って航海に乗り出した人は多かったが、そのほとんどはめざす岸辺に行き着けず、中途で座礁した。それらは、口すぎの仕事をしたり憂国の志士を装ったりしながら、安易な生活を追い求めた。かつて民族を「代表」すると自負した上層のなかには、白膏薬をつくって売る小市民に落ちぶれ、あるいは僧侶になって山中に隠遁した人もいる。 それでも、変節せずに家庭に埋もれたり、生業に没頭するのはまだよいほうだった。李寛麟と民族主義の航路をともにした独立運動家のなかには、祖国と民族を裏切って日帝の手先に転落した者までいたのである。

    李寛麟はわれわれと別れてから、50年以上も異国で暮らし、数年前、祖国に帰った。彼女は、わたしが独立軍時代に師事した金亨稷先生の長男成柱だと知ると、祖国へ帰りたいという気持がいっそうつのったそうである。成柱が国を導いているのなら、万民平等の社会を志向した金亨稷先生の理念が実現しているに違いないから、それをぜひ見たかった、というのだった。寒風吹きすさぶ満州の広野で、肘を枕に夜空に輝く星を眺めるたびに、頬を涙で濡らして描き見た懐かしい祖国の山河に葬られたかった、というのである。しかし、帰国を決心するまで、彼女は何年も人知れず悩んだ。彼女には一男一女と何人もの孫がいた。ひとたび家を出れば、再びもどれるかどうかわからない他郷に愛する子や孫を残し、独り身で祖国に帰る決心を下すのは、人生のたそがれを迎えた老女にとって容易なことではなかったであろう。しかし彼女は、子や孫とは永遠に別れても、必ず祖国に帰ろうと決心した。李寛麟のように胆力のある女性でなければ、とても下せない大勇断だった。若くして祖国に青春のすべてをささげた人でなかったなら、そのような決断は下せなかったであろう。ひたすら祖国のために泣き、笑い、血を流し、全身全霊をささげた人だけが、祖国の真の貴さを知ることができるのである。わたしは、異国の地に孫子を残し、白髪をなびかせて単身、祖国に帰った李寛麟を見て、その炎のような祖国愛と高潔な人生観に感服した。撫松で別れるときは20代であった彼女が、80の白髪の老女となってわたしの前にあらわれたのである。人びとの目を奪ったあの美しい容貌は面影すら残っていなかった。あれほど探してもいっこうに行方の知れなかった彼女が、頭に霜をいただいてわたしの前にあらわれたとき、わたしは、半世紀以上もわたしたちを引き裂いていた無情な歳月をふりかえり、うら悲しい感慨にひたった。われわれは、平壌都心の見晴らしのよいところに住宅を定め、高齢の彼女に家政婦と医師をつけてやった。その家は、彼女の母校の女子高等普通学校跡にほど近い通りにあった。 金正日 組織担当書記が彼女の気持をおもんぱかって、そこに住居を定めたのである。 金正日 書記はその家を訪れて、老女の趣味や好みにあわせて家具調度の位置を定め、照明や暖房の状態まで気づかった。李寛麟は不自由な体をおして庭に菜園をつくり、トウモロコシを植えた。わたしが幼いころトウモロコシが好物だったので、手づくりのトウモロコシ料理をもてなしたかったという。あれから半世紀がすぎていたが、彼女はわたしの好みをちゃんと覚えていたのである。彼女は撫松にいたころも、夏になると初もののトウモロコシを買ってきて、裏庭でわたしの弟たちに焼いてくれたものだった。 祖国と民族につくした青春時代の功績を思い、われわれは、彼女が物故すると、盛大な葬礼をとりおこない、遺体を愛国烈士陵に安置した。真に祖国を愛し、民族を愛する人は、地球上のどこにいても、先祖の墓があり、自分が生をうけた懐かしい生まれ故郷にもどってくるものであり、たとえ出発点は違っていても、いつかはこのように再会して喜び合うものである。

    

    

    

    第 3 章

    

    

    吉林時代

    

    

    

    1 先進思想の探求

    

    2 尚鉞先生

    

    3 朝鮮共産主義青年同盟

    

    4 組織の拡大をはかって

    

    5 団結の示威

    

    6 安昌浩の時局大講演

    

    7 3府統合

    

    8 車光秀が求めた道

    

    9 旺清門の教訓

    

    10    鉄格子の中で

    

    

    

                   時期 1927年1月~1930年5月

    

    

    

    

    1 先進思想の探求

    

    

    わたしは1か月ばかり家にいて正月を家族とともにすごし、1月中旬、撫松をあとにした。吉林に着いたのは人通りの多い日中だった。道をたずねるたびに父の知人の住所をメモした手帳を取り出し、凍えた手でめくってみるのがおっくうで、あらかじめ街の名前と住所を覚えておいた。古い歴史を誇る大都市の盛況は一目見た瞬間から、静寂な農村地帯ですごしたわたしを威圧するかのようだった。

    わたしは改札口を出てからも、こみあげる興奮で歩みを移すことができず、わたしを新しい生活へといざなう新天地の躍動する姿に長いこと見入っていた。

    その日、わたしが見た都市の風景のなかでもっとも印象的なのは、街に水売りの多いことだった。水の都とうたわれ、かつて船着き場とも呼ばれた都市が、飲料水の不足であんなに水売りが繁盛しているのだから、吉林の都会生活も苦しくなるばかりだ、と道行く人たちがぼやいていた。一杯の水にもそろばんをはじかなければならない都会生活の重圧が、わたしの胸にもひしひしと迫ってくるような気がした。しかし、わたしはかぶりを振って胸を張り、都心に向かって歩き出した。

    吉林駅から北山方面にのびた岔路街をしばらく行くと、都市を城内と城外に分ける城壁があらわれた。そこには朝陽門という扁額のかかった城門があった。近くには新開門と呼ばれる城門もある。吉林には朝陽門と新開門のほかに巴虎門、臨江門、福綏門、徳勝門、北極門などの城門が10もあって、それらを張作相の軍隊が守っていた。風化作用でところどころ崩れた古色蒼然とした吉林の城壁は、この都市の古い歴史を物語っていた。

    吉林ははじめての都市だったが、なじみのない感じはしなかった。以前から一度来てみたかったし、父の友人も多いところだったせいかもしれない。手帳にはあいさつをしなければならない父の友人や知人の住所が10余も記されてあった。呉東振、張喆鎬、孫貞道、金史憲、玄黙観(玄益哲)、高遠岩、朴起伯、黄白河らはいずれも吉林に住む父の友人で、訪問を予定した人たちだった。

    わたしはまず呉東振にあいさつすることにし、岔路街と尚埠街のあいだにある彼の家を訪ねた。実のところ、そのときわたしはかなり緊張していた。父の友人がせっかく斡旋してくれた華成義塾を中退したのだから、呉司令の機嫌を損ねるのではなかろうかと思ったのである。ところが、彼は以前と変わりなくわたしを喜んで迎えてくれた。 華成義塾を中退して吉林に来たわけを話すと黙ってうなずくだけで、しばらくはなんともいわず慎重な面持ちをしていた。

    「前ぶれもなく吉林に来たおまえを見ると、お父さんのことが思い出される。お父さんも崇実中学校をそんなふうにいきなりやめてしまった。そのことを聞いたときは残念でならなかった。けれどもずっとあとになって、お父さんの決心が正しかったと思うようになった。とにかく、わずか6か月で義塾をやめ、吉林にくる決断を下したのには驚くほかない。吉林が理想に合うなら、ここで自分の井戸を掘るんだな」

    わたしの説明を聞いて、彼がいった言葉はこれがすべてだった。さすがに呉東振らしい闊達な考え方だと、わたしはひそかに感謝した。彼は、吉林で勉強するつもりなら、お母さんや弟たちも引っ越してくればよかったのに、といって残念がった。父の葬儀のさいも彼は、金先生の友人が多い吉林へ転居してはと、何度も母に勧めた。母はそれに感謝しながらも、撫松を離れようとしなかった。陽地村に父の墓を残して、どうして吉林へ行けようかという気持からである。 呉東振は自分の秘書崔一泉をわたしに紹介した。呉東振から彼の自慢話をよく聞かされていたので、わたしは彼の人となりについてはある程度知っていた。彼は正義府で文章家として知られていた。その日の対面以来、わたしと崔一泉は特別な同志的きずなで結ばれる仲となった。その日の午後、呉東振はわたしを三豊桟に連れていき、独立運動家たちにあいさつさせた。そこには、金時雨が紹介状を書いてくれた金史憲や正義府の警護隊長をしている張喆鎬もいた。三豊桟とは三豊旅館という意味である。中国では旅館のことを「桟」ともいっている。 金史憲や張喆鎬のほかにも、そこにはわたしの知らない独立運動家がたくさんいた。三豊旅館は太豊合精米所とならんで独立運動家が宿泊兼連絡所として利用している吉林におけるかれらのいま一つの拠点だった。朝鮮からやってくる移住民も三豊旅館をよく利用した。

    旅館の主は孫貞道牧師と同郷の人であった。平安南道の甑山に住んでいた彼は孫牧師の勧めで吉林に移り、三豊旅館を経営した。看板は旅館だったが、寮か公会堂といった感じの建物である。旅館から日本領事館までは100メートルほどしかなかった。吉林地方のスパイ活動の総本山ともいえる日本領事館のつい目と鼻の先の旅館に、密偵や警察が血眼になって捜している反日独立運動家が大勢出入りするのは危険でなかろうかと思った。しかし、独立運動家は「灯台下暗し」だといって、ひっきりなしに出入りした。不思議なことに、三豊旅館で愛国者が逮捕される不祥事は一度も起こらなかった。それで、われわれも組織の結成後、この旅館をしばしば利用したものである。金史憲は金時雨の紹介状を見ると、自分の親しい金剛という朝鮮人が吉林毓文中学校の教師をしているから、そこへ入ってはどうかといった。市内の新興社会系によって設立された私立学校で、吉林ではかなり傾向のよい学校だとのことだった。吉林毓文中学校が傾向のよい学校だということは各界に広く知られていた。それは『吉長日報』が、この学校の紹介記事を何度も載せたからである。『吉長日報』はすでに1921年に、毓文中学校について、経営は苦しいが学業成績が非常にすぐれ、各界の賛助を得ている学校だと紹介している。学校の経費と校長の職権乱用などの問題をめぐっての内紛で、毓文中学校では校長がたびたび更迭されていた。わたしが吉林に到着したのは、南京金陵大学出身の張蔭軒に代わって李光漢が校長に赴任して間もないころである。

    校長が4回も交代していることからも、毓文中学校で正義と秩序がいかに重んじられているかがうかがわれた。毓文中学校のその革新的な校風がわたしの気に入った。

    金史憲は翌日、わたしを毓文中学校の金剛先生に引き合わせた。金剛は英語がよくできた。

    わたしは彼の案内で李光漢校長に会った。李光漢は中国民族主義左派に属し、周恩来総理とは中学の同窓で、少年時代から周総理の影響をうけた良心的な知識人だった。わたしが周総理と李光漢校長の縁故関係を知ったのは数十年後のことである。いつだったか、わたしはわが国を訪問した周恩来総理と会って青年時代を回顧したことがあるが、そのとき、わたしをいろいろと援助してくれた中国人のことにふれ、李光漢校長の名もあげた。すると周総理はたいへん懐かしがり、彼は天津の南京大学付属中学校時代の同窓生だというのだった。 李光漢校長はわたしに、学校を卒業したらなにをするつもりかとたずねた。わたしが、祖国の解放につくしたい、とためらいなく答えると、彼は、それはりっぱな抱負だ、とほめてくれた。わたしの率直な話しぶりが幸いしたのか、李光漢校長は、1学年を飛ばして2学年に入れてもらいたいというわたしの要望を快諾した。青年学生運動と地下活動に従事していたころ、わたしはたびたびこの先生の援助をうけた。彼は、わたしが革命活動のためによく欠席するのを黙認し、軍閥当局に買収された反動教員がわたしに手出しできないよう、なにかとかばってくれた。軍閥当局や領事館警察がわたしを捕えにくるときは、事前にそれをわたしに知らせて校外に抜け出させてくれることもあった。校長が良心的な知識人だったので、その下で多くの思想家が安心して活動することができた。

    わたしが毓文中学校の入学手続きを終えて帰ると、呉東振夫妻はわたしに、卒業するまで寮に入らず、自分たちの家にいるようにと勧めてくれた。わたしにとって、それは願ってもないことだった。わたしは母の仕送りに頼って勉強しなければならなかったが、母は病弱だった。母は冬も夏も終日休むことなく、洗濯や裁縫などの賃仕事をして、月に3円ほど送ってくれた。それで月謝を払い、ノートや教科書を買うと、もう履き物も買えないほどだった。 そんな状態だったので、わたしは父の友人たちの好意を喜んで受け入れた。わたしは吉林で、最初は呉東振の世話になり、彼が逮捕されると張喆鎬の家でおよそ1年、玄黙観の家で数か月、それに呉東振の後任の正義府の司令李雄のもとでもしばらく厄介になった。そのころ、吉林にいた名士はほとんどが父と親しい間柄だったので、いろいろとわたしの力になり、目をかけてくれたのである。わたしは父の友人の家をしばしば訪問するうちに、多くの独立軍幹部や独立運動の指導者を知り、吉林に出入りするさまざまな人たちに会うことができた。

    当時、正義府の幹部はほとんどが吉林に常駐していた。正義府は行政、財務、司法、軍務、学務、外交、検察、検督など、ものものしい中央機構に地方機構までそなえ、管轄区域の朝鮮人から税金まで徴収して、さながら独立国家のようであった。その膨大な機構を守るために、正義府は150余人の軍人からなる常備の中央護衛隊まで持っていた。

    吉林は中国の省都で、奉天、長春、ハルビンとともに満州地方の政治、経済、文化の中心地の一つであった。

    吉林督軍署は張作霖の従弟にあたる張作相の指揮下にあったが、彼は日本人の指図を嫌った。日本人が、誰それは共産党員で、誰それは悪い男だと知らせても、あんたたちが関与することはないといって、彼らの要求を一蹴するのがつねだった。彼がそんな態度をとったのは、彼に政治的な見解があったからではなく、無知で自尊心が強かったからである。それが革命家や社会運動家には有利に作用した。それに、満州地方に移住した朝鮮人はほとんどが吉林省に居住していた。 そんなわけで、日本の軍警ににらまれている朝鮮独立運動家や共産主義者は吉林に多く集まってきた。したがって、吉林は自然に朝鮮人の政治活動舞台となり、その中心地となったのである。「東北3省における排日の策源地は吉林」だという日本人の評価は、それなりの理由があったのである。

    1920年代後半期の吉林は、満州における朝鮮民族主義運動の基本的勢力である正義府、参議府、新民府などの首脳の集結地であった。独立運動家は新聞の発行や学校の設立などは主として樺甸や興京、竜井などでおこなったが、リーダーたちが集まって活動したのは吉林だった。

    M・L派、火曜派、ソウル・上海派などの分派がそれぞれ勢力の伸張をはかって活動したのも吉林だった。共産主義運動の指導者を自称する「大物」たちもほとんどが吉林に出入りした。そこには民族主義者、共産主義者、分派分子、亡命者などさまざまな人たちがたむろしていたのである。

    新しいものを志向し、真理を求める青年学生もこの城市にやってきた。

    一言でいって、吉林にはありとあらゆる思想潮流が渦巻いていた。わたしもそこで共産主義の旗をかかげて革命活動をはじめたのである。わたしが吉林に到着したときは、「トゥ・ドゥ」の何人かのメンバーが樺甸で約束したとおり、すでにこの都市に来て、文光中学校をはじめ市内の各学校や機関区、船着き場などに籍を置いていた。

    彼らはわたしが吉林に到着したと知ると、さっそく呉東振司令の家に駆けつけてきた。「金と水と薪には困るが、本が多くていい」というのが彼らの吉林印象談だった。

    わたしは、本が多ければ空腹とも妥協できる、と冗談をいった。それはわたしの真情でもあった。

    彼らも毓文中学校に好感をもっていた。教職員のなかには国民党の右派もいるが、ほとんどが共産党系か三民主義の崇拝者だというのである。彼らの話を聞くと、わたしも一安心した。

    あとで知ったことだが、尚鉞先生や馬駿先生も共産党員であった。 われわれは新しい土地で革命の真理を思う存分探究し、「トゥ・ドゥ」の目的を実現するために全力をつくそうと誓い合った。 樺甸に残っていた「トゥ・ドゥ」のメンバーも活動舞台を求めて、撫松県、磐石県、興京県、柳河県、安図県、長春県、伊通県など満州一帯の朝鮮人居住地域へ移っていった。なかには出身中隊にもどって、再び独立軍に服務した者もいた。吉林のような複雑な都市で、わずか数人の中核をもってわれわれの声に大衆の耳を傾けさせ、「トゥ・ドゥ」の理念を実現するためにたたかうのは容易なことではなかった。

    しかしわれわれは、各自が一点の火種となってまわりの十人、百人を呼び起こし、その百人がまた千人、万人の心にくいこんで世界を変革しようという、かたい決意にみちあふれていた。

    吉林におけるわたしの活動は、マルクス・レーニン主義をさらに深く研究することからはじまった。わたしは吉林に移るとき、樺甸ではじめたマルクス・レーニン主義を本格的に掘り下げて研究しようと決心した。吉林の社会的・政治的雰囲気は、新しい思潮をより深く研究しようというわたしの決心を助長した。わたしは学校の課目よりもマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作を熱心に読んだ。 当時の中国は大革命の時代で、ソ連や日本で発刊される良書をいろいろと翻訳出版していた。北京では雑誌『翻訳月刊』が出されていたが、そこに青年学生の興味をそそる進歩的な文学作品がよく掲載された。撫松や樺甸では見られない書物が吉林にはいくらでもあった。しかし、わたしには書物を買う金がなかった。いまこんなことをいえば信じられないだろうが、そのころ、わたしは登校するときだけズック靴をはき、帰宅してからはほとんど裸足ですごした。牛馬巷通りの図書館では1か月の閲覧料が10銭だったので、わたしは毎月閲覧券を購入して、放課後、図書館へ寄って何時間も本や新聞を読んだ。そうすれば、わずかの金でいろいろな出版物が読めるのだった。

    書店によい本があっても金がなくて買えないときは、裕福な学生に買わせて、それを借りて読んだものである。彼らのなかには読みもしないのに見えで本を買い、装飾用に書架にはさんでおく者もいた。 当時、毓文中学校では、学校の管理が民主主義的におこなわれていた。図書主任も半年に1度、学生総会で選んだ。図書主任は図書館の運営計画を立て、本を買い入れる権限をもっていた。 わたしは毓文中学校時代、図書主任に2度選ばれた。その機会にマルクス・レーニン主義書籍をたくさん買い入れた。本が多い反面、時間は足りなかった。わたしは読書時間を一分一秒でも余計に見つけ、1冊でも多くの本を読んでその本質をつかもうと努めた。

    幼いころから、父はわたしに本を読ませては、その中心的な内容や学んだ点を必ず書きとめる習慣をつけさせた。その習慣が大いに役立った。中心をとらえて精読すれば、いくら複雑な内容でも明確に把握でき、短い時間に多くの本が読めた。わたしが中学時代に夜を徹して本を読んだのは、学究的な趣味や探究心のためではなかった。わたしは学者になったり出世するために本を読んだのではない。どうすれば日帝を駆逐して国を取りもどせるか、どうすれば社会の不平等をなくして勤労人民に幸せをもたらせるか、わたしが知りたかったのはそうした問題にたいする解答だった。どこでどんな本を読んでも、わたしはつねにその解答を求めた。マルクス・レーニン主義をドグマとしてでなく実践の武器とし、真理の基準を抽象的な理論でなく、つねに朝鮮革命という具体的な実践のなかで求めようとするわたしの立場は、そのようななかで芽生えたといえよう。わたしはそのころ、『共産党宣言』『資本論』『国家と革命』『賃労働と資本』などマルクス・レーニン主義の古典とその解説書を読みあさった。 政治書とならんで革命的な文学作品も多く読んだ。当時もっとも興味をもって読んだのはゴーリキーと魯迅の作品である。撫松や八道溝にいたころは『春香伝』や『沈清伝』『李舜臣伝』『西遊記』など昔の生活を描いた本をたくさん読んだが、吉林では『母』『鉄の流れ』『祝福』『阿Q正伝』『鴨緑江上』『少年漂泊者』などの革命的小説や当時の現実生活を描いた進歩的な小説を数多く読んだ。

    後日、抗日武装闘争のなかで苦難の行軍などの試練に遭遇すると、わたしは吉林時代に読んだ『鉄の流れ』のような革命的小説の内容を思い起こしては、力と勇気を奮い起こしたものだった。文学作品は人びとの世界観の確立において重要な役割を果たす。それで、わたしは作家に会うといつも、革命的な小説をたくさん書くようにと勧めているのである。いまでは、わが国の作家も革命的な大作をいろいろと世に出している。

    われわれは、当時の不条理な社会現象と人民の悲惨な生活境遇を目撃し、それを通じても政治的に覚醒したものである。

    当時、朝鮮から満州にやってくる移住民のなかには、吉林を経て他の地方へ流れていく人が少なくなかった。われわれは彼らから国内の惨状をいろいろと聞いたものだった。

    鴨緑江を渡った移住民は、丹東から南満州鉄道で長春へ、そこからまた東支鉄道を利用して北満州に向かうか、吉長線を利用して吉林に寄り、そこから付近の奥地へ入る人たちもいれば、奉天から奉海線、吉会線を利用して敦化、額穆、寧安方面へ行く人たちもいた。

    寒い冬から初春にかけて、吉林駅や旅館では朝鮮人移住民を多く見ることができた。彼らのなかには数奇な運命に翻弄された人が少なくなかった。

    ある日、わたしは学友と一緒に「京劇」を観覧した。公演が終わったとき、一人の女優がわたしたちのところへやってきて、崔なにがしという人がここに住んでいないかとたずねた。自分の愛人だという。彼女が朝鮮語をつかったとき、わたしたちは驚いた。朝鮮には「京劇」がなかったからである。玉粉というその女優は慶尚道の生まれだった。彼女の父親がある日、隣家の友人と酒を飲みながら、おまえの家で息子が生まれたらおれの婿にし、おれの女房が娘を生んだらおまえの嫁にしよう、もしどちらも息子か娘を生んだら、義兄弟にさせようと約束を交わした。やがて、彼らはそれぞれ男の子と女の子をもうけた。両家では子どもたちを結婚させるしるしとして、絹のハンカチを裂いて一切れずつ分け合った。 その後、両家はともに生きる道を求めて故郷を捨てることになった。男の子の家族は吉林にやってきて暮らし、息子は大きくなって文光中学校に入学した。彼の一家は吉林で家を一軒持ち、小さな精米所を設けてさほど不自由のない生活をしていた。ところが女の子の家族は丹東で旅費が切れ、中国人に幼い娘を売るほかなくなった。玉粉は鞭で打たれながら「京劇」を仕込まれ女優になったが、大きくなるにつれて故郷で親から決められた夫のことを考えはじめた。彼女は巡回公演の先々でひそかに朝鮮人に会っては、夫の行方をたずねていたのである。その日、玉粉は文光中学校に通う夫と劇的な対面をした。 玉粉が「京劇」をやめて夫のもとに残りたいと申し出ると、興行団の女主人は莫大な金を要求した。それで玉粉は、給料を何年か積み立てて身代金を払い、そのあとで吉林に帰ってくるといった。わたしは怒りに胸がふるえた。学友たちは金に目のくらんだ、血も涙もない興行団の女主人を「蛇のような女」だとののしったものである。数十万の人間が群がり集まって、生存競争に勝ち残ろうとあくせくする大都市の生活は、階級社会の悪臭をただよわせていた。 熱い日が照りつけるある夏の日、学友と一緒に北山から帰ってくる途中、わたしは、道端で車夫が金持ちと口論している場面に行きあたった。人力車に乗ってきた金持ちが、車夫にまともな代金を払わなかったようである。車夫は金持ちに、いまは「三民主義」の時代だから、「民生」に関心を向け、もう少し出してほしいと哀願した。金持ちは、金を出そうとはせず、「三民主義」は知っていても「五権憲法」は知らないのかと怒鳴って、ステッキで車夫を殴りつけた。 憤激したわたしたち学生は、その金持ちを取り巻いて、金をもっと払うようにと圧力を加えた。このような体験を通してわれわれは、この世にはなぜ、人力車を乗りまわす人とそれを引く人とがいるのか、なぜ12の門を持つ豪壮な屋敷でぜいたく三昧に暮らす人間がいる一方、乞食になって街をさまよう人間がいるのかという疑問をいだき、強い不満を覚えた。

    革命的世界観は、人びとが自己の階級的立場と利害関係を認識することからはじまって、搾取階級を憎み、自己の階級の利益を守ろうとする思想をもち、ひいては新しい社会を築こうという覚悟をもって革命の道に臨むときに確立されるといえよう。

    わたしもマルクス・レーニン主義の古典など革命的な書物を読んで自分の階級的立場に目覚め、さらに社会現象を通してこの世に不平等の多いことを知って搾取階級と搾取社会を憎悪する思想が強まり、結局、世界を改造し変革すべきだという決意をいだいてたたかいの道に立つようになったのである。マルクスとレーニンの著書を熱心に読み、それに心酔すればするほど、わたしはその革命学説を青年学生のあいだに早く広めようという衝動に駆られた。

    毓文中学校でわたしが最初に出会った友人は権泰硯という朝鮮人学生だった。そのとき毓文中学校には朝鮮人学生が4人いたが、共産主義青年運動に関心を向けたのは権泰硯とわたしだけで、あとの2人は政治運動に無関心だった。彼らは金しか念頭になく、卒業すれば商売でもしようということばかり考えていた。

    わたしと権泰硯は志向も社会を見る目も似通っていて、最初から息が合った。中国人学生のなかでは章新民という青年がわたしと親しかった。彼はいつもわたしと一緒にすごし、政治問題についていろいろと意見を交わした。社会の不平等から帝国主義の反動性、日帝の満州侵略企図、国民党の反逆的罪業など、話題はつきなかった。

    当時、吉林では、マルクス・レーニン主義はまだ青年学生の興味の対象にとどまっていた。マルクスは偉い人間だというが、どんな人物か見てみようということで古典に目を通したり、マルクス主義を知らずには時代後れになると思う程度だった。

    わたしは樺甸での経験を生かして、志を同じくする数人の学友を誘い、まず毓文中学校内に秘密読書グループをつくった。進歩的な青年学生をマルクス・レーニン主義の思想と理論で武装させるのが目的であった。読書グループは急速に広がり、まもなく文光中学校、第1中学校、第5中学校、女子中学校、師範学校など吉林市内の各学校でもつくられた。

    読書グループの規模が大きくなると、われわれは独立運動家が経営する精米所の一室を借りて留吉学友会の名義で図書室を運営した。いまでは国内のいたるところに図書館があり、その気にさえなれば宮殿とも見まがう人民大学習堂のような大図書館でも建てられるが、当時、素手のわれわれが自力で図書室をつくるのは容易なことでなかった。図書を購入し、書架をつくり、机や椅子も用意しなければならなかったのだが、われわれには金がなかった。そこで、日曜日になると鉄道工事場で枕木の運搬をしたり、川の砂利を運んだりして金をかせいだ。女学生は精米所で籾を選り分ける仕事をした。こうして得た金で本を買い集めた。革命的な本を保管する秘密の書架も別に設けて、図書室ができあがると、人びとの気を引くような簡潔な図書案内を書いて、市内の各所に貼りだした。すると、大勢の学生がわれわれの図書室を訪ねてきた。われわれは読者を引きつけるため、図書室に恋愛小説の本もそなえた。 青年の多くは恋愛小説を読むのが楽しみで図書室を訪ねた。こうして読書に趣味をもちはじめると、社会科学書を少しずつ貸し出した。そして彼らがそれらの本を読んで興味を覚えるころを見計らって、秘密書庫からマルクス・レーニン主義の古典や革命的な小説を持ってきて見せた。

    われわれは青年学生たちに、李光洙の小説『再生』『無情』『開拓者』なども読ませた。李光洙が3・1運動の前夜に東京で「2・8独立宣言書」を作成して独立運動につくし、進歩的な作品を多く書いていたときだったので、青年は彼の本を愛読した。しかしその後、彼は変節し、教育的価値のある作品はおろか、結局は『革命家の妻』のような反動的作品を書くまでになった。わたしは抗日遊撃隊の創建後、部隊を率いて南満州に向かう途中、しばし撫松に立ち寄ったときにその小説を読んでみたことがある。『革命家の妻』は、ある共産主義者が病気を治療しているとき、その妻が、夫を治療していた医学専門学校の学生と痴情関係を結ぶ醜悪な生活を描いた作品で、共産主義者を冒涜し、共産主義運動を中傷する思想で一貫していた。

    わたしたちは土曜日や日曜日に、しばしば吉林礼拝堂や北山公園で読書発表会を催した。最初のうちは恋愛小説の読後感を述べる学生もいた。すると、そんなつまらない話はよせ、という声がかかったりした。そんなふうに恥をかかされると、恋愛小説に熱中していた学生も革命的な小説を読むようになった。

    われわれは、青年学生と大衆のあいだに革命思想を広げるため講談も利用した。

    ある日、わたしは喉を痛めて、湿布をするために授業を休んだことがあった。下校中、北山に寄ってみると、大勢の人たちが盲人を取り囲んで、その話を聞いていた。近寄ってみると、その盲人は『三国志』のあるくだりを語っていた。彼は、諸葛孔明がはかりごとをめぐらして敵陣を一撃のもとに攻め落とすところでは、太鼓まで鳴らして人びとの興味をかきたてた。そして、いよいよ佳境に入ると急に話をぷつんと切り、見物人に金を出せといって手を差し出すのである。講談は人びとを引きつける格好の方法だった。

    その後、われわれもそれを利用して革命思想を普及した。われわれの仲間に、冗談好きで話し上手な青年が一人いた。われわれから任務をうけて信者のあいだで活動していた彼は、祈祷をしたり、バイブルを暗唱したりしても決して牧師にひけをとらなかった。その彼に講談をやらせてみると、バイブルをそらんずるよりも上手だった。彼は人びとのたまり部屋や公園で、思想傾向のよい小説を身ぶり手ぶりよろしく語って人気を呼んだ。盲人は講釈料を取ったが、彼は取らなかった。その代わり、聞かせどころに入ると物語をうちきって、扇動演説を一発ぶち、あすの何時から続きを聞かせようといった。すると、人びとは小説の続きが聞きたくて約束した場所に集まってくるのであった。

    そのころ、書物が仲立ちとなって交わった友人のなかで、わたしに深い印象を残したのは朴素心であった。

    吉林の目抜き通りに「新文書社」という大きな書店があって、わたしは数日おきにそこへ通った。朴素心も書店の常連だった。彼はいつも社会科学書のコーナーで新書を探していた。そんなわけで、わたしたちはそのコーナーでよく顔を合わせた。長身でやせ型の知性的な感じのする青年だった。

    わたしが学友たちと一緒に学生図書館にそなえる本を何冊も買うのを見ると、彼はそれが自分の本ででもあるかのように満足げな表情で、その本は内容がこうだ、あの本は読む価値があるからきっと買うようにと口添えするのだった。このように書物がとりもちになって、わたしと朴素心は親交を結ぶようになった。わたしが東大灘にいたころ、彼はしばらくわたしの宿所で一緒にすごしたこともあった。 朴素心はソウルから来た人だった。健康がすぐれないので共産主義運動には参加せず、新聞や雑誌に短い文章を書いて寄稿している程度だった。彼の文章はたしか『海潮』紙や『朝鮮之光』などにも掲載されていたと思う。運動にはさほどかかわらなかったが、分派分子を非常に軽蔑していた。彼は剛直で識見が高かったので、吉林に出入りする運動家は誰もが彼を自分の側に引きつけようとした。 朴素心は日本語訳の『資本論』を夜を徹して読んだ。金がないと衣服を質に入れてまで本を買って読むほどの篤学家だった。彼は通俗的な入門書を何冊か読んでマルクス・レーニン主義の理論家を気取る人たちとは違って、マルクスやレーニンの主な著書にほとんど精通していた。 朴素心はわたしに『資本論』の案内をし、解説をしてくれた忘れがたい師であった。概してマルクスの著作は難解な点が多いが、『資本論』もその例にもれない。それで朴素心はわれわれに『資本論』の解説講義もしてくれた。古典を理解するにはやはり入門書やガイドが必要だった。朴素心はそのガイドの役割を誠実に果たした。彼はじつに広い知識の持ち主だった。 わたしはあるとき彼に、プロレタリア独裁にかんするマルクス・レーニン主義創始者の命題について質問したことがある。朴素心は、マルクス・レーニン主義創始者が歴史発展の各段階でプロレタリア独裁にかんして説いたさまざまな命題をすらすらとそらんじるのだった。理論や知識のうえでは、それこそマルクス主義の大家といえた。ところが、そんな彼にも知らないことがあり、解明できないことがあった。わたしが、マルクス・レーニン主義の古典では労働者階級の階級的解放が先で、民族の解放はそのあとの問題だと見ているが、わが国ではなによりも日帝の支配から抜け出さなくては、労働者、農民が階級的にも解放されないのではないか、とたずねたことがあった。これは当時、わたしたちのあいだで深刻に論議されていた問題である。当時はまだ、労働者階級の階級的解放と民族的解放の相互関係について、マルクス・レーニン主義の学説は理論的な解明を十分に与えていなかった。植民地諸国における民族解放闘争については、科学的な解明が待たれる問題が多かった。朴素心は、わたしの質問に明快に答えることができなかった。 わたしは、マルクス・レーニン主義の古典には、一般的に宗主国の革命と植民地国の革命が有機的に結びついているとして、宗主国における革命勝利の意義のみを強調しているが、それなら、わが国の場合は日本の労働者階級が革命で勝利しなければ国の独立は果たせないのか、われわれは彼らが勝利するまで腕をこまぬいていなければならないのか、とたずねた。

    朴素心はそれには答えられなかった。彼は驚いた表情でわたしを見つめた。彼は古典にあるとおり、労働者階級の階級的解放を民族的解放に先行させ、宗主国の労働者階級の闘争を植民地諸国における民族解放闘争より重視するのは、世界的に公認された国際共産主義運動の路線上の問題だといった。

    わたしが納得できずに首をかしげると、彼はもどかしげに、自分はマルクス・レーニン主義を学術的に研究しただけで、それを朝鮮の独立と朝鮮における共産主義建設という具体的な革命実践と結びつけて考えたことはなかった、と率直に告白した。

    わたしは彼の話を聞いて残念でならなかった。彼のように実践と遊離し、学術的に共産主義学説を研究するだけではなんの意味もなかった。

    そのとき、われわれがマルクス・レーニン主義先進思想を研究しながら感じた最大の苦衷は、われわれもロシア人のように革命を起こして社会を変革し、国を解放しなければならないのだが、朝鮮の実情と10月革命当時のロシアの実情は同じではないということである。 立ち後れた半封建国家である朝鮮のような植民地国で無産者革命をどう起こすべきか、日帝の過酷な弾圧のため祖国を離れ中国の土地でたたかわなければならない状況のもとで、中国など隣国の革命とどう連係を保ち、朝鮮革命にたいする民族的任務と世界革命にたいする国際的任務をどう遂行すべきなのか、といった複雑な問題が提起されていたのである。

    われわれがそうした問題にたいする正しい解答を得るまでには長い歳月を要したし、また高価な代償を払わなければならなかった。朴素心はマルクス・レーニン主義を研究する日々に、わたしと人間的に親密になり、われわれの革命的志向に強く引きつけられた。 彼は反帝青年同盟と共青にも加入し、われわれと一緒に、青少年を教育、啓蒙する活動にも献身的に参加した。書物の中に埋もれていた人物が決心して実践の場に飛びこむとなると、その情熱はたいへんなものだった。その後、われわれは彼を卡倫地方に送って、結核の治療にあたらせた。

    朴素心は賈家屯から2キロほど離れた霧開河の川べりに草小屋をつくり、一人ひっそりと自炊をしていた。

    わたしは卡倫と五家子の一帯で活動したさい、時間の都合をつけて彼を訪ねたことがある。彼はわたしに会ってたいへん喜んだ。われわれはそのあいだのことを語り合い、いろいろな問題について意見を交わした。

    そのとき朴素心は、はじめてわたしに夫人の写真を見せてくれた。夫人が死亡したか離婚したものとばかり思っていたわたしは驚いた。その写真からも、彼女が非常に美しく教養のある現代女性であることがわかった。

    朴素心は、ソウルにいる妻から最近手紙をもらったというのである。なぜ夫人を呼ばないのかと聞くと、彼女は金持ちの娘だという返事がかえってきた。

    そこでわたしは、では金持ちの娘だと知らずに結婚したのかと聞いた。朴素心は溜息をついて、結婚後に自分の世界観が変わったのだといった。

    わたしはどうにも納得できず、ほんとうに彼女のことをきれいさっぱり忘れたのかと問い返した。すると、忘れたつもりだったが手紙をもらってみると、やはり彼女のことが思い出されてならないと正直にいうのだった。

    そこでわたしは、彼女を愛しているなら、呼び寄せるべきではないかと心から勧めた。自分の妻一人教育できずに、どうして古い世の中をくつがえして新しい世界を築けるというのか、彼女がそばにいれば、病気の治療にもよいではないかと話した。彼はそうするといいながらも、さびしそうに溜息をついた。

    「成柱同志の忠告だから、そうしよう。でも、わたしの人生はもう傾いてしまった。しくじった人生なんだよ」

    彼には子がなかった。次代に残す財産も精神的遺産もなかった。自分はマルクス・レーニン主義の研究に一生をささげ、労働者階級のためになる本をきっと書こうと思っていたが、それもかなわなくなった、本を書こうにも、元気旺盛なときは真理に目覚めておらず、真理を悟ったときは健康が許さない、と嘆息するのだった。

    それを聞くと、わたしももどかしかった。彼は学問に誠実で、地道で、探究心に富んでいた。書物の中に埋もれず、もう少し早く実践に乗り出していたなら、労働者階級の革命偉業に役立つ価値ある理論を世に出し、実践的な業績もつんだであろう。実践のなかで理論が生まれ、その正しさも実践を通して検証されるのである。われわれが瞬時として忘れてはならない実践は朝鮮の独立であり、朝鮮人民の幸福である。残念なことに、朴素心はその真理に目覚めて間もなく、われわれのもとを去ってしまった。

    彼はその後、ソウルから妻を呼び寄せて治療に専念するかたわら、小論文や断想などの執筆をつづけ、卡倫で息を引き取った。

    朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、という先人の言葉があるが、朴素心のように有能な人物が、真理に目覚めただけで世を去ったのは痛嘆にたえないことである。

    わたしは吉林で3年余りをすごした。吉林はじつに、わたしの一生に忘れがたい軌跡を残した土地である。

    その吉林でわたしは、科学的学説としてのマルクス・レーニン主義を理解し、それによって朝鮮の独立と人民の幸福のための実践的真理を深く把握することができたのである。

    わたしが新しい思潮の真髄を早く悟れたのは、亡国の民族の子として生まれた悲しみと憤りのためであったといえよう。朝鮮民族に強いられたたえがたい不幸と苦痛は、わたしの精神的成長を促した。わたしは受難にあえぐ祖国と同胞の運命をわが運命としてうけとめた。

    それがわたしに、大きな民族的義務感をになわせたのである。わたしの世界観は吉林時代に確立して揺るぎないものとなり、わたしの生涯の思想的・精神的糧となった。 吉林での蓄積と体験はその後、わたしの自主的革命思想の骨組みをつくる礎となった。 学習は、革命家の自己修養にとって欠かせない基礎工程であり、社会の進歩と変革の元手として一日の中断をも許さない必須の精神労働である。吉林時代の先進思想の探求過程を通して得た教訓から、わたしはいまでも、革命家にとって学習は第一の任務であると強調している。

    

    

    

    2 尚鉞先生

    

    

    

    わたしに『資本論』の案内役をつとめたのが朴素心であるなら、ゴーリキーの『母』と『紅楼夢』を紹介してくれたのは尚鉞先生である。尚鉞先生は毓文中学校の語文学教師であった。尚鉞先生が毓文中学校に赴任したのは1928年の2月ごろだった。北京大学の英文学部出身の語文学教師が赴任したと聞いて、われわれはみなその授業時間を心待ちにした。

    しかし、新任の教師を迎えるわれわれには一抹の不安もあった。もしや教育庁の特務ではなかろうかと危惧したのである。教育庁から送られてくる毓文中学校の教師のなかには、軍閥当局に買収された不純分子が少なくなかった。

    当時は、蒋介石の指令で張学良が満州に国民党旗をひるがえして間もないころだった。蒋介石の特務機関が早くも瀋陽から吉林にかけて触手をのばしていた。彼らはまだ毓文中学校を掌中におさめてはいなかったが、革新的な教職員や学生の動静は軍閥とその手先の監視をうけていた。そんなときに新任の教師が赴任したのだから、学生たちは緊張せざるをえなかったのである。尚鉞先生は最初の一回の授業でそんな警戒心を霧散させ、学生の人気を独り占めにした。彼は120回におよぶ『紅楼夢』の膨大な内容をわずか一時間でみごとに描き出してみせた。本質を抽出し、生活ディテールを巧みに織りまぜながら生き生きと進める講義に魅せられ、われわれは、その小説の構成と、家父長的伝統が支配する一貴族家門の凋落過程を労せずして把握することができた。

    尚鉞先生が授業を終えて教室を出ると、学生たちは毓文中学校に宝が転がりこんできたと歓声を上げた。

    ところで、先生は『紅楼夢』の内容はくわしく語りながらも、作者のことにはあまりふれなかった。わたしは翌日、運動場を散歩する尚鉞先生に会って、『紅楼夢』の作者曹雪芹について具体的に話してほしいとお願いした。先生は、時間が足りなくて作者の経歴を省いたのだが、もっともな質問だといって、曹雪芹の生涯や家系についてくわしく説明してくれた。

    先生の説明を聞いてわたしは、作家の出身と作品のもつ階級的性格の相互関係についていくつか質問した。

    先生はそれにも明快に答えてくれた。先生は自分一個人の考えだと断って、作家の出身が作品の階級的性格に影響をおよぼすのはたしかだが、その性格を規定する絶対的な要因は出身ではなく、作家の世界観であるといった。その実例として、彼は曹雪芹をあげた。彼が康熙帝の厚遇をうける貴族の家門に生まれ、富裕な生活環境のなかで成長しながらも、崩壊期にあった封建中国の内情と滅亡の不可避性を形象的に描き出すことができたのは、進歩的な世界観のたまものだというのである。そのとき、尚鉞先生はこんなことをいった。

    「成柱君がきょう、わたしのところに来たのはたいへんよいことだ。疑問な点やわからないことがあったら、いつでも遠慮なく教師の援助をうけることだ。それが科学を探究する学生の姿勢だといえる。 時と場所を選ばず、どしどし質問することだ。わたしはたくさん質問する学生が好きだ」

    大いに質問せよ、という尚鉞先生の言葉がわたしの気に入った。わたしは小学校時代から質問好きで通っていた。毓文中学校でも先生たちを質問攻めにして困らせたものである。

    尚鉞先生は、宿舎に『紅楼夢』や曹雪芹の略歴にかんする資料集があるから、読みたかったらいつでも貸してあげようといった。こうして、わたしは尚鉞先生の最初の訪問客となる幸運に恵まれた。わたしの祖父はいつも、子どもが先生の家に出入りするのは感心しないといっていた。書堂で『童蒙先習』のようなものを学んで成長した旧世代の人たちはもちろん、新式学問のおかげで蒙をひらいたという人たちのなかにも、祖父と同じようなことをいう人が多かった。子どもたちが先生の裏面の生活を見慣れると尊敬心が薄れる、教師は子どもたちから、食事も用便もしない仙人のような人だと思われなければならない、それでこそ教権が立つ、だから教師は屏風をめぐらして生活しなければいけない、というのが祖父の持論だった。祖父は、わたしの父が書堂に通いはじめたころ、そう思うようになったという。

    父が通っていた順和書堂に金志誠という訓導がいた。彼は底抜けの愛酒家で三日にあげず学級長だったわたしの父に酒を買いにやらせた。最初、父は訓導の言いつけをよく守った。ところが、その訓導が 酒に酔って溝に倒れているのを見て、父の考えは変わった。

    ある日、訓導はまた一升瓶を父に渡して、酒を買ってくるようにといった。書堂を出た父は、一升瓶を岩にたたきつけて粉みじんにし、訓導には、虎に追われて石につまずき酒瓶を割ってしまったといった。訓導はあきれて、「ほほう、白頭山の虎が万景台までやってきたというのか。亨稷がわしにそんな途方もないことをいうのをみると、わしの酔いどれ姿がよほど醜かったんだろう。おまえたちに酒の使いをさせたわしが悪かった」といった。それ以来、訓導は酒を飲まなくなった。 訓導は酒と決別したが、父の脳裏には、溝に倒れて酒くさい臭いを発散させていた先生の姿がこびりついて離れなかったという。屏風をめぐらして生活しないと教権が立たないという祖父の持論は、そんな出来事に由来していたのである。わたしは尚鉞先生が屏風をめぐらす前に、まだ誰にも開放していないという先生の生活のなかへ飛びこんだのである。 先生の書架には数百冊もの書物があった。それはかつてわたしが見たどの書架よりも大きく、すばらしいものだった。尚鉞先生は本の長者だった。書架には英文の小説や伝記文学作品もかなりあった。 わたしは書架の前に立ちつくした。この書架の知識をものにすれば、大学を出るにひとしいだろう。尚鉞先生が毓文中学校に来たのは、わたしにとってなんという幸運だろう。わたしはこんな思いにとらわれながら、手当たりしだいに書物をとってみた。そして先生にたずねた。

    「失礼ですが先生、これだけの本を集めるのに何年かかりましたか?」

    尚鉞先生は口もとに微笑を浮かべて書架の前へ歩み寄り、わたしの顔を見つめた。

    「10年はかかったようだな」

    「これらの本を全部読むにはどれほどかかるでしょうか?」

    「一心に読めば3年、怠ければ100年かかるだろう」

    「先生、3年を期限にわたしがこの本を全部読むといったら、本棚を開放していただけるでしょうか?」

    「開放するとも。だが、条件つきだ」

    「本さえ貸してくださるなら、どんな条件がついてもかまいません」

    「ほかでもない。成柱が将来、作家になるという条件だ。わたしはずいぶん前から、プロレタリア革命につくせる作家の後継ぎを一人か二人育てたかったんだ。成柱がその一人になってくれないだろうか」

    「それほどわたしを信頼してくださって、ありがとうございます。じつは、わたしも文学の授業が好きで、作家に非常にあこがれています。国が独立したら、あるいは文学の道を選ぶかもしれません。でも、わたしたちは国を奪われた亡国の民の子弟です。わたしの父は国を解放するため、生涯苦労した末に世を去りました。わたしは父の志を継いで、独立闘争に一身をささげるつもりです。それがわたしの最大の理想であり抱負です。民族解放のたたかいがわたしの職業となるでしょう」

    尚鉞先生は書架にもたれて深刻な表情で何度もうなずき、わたしの肩に手を置いて静かにいった。

    「りっぱだ、成柱!独立闘争が理想なら、その理想を条件に、この本棚をそっくり成柱に開放してあげよう」

    その日、わたしは『紅楼夢』を借りて宿所に帰った。尚鉞先生から2度目に借りた本は、蒋光慈の小説『鴨緑江上』と『少年漂泊者』だった。 わたしはそれらの小説をたいへん興味深く読んだ。李孟漢と雲姑という朝鮮の若い男女が主人公の『鴨緑江上』は、とりわけ忘れがたい印象を残している。

    ついでゴーリキーの『母』を借りて読んだ。このように、わたしと先生は本と文学を通じて深い縁を結んだのだった。 尚鉞先生はわたしの望む本はなんでも貸してくれた。自分にない本は、苦労してよそから借りてきてくれた。先生は書物を貸したお返しとして、必ずわたしの読後感を語らせた。

    わたしたちはゴーリキーの『敵』や魯迅の『祝福』についても語り合った。そのような過程で、文学上の意見もしばしば交わした。焦点は文学の使命についてであった。わたしたちは、文学が現実をいかに反映し、社会の発展をどう促すかという問題を多く論じた。

    尚鉞先生は、文学は人類を知性へ導く灯火だといった。機械は生産の発展を促すが、文学はその機械を動かす人間の人格を完成させる、と先生はよくいったものである。

    尚鉞先生は、魯迅とその作品にとくに大きな愛着を覚えていた。先生は魯迅とは文学上の友であり、魯迅が指導する文学グループの一員でもあった。先生がその当時書いた短編小説『斧の峰』は魯迅からほめられた。それは封建的因習を打破する羅山地方の人民のたたかいを描いたものであった。尚鉞先生の娘の尚暁援の話によると、魯迅は『斧の峰』を読んで、するどさの足りないのが傷だと不満ももらしたという。

    尚鉞先生は初期の作品に見られた未熟さを克服して、1930年代には『予謀』のような思想的、芸術的に洗練された長編小説を書き、読者大衆の肯定的な評価をうけた。その小説は当時、雲南省のある雑誌に連載された。1980年代に、中国人民文学出版社はその『予謀』を単行本で出版している。尚鉞先生は『予謀』と『斧の峰』のほかにも、長編小説『矛』と『狗の問題』を読者に贈った。先生は教育に従事しながらも、作家としての思索を瞬時として中断しなかった。先生が最初、わたしに文学を専攻するよう勧めたのも、決していわれのないことではなかった。わたしは尚鉞先生から『陳独秀選集』も借りて読んだ。陳独秀は中国共産党創立者の一人で、党の実権も握っていた。 尚鉞先生は最初、その書物を貸すのをしぶった。陳独秀の右傾投降主義路線に惑わされるのではないかという危惧の念からだった。先生は、陳独秀が北京大学の文学部長を勤めていたのは自分が大学に入る前のことだったが、多くの教職員や学生がそのことを誇りにしていたと語った。「正直な話、わたしも一時、陳独秀を崇拝した。彼が出していた『新青年』誌や初期の論文を読んでいるうちに、すっかりほれこんでしまったんだ。しかしいまでは、わたしの陳独秀観も変わった」尚鉞先生はこう前置きして、5・4運動当時や共産党創立初期にあれほど多くの人たちから愛された陳独秀の人気が暴落したのは、彼が右傾日和見主義路線を唱えたからだと話した。

    陳独秀の日和見主義的誤謬は農民問題にたいする立場と態度にもっとも顕著にあらわれていた。スターリンは1926年に、農民は中国の反帝国主義戦線の基本的勢力であり、労働者階級のもっとも主要かつ信頼すべき同盟軍であると指摘している。しかし、陳独秀は農民を軽視した。彼は農民が土豪出身と衝突するのを恐れて、農民の行政干渉や、積極的な自衛行為に反対した。一言でいって、農民の闘争を制限しようとしたのである。

    陳独秀の誤謬は、反帝闘争を口実に、ブルジョアジーが革命戦線から脱落するのを恐れて農村革命に反対したことにある。彼の投降主義路線はかえって、革命にたいするブルジョアジーの背信を助長する結果を招いた。これが陳独秀にたいする尚鉞先生の見解であった。 先生が正しく指摘したように、陳独秀の論文には革命に大きな害毒をおよぼしかねない投降主義的な要素があった。 わたしは『陳独秀選集』を呼んだあと、尚鉞先生と長時間にわたって農民問題を論じた。朝鮮革命と中国革命において農民問題がしめる位置と共通性、そして相違点はなにか、農民問題にたいするレーニンの戦略で参考にすべき点はなにか、農民が革命の主力軍としての役割を果たせるようにするにはどうすればよいか、というのが論点であった。わたしは、「農は天下の大本」だから、農民を「天下の大軍」と見るべきではなかろうかといった。 尚鉞先生はわたしの言葉を肯定し、農民を軽視するのは結局農業を軽んじ、農地をないがしろにすることであるから、いかにりっぱな理念をもつ革命であっても、失敗をまぬがれないと語った。先生は、陳独秀の誤謬はこの道理を忘れたところにあると付言した。

    わたしはそうした話から、尚鉞先生が共産主義者だと確信した。同時に尚鉞先生も、わたしが共青活動にたずさわっていることを知った。先生の感受性と判断力には驚くべきものがあった。

    尚鉞先生は1926年に中国共産党に入党した。そして郷里で農民運動を指導中、国民党の反動軍閥に逮捕され、浙江省陸軍監獄で1年余り苦労した。1928年の初め、朝鮮人軍医の尽力で保釈された先生は、謝仲武と名を変えて満州へ移り、楚図南という人の紹介で吉林毓文中学校に就職したのである。

    農民問題を論じて以来、わたしは尚鉞先生と政治問題についてもいろいろと語り合うようになった。そのころ吉林の青年学生のあいだでは、政治論争が活発にくりひろげられていた。中国は大革命の時期にあり、朝鮮も大衆運動の高揚期だったので、論争の種はつきなかった。 朝鮮青年のあいだで、李儁と安重根のやり方のどちらが正しいかということが話題になり、はげしい論争を呼び起こしたのもそのころのことである。青年学生の多くは安重根のやり方に絶対的な意義を付与していた。 わたしは尚鉞先生に、安重根の闘争方法をどう思うかとたずねた。

    尚鉞先生は、安重根の行為はもちろん愛国的だ、しかし闘争方法は冒険主義的だと答えた。先生の指摘はわたしの見解と一致した。わたしは、日本帝国主義の侵略に抗するたたかいは、決して大軍閥の代弁者を一人や二人懲罰するテロリズムの方法で勝利できるものではなく、必ず人民大衆の覚醒を促して、すべての人民を奮い起こすときにのみ、その目的が達成できると考えていた。

    わたしは、日帝の朝鮮侵略史と朝鮮における植民地政策、日帝の満州侵略企図と軍閥の動静、反帝反侵略闘争での朝中人民の団結と協力の必要性などについても尚鉞先生と意見を交わした。

    そのころ、毓文中学校の学生のあいだでは、軍縮問題をめぐる国際連盟の動きについていろいろな論議がなされた。彼らのなかには国際連盟に期待をかける学生が少なくなかった。そこでわたしは、国際連盟の軍縮交渉の欺瞞性を指摘する論文を発表した。すると多くの学生がわたしの論文を支持した。尚鉞先生もそれを読んで、わたしの見解が正しいといった。

    尚鉞先生は、吉林で共産党との組織的連係が断たれていたが、学生たちを啓発するために、ゴーリキーや魯迅など進歩的作家の作品を紹介する授業をたびたびおこなった。あるときは、秘密読書グループの要請をいれて学校の図書室で、「帝国主義に反対しよう」というテーマで1週間、特別講義をおこなったことがある。それは学生たちの好評を得た。わたしは彼らの反響を伝えて、尚鉞先生を励ました。 進歩的な思想と次代教育への強い責任感、古今東西の文化と歴史にたいする広く深い知識によって、尚鉞先生は学生たちから敬愛された。軍閥当局に買収された反動教員はそれを快く思わず、卑劣にも尚鉞先生の権威を失墜させようと策動した。尚鉞先生に目をかけられている学生たちも彼らからにらまれた。馮という教師は、李光漢校長に朝鮮人学生を退学させよと迫り、体育主任の馬という教師は、朝鮮人学生が中国人教員を敵視していると騒いで、わたしを排撃する声を呼び起こそうとした。そのたびに、尚鉞先生はわたしをかばってくれた。英語の教師も新思潮にあこがれる学生を白眼視した。事大主義思想が骨髄にしみていた彼は、東洋人を侮蔑し、欧米人は食事のさい音を立てないが、中国人は大きな音を立てて食べる、それは文明が開けていない証拠だ、などといった。彼は中国人でありながらも西洋人のようにふるまっていた。彼がなにかにつけて、東洋人は開けていないと口汚く冒涜するのがいまいましくてならなかった。それで、われわれは食事当番の日、わざとうどんをつくって教員を食堂に招いた。熱いうどんだったので、食堂のあちこちでさかんに、フーフー、ズルズルという音がした。英語の教師もそんな音を立てながらうどんを食べていた。彼がフーフー吹きながら熱いうどんを食べる様子がおかしくて、学生たちは腹をかかえて笑った。英語教師は、学生たちが自分をからかおうとしてわざとうどんをつくったことに気づき、真っ赤になって食堂から逃げ出してしまった。それ以来、彼は東洋人を冒涜する言辞を吐かなくなった。彼の鼻持ちならない事大主義がしゃくで、学生たちは英語の授業に熱を入れなかった。

    尚鉞先生にたいする反動教員の圧力は、1929年に入るといっそう強くなった。

    あるとき尚鉞先生は、体育を選手本位にするのでなく、大衆化するのがよいと主張した。バスケットボールのコートを選手が独占していたからである。これを根にもった不良選手たちが放課後、宿所から校舎へやってくる尚鉞先生を待ちかまえて集団暴行を加えようとした。わたしは共青員や反帝青年同盟員を呼び集めて不良選手らの前に立ちはだかり、きびしく叱責して彼らを追い払った。

    「馬体育主任は、あのチンピラどもをよくも手なずけたものだ。虫けらにも劣る奴らめ」尚鉞先生は、逃げ去る不良選手らの後ろ姿を眺めながら慨嘆した。

    「先生、驚くことはありません。これも階級闘争の一つではありませんか。今後はもっと大きな衝突も覚悟すべきでしょう」

    わたしが笑ってこういうと、先生はうなずいた。

    「それもそうだ。われわれはいま軍閥とたたかっているんだからね」 尚鉞先生はその後、教育庁が不当に退学させた学生たちの復学闘争に参加して罷免され、毓文中学校を去った。わたしが長春と卡倫地方で大衆組織の活動を指導して学校へ帰ってくると、権泰碩が駆けつけてきて尚鉞先生の手紙を伝えた。それには、自分は軍閥とのたたかいに敗れて学校を去る、しかし、いずれわれわれは軍閥をうちまかすであろう、祖国と民衆の真の息子として一生を送る決心をした成柱の理念が実現するよう、わたしはどこにいても成柱に心からの祝福を送る、という内容がしたためられていた。これが、わたしに残した尚鉞先生の最後の「対話」だったのである。その後、わたしは二度と尚鉞先生に会う機会がなかった。ただ、先生から1955年に贈られた文『わたしと少年時代の 金日成 元帥との歴史的関係』と、1980年に贈れらた『中国史綱要』を受け取って、先生が健在であることを察したにすぎない。わたしはそれらを読んで、尚鉞先生と朝鮮の情勢や満州の情勢、日帝の侵略政策と朝中人民の共同闘争などについて語り合った毓文中学校時代を懐かしくふりかえり、老師にたいし胸中ひそかに心からの感謝を送ったものである。

    わたしは中国の指導者たちが朝鮮を訪れるたびに、尚鉞先生の安否をたずねた。けれども残念なことに先生との再会はついに果たすことができなかった。わたしとしては、弟子としての礼を失したというほかない。国境とはなんと奇異なものだろうか。尚鉞先生は北京にある中国人民大学の教授を勤め、1982年惜しくもこの世を去った。

    1989年に、中国科学院力学研究所で研究員をしている尚鉞先生の長女尚佳蘭が、そして1990年には3女の尚暁援がわが国を訪れてわたしに会って帰った。尚暁援は中国人民大学で教鞭をとっている。

    60年前に別れた旧師の面影を2人の娘の姿に見いだしたとき、わたしは喜びを禁じえなかった。民族が異なっても人情は異なるものでない。人間の情には皮膚の色や言語、信教の障壁などありえないのである。もし毓文中学校の校庭が近くにあったなら、わたしはそこに咲き乱れるハシドイを摘んで、「これが君たちのお父さんが愛していた花だ。尚鉞先生とわたしは、この木の下でよく語り合ったものだ」といってやれたかもしれない。

    吉林を去った尚鉞先生は、ハルビン、上海、北京、漢口、重慶、寧夏、延安などで党活動、教育事業、文化活動、文筆活動と多面的な活動をくりひろげ、一時、満州省党委員会の書記長も勤めたという。尚鉞先生は晩年にいたってもわたしを忘れず、中国の親しい隣邦であるわたしの祖国、朝鮮民主主義人民共和国にたいする国際主義的感情をいだいていた。 尚鉞先生の遺体は現在、北京の八宝山烈士陵に安置されている。終生回顧しうる師がある人は、たしかに幸せな人である。そうだとすれば、わたしも幸福な人間だといえよう。 わたしの青春に消しがたい軌跡を残した尚鉞先生が懐かしくなるたびに、わたしは毓文中学校の校庭へと思いを馳せるのである。

    

    

    3 朝鮮共産主義青年同盟

    

    

    「トゥ・ドゥ」のメンバーと秘密読書グループの活動によって、マルクス・レーニン主義思想が急速に伝播すると、青年学生の思想・意識には質的な変化が生じはじめた。先進思想にふれた彼らはしだいに、歴史と民族にたいする自己の任務を深く自覚するようになった。われわれは青年学生の意識化を促す活動をつづける一方、彼らをいろいろな組織に結集していった。組織を通じてのみ、マルクス・レーニン主義思想のより広範な普及と中核力量のより急速な育成も可能であった。

    わたしの革命活動は青年学生運動からはじまった。われわれが革命活動を青年学生運動からはじめ、そこにきわめて大きな意義を付与したのは、わたしが学生であったということもあるが、それよりも労働者、農民をはじめ広範な大衆を意識化し、組織化するうえで、その運動が果たす役割と位置がきわめて重要であったからである。

    マルクス・レーニン主義理論では、青年学生運動を橋渡しの役割にたとえている。言いかえれば、青年学生運動は先進思想を普及し、大衆を啓蒙し自覚させ、革命運動へと導く橋渡しの役割をすると定義づけている。われわれもその理論を肯定した。

    革命の発展にともない、青年学生の役割についてのわれわれの見解と立場には質的な変化が生じた。われわれは、革命の原動力を労働者、農民本位に定義づけていた従前の古い視角から脱却して、革命闘争において青年学生もりっぱな主力をなす、と定義しなおした。それはこれまでの青年学生運動の歩みが立証している。

    3・1人民蜂起と6・10万歳運動(1926年)、光州学生事件など、解放以前のわが国反日愛国闘争のピークをなす主な歴史的出来事において、青年学生はつねに先頭に立って勇敢にたたかった。われわれは共産主義運動の新しい歴史も青年の力で開拓し、15年にわたる抗日武装闘争も青年学生を根幹にして展開した。今日も、朝鮮革命においては青年学生が突撃隊の役割を果たしている。南朝鮮革命においても、主力は青年学生であるといえる。4・19蜂起の産婆役をつとめたのも青年学生であり、光州人民抗争(1980年)の主役も、「第5共和国」政権を打倒した6月抗争の旗手も青年学生であった。

    中国人が新民主主義運動の起点とみている5・4運動の最先鋒に立ったのも青年学生であったということは、世に広く知られている事実である。

    前人未踏の道を踏み分け、不断に新たな経験を積み重ねてきた朝鮮人民の豊富な長期にわたる闘争の歴史は、青年学生を一つの階層とさえみなかった従前の理論がわが国の実情に合わないことを示している。1920年代前半期までのわが国の青年学生運動には、階級的立場と反帝的立場が不透明で、大衆のなかに深く浸透していない欠点があった。運動の上層部はほとんどがインテリ出身であり、運動の主力も啓蒙活動にかたよっていた。

    われわれは、こうした青年学生運動の欠点が二度とあらわれないように強く警戒しながら、正しい第一歩を踏み出そうと努力した。ところが、いざ組織を結成し、青年学生を結集しようとすると、複雑な問題がもちあがった。青年学生を組織化するうえでもっとも困難な問題は、民族主義者と分派分子によって結成された青年組織がすでに存在している状況のもとで、いかなる方法と形式でわれわれの組織を結成すべきかということであった。吉林には吉林青年会、朝鮮人旅吉学友会、少年会などいろいろな既成団体があった。

    そうした組織がなければ、空き地に家を建てるように容易に新しい組織がつくれるのだが、さまざまな既成団体があって青年学生に働きかけている状況のもとでは、それをまったく無視するわけにいかなかったのである。

    われわれは慎重に討議した末、既存組織のうち、看板を掲げているだけで活動していない団体は無視して新たに組織し、多少なりとも活動している団体は存続させて利用し、再編する方法をとることにした。 われわれが吉林で最初に結成した組織は朝鮮人吉林少年会だった。当時、吉林には民族主義者の組織した少年会があったが、それは名ばかりで、吉林市内の朝鮮少年はそういう組織があることすら知らなかった。われわれは1927年4月、孫貞道の礼拝堂で朝鮮人吉林少年会という合法団体を組織した。

    わたしは金園宇、朴一波(朴宇天)と一緒にその会合を指導した。会合では、組織部と宣伝部、文体部(文化体育部)などの部署を設け、学校別、地域別の班も組織した。

    当時のことについては、少年会宣伝部の責任者であった吉林女子師範学校出身の黄貴軒がよく記憶していると思う。

    少年会には労働者、農民、中小商工業者、民族主義者の子弟など、吉林市内の朝鮮人少年はすべて参加させた。朝鮮人吉林少年会の目的は、少年を反日思想で教育し、革命の後続隊としてしっかり育てることである。

    朝鮮人吉林少年会は綱領のなかで、会員が新しい先進思想を学び、それを広範な大衆のなかに広く宣伝することを重要な課題としてうちだした。

    同年5月、われわれは朝鮮人旅吉学友会を朝鮮人留吉学友会に再編した。

    朝鮮人旅吉学友会は会員も多く、一定の影響力をもっていた。もともとこの学友会は、吉林で勉強している朝鮮人青年学生の親睦をはかる目的で組織された団体で、民族主義者の後援をうけていた。旅吉学友会の顧問には孫貞道も名をつらねていた。

    旅吉学友会を留吉学友会に再編する問題がもちあがると、なかには朝鮮人旅吉学友会が民族主義者の主管する純然たる親睦団体であることを問題視し、それを押しつぶそうと主張する人もいた。本体そのものが民族主義であるからには、異質のものを量的にいくら多く加えてもそれは結局、民族主義化するほかないというのである。その主張の本質は、古い思潮としての民族主義を打倒しようというものであった。

    当時は大衆獲得競争がはげしかった。共産主義者と民族主義者が互いに対立して負けず劣らず大衆を引きつけているかと思うと、共産主義運動内部でも各派閥がそれぞれ大衆をかちとろうとやっきになっていた。ソウル派がきょう朝鮮共産主義青年同盟の指導部を掌握すれば、あすは火曜派がそれに対抗して漢陽青年会をつくりだし、あさって火曜派が朝鮮労農総同盟をつくりだせば、今度はソウル派がその向こうを張って京城労農会をつくりだすといったふうに、それは一つの流行になっていた。分派分子は他派を牽制するため、テロ団まで競いあって組織した。

    しかし、われわれ新しい世代の共産主義者は、そうした前轍を踏むわけにはいかなかった。

    もし、われわれが分派分子のように朝鮮人旅吉学友会を無視して、吉林に別の青年組織をまた結成するなら、民族主義者との関係で複雑な問題が生じかねないし、学生青年の隊伍を分裂させる恐れがあった。そうするのは、どの角度から見ても百害あって一利なしであった。われわれは朝鮮人旅吉学友会のなかに入って本来の合法性を維持しながら、徐々にそれを純然たる親睦団体から革命的な組織へと再編していくことにした。共産主義者のわたしが名誉会長ということになったが、民族主義者を表面に立たせていたので、中国軍閥当局の注意もそれほど引かなかった。わたしは朝鮮人旅吉学友会を指導し、やがてそれを朝鮮人留吉学友会に再編した。

    朝鮮人留吉学友会は、表向きは朝鮮人青年学生の親睦を標榜していたが、実際には「トゥ・ドゥ」の理念を実現する革命的な学生青年組織として活動した。朝鮮人旅吉学友会を朝鮮人留吉学友会に改称し、それを純然たる親睦団体から革命的組織に再編したのは、われわれが青年学生運動を通じて得た一つの貴重な経験であった。

    われわれの組織が動きだすと、吉林市内の風潮が変わりはじめた。青少年学生の日課が目に見えて変化した。少年会と留吉学友会に加わった青少年は、毎朝、地区別に早起き会をした。日曜日になると、吉林市内の全会員が隊列を組んで北山に登ったり、歌唱行進をしたりし、北山のふもとの運動場で体育競技もおこなった。われわれは青少年学生との活動において、彼らの趣味と意識水準に応じていろいろな形式と方法を活用した。少年会のメンバーのなかには、キリスト教信者の子弟が少なくなかった。彼らは両親から宗教的影響を強くうけていたため「神様」がほんとうにいると信じていた。彼らには、「神様」はいないし、宗教を信じるのは愚かなことだ、といくら言い聞かせても効果がなかった。ある日、わたしはわれわれの影響下にあった朝鮮人小学校の女教師に頼んで、信者の子どもたちと一緒にミサに参加してもらうことにした。

    女教師は、わたしに頼まれたとおり子どもたちを連れて礼拝堂へ行き、ひねもす「全知全能の父なる主よ、ひもじいわたしたちに餅を与え、パンを恵みたまえ」と祈らせた。しかし、彼らに餅やパンが恵まれるはずはなく、依然として空腹にさいなまれるだけだった。今度は、女教師が取り入れのすんだ小麦畑に子どもたちを連れていって、落ち穂拾いをするようにさせた。女教師は子どもたちと一緒に畑からたいへんな量の落ち穂を拾い集めてきた。そしてそれを脱穀し、パンをつくって子どもたちに分け与えた。子どもたちはパンを食べながら、「神様」を拝むより実際の労働によって食べ物を得るほうがましだと考えるようになった。

    単純なようだが、青少年の思想・意識を改造し、古い因習をなくすためには、それも一つの方法だったのである。

    われわれが、青少年に礼拝堂に通わないよう戒め、迷信のとりこにならないようたえまなく教育したのは、決して宗教そのものを打倒するためではない。青少年が迷信を信じ、キリストの教理を絶対視するようになると、革命にとってなんの役にも立たない、ひ弱い無気力な存在になってしまうので、それを未然に防ぐためだった。信者だからといって革命に参加できないという理由はないが、世界にたいする科学的な理解に欠けている青少年の場合、宗教がもつ無抵抗主義的な要素から否定的な影響をうける恐れがあったのである。

    吉林に行ってみると、少年会員のなかに街を歩きながら賛美歌をうたう者がいた。それほど宗教は青少年に強い影響力をもっていたのである。しかし、賛美歌をうたうようでは、敵の銃眼めざして突進することはできない。われわれには、賛美歌をうたう信者よりも決戦歌をうたう闘士が必要だった。

    そこで、われわれは青少年に革命的な歌をさかんに普及した。こうして賛美歌をうたいながら街を歩いていた少年会の子どもたちも、やがて『少年愛国歌』や『朝鮮人吉林少年会の歌』をうたいながら威勢よく街頭行進をするようになった。

    朝鮮人吉林少年会と朝鮮人留吉学友会の結成後、われわれの進めた活動のうち、いまも忘れられないのは、その年の夏休みにおこなった国語講習会である。講習会には中国人小学校に通っている朝鮮少年をはじめ、朝鮮の文字を知らない子どもたちを全部参加させた。彼らのほとんどは出生地が満州であった。満州生まれの少年たちは朝鮮語より中国語のほうが上手だった。

    われわれはそのときから「朝鮮人は朝鮮を知るべきだ」というスローガンをかかげたのである。

    桂永春、金園宇、朴素心が交替で講義を担当した。当時、われわれには専任の教員がいなかった。組織の中核がすべて教員であり、講師であった。

    20日のあいだ講習会をつづけると、それに参加した少年は誰もが少年雑誌を読めるようになった。

    少年会と学友会は、青少年の好みに応じて竜潭山への遠足や江南公園でのレクリエーション、文化遺跡の参観や踏査、それに講演会、討論会、学習会、弁論大会、読書発表会、歌の普及、演芸公演などの課外活動も活発におこなった。

    われわれは秘密活動の場所として江南公園と北山をしばしば利用した。江南公園は綾羅島のように美しい松花江上の島だった。吉林の資本家はここに木をたくさん植えて島を植物園のようにきれいにととのえ、入場料を取って利益を得ていた。空き地には落花生のようなものも栽培されていた。この公園で、われわれはレクリエーションの名でたびたび秘密会合を開いた。

    江南公園より格好の秘密会合の場所は北山だった。主として草木の茂る夏季に利用した江南公園にくらべ、北山は季節にかかわりなく1年中、自由に利用できた。吉林で人が一番大勢集まるのは北山遊園地である。したがって、北山とその周辺は市内でもサービス施設がもっとも密集しているところでもあった。北山に向かう通りの両側には、ピンタン飲食店、氷糖屋、玩具店、タバコ屋、雑貨店、茶店、娯楽場などがずらりと並び、洋品専門の大きな京広商店もあった。

    北山に人が大勢集まるのは景色がよいことにもよるが、そこに薬王廟のような名勝古跡が多いからだった。薬王廟というのは、薬神の祭祀をする社という意味だ。

    吉林では、毎年6月4日から6日までの3日間を廟会期間とし、省政府の主管のもとに北山で薬神霊の誕生を祝う官制行事をおこなった。この行事には庶民はもちろん、官職についている人もみな参加した。廟会中の3日間は休日とされた。

    警察当局は、この行事がおこなわれるときは、きまって北山のふもとの大道路の東側に臨時派出所を設けて電話を引き、山上には警察分班を配置して商店街の秩序維持にあたる一方、薬王廟、関帝廟、娘々廟で焚く香の火が山火事にならないよう警戒し、取り締まった。3日間の行事期間は、馬丁や車夫にもふだんの10倍もの実入りがあった。この3日間の廟会を商人は収益を上げる好機としたが、都市の有志や先覚者は省立通俗講習所の看板をかかげて、大衆を啓蒙する社会教育の演壇とした。相異なる職業に従事する啓蒙活動家がいたるところにあらわれ、こぶしを振り上げて愛国、道徳、法の順守、美感、実業、体育、衛生など種々のテーマで熱弁をふるうさまは、北山でなくては見られない珍しい光景だった。こうした複雑な合間をぬって、われわれも大衆のあいだで先進思想を植えつけ、ときには秘密会合ももった。薬王廟の地下室は、われわれの専用会議室といってもよいくらいだった。寺の僧はわれわれが味方に引き入れた人であった。

    わたしは吉林で学校に通っていたとき、講演もたびたびおこなった。民族主義者が催した討論会に出むいて演説をしたこともある。呉東振、李鐸など正義府のリーダーは国恥日(8月29日)、3月1日、壇君誕生日(10月3日)など、主な記念日が巡ってくるたびに、市内の同胞と青少年学生を集めて講演会や討論会を催した。

    留吉学友会のメンバーのあいだでは、李儁のやり方が正しいか、安重根のやり方が正しいかという問題をめぐってさかんに論争が展開された。いくら論争しても決着がつかないので、われわれは旅吉学友会が留吉学友会に再編された年の夏、孫貞道の礼拝堂に市内の朝鮮人学生全員を集めて、その問題を討論にかけた。この討論会を通して吉林の青少年は大いに覚醒した。彼らは、テロではだめだ、請願ではなおさらだめだ、強大国が助けてくれるだろうと思うのは妄想だ、ということをはじめて自覚し、朝鮮独立のためには新しい進路が探求されなくてはならないということをひとしく認めた。

    当時、吉林でおこなわれた討論会や読書発表会では、朝鮮革命の実践と関連した問題がしばしば論議された。

    われわれは毎年、5月の第一日曜日を「少年会の日」とし、この日に吉林市内の朝鮮人青少年とその父兄、有志や独立運動家が参加する運動会を催して団結の雰囲気をつくりだした。

    このように青少年の団結をはかったうえで、大衆の教育・啓蒙活動に彼らを参加させた。10歳前後の少年会員たちも学期末休暇になると江東、六大門、新安屯、大荒溝など周辺の農村に出むいて、野良仕事を手伝いながら農民を啓蒙した。

    派閥争いがはなはだしかった吉林で、さまざまな息をついていた青少年に一つの息をつかせるようにしたのは、たしかにわれわれの貴重な成果であり、体験であった。

    朝鮮人吉林少年会、朝鮮人留吉学友会、マルクス・レーニン主義読書グループの活動が活発になると、吉林一帯では「トゥ・ドゥ」のメンバーを中核とする新しい世代の革命勢力が急速に成長していった。

    吉林駐在の日本総領事もこれをかぎつけ、われわれの活動に注目するようになった。吉林一帯での新しい革命勢力の台頭とその急速な拡大に恐れをなした総領事は、本国の外務大臣あての公式報告のなかで、その隊伍は組織力が強く、やがて恐るべき存在として出現する可能性があるゆえ特別の注意を要する、と警告した。 日帝は、内部が統一されず4分5裂の状態にあった朝鮮共産党の分派集団や、実行力と大衆への浸透力が弱い民族主義勢力よりも、派閥争いとは絶縁し、誰の顔色もうかがおうとせず、人民大衆のなかに深く浸透して独自の方法で革命の道を開拓していくわれわれの存在を恐れたのである。

    吉林に新しい運動ネットがあらわれたといううわさは、満州各地はもちろん、国内と中国関内にまで伝わっていった。そのうわさは主として、吉林の留学生とその父兄によって遠くまで伝えられたのであった。

    われわれの運動ネットに合流しようと、国内と日本、沿海州、満州などの各地から数多くの青年が吉林に集まってきた。独立軍に関係した青年、日本で苦学していた青年、白衛軍と戦っていた青年、黄埔軍官学校を出て広州暴動に参加した青年、国民党反動派の追跡を避けて転々と居所を変えていた青年、レーニンの崇拝者、孫文の崇拝者、ルソーの崇拝者など、政見と所属、生活経緯を異にする千差万別の青年がわれわれを訪ねてきた。金赫、車光秀、金俊、蔡洙恒、安鵬などもそのころ、われわれを訪ねてきたメンバーである。われわれは彼らを教育して「トゥ・ドゥ」に受け入れる一方、市内の各学校に組織を拡大していった。 その過程で、われわれは「トゥ・ドゥ」より大きな器をもってより多くの人を結束する組織が必要であると感じた。そうした必要から、1927年8月27日、「トゥ・ドゥ」を反帝青年同盟に再編し、その翌日は、「トゥ・ドゥ」の精粋分子で朝鮮共産主義青年同盟を創立したのである。

    反帝青年同盟は「トゥ・ドゥ」のスローガンをそのままかかげ、綱領も同じものを継承した。反帝的で大衆的な非合法の青年組織であった。組織の基本的構成は朝鮮青年だったが、反帝的立場の確固とした中国青年も加盟させた。

    反帝青年同盟は広範な反日青年大衆を革命隊伍に結集し、反日闘争の大衆的基盤をかためるうえで大きな貢献をした。この組織は文光中学校、吉林第1中学校、吉林第5中学校、吉林師範学校、吉林女子中学校、吉林法政大学など、朝鮮人学生が在学している市内のすべての学校に根づき、江東、新安屯をはじめ吉林周辺の農村地域と柳河県、樺甸県、興京県一帯にも根をおろした。朝鮮青年のいるところには例外なく結成した。

    反帝青年同盟はやがて、謄写版で宣伝用資料もプリントするようになった。

    われわれはより多くの青年を結集するため、土曜日は授業が終わりしだい、周辺の農村に出かけていった。そうすると、用をたして日曜日の午後には帰ってくることができた。

    われわれが「トゥ・ドゥ」を反帝青年同盟に再編し、ついで共青を創立しのは、半年余りのあいだに吉林と撫松一帯に青年学生を結集した合法、非合法の各種大衆組織が育ったので、それらの組織を統一的に指導し、統率する組織が切実に必要になったからである。

    青年の新しい前衛組織をつくるのは、青年運動発展の合法則的な要請であった。

    それまでは、わたしがどの組織ともつながりをもっていたので、わたし個人の活動を通して組織相互の連係が保たれていた。崔昌傑、金園宇、桂永春といった人たちの場合は、個人としての青年共産主義者の資格で学生青年組織に関与していたにすぎなかった。

    新しい前衛組織をつくるのは、当時の情勢からしても緊切な要請であった。

    当時、日帝は満州侵略を急いでいた。日本帝国主義者は朝鮮人民にたいする弾圧を強める一方、満州の反動軍閥と結託して、朝中人民の反日気勢を抹殺しようと狂奔していた。

    朝鮮青年はいたるところで、日帝と中国の反動軍閥にたいするたたかいに決起した。そうした実情で、青年学生を組織に結集して統一的に掌握し、彼らのたたかいを巧みに導いていく強力な前衛組織が切実に必要となったのである。固陋な民族主義者と分派分子のヘゲモニー争いのため、4分5裂の道を歩んでいる青年運動の実態からしても、青年を分裂の危機から救い、統一団結の道へしっかりと導く前衛組織の誕生は、新しい世代の共産主義者にとって一日も遅らせることのできない時代的課題となっていた。

    当時、中国の東北地方には、非合法の青年組織として満州朝鮮共産主義青年団が、合法的青年組織として南満州青年総同盟、北満州青年総同盟、東満州青年総同盟、吉林青年同盟、吉会青年同盟、三角州青年同盟などの団体が組織されていた。

    相異なる系列の分派分子がこれらの青年団体を引き合い、相異なる勢力の民族主義者が競い合ってこれらの団体に手をのばしていたので、そこに属している人でさえ、自分の所属団体が共産主義団体なのか、民族主義団体なのか判断できないくらいだった。青年学生はこのようにいくつもの派に分かれていた。M・L派や火曜派の影響下にある学生がいるかと思うと、民族主義者の子弟までが、父親の所属によって正義府側、参議府側、新民府側に分かれ、それがまた保守派と革新派に分かれている始末だった。見解が異なり所属団体が違うので、彼らはいつも反目していた。

    分裂状態にあった青年運動を立て直し、青年を民族主義勢力と分派分子の影響から引き離し、正しい共産主義革命の道に導くためには、新しい前衛組織がどうしても必要であった。

    正直にいって、当時、朝鮮共産党がまがりなりにも自己の役割を果たしていたなら、われわれまでがそういう心配をしなくてもすんだはずである。共産主義を理念とする党があり、多くの青年組織があるにもかかわらず、全然そのおかげをこうむることができなかったのであるから、それ以上もどかしく胸の痛むことはなかった。朝鮮革命はそれ自体の特殊性のため、複雑な問題をかかえていた。

    幾多の障害がことごとに前途をさえぎった。 分派分子との関係、民族主義者との関係、中国人民との関係、コミンテルンとの関係などで複雑な問題が常時もちあがった。そのうえ、満州で活動する朝鮮の共産主義者は、日帝と中国反動軍閥の2重の脅威にさらされていた。こうした状況のもとで、革命を巧みに導いていくには、それを担当しうる洗練された指導中核と正しい指導理論が必要であった。

    「トゥ・ドゥ」の理念を実現するたたかいの過程で、数多くのすぐれた青年共産主義者が育った。派閥争いや事大主義を知らず、権力欲がなく、旧弊にわざわいされていない新しいタイプの青年共産主義者が、わが国の青年運動と共産主義運動を新たに開拓する中核となったのである。

    樺甸と吉林で新しい思潮を探求し、「トゥ・ドゥ」とともにたたかいの道を切り開いていくなかで、われわれは朝鮮革命の実践と関連した一定の指導理論ももつようになった。

    わたしはこの指導理論を具現した前衛組織として、共青の創立を決心し、その綱領と規約の作成に着手した。

    綱領では、共青が朝鮮革命の実践と密接に結びついた理論によって指導され、分派を徹底的に排撃することがとくに強調された。われわれはこうした準備にもとづいて、1927年8月28日、北山公園の薬王廟の地下室で、朝鮮共産主義青年同盟を結成する会合をもった。

    会合には崔昌傑、金園宇、桂永春、金赫、車光秀、許律、朴素心、朴根源、韓英愛など反帝青年同盟の中核と青年共産主義者が参加した。 報告はわたしがしたが、その内容はすでにパンフレットで出版されている。 その日、われわれは「トゥ・ドゥ」を結成したときのように、肩を組んで『インターナショナル』をうたった。朝鮮共産主義青年同盟は、反帝青年同盟の中核を根幹にし、各革命組織で鍛えられた点検ずみの青年によって結成された、反帝民族解放と共産主義をめざしてたたかう非合法の青年組織であった。 朝鮮共産主義青年同盟は朝鮮の青年共産主義者の先鋒隊であり、各階層の大衆団体を組織し、指導する前衛組織であった。 われわれは共青を創立したあと、隊伍の純潔を守り、その組織的・思想的統一団結を強めることに特別な関心を払った。これを確かなものにしておかずには、憲兵、警察、特務の蠢動と反動分子、分派分子の破壊行為がはなはだしい実情で、組織を保持することができないのである。共青は同盟員の思想教育に大きな意義を付与し、彼らの政治理論水準と指導水準を高めるための学習に力をそそいだ。同盟員のあいだでは、そのころ「帝国主義論」「植民地と民族問題」「朝鮮革命における当面の闘争課題」といった問題の研究や討論が真剣に進められていた。 われわれは共青員の組織生活をとりわけ重視した。共青は毎月1回、性格検討会を開いて共青員の生活を総括した。共青員は組織生活を通じて鍛えられ、そのなかで共青は組織性と規律性の強い集団に成長した。

    われわれは共青員に、下部組織の指導、青年学生と大衆の啓蒙、農村の革命化といった多様な任務分担をおこない、実践活動を通じて彼らを不断に鍛えた。

    同時に、各革命組織で鍛えられたすぐれた青年を迎え入れて共青の隊伍をたえまなく拡大していった。こうして、共青は短期間のうちに吉林市とその周辺はいうまでもなく、敦化、興京、樺甸、撫松、安図、磐石、長春、ハルビンなど、満州の広大な地域と北部朝鮮一帯をはじめ国内深くに拡大された。共青は朝鮮革命において前衛の役割を果たした。党が大衆組織を指導するのは、共産主義運動において一つの常識となっている。だが、わが国では党が相応の役割を果たせなかったため、共青が党の役目まで受け持ち、傘下の青少年組織の指導とともに、労働者、農民、女性の各組織の指導まで同時におこなわなければならなかったのである。

    われわれは共青の創立後、うわさを立てず静かに大衆のなかに入っていった。たとえ認めてくれる者がいなくても、それが革命の利益になり、人民の利益になりさえすれば、それでよいのである。それがわれわれの立場であり、決心でもあった。ヘゲモニーに目がくらんだ者が自らを「正統派」と称して立ちまわっているとき、新しい世代の青年共産主義者は、そうした虚栄の世界とは絶縁して、革命の道を一歩一歩進んでいったのである。共青は青年の組織的結束を促し、中核を育て、朝鮮革命の主体的力量を強化するうえでめざましい役割を果たした。共青の創立は、新しいタイプの党組織の結成をめざす青年共産主義者の活動を強く促し、その偉業を早める中軸として根本的な役割を果たした。1930年夏に結成された最初の党組織の大多数のメンバーは、共青によって鍛えられた前衛的な青年闘士たちであった。最近、われわれは共青創立の日にあたる8月28日を青年デーと定めた。

    

    

    

    4 組織の拡大をはかって

    

    

    

    反帝青年同盟と共青を結成したのち、われわれは活動舞台を広い地域に拡大していった。共青と反帝青年同盟の中核は組織を拡大するため続々と吉林をあとにした。

    わたしも学生ではあったが、あちこちの村に出向いた。吉林から数十里離れたところにもたびたび行って、新しい活動舞台を切り開いた。土曜日の夜行で吉林を発ち、蛟河、卡倫、孤楡樹などの村へ行っては翌日の夜行で帰ってくるのだったが、やむをえず学校を欠席することもあった。李光漢校長と尚鉞先生以外の大多数の教師はそのことをたいへん不審がっていた。父親のいない貧しい家庭だから、アルバイトでもしているのではないかと推測する人もいた。

    学生の身なので、なにかと束縛され、制約をうけた。授業をうけ、課外学習もしながら、その合間あいまに各組織の活動を指導しなければならなかったので、わたしはいつも時間の不足を感じていた。時間に拘束されず自由に活動できる時期は学期末休暇のときだった。われわれはふだんから準備をしておいて、休暇になるとあちこちの村に出向いて組織活動や大衆啓蒙活動をした。人民のなかに入っていくのは国内でも一つの社会的風潮となっていた。学期末休暇に入ると、多くの学生が農民のなかに入って啓蒙活動に従事した。わたしが華成義塾に通っていたその年の夏、国内では『朝鮮日報』社が夏休みに帰省する中等学校以上の学生で啓蒙隊を組織し、彼らに講習をおこなって農村に送り出した。啓蒙隊に加わった学生は故郷に帰ると、新聞社が提供した朝鮮語教本で文盲退治をした。日本で勉強していた学生も、学期末休暇には祖国に帰り、留学生巡回講演隊を組織し全国各地を巡り歩いて啓蒙活動を展開し、天道教やキリスト教青年会も農民のなかにはいって農村振興活動を進めた。しかし、国内の学生による啓蒙運動は、民族意識の啓発をめざすいっさいの国民的運動を日本の植民地政策にたいする反抗とみなしていた総督府当局の徹底的な弾圧と、リーダーの思想的制約のため、大衆を革命化、組織化する段階にまで発展せず、民族の後進性を克服する純然たる改良主義的運動にとどまり、それさえ1930年代の中ごろにいたっては下り坂をたどるようになった。その運動が純然たる改良主義的運動として展開されたのは、農村での彼らの活動内容を見ても明らかである。彼らの活動の中心は、文盲退治と農村の生活環境を衛生的に改善することだった。キリスト教青年会の活動内容には、料理法の改善運動や井戸を清潔にする運動からはじまって、養鶏法、養蚕法、それに当局の発行する証明書、申請書の使用法にいたるまで、農村住民を近代的生活に導くさまざまな文化啓蒙の問題が含まれていた。 われわれは日帝の弾圧が直接にはおよんでいない有利な状況を利用して、農村啓蒙活動を大衆の組織化、革命化の活動と密接に結びつけ、それを積極的な政治闘争の一形態に昇華させることに大きな関心を払った。われわれの大衆工作は、愛国主義教育、革命教育、反帝教育、階級的教育を基本とし、人びとを意識化し各種の大衆組織に結集する方向で進められた。

    われわれが大衆の革命化のためにこのように全力をつくしたのは、大衆を愚昧で未開な啓蒙の対象としかみなかった従来の思考方式から脱皮し、人民こそわれわれの教師であり、革命の基本的原動力であるという観点に立って、それを絶対視したからである。

    われわれはこうした観点に立って、人民のなかに入っていった。

    「人民のなかに入ろう!」 それ以来、このスローガンはわたしの全生涯にわたって座右の銘となった。 わたしは人民のなかに入ることで革命活動をはじめ、今日も人民のなかに入ることで革命をつづけている。そして、人民のなかに入ることで人生の総括をしているのである。一度でも人民との交わりを怠り、一度でも人民の存在を忘却する瞬間があったとしたら、わたしはすでに10代のころに形成された人民にたいする純潔で真実の愛を今日まで守りとおすことができず、人民にたいする真の奉仕者になることができなかったであろう。

    人民の権利が最大限に保障され、人民の知恵と創造力がかぎりなく発揮されている今日のわが国の社会を思うたびに、わたしはわれわれを「人民行き列車」にはじめて乗せてくれた吉林時代に感謝したくなる。

    われわれが本格的に人民のなかに入りはじめたのは、1927年の冬休みからであった。

    資産家の学生にとって、冬休みは文字通り暇つぶしの期間だった。彼らは冬じゅう家に閉じこもって恋愛小説を読んではぶらぶらと時間をつぶしたり、汽車で長春やハルビン、北京などの大都会を遊覧したりした。そして旧正月になると、ご馳走をつくり、爆竹をはじかせて遊びたわむれた。本来、中国人には旧正月の元日から2月2日まで、まる1か月間遊びつづける風習がある。彼らは旧暦の2月2日を竜台頭(竜が頭をもたげる日)と称して、正月につぶした豚の頭をぜんぶ煮て食べてはじめて正月祝いを終えるのである。

    しかし、われわれは彼らのように遊び歩いたり、景気よく正月を祝ったりすることができなかった。その代わり、冬休みのあいだ、どうすれば革命のためにより多くのことができるだろうかと思案した。冬休みになると、わたしは演芸宣伝隊を引き連れて長春へ行き、そこから帰る早々撫松に向かった。朴且石と桂永春も一冬をわたしの家ですごす約束で同行した。その年の冬休み、われわれはまったく忙しい時間を送った。わたしは、家に到着するやいなやセナル少年同盟員に取り巻かれた。彼らは同盟がなめている活動上の苦渋を洗いざらいぶちまけた。 同盟委員長の説明を聞いてみると、解決を待つ問題が一つや二つではなかった。われわれは彼らの難問を解決するため、セナル少年同盟員との活動に多くの時間を割いた。同盟の幹部に演芸宣伝隊の活動方法や社会活動の方法、大衆工作の方法、同盟の内部活動方法などを教える一方、政治討論会や性格検討会にもたびたび参加してみた。

    少年同盟の活動をもりたてたあと、撫松地方の中核青年で白山青年同盟を組織した。白頭山周辺の青年組織という意味で白山青年同盟という名称にしたのだが、それは事実上、反帝青年同盟の変身であった。組織の名称を白山反帝青年同盟とせずたんに青年同盟としたのは、敵を惑わせ、組織を偽装するためである。白山青年同盟は民族主義の影響下にある団体であるかのようにカムフラージュして、合法的に活動した。

    われわれは白山青年同盟員を動かして、清窪子など周辺の農村に夜学を設けた。

    青年組織が増え、その隊伍が拡大されていくと、広範な青年と大衆の思想的糧となる新聞が必要だと、わたしは考えた。新聞の発行は、まったくゼロの状態からはじめなくてはならなかった。欲をいえば、毎号100部ほどプリントしたかったが、われわれには謄写版もなければ用紙もなかった。

    撫松に中国人の経営する小さな印刷所が一つあったが、われわれのつくりだす新聞の内容からみて、そこへ依頼するわけにはいかなかった。 わたしは思いあぐねた末、筆写した新聞を出すことにし、それをセナル少年同盟のアクチブと白山青年同盟の中核にまかせた。100部を筆写するのには1週間余りかかった。

    1928年1月15日、われわれはついに『セナル』というタイトルの新聞創刊号を発行した。

    あのとき、どこからあんなエネルギーが湧いてあれほどの文字が書けたのか、いまになって考えるととても信じられないほどである。あのころの血気と若さを懐かしく思うときが多い。われわれはそのころ、自分をそっくり革命にささげることにまたとない幸せを感じていたのである。

    夢もなく、胆力もなく、情熱も、覇気も、闘志も、ロマンもない青春は青春ではない。若いころは高遠な理想をかかげ、その実現をめざし万難を排して頑強にたたかわなくてはならない。清新な思想と健全な肉体をもった青春の血と汗によってもたらされたすべての実りは、祖国の貴い富となるのであり、その富をもたらした主人公を人民は永遠に忘れないであろう。

    年をとって若いころを懐かしむのは、そのときが一生のうちでいちばん旺盛に働ける時期だからである。仕事をたくさんできるときがもっとも幸せである。

    その後、わたしは父の知人から苦労して手に入れた謄写版で新聞『セナル』を刷った。

    1927年の冬休みの活動のなかでもっとも異彩を放ったのは、演芸宣伝隊の活動だった。撫松の演芸宣伝隊には、セナル少年同盟員と白山青年同盟員、婦女会員らが参加した。演芸宣伝隊は撫松とその周辺の農村集落を1か月ほど巡回して公演した。われわれは巡回公演の途上、各地に組織をつくり、大衆啓蒙活動を進めた。『血噴万国会議』『安重根、伊藤博文を射つ』『娘からの手紙』などの演劇はいずれも、その年の冬にわれわれが撫松で創作し、公演した作品である。

    演芸宣伝隊が巡回公演に出る前に、撫松で数日間、公演をしていたとき、軍閥当局は理由もなくわたしを逮捕して留置場に拘留した。われわれの公演内容を快く思わない何人かの封建主義者が、わたしを軍閥当局に密告したのであった。

    そのとき、小学校の同級生だった張蔚華がわたしの釈放のために奔走した。彼は父親を説き伏せて、警察当局がわたしの家を捜索しないよう圧力を加えた。

    張蔚華の父親は、わたしの家へ治療に通っているあいだに意思が疎通し、父と親しくなった人である。彼は富豪だったが、良心的な人だった。撫松で白山学校の復活を発起した父が、認可をもらえずに気をもんでいたときにも、彼が仲介の労をとったことがあった。

    張蔚華の父親のような勢力家に圧力を加えられると、なんの端緒もつかんでいない軍閥当局はそれ以上どうすることもできなかった。一方、撫松在住の朝鮮人も軍閥当局に押しかけて、わたしを釈放せよと集団的に抗議した。わたしの母が組織を動かし、大衆を立ち上がらせたのだった。中国人の有志も軍閥当局の措置を非難し、わたしの釈放を要求した。

    しばらくして、軍閥当局は仕方なくわたしを釈放した。警察署から出てきたわたしは、演芸宣伝隊を引き連れて蒲春河村へ向かった。演芸宣伝隊は蒲春河村で、3日間公演した。そのとき隣村の人たちまでわれわれの公演を見たので、そのうわさは周辺の集落にも広がった。杜集洞の人たちもわれわれを訪ねてきて、演芸宣伝隊をぜひ招きたいといった。われわれはその招きを喜んで受け入れた。

    杜集洞での公演は大盛況だった。われわれは村人の要請で、予定の滞在期間を何回も延ばさなくてはならなかった。

    初日の公演が終わったとき、セナル少年同盟の委員長が舞台裏に駆けつけてきて、村の長老がわたしを呼んでいると伝えた。

    火皿の大きいキセルを口にくわえた風采のよい中老の男が、公演場にした家の垣根の外でわたしを待っていた。老人は濃い眉毛の下からわたしをしげしげと見つめた。われわれをこの村へ案内した地元の青年が、わたしに近寄って、「車千里老人ですよ」と耳打ちした。

    わたしは車千里という名前を聞いて、すぐおじぎをした。

    「ご老人、ごあいさつが遅れて申しわけありません。隣村へお出かけだとのことでしたので、ごあいさつに伺えませんでした」

    「ちょっと出かけたところだったが、演芸隊のうわさを聞いたもんで、急いでもどってきたんじゃ。おまえが金亨稷先生の息子だというのは確かかな?」

    「はい、そうです」

    「おまえのような息子がいるんだから、金先生は草葉の陰でも心が安らぐことじゃろう。こんなにりっぱな演芸を見るのははじめてじゃ」 老人が丁重な物腰で応対するので、わたしはすっかり当惑してしまった。

    「ご老人、恐れ入ります。息子のような者の前でそんなふうにされては困ります」

    老人はその日、わたしを自宅に招いた。わたしは老人と一緒に歩きながら、さりげなくたずねた。

    「ぶしつけな質問ですが、ご老人が1日に100里を歩かれるというのはほんとうでしょうか?」

    「ハッハハ。おまえもそんなうわさを聞いたのか。わしは若いころ、100里は無理だが、50里は歩いたもんじゃ」

    わたしはその返事を聞いて、老人がうわさにたがわぬたいした独立運動家だと思った。

    彼の姓の下に本名の代わり千里(朝鮮の10里は日本の1里にあたる)という別名がついたのは、いわれのないことではなかった。

    その千里という名前のせいで、老人は満州地方の朝鮮人のあいだで謎の人物として知られていた。

    わたしの父も生前、老人の健脚ぶりに感嘆したことがあった。父の話によれば、老人に千里という別名がついたのは、彼が江界地方で義兵活動をしていたときからだったという。

    車千里は満州に来てから参議府に所属し、沈竜俊の下で活動した。参議府が上海臨時政府の傘下に入る時、それに断固反対したのが車千里だったといううわさもよく聞いた。事実、独立軍団体が臨時政府の枠内に吸収されるのをよしとしなかった正義府の一部の人たちは、老人の立場を強く支持した。指導部の大多数が軍人出身である正義府の人物のなかには、文官本位の臨時政府を好ましく思わない傾向が支配的だった。

    その日、車千里老人は教訓に富んだ話をいろいろと聞かせてくれた。老人は、朝鮮民族は日本帝国主義侵略者を十分に撃退し、独立国家の堂々たる人民として発展できたはずだが、腐敗した無能な封建支配者のために国を奪われてしまったと痛嘆した。そして、独立運動をするなら口先だけではだめで、銃をとって日本侵略軍を一人でも多く倒さなくてはならない、といった。彼は、日本帝国主義者は狡猾きわまりないから、警戒心を高めなければならないといって、つぎのような話を聞かせてくれた。

    「京城マッチ工場がつぶれたいきさつを知っているかな?この工場の〝猿〟印マッチはとても有名だった。マッチもマッチだが、レッテルが特別なんで人目を引いたんじゃな。猿が桃の枝を肩にかけているレッテルじゃ。日本人は朝鮮に来てろうマッチ工場を建てたが、そのマッチのために売れ行きがかんばしくなかったそうじゃ。そこであれこれと頭をしぼったあげく、〝猿〟印のマッチを数万箱買い入れ、ある無人島に持っていって全部水につけ、それを乾かしてから市場へ持ち出して売りさばいたというわけじゃよ。それ以来、マッチを買った人は火がつかないといって、日本人のろうマッチだけ買うようになったそうじゃ。こうして、京城マッチ工場は、レッテルを日本人の会社に売って破産してしまったんじゃ。日本人というのはそんなやからじゃよ」

    真偽のほどはつまびらかでないが、日本帝国主義を知るうえでは貴重な話だった。

    老人は、若いころは日本軍が5連発銃で5発を撃つあいだに、火縄銃で3発撃ったものだが、いまは年をとって戦うこともできず、家にじっとしているのがうっとうしくてたまらない、というのだった。老人は、その日、われわれが公演したうちでも『団結紐』という歌舞がいちばんよかった、以前、義兵活動がうやむやになったのは、力を合わせることができなかったからで、独立軍が意気消沈して日本軍に追いまわされているのもやはり、力を合わせず、てんでんばらばらに行動しているからだ、と慨嘆した。

    「朝鮮人は3人集まっても、団結して日帝と戦わねばならん」

    老人は激してこういった。車千里老人の言葉は正しかった。団結すれば勝ち、分裂すれば滅びるという真理を痛切に体験した人でなくてはいえない言葉だった。 自分は年をとったので朝鮮独立のために戦えそうにないから、若い世代にりっぱに戦ってもらいたい、といって老人はわたしの手をかたく握りしめた。そのときわたしは、朝鮮の息子として人民の期待に背かぬよう、革命に邁進しなければならないという崇高な使命感にとらわれた。

    その晩の車千里老人の話はわたしに大きな感銘を与えた。朝鮮人は3人集まっても団結して日帝と戦わねばならない、といった老人の言葉は、その後のたたかいにおいて大きな教訓となった。

    演芸宣伝隊を引き連れて人びとのなかに入れば、大衆を啓発するだけでなく、このように大衆から学ぶこともできるのである。いまもそうだが、当時もわれわれの教師はやはり人民だったのである。それでわたしは幹部たちに、人民のなかに入れと口ぐせのようにいっている。人民のなかに入るのは強壮剤を服用するのと同じであり、入らないのは毒薬を飲むにひとしい、とわたしは日ごろから強調している。人民のなかに入れば車千里のような老人に会うことができる。人民のなかには哲学もあり、文学もあり、政治経済学もあるのである。車千里老人は、参議府の警護隊長を勤めているうち、上官の沈竜俊に暗殺されたという。

    わたしはその悲報に接して、朝鮮人は3人集まっても団結して日帝と戦わねばならない、といった車千里老人の言葉を噛みしめ、悲憤慷慨した。老人のいったとおり、参議府のリーダーが心を合わせていたなら、こうした痛嘆すべき不祥事は生じなかったであろう。われわれはその年の旧正月を杜集洞ですごした。旧正月をすごしてから、わたしは演芸宣伝隊員を撫松に帰し、桂永春、朴且石と連れ立って安図へ向かった。安図県には、朝鮮人だけが住む内島山村があった。天にいちばん近い村といわれていた白頭山麓のこの村は、うっそうとした森林にとりかこまれた僻村である。内島山というのは、樹海に浮かぶ島のようだということから生まれた名である。中国人は山の形が乳首のようだといって頭山とも呼んでいる。この山村には以前から朝鮮の独立運動家が出入りしていた。独立軍の百戦の老将といわれた洪範図や崔明禄もひところはこの村にこもっていた。われわれがすでに「トゥ・ドゥ」のメンバー李済宇を内島山に派遣し、その一帯の青年を組織に結集したのは、将来、白頭山周辺を大きな革命基地につくりあげる構想によるものであった。

    李済宇(李宇)は黄海道の出身だった。彼の父親は長白にいたときから、わたしの父との連係のもとに独立運動に参加していた。そういう因縁で李済宇も自然にわたしと手を握るようになった。

    樺甸で別れてからわたしが李済宇と再会したのは、撫松で白山青年同盟を結成するときだった。そのとき、わたしは彼と、内島山村に白山青年同盟の支部を設ける問題を話し合った。彼は冗談まじりに、任務ばかり与えようとしないで、一度来て助けてくれ、といった。撫松から内島山までの道のりは120キロ余りだった。中国の方から見れば満州のさいはての村であったが、朝鮮の方から見れば白頭山を越えた最初の村だった。この内島山の10里四方には人家がなかった。夕方、村に到着したわれわれは、李済宇の案内で漢方医の崔氏の家に宿をとった。崔氏の話によると、われわれが世話になる部屋に張喆鎬が2度泊まり、李寛麟も泊まったことがあるとのことだった。父が足跡を残し、父の友人たちが開拓した村に、きょうはわれわれが革命の鋤を打ちこむのだと思うと、いまさらのように粛然とした気持になった。内島山村に何日かとどまってみると、李済宇がぜひ来てくれといった気持が理解できた。この村はよそ者にはちょっと取っ付きにくいところだった。村に住んでいるのは主として崔氏、金氏、趙氏の姓をもつ人たちで、彼らは外界とは垣をめぐらし、3家同士の婚姻を結んでいた。崔氏の娘は金氏の家に嫁ぎ、金氏の娘は趙氏の家に嫁ぎ、趙氏の娘は崔氏の家に嫁いだ。狭い村でこのように婚姻が結ばれるので、村全体が親戚になり、互いに「兄さん」「おじさん」「あいやけ」と呼びあっていた。

    村民はほとんどが天仏教徒だった。彼らは、99人の天女が白頭山の天池で水浴びをして天に舞いもどったという伝説にちなんで、そこに「トンドククン」という99間の寺を建て、年に2度参拝していた。天仏教徒は村にも天仏寺を建てて、10日か週に1度ほど参拝していた。われわれが内島山に到着した翌日は、ちょうど天仏教徒のお寺参りの日であった。その日、われわれは李済宇に案内されて寺の近くへ行ってみたのだが、それは見た目にも壮観だった。教徒は男女を問わず昔の高句麗人のように髪を結い上げ、色とりどりの装いをして集まり、鉦や銅拍子を打ち鳴らし、太鼓や木鐸をたたくのだが、そのトンドククン、トンドククンという音がじつに荘厳だった。それで寺の名もトンドククンと命名されたそうである。李済宇によれば、内島山一帯ではその天仏教が頭痛の種だった。

    彼は、宗教はアヘンという単純な観念から、天仏教を厄介な存在とみていた。撫松で彼の説明を聞いたときは、わたしもそう思っていた。だが、儀式をとりおこなう天仏教徒の真剣な姿と壮大なトンドククンを見てからは、考え直さざるをえなかった。

    その日、わたしは崔氏の案内で、李済宇と一緒に天仏教教主の張斗範を訪ねた。

    張斗範はひところ独立軍に参加した人だったが、独立軍が衰勢に陥ると銃を投げ出して内島山に隠遁し、日帝に天罰を下し朝鮮民族に福を垂れたまえ、と白頭山の天機に祈りながら、それを信仰とする天仏教を開いたとのことだった。

    わたしは教主と話をしながら、天井につり下げてあるキビの穂から目を離すことができなかった。崔氏の家で見たキビの穂が、教主の家にも同じ形でつり下げてあるのだった。種にするためなのかと李済宇に聞いてみると、彼は供養のときに使うキビだと眉をひそめて答えた。 米づくりのできないこの地方の人たちは、お供え用の白米の飯をキビで代用していたので、どの家でも柱や天井にキビの穂をつり下げていたのである。食糧を切らして食事を抜くことがあっても、彼らは それには絶対に手をつけなかった。ただ、白頭山の寺に供養に行くときだけ、それをうすで丁寧に搗いて箕でふるい、木製のさじで砕けたキビ粒や草の種、籾、わらくずなどをよりだしてから、同じ大きさのキビを一粒一粒集め韓紙に包んで保管しておき、きれいな湧き水でお供え用の飯を炊くのである。

    「あのけったいな天仏教に踊らされて内島山の住民はみな頭が変になってしまった。宗教をアヘンだといったマルクスの言葉はまったく名言中の名言だ。そんな教徒を新しい思想で改造する必要はないし、その可能性もないだろう」

    李済宇はこうぼやきながら、内島山住民の魂を抜いてしまう「トンドククン」寺を焼き払ってしまおうという衝動に駆られるときもある、というのだった。

    わたしは、それは偏狭な考えだとたしなめた。

    「宗教をアヘンだといったマルクスの命題をわたしはもちろん否定しない。しかし、その命題がいつでも適用できると考えるのは間違いだ。日本に天罰を下し朝鮮民族に福を垂れたまえと祈る天仏教をアヘンだときめつけられるだろうか?わたしは天仏教が愛国的な宗教であり、教徒もみな愛国者だと思う。われわれにすべきことがあるとすれば、それはこの愛国者たちを一つの力に結集することだ」

    わたしは李済宇と真剣に意見を交わした。その過程で、天仏教を打倒するのでなく、その反日感情を積極的に支持すべきだという結論に到達した。それで、われわれは10日ほどそこにとどまって村人に働きかけた。宗教を信じるだけでは祖国を解放できないというわたしの解説を天仏教徒たちは容易に受け入れた。

    その年の冬、内島山の村人はわれわれを心からもてなしてくれた。村人の主食はジャガイモだった。サヤマメを混ぜたジャガイモ飯の味は格別だった。桂永春は、おならが出すぎてオンドル床に穴があきそうだ、と冗談口をたたいた。もしあのとき、われわれが内島山へ行かず、吉林にいて李済宇の報告を聞くか、ただのうわさを聞くだけで事態を判断していたなら、天仏教にたいしてよい印象がもてなかったであろう。内島山へ行って「トンドククン」を見、祈りをささげる教徒の真剣な表情や民家の大梁につるされたキビの穂を見たからこそ、天仏教とその教徒を公正に判断することができたのである。

    人民的品格と人民の利益に合致する人民的思考方式は、決して机の前に座っていておのずとそなわるものでなく、まして空論によって身につくものではない。それは人びとの肉声はもとより、息づかい、目の色、表情、言葉づかい、手ぶり、動作まで自分の目と耳でじかに確かめる、人民との血の通った接触を通じてのみ身につくものである。われわれはまず村人を啓蒙する政治活動をおこない、そのあとで、この村に白山青年同盟の支部をつくり、少年探険隊を組織した。わたしが吉林にもどったあとは、わたしの叔父(金亨権)が白山青年同盟の活動を担当し、李済宇と一緒に徳水、瓶谷、寺谷、薬水洞、任水谷、芝陽蓋など長白一帯と新坡、普天、恵山、甲山、三水など国内の各地方にその支部を組織した。同盟は李済宇に白山青年同盟長白地区責任者の任務を与えた。李済宇はその重責をりっぱに果たした。亨権叔父と李済宇は、白頭山一帯を革命化する過程で少なからぬ試練をなめた。けれどもそのかいがあって、後日、われわれがこの一帯で革命闘争を展開したとき、大衆の積極的な支援をうけることができた。学業を一時中断して休むのが学期末休暇だが、この年の冬休みに、わたしは書物では得られない多くのことを学んだ。冬休みを終えて吉林にもどったあと、われわれは共青と反帝青年同盟の半年の活動を総括し、各階層の青年と大衆を結集する階層別の大衆組織をより多く結成する課題を提起した。この課題を実行するため、金赫、車光秀、崔昌傑、桂永春、金園宇などの共青の中核が興京県、柳河県、長春県、伊通県、懐徳県一帯と国内へ向かった。彼らはそれらの地域で、共青や反帝青年同盟をはじめ各種の大衆組織を急速に拡大していった。わたしは吉林に残って、新安屯に農民同盟を組織する活動を進めた。農民を組織に結束するのは、彼らを革命の原動力として準備させるためである。とくに、農民が人口の絶対多数をしめているわが国の実情では、彼らをかちとる問題が革命の成否を左右するカギともいえた。われわれは江東村で農民同盟、反帝青年同盟の支部、そして婦女会を組織し、ついで卡倫と大荒溝でも反帝青年同盟の支部を組織した。蛟河地方でも反帝青年同盟の支部を組織した。わたしが蛟河の青年と親しくなったのは、麗新青年会の組織部長姜明根と出会ったときからである。彼はわたしのことを張喆鎬からいろいろと聞いていたようだった。蛟河は張鎬の中間停留所ともいえるところである。彼は吉林と撫松のあいだを行き来するたびに、蛟河の姜明根の家に立ち寄って、吉林の青年学生運動の模様を知らせ、吉林に帰ると、蛟河のニュースを詳しく伝えてくれた。こうして姜明根はわたしのことを知り、わたしも蛟河地方の青年運動に関心をもつようになった。

    ちょうどそんなときに、姜明根がわたしを訪ねて吉林にやってきた。わたしが東大灘の張喆鎬の家に寄宿して学校に通っているときのことである。

    わたしより10歳余りも年上の人がわたしに「先生」「先生」といって、活動上の悩みをこまごまと打ち明け、協力を懇願するのであるから、すっかり彼に同情したばかりか、吉林から70キロ余りの蛟河から、一介の中学生にすぎないわたしをわざわざ訪ねてきたその革命家らしい情熱に頭が下がった。

    当時、蛟河県では拉法山を境にして、西北方では麗新青年会が、東南方では拉法青年会が活動していた。蛟河一帯の朝鮮青年はおおむねこの二つの青年団体に加わっていた。

    青年たちは大きな抱負をいだいて組織に加入したものの、地位争いに没頭するとか、軍資金の調達に汲々としている民族主義運動のリーダーたちを見ると、しだいに幻滅を感じた。同時に、「プロレタリア革命」とか「ヘゲモニー」とかいって騒いでいる、えせマルクス主義者の空理空論にも嫌気がさした。進路が定まらず右往左往させられるという姜明根の気持は十分理解できた。わたしは、吉林一帯の青年学生運動の実態と、われわれの活動経験を彼に話した。そして、蛟河へ帰ったら反帝青年同盟支部結成の準備を十分にしてほしいと頼んだ。彼が帰るときは、マルクス・レーニン主義の書籍を何冊か持たせてやった。

    自分なりに誠意をつくして助言を与えたつもりだったが、彼が帰ったあとになって、蛟河のことが気にかかった。わたしは折を見はからって、老一嶺の向こうの蛟河を訪れた。1928年春のことだったと思う。

    姜明根はわたしに会うと、それでなくてももう一度吉林に行くつもりだったといってたいへん喜んだ。彼は、吉林を発つときは万事うまくいくだろうと思ったが、いざ帰って活動に着手すると、難問が一つや二つではなかったというのである。

    蛟河の農村青年は、まず組織をどう発足させるかという点で意見を異にした。麗新青年会は民族主義者の組織だからいまただちに脱退して、志をともにする者だけで反帝青年同盟を組織しようという者もいれば、あたまから麗新青年会を解散してしまおうという者もいた。加盟対象についても、彼らは正しい見解をもてず、誰それは「敵対分子」だし、誰それは「動揺分子」だから加盟させるわけにいかないといって、おおかたの青年は最初から除外してしまった。 その日わたしは、たまり部屋で彼らと一緒に木枕を並べて横になり、組織をつくるには一人でも多くの大衆を獲得すべきだが、そのためには人びとを敵味方に分ける前に地道に教育し、説得するのが大切だとさとした。青年が民族主義者や分派分子の影響をうけないようにし、麗新青年会と拉法青年会内の先進的な中核青年の役割を高めることについても話し、彼らのなすべきことについて一つひとつ相談にのってやった。こうした下準備のあと、麗新青年会員のうちから中核青年を5人選んで、反帝青年同盟蛟河支部を結成した。

    わたしはその後も蛟河地方にたびたび出かけて、反帝青年同盟の活動を指導した。

    わたしは東満青総内の青年もわれわれの組織に引き入れはじめた。当時、竜井で苦学していた朝鮮青年は、大半が東満青総に加入していた。彼らは火曜派の影響をうけていた。

    ところが、この団体の組織部長をしている東興中学校の学生金俊が、吉林でわれわれが発行している雑誌とパンフレットを読んで、わたしを訪ねてきた。わたしは彼を通じて竜井一帯の青年運動の実態をくわしく知ることができた。金俊はその後、われわれと連係を保って、大成中学校、東興中学校、恩真中学校など竜井市内の各学校の青年学生のあいだでわれわれの思想を宣伝した。われわれは彼らを通じて間島地方をはじめ会寧、鐘城など6邑関内の青年を先進思想で教育した。この時期、わたしは労働者にたいする活動にも関心を向けた。当時、吉林には火力発電所、鉄道機関区、マッチ工場、紡織工場、精米工場といった大小の工場があったが、労働者階級を結集した組織といえるものはなかった。ただ、1927年の春、朝鮮人労働者の就職と生活上の便宜をはかる目的で汗誠会が組織されていただけである。われわれは、吉林火力発電所をやめて農村で働いていたある青年を教育して反帝青年同盟に加盟させ、彼を吉林火力発電所に再就職させた。彼が吉林火力発電所に腰をすえて先進的な労働者を糾合しはじめてから、われわれの足場もできあがった。

    われわれは留吉学友会のメンバーを動かして、松花江の船着き場を中心に労働者の夜学を開き、3・1人民蜂起の記念日やメーデー、国恥日などを契機に彼らを訪ねて、演説をしたり演芸公演を催したりした。こうした準備にもとづき、1928年8月、反日労働組合が結成された。その責任者は反帝青年同盟の中核メンバーであった。

    青年学生を主な対象として意識化、組織化を進めてきたわれわれが活動範囲を労働者のなかに広げ、彼らを組織に結集したのはこれがはじめてだった。

    朝鮮人労働者を中心に組織された反日労働組合を通じて、合法団体の汗誠会にも働きかけた。汗誠会はしだいに政治的傾向を鮮明にしていった。後日、汗誠会は元山労働者のゼネストを支援する資金カンパをして元山労働連合会に送り、1930年夏の朝鮮の水害のさいは、各朝鮮人団体と協力し救済会をつくって水害被災民に送る義援金を募り、また吉会線鉄道敷設反対闘争でも重要な役割を果たした。

    吉林と蛟河一帯を中心に、民族主義者と分派分子の影響下にあった青年団体を革命的組織に再編する過程で、われわれはきわめて有益な経験をつんだ。

    革命家の生命は大衆のなかに入るときにはじまり、大衆から離脱するときに終焉を告げるといえる。「トゥ・ドゥ」を結成した華成義塾の時代がわたしの青年学生運動の始発点であったとすれば、共青と反帝青年同盟を組織し拡大していった吉林毓文中学校時代は、学生の枠を離れて労働者、農民をはじめ各階層の大衆のなかに深く浸透し、いたるところに革命の種を播いた、わたしの青年運動の全盛期であったと思う。

    この時期、新しい世代の青年共産主義者の活動とその影響力を、世の人びとは「吉林の風」と表現した。

    

    

    

    5 団結の示威

    

    

    

    組織がかためられ、それが拡大するにともなって、われわれは実践闘争に移っていった。

    その序幕となったのが、1928年夏の吉林毓文中学校における同盟休校である。

    そのときまで、毓文中学校では、食堂と財政の管理、図書館の運営といった学校管理運営上の諸問題が、進歩的な教員と学生の民主的意思によってスムーズに解決されていた。校内でのわれわれの活動も、これといった拘束をうけず、比較的自由におこなわれた。これは、毓文中学校の学生が教務委員会との協力のもとに、闘争によってかちとった成果であった。

    ところが、軍閥に操られていた反動教員らは、教職員と学生の共同の努力によって定着したこの民主的秩序を快く思わなかった。そればかりか彼らは、この秩序を破壊し、学校運営上のいっさいの問題を彼らの意のままに処理しようとしたのである。

    教育庁から派遣された教員のなかには、なんでもよく嗅ぎつける軍閥の手先がいた。教務主任、訓育主任、体育主任などの反動教員は、いずれも特務機関に吸収された者たちだった。彼らは軍閥政権に追従する地主、官僚出身の保守的な学生や不良青年を使って、学生の思想動向と革命組織の動きを四六時中探っていた。

    1928年の夏、われわれは校内で日帝の強盗さながらの第2次山東出兵と済南での虐殺蛮行を糾弾して、大衆的な抗議運動を連日展開した。山東出兵は、田中の対中国外交の試金石といわれた重要な事件である。

    日本が山東地方にはじめて出兵したのは1927年5月、田中義一内閣が成立した直後だった。そのとき蒋介石の国民革命軍は、張作霖の奉天軍を追撃して山東半島一帯に進出していた。田中内閣は北伐軍の進撃から子飼いの軍閥張作霖を守るため、日本人の生命と財産の保護を口実に、旅順駐屯軍2,000名を青島に派遣し、その後再び本土から2,000名の増援軍を山東地方へ派兵した。

    1回目の出兵で北伐が停止され、蒋介石が山東地方の日本人居留民の生命、財産の安全を保障したので、日本軍は同年秋、山東から撤兵した。

    だが、1928年の春、北伐革命が再開されると、ファッショ的な田中内閣は2回目の出兵を決定し、天津駐屯軍と本土の熊本師団5,000名を出動させて、山東半島の鉄道沿線を占拠し、青島と済南を占領した。これと時を同じくして蒋介石の国民革命軍も済南に入城した。両国の軍隊のあいだには武力衝突が起こった。

    日本占領軍は済南で数多くの中国人を虐殺した。国民党政府の外交官も日本軍によって殺害されている。

    3回にわたる日帝の破廉恥な山東出兵は、朝中人民の排日感情を激発させた。日本国内でも強力な反対運動が起こり、田中外交を非難する声が高まった。

    日本が山東出兵を強行した最終目的は、満州と華北地方を中国から切り離して植民地にすることであった。それを達成するためにはよりどころが必要であったが、それがほかならぬ張作霖である。張作霖をうまく手なずけて後押しすれば、満州を容易に征服できるというのが日本人の魂胆であった。済南に響いた銃声は、やがて中国の領土で数千数万の生命を奪う大虐殺を予告する赤信号であった。日帝が出兵の口実を設けるため自分たちの居留民までためらいなく虐殺するにいたって、中華民族はやがて彼らに強いられるであろう災厄を予感した。われわれは日帝の侵略政策と国民党の反逆行為を暴露する講演会や弁論会、弾劾集会をあいついで開き、学生の気勢を高めた。反動教員らは、それを共産主義の宣伝だとして弾圧の口実にした。 彼らは図書館を奇襲して進歩的図書を押収し、重大な端緒をつかんだかのように騒ぎ立てながら、朝鮮人学生を全員退学させろと李光漢校長に圧力を加えた。朝鮮人学生は共産主義主動分子でなければ「日本のスパイ」で、中国の教員を敵対視しているから、彼らを放置しておいては騒々しくて授業がつづけられないというのだった。右翼系の学生はこれに同調し、公然と校内の民主的秩序に違反して進歩的学生を侮辱し、校長と進歩的な教師を誹謗中傷した。尚鉞先生も真っ先に彼らの攻撃をうけた。

     反動教員と彼らに操られている学生の無法行為を放置しておいては、学問の探究も青年運動も安心して進められないのは明らかだった。われわれは組織力をもって反動教員らを追放し、校内の民主的秩序を守るために、共青と反帝青年同盟のメンバーを動員して同盟休校を断行した。

    われわれが出した要求事項はつぎのようなものだった。第1、学生の待遇改善をはかること。第2、学生が要求する課目の授業を保障すること。 第3、進歩的な教師と校長に圧力を加えないこと。

     進歩的な教師も、学生の要求を受け入れなければ社会的な力を介入させる、と省公署に圧力を加えた。反動教員らの追放を訴えるビラや檄が市内のいたるところに貼り出された。そういうビラは反動教員らの宿舎や省公署にも舞いこんだ。

     毓文中学校で同盟休校がもりあがると、市内の他の学校でも、これに呼応する態勢をとって省公署に圧力を加えた。

    同盟休校が市内の各学校に波及するきざしを見せると、省公署はしぶしぶ、訓育主任などの反動教員を罷免し、われわれの要求事項を受け入れた。これは大衆闘争で得たわれわれの最初の勝利であった。この過程でわれわれは、たたかいの標的を的確に定め、大衆を正しく導けば勝利することができるという自信を得た。同盟休校の勝利はわれわれにとって貴重な経験となり、われわれを鍛えた。この事件を契機に、青年学生はわれわれをいっそう信頼し、支持するようになった。われわれは、同盟休校で得た成果を総括し、高揚した青年学生の気勢をより規模の大きい積極的な反日闘争へと導く準備をした。久しい前から満州侵略の準備を進めてきた日帝の策動は、このころいちだんと露骨になった。

    1928年5月、日本関東軍司令官村岡は、中国本土の情勢の変化に対処するという口実のもとに、混成第40旅団を奉天(現在の瀋陽)に進出させ、軍司令部をそこへ移そうと画策した。ついで、南満州鉄道と京奉鉄道が交差する奉天近くの鉄橋で、北京から奉天へ帰還中の張作霖を殺害する列車爆発事件を引き起こした。これは満州侵攻の口実を得るための計画的な陰謀であった。

    日帝が満州を併呑すれば、中国の東北地方を闘争舞台にしているわれわれの活動には大きな障害が生じるおそれがあった。それまでは満州が中国の領土であったので、日帝は朝鮮の共産主義者や独立運動家に自由に手出しできなかったが、満州が占領されると事情は違ってくる。

    3回にわたる山東出兵によって蒋介石を制圧し、中国大陸に深く触手をのばした日本帝国主義者は、満州侵略の軍事的準備を着々と進め、その一環として、以前から推進してきた吉会線鉄道敷設工事の完工を急いだ。吉会線は満州の省都吉林と朝鮮の北部国境都市会寧とを結ぶ鉄道である。日本が吉林――会寧間の鉄道を力ずくでも敷設しようとしたのは明治時代からだった。彼らはこの鉄道に大きな戦略的意義を付与していたのである。

    田中内閣は「東方会議」後、天皇への「上奏書」で、吉会線を含む満蒙鉄道の敷設は日本の大陸政策のカギである、と指摘した。

    ヨーロッパではじめて世界制覇論を唱えたヒトラーの『我が闘争』と同じく、世界制覇の野望と妄想でつづられた悪名高いこの「上奏書」が提唱した一義的な国策は満蒙の侵略であり、この侵略を保障するテコが、ほかならぬ吉会線を含めた満蒙5鉄道の敷設にあったことは世に知られているとおりである。 田中は「上奏書」で、吉林――会寧鉄道を含めた満蒙5鉄道が完工すれば、全満州と朝鮮を結ぶ大迂回線と北満州に通じる直通線が形成されるので、兵力と戦略物資を任意の地点に輸送することができ、朝鮮の民族解放運動も鎮圧できる、と示唆した。

    日本の勘定高いブレーンは、吉会線が完工して、軍隊と貨物を敦賀――清津――会寧――吉林と輸送すればコースを縮め、軍隊と物資の機動時間もいちだんと短縮できるとみた。日帝が吉会線鉄道の敷設を国策とし、紆余曲折をへながらも26年という長い年月を費やし、ついにそれを完成させた理由はここにあった。

    中国の広範な人民と青年学生は、日帝が腐敗した無能な清朝末期の官吏と結んだ不当な条約を盾に、満州で鉄道敷設権を意のままに行使するのを中華民族にたいする侵害とみなし、借款による鉄道敷設協約に断固反対し、その撤回を要求して大衆的に決起した。

    しかし、反動軍閥は人民の正当な要求に耳を傾けようとせず、敦図線の敷設を強行する一方、1928年11月1日に予定した吉敦線鉄道開通式を盛大におこなって国民の歓心を買おうとした。

    吉会線鉄道敷設工事を阻止するためには、果敢な実力行使が必要だった。こうした闘争は、敵には朝中人民は満州占領を容認しないという警鐘となり、広範な大衆には日帝の満州侵攻にたいする抗争のシグナルとなるに違いなかった。

    われわれは吉会線鉄道の敷設工事に反対する大衆的な反日闘争を組織するため、1928年10月上旬、北山公園薬王廟の地下室で、共青と反帝青年同盟組織責任者の会議を開いた。

    この会議では、闘争でかかげるべきスローガンと闘争方法、行動方向を討議し、具体的な任務分担がおこなわれた。デモに使用するプラカードや弾劾文、ビラにもりこむ内容もくわしく討議された。吉会線鉄道敷設反対闘争は必ず朝中人民が共同で進めるべきであるという立場から、われわれはビラ、弾劾文、プラカードなどすべての宣伝物を朝鮮文字と中国文字で書くことにした。街頭での扇動演説も両国の言葉ですることにした。 さらに、闘争中は市内各学校の学生自治会や留吉学友会、少年会などの合法組織を活発に動かし、共青や反帝青年同盟のような非合法組織はできるだけ表面に出ないようにすることも決められた。

    北山会議後、われわれはデモの準備に夜も眠らず走りまわった。 そのとき、宣伝隊に属していた韓英愛がたいへん苦労した。彼女は留吉学友会にいたころ、演芸公演や読書発表会を通じてわれわれの影響をうけ、共青に加盟した吉林女子中学校の生徒だった。温順で口かずが少なく、ふだんは人中でもあまり目立たなかった。しかし、彼女は革命に役立つことなら、どんなことでもいやな顔ひとつ見せずに引き受けた。演芸公演でも他人のいやがる役をすすんで受け持ち、読書会用の教材が必要なときは、数百ページもの本を自発的にプリントしてみんなに配布した。

    韓英愛はデモ闘争を準備するため、睡眠をほとんどとらなかった。 他人の家の納屋に謄写版を持ちこみ、何人かの少年会員と一緒に檄やビラを数万枚も刷った。街頭では数百人の聴衆を前に、朝鮮語と中国語で熱弁をふるって、女性雄弁家として知られるようになった。 わたしが朝鮮共産主義青年同盟の責任者として、中国の青年学生にまで影響力をおよぼすことができたのは、われわれが吉林で早くから共産主義運動の旗をかかげていたからである。われわれが共産主義運動をはじめた当初は、中国共産党満州省委員会がまだ組織されていなかったし、吉林市内の共青員もごくわずかにすぎなかった。 わたしは朝鮮共産主義青年同盟の活動を進めるかたわら、中国系の共青活動にもたずさわった。共青組織でわれわれが重要な役割を果たしていたので、われわれに従う中国青年が少なくなかった。吉林師範学校共青グループの責任者曹亜範や、敦化地区で共青活動をしていた陳翰章もわれわれとつながりをもって活動していた。デモの準備を急いでいたわれわれは、1928年11月1日に吉敦線鉄道開通式が鉄道当局によって挙行されるという情報を入手した。 われわれはデモ開始の日を計画より数日早めることにした。吉会線鉄道敷設反対ののろしを上げると同時に、吉敦線鉄道開通式も破綻させるためである。

    1928年10月26日未明、宣伝隊は吉林の街頭にビラをまき、檄文を貼った。2、3人を一組とする少年会の監視班も夜が明けると指定された位置についた。

    その日の朝、各学校の学生は約束した時間にいっせいに校庭で集会を開き、吉会線鉄道敷設に反対する弾劾文を発表したのち、街頭デモに移った。街はまたたくまに数千人の学生で埋め尽くされた。彼らは「日帝侵略者を打倒しよう!」「日帝の吉会線鉄道敷設工事に反対してたたかおう!」という朝鮮文字のプラカードと「打倒日帝」「打倒売国奴」「回収吉会線」と中国文字で書かれたプラカードをかかげて街をねり歩き、新開門外の省議会前広場に集結した。

    数百人の軍隊と警察がデモ隊の前進を阻んだ。軍警と対峙したデモ隊は、シュプレヒコールを叫びながらわれわれの指示を待った。なんとしてでもデモ隊を前進させなければならなかった。

    われわれはデモ隊を守るため、労働者と市周辺の農民、学生で組織されたピケ隊を出動させた。デモ隊はピケ隊を先頭に肩を組み、軍警の銃剣をかきわけながら前進した。省議会前広場では大衆集会が開かれた。わたしは広場に集まった数千人の大衆に、朝中青年学生は団結し、日帝の吉会線鉄道敷設に反対して断固たたかおうとアピールした。

    集会を終えた大衆はいっそう気勢を上げ、日本領事館のある新市街に向けて行進した。ふだんは領事館警察の横暴がはなはだしく、なかなか足を向けないところだった。日本領事館の前で反日シュプレヒコールを力強く叫んで気勢を上げたデモ隊は、大馬路、北京路、重慶路、尚儀街など吉林の目抜き通りを埋めてデモをつづけた。

    吉林のデモ闘争によって打撃をうけた日帝の鉄道会社は、吉敦線鉄道開通式を無期限延期した。日本人商人は商店を捨てて彼らの領事館に逃げこんだ。南満鉄道会社の付属東洋病院の窓ガラスもこっぱみじんになった。

    デモ闘争は日ましに高揚した。学生たちはいくつものグループに分かれて、市内の10数か所に演壇を設け、明け方から夜遅くまで吉会線鉄道敷設に反対する街頭演説をつづけた。

    吉林ではじまった反日闘争は満州全地域に拡大していった。長春の青年学生と市民はわれわれのたたかいに呼応して、打倒帝国主義、6大鉄道反対のスローガンをかかげて熾烈な闘争を展開した。彼らは吉長鉄道局長の住宅も襲撃した。

    ハルビンと天津でも多数の犠牲者を出しながら決死の連帯闘争が展開された。

    延吉地方の朝鮮同胞も立ち上がった。国内の新聞もわれわれの闘争を連日報道した。

    デモの規模が大きくなりはじめると、われわれは日本商品排斥闘争を強力におし進めた。大衆は日本人の商店から日本の商標がついている商品を街頭に持ち出して焼き払った。そっくり松花江に放りこまれた品物もある。

    吉会線鉄道の敷設に反対する闘争が日本商品排斥闘争と結びついて全面的な反日闘争に発展する兆しを見せると、あわてた日帝は反動軍閥をそそのかしてデモ隊に発砲させた。

    それまで、われわれは反動軍閥を牽制する立場をとっていた。しかし、軍閥当局が日帝の側に立ってわれわれを弾圧する以上、われわれとしても彼らを消極的に牽制してばかりはいられなかった。われわれは「日帝と結託した反動軍閥打倒」のスローガンをかかげ、犠牲者の葬儀と結びつけてより大規模のデモへと移った。この日のデモは多数の市民が合流して最大の規模に達した。闘争はじつに40日余りつづいた。日帝は事態の収拾をはかって、奉天に滞在中の張作相を急いで呼び寄せたが、吉林督軍署の懐柔策程度では大衆の高揚した闘争気勢をくじくことができなかった。吉会線鉄道敷設反対闘争は日帝に大きな打撃を与えた。彼らをとくに驚かせたのは、朝中人民が団結して彼らの満州占領に抗したことである。民族主義者や、日帝の侵略におびえて逃げ道を探していた人たちまで、われわれのこの闘争によって大きな衝撃をうけた。

    民族主義者はそれまで、われわれ青年学生を見くびっていた。ところが10代、20代の青年学生が自分たちには考えもおよばない壮挙をやりとげるのを目のあたりにして、われわれを見直したのである。そして、既存の世代とはまったく異なる清新な新しい世代が民族解放闘争の舞台に登場したことを認め、われわれを重んずるようになった。われわれは吉会線鉄道敷設反対闘争を通じて、大衆の力が底知れないものであることをあらためて認識し、大衆を正しく組織すれば、銃剣によってもくじけない恐るべき力を発揮するものだという確信を強めた。大衆の力にたいするわたしの信念はいっそう強固になった。われわれの大衆指導方法も、この闘争を通じてさらに洗練された。実際の闘争のなかでわたしも鍛えられ、組織も成長した。

    

    

    

    6 安昌浩の時局大講演

    

    

    

    1927年2月、吉林の同胞たちは前例を見ない歓迎の雰囲気にわいた。上海臨時政府の要職をしめていた独立運動の元老安昌浩先生が北京経由で吉林に到着したのである。

    吉林の同胞は安昌浩を国家元首なみに盛大に迎えた。われわれも『去国歌』をうたい、彼を心から歓迎した。『去国歌』は、安昌浩が外国に亡命するさい、祖国に別れを告げながらつくった歌である。「さらば さらば いざさらば、なんじをおいてわれは行く」という文句ではじまり、「われが去るとて悲しむな、わが愛する韓半島よ」という文句で終わるこの歌は、「韓日併合」後、とりわけ青年学生のあいだで広く愛唱されていた。亡命者が好んでうたう歌だというので、ひところは『亡命者の歌』ともいわれた。

    朝鮮人は『去国歌』を愛したように、その歌をつくった安昌浩をもたいへん尊敬し崇拝した。安昌浩の人柄と実力を一言で「未来の大統領」と表現する人が多かったが、それはあながち大げさな表現ではなかった。臨時政府を好ましく思わない独立軍団体のリーダーたちでさえ、安昌浩個人にたいしては「独立運動の先輩」とあがめていた。安昌浩の人気のほどをよく知っていた伊藤博文が、一時彼を手なずけようとして、日本の政策に対する支持と引き替えに島山(安昌浩の号)内閣の樹立をもちかけたのは周知の事実である。

    平安南道江西といえば、いまはチョンリマ(千里馬)の発祥地、テアン(大安)の事業体系とチョンサンリ(青山里)精神、チョンサンリ方法を生んだところとして知られているが、日帝植民地時代は島山安昌浩のような独立運動家を輩出した土地として知られていた。安昌浩が江西出身だったので、西部朝鮮の人たちは概して自分は彼と同郷だと自慢したものである。

    安昌浩は、わが国が日本帝国主義者に併呑されたのは民族の資質が低劣なためだとして、共立協会、新民会、青年学友会、大韓人国民総会、興士団といった独立運動団体を組織し、漸進学校、大成学校、太極書館などの教育・文化機関を設立し、『独立新聞』を発刊して民族の啓蒙にも寄与するところが大であった。

    独立運動の元老のなかに、南崗李昇薫という著名な教育者がいた。李昇薫といえば誰でもまず五山学校を連想する。五山学校は彼が設立し、彼個人の資金で運営した有名な私立学校だった。

    李昇薫は次代の教育につくした功績により、隆熙皇帝の接見をうけた人物である。400年来、西部朝鮮の平民で皇帝に謁見した人は一人もいなかったが、李昇薫がその前例を破ったのだから、彼の名声がどれほどであったかは想像にかたくない。

    このように高名で人望の厚い人として知られた李昇薫も、もとは金儲けの野心にとりつかれて鍮器の行商をはじめ、ついに50万円余りの不動産をもつ豪商にのしあがった人間だった。ところが、その彼が平壌で、教育による実力培養こそ独立救国の基礎であるという安昌浩の演説を聞いて、いたく感服し、まげを切り落として郷里にもどり、教育運動をはじめたのであった。愛国愛族の一念に燃える安昌浩の雄弁が、大貿易商の人生観に新しい帆をかけたのである。これは民族運動の先駆者としての安昌浩の影響力と感化力を証明する事例の一つである。

    『東亜日報』や『朝鮮日報』など国内の新聞は、安昌浩の吉林到着ニュースを大見出しで報じた。

    青年学生たちは彼が泊まった三豊旅館を訪ねて、吉林の同胞学生のために講演を懇請した。独立運動家も引きも切らず宿所へ押しかけて講演を要請した。安昌浩はそれに快く応じた。

    独立運動家たちはいろいろなルートを通じて、安昌浩の時局大講演会がいつどこそこで開かれると宣伝し、尚埠街、岔路街、通天街、河南街、北大街、牛馬巷街など市内あちこちの街角に大きく広告を貼り出した。広告を見た吉林の同胞はひとしく胸をはずませ、会う人ごとに「島山先生が来たそうですね」という言葉をあいさつ代わりにするほどだった。

    講演前日の晩は、わたしも呉東振を相手に安昌浩のうわさ話に花を咲かせた。

    異郷の空の下で17年ぶりに大成学校時代の恩師に会った松菴呉東振の感慨は、ひとしお切々たるものがあった。呉東振は、大成学校の師範科に入学するとき安昌浩の面接試験をうけ、入学後も彼からとくに目をかけられたと、当時の思い出をこまごまと話した。そして島山先生がつくった『青年学徒歌』をうたって、若い世代の独立精神の啓発につくした彼の労苦を深い尊敬の念をこめて回想した。彼はとくに、安昌浩の弁論術のすばらしさを実感をこめて語った。

    安昌浩の弁論術については、父も生前にたびたび話したことがある。わたしは万景台時代、すでに父から安昌浩の独立運動は雄弁にはじまり、雄弁をぬきにしてはその名声も考えられないということを聞いていた。

    安昌浩が演説をすると、巷の女性までがそのよどみない弁舌とユートピア論に感動して、指輪や銀かんざしを抜いて献金に応じたといわれているが、それは事実だろうか?それが事実だとすれば、彼の演説が人びとの心を揺さぶる秘訣はどこにあるのだろうか?安昌浩のような大人物がアメリカや上海でなく、この吉林にいつも来ていたらどんなにいいだろうか。

    「国が独立して、わしに大統領を選ぶ権限が与えられるなら、いの一番に安昌浩先生を推すだろう」

    これはその晩、呉東振がわたしにいった言葉だった。彼のその言葉は、安昌浩の時局大講演にたいするわたしの期待と好奇心をいっそうあおった。

    安昌浩は朝陽門の外にある大東工場で烈士羅錫疇の追悼会を催し、かねて講演をおこなうことになった。

    追悼会参加の3府の代表をはじめ、市内に住む独立運動家や有志、青年学生のほとんどが会場に集まってきた。会場は超満員で、大勢の聴衆が壁際に立って聞かなければならないほどだった。

    安昌浩の演題は「朝鮮民族運動の将来」というもので、さすがに演説は堂に入っていた。彼のさわやかな弁舌は、最初から聴衆の賛嘆を呼び起こした。彼が古今東西の歴史を該博な知識を織りまぜてひもとき、朝鮮民族の活路にかんする自説を力説したとき、場内にははげしい拍手がわきおこった。ところが、その内容が問題だった。

    安昌浩は「民族人格完成論」とユートピア論を説いた。「民族人格完成論」は、「自我人格革新論」と「民族経済確立運動論」の二つの内容からなりたっていた。

    「自我人格革新論」というのは、わが民族が後進国として日本の植民地に転落したのは人格と修養の欠如に起因している、したがって各人が正直に生き、まじめに働き、和睦をはかれるよう、その人格を高めなければならないというものである。

    安昌浩の主張はどこか、「自我完成論」に表現されたトルストイの思考方法、あるいは自分自身を改造し鍛えることなしには、人間は自由でありえないというガンジーの見解と似通ったところがあった。当時は世界的な大恐慌の兆しが生活の各分野にあらわれて、人びとを不安と恐怖に陥れているときだった。極度にファッショ化した帝国主義の台頭によって、人間の自主性が銃剣や首かせをもって容赦なく圧殺されていた。

    プチブルインテリは、鉄のよろいで武装した帝国主義の威力の前に戦慄した。こうした時代的雰囲気のなかで、彼らがすがりついた精神的逃避手段がほかならぬ無抵抗主義だったのである。無抵抗主義は、革命的意志の薄弱な者が帝国主義の攻勢におじけづいて転がりこむ最後の安息の場であった。反革命に立ち向かう力も意志もないので、結局は無抵抗を唱える破目になるのである。

    わが国では無抵抗主義が改良主義の形であらわれた。民族運動の一部のリーダーは、3・1人民蜂起後、積極的な抗争によって日本帝国主義の植民地支配を一掃しようという革命的立場から離脱し、教育振興運動と民族産業振興運動を民族運動最大の旗じるしにして、人民の精神的資質と経済生活水準の向上をはかる民族実力養成運動を猛烈に展開した。民族運動の中心指導層をなしていた近代知識人は、土産品の愛用と民族企業の育成によって民族を経済的破滅から救い出そうとした。彼らは「自分の暮らしは自分のもので!」というスローガンをかかげ、経済的自給自足の道を打開する汎国民的な物産奨励運動を起こした。この運動の指導者であった曺晩植は、土産愛用のシンボルとして一生、木綿織りのパジ、チョゴリとトゥルマギ(周衣)など朝鮮式の衣服で通した。彼は名刺も国産紙で刷ったものを使い、靴も外国製のものではなく朝鮮製のものを履いた。 民族改良主義の流布において、李光洙の「民族改造論」は大きな作用をした。この論文を読めば、改良主義の本質がわかり、その危険性を容易に判断することができる。

    わたしが「民族改造論」を読んでもっとも不快に思ったのは、李光洙が朝鮮民族を劣等民族と見ている点であった。わたしは、わが国が後進国だと考えたことはあっても、朝鮮民族を劣等民族だと考えたことは一度もなかった。

    朝鮮民族は世界ではじめて鉄甲船、金属活字などをつくりだした文化的で聡明な民族であり、東方文化の発展に大いに寄与した誇らしい民族である。またわれわれの先祖は、日本文化の開拓にも少なからず貢献している。外敵の侵害を許さない朝鮮民族の剛健な自衛精神は、早くからアジア諸国に勇名をとどろかせ、白紙のように清楚な朝鮮人民の道徳は世界の賛嘆を呼んでいた。

    朝鮮人民の因習や風俗にはもちろん欠点がないわけではない。だが、それは部分的で二次的なものであって、本質的なものではなかった。二次的なものをもって民族性ということはできない。

    李光洙は「民族改造論」で、朝鮮人が「劣悪な民族性」のために滅んだかのようにいっているが、朝鮮が滅んだのは立ち後れた民族性のためでなく、支配層の腐敗と無能のためなのである。

    朝鮮民族の「劣等」を嘆く李光洙の論調は、日本帝国主義者の論調と軌を一にしていた。日本人は、ふたこと目には朝鮮民族を「劣等民族」だと中傷した。そして「劣等」であるがために日本が「保護」「指導」「統制」しなければならないのだと宣伝した。

    「民族改造論」は、李光洙が日本帝国主義占領者に差し出した公開転向文にひとしいものであった。この転向文を書いた代償として、彼はかつての独立運動参加者としての制裁をうけることなく、総督府のすぐそばで悠然と恋愛小説などを書くことができたのである。

    小説家としての李光洙は、その初期、読者に大いに愛された。大衆が彼に好感をいだいたのは、彼が読者の好みに合う進歩的な作品を書いたからである。彼は、わが国の現代小説の開拓者といわれたほど、新しいスタイルの小説をたくさん書いている。

    だが、「民族改造論」のため、李光洙にたいする大衆の好感にはひびが入りはじめた。彼の小説にかいまみられる改良主義的要素が、この論文では完全な形体をなしてあらわれたのである。

    民族運動を改良主義の方向に誘導した近代知識人は、はなはだしいことに、国債補償運動によって集めた資金で朝鮮人主管の民立大学を設立しようとさえした。しかし、総督府は独立人材養成の温床となりうる民立大学の設立を許可するはずがなかった。

    非暴力的な物産奨励運動もまた日帝の妨害に直面した。朝鮮人が日本の商品を使わず、国産品のみを使用するのを総督府が黙認するはずがなかった。彼らは最初からこの運動を日本商品排斥の反日運動と見て悪辣に妨害した。

    実力養成の看板のもとに進められた改良主義運動は、理念のうえでは愛国愛族を標榜したが、方法のうえでは非暴力を前提とする保守的で消極的な抵抗運動であった。総督府から許容される範囲で民族の経済力を育成し、日帝の経済的侵略に対抗しようとする彼らの思考は事実上、妄想にひとしかった。日本が自分の首を締めつける民族産業の振興を許さないであろうことは、初歩の初歩といえる常識であるにもかかわらず、企業を創設して国産品を愛用すれば、民族の活路が開かれると考えたのだから、これをどう説明すべきだろうか。

    改良主義に落ち込んだ民族運動家は、帝国主義の属性を見抜けなかったか、またはそれから顔をそむけていた。彼らの武力抗争が方向転換をして平和的な文化運動に移行したのは、闘争方法における後退を意味した。その運動は植民地主義者との平和共存か妥協を前提とする運動であった。平和共存や妥協の過程では、いずれにせよ変質現象が起こるものである。事実、改良主義者のうち、後日、民族運動の隊伍から逃避したり、転向して日帝の手先になった者が少なくない。自強論の変種である安昌浩の実力養成論(準備論ともいう)は、民族改良主義者の理論的なよりどころであった。彼は朝鮮民族が世界でもっとも精神的修養の欠けた民族だとして、わが民族は少なくともアメリカ人かイギリス人程度に洗練されなくては自主独立国家が建設できない、とまで主張した。会場の雰囲気を見ると、ほとんどの衆が彼の主張に共鳴しているようだった。彼の演説を聞いて感動のあまり涙を流す人さえいた。もちろん、彼の講演内容は一言一句、すべて愛国の精神で貫かれていた。しかし、わたしは彼の発言に民衆の闘争意欲を眠りこませる危険な要素を発見して失望した。総体的に見て、彼の主張には疑問を呼び起こす点があった。各自が自己修養に努めて人格を高め、それにもとづいて民族の実力を養成すべきだという安昌浩の主張にはわたしも同感だった。だが、わが民族を世界でもっとも精神的資質の劣る民族だとみる彼の見解と、実力養成のための改良主義的方法論にはとうてい賛成しかねた。実力養成はあくまでも独立闘争を推進する一つの過程となるべきであって、それ自体が革命全体にとって代わるわけにはいかないのである。

    ところが、安昌浩は独立闘争を実力養成で置き換えようとした。実力が養成されるからといって独立闘争がおのずと進展するはずはない。ところが彼は、民族の力を組織しそれを最終的勝利に向けて動員する方法については一言半句もふれなかった。とくに、民族解放闘争の基本的形態となるべき暴力闘争については一言も口にしていない。 満州で独立の基礎となる産業の振興をはかるというのも、やはり問題だった。国権を失った民族に発電所建設の借款をくれる者が、いったいどこにいるというのだろうか。国土全体が日帝の掌中にある状況で、たとえ列強の借款が得られたとしても、他国でどのように発電所を建設し、稲作を着実に営むことができるというのだろうか。また朝鮮人がそうするのを日帝が黙認するとでもいうのだろうか。わたしはいたたまれなくなって、講演の最中につぎのような質問状を書いて安昌浩に出した。

    ――産業と教育の振興をはかって朝鮮民族の実力を培養すべきだとの意見だが、日帝に国をそっくり奪われた状況でそれが可能だとみるか。

    ――わが民族を精神修養に欠けた民族だというのは、どういう点なのか。

    ――講師のいう列強とはアメリカやイギリスのような国だが、われわれは彼らに見習わなければならないのか。また、われわれが彼らの「援助」で独立できるのか。

    質問状は、わたしの前に座っている学生たちから司会者の手をへて安昌浩に伝えられた。反発心をこらえきれず思いきって書面で質問をしたものの、司会者が不安げな表情で学生たちの座席を注視するのを見ると、わたしの心中もおだやかではなかった。この質問に講師が不快な思いをするなら、安昌浩を崇拝している独立運動家や数百人の聴衆に大きな失望を与えることになりはしまいかと心配になった。安昌浩の講演が不成功に終わるなら、講演の世話人として人一倍誠意を尽くした呉東振も、質問状を提出した張本人のわたしを快く思わないだろう。

    いうまでもなく、わたしはそういう結果を望んだのではなかった。わたしが安昌浩に質問状を出したのは、彼がわたしの質問をうけて多少なりとも自分の主張を検討し、民族の自尊心と自主精神に反する有害な思想をそれ以上押しつけないでほしい、という期待からである。そして、独立運動の大先輩として尊敬されている安昌浩から、まだ聴衆に話していない独立運動の新しい指針や方略をぜひ聞かせてもらいたかったからでもあった。

    ところが、事態は思いもよらぬ方向に急転した。質問状にしばらく目を通していた安昌浩は、司会者に一言二言なにかたずねた。あとで孫貞道から聞いたところでは、そのとき安昌浩は、質問状に金成柱と署名されているが、それは誰なのかと聞いたそうである。あれほど自身満々として場内をわかせていた安昌浩の演説は急に味気ないものとなってしまった。安昌浩は、それまで懸河の勢いで説き進めていた講演を早々に切り上げて、そそくさと演壇を下りてしまった。

    弁士は質問を深刻にうけとめた様子だった。多少の刺激にでもなればと思って出した質問であったが、彼はなんの反駁もせず、講演を中途で切り上げてしまったのである。

    がっかりした聴衆は、島山先生がなぜ急にしおれてしまったのかわからない、といって出口の方へ流れだした。

    そのとき、思いもよらぬ出来事が発生した。吉林督軍署が数百人の憲兵と警察を駆り出して講演会場を急襲し、300人余りの参加者を逮捕したのである。弁士の安昌浩はもちろん、玄黙観、金履大、李寛麟をはじめ数多くの独立運動家が一挙に検挙され警察庁に拘禁された。この大検挙事件を裏で操ったのは、朝鮮総督府警務局の国友であった。安昌浩の吉林到着と時を同じくして奉天にあらわれた国友は、中国憲兵司令官楊宇霆に、数百人の朝鮮共産主義者が吉林に集まったから逮捕してほしいと要請した。楊宇霆の命令をうけた吉林督軍署の警察と憲兵らは、国友の差し金で朝鮮人の家宅を捜索する一方、大東工場を襲って空前の大検挙を強行した。

    安昌浩の講演には失望させられたが、われわれは彼を含めた数百人の同胞が逮捕されたことには憤激した。まして質問状のために講演が中断され、それと同時に安昌浩が逮捕されるという事態が生じたのだから、わたしとしては、そうした連鎖反応の責任が質問をした自分にあるような気がして、心苦しい思いをしなければならなかった。中国の東北地方を支配していた軍閥張作霖は「三矢協定」によって日本と手を結び、朝鮮の共産主義者と反日独立運動家を過酷に弾圧していた。この協定は、満州地方における朝鮮民族解放闘争の根源を除去しようとする悪辣なものだった。協定によって、朝鮮人愛国者を捕えた者には賞金が与えられた。 中国の反動的官憲のなかには、賞金めあてに虚偽の密告をするものさえいた。大東工場での集団的な検挙も、軍閥張作霖が日帝にそそのかされて強行した反動的な弾圧だった。われわれは即刻「トゥ・ドゥ」メンバーの会議を開き、逮捕された人たちの救出対策を真剣に討議した。そしてその足で独立運動家を訪ねてまわり、逮捕された人たちの救出方法を相談した。だが、彼らはただ呆然としてなす術を知らなかった。

    われわれは、すべての人が団結し吉林督軍署に圧力を加えれば、安昌浩先生はもちろん、逮捕された全員を釈放させることができると主張した。大衆の力を動員するのがもっとも効果的であることを再三強調した。

    ところが独立運動家たちは、徒手空拳の君らがどうやって無法きわまる督軍署の連中をおさえられるというのか、大衆が集まって騒ぐよりは金か賄賂のほうが効き目があるのではないか、というのであった。ここでも大衆の力を信じようとしない習癖があらわれたのである。わたしは、金で解決できないことでも大衆の団結した力で十分解決できる、と彼らを懸命に説いた。それから孫貞道の吉林礼拝堂で市内の独立運動家と朝鮮人有志、青少年学生の大衆集会を開いた。われわれは集会参加者に、督軍署が日帝とぐるになって朝鮮の愛国者と罪のない同胞を大勢逮捕していったことを説明した。そして彼らがなにがしかの金をつかまされ、逮捕した人を全員日本の警察に引き渡すおそれがあると警告した。朝鮮の愛国者が日帝の手に引き渡されれば容赦なく処刑されるに違いないから、同胞を愛し国を愛する朝鮮人は一体となって、愛国者を救援する大衆的釈放運動に立ちあがろうと訴えた。われわれが安昌浩の釈放運動をはじめると、首をかしげる人が少なくなかった。民族主義者はいうまでもなく、共産主義運動家や、さらにはわれわれの影響下にある青年学生のなかにさえそんな人たちがいた。安昌浩に質問状をつきつけた人間が、今度はなぜ彼を救出しようとして骨をおるのか、というのである。

    わたしはそういう人たちに、われわれは安昌浩の思想を問題にするのであって、安昌浩という人間自体に反対するのではない、安昌浩も同じ朝鮮人であり、朝鮮の独立のためにたたかっている愛国者であるのに、なぜ彼を救い出してはいけないのか、と説得した。私は、受難に際会した朝鮮民族は困難なときに力を合わせなくてはならない、ということを大義名分にかかげた。わたしが安昌浩の主張に反駁したのは、彼が事大主義と民族虚無主義、改良主義の立場から脱却して、祖国解放の聖なるたたかいに積極的に身を挺してほしいと望んだからである。われわれが民族主義者と思想上の闘争をしたのは、彼らを打倒するためではなく、彼らを自覚させて一人でも多く反日の旗のもとに結集するためだった。

    安昌浩の釈放を要求する大衆集会が開かれたあと、吉林市内の塀や電柱には「中国警察が根拠なく朝鮮同胞を逮捕、拘留して迫害している」「中国官憲は日帝の奸計にだまされるな!」「拘留中の朝鮮同胞 を即時釈放せよ!」といった内容のビラや檄が貼り出された。

    われわれは中国の各新聞社にも投稿して世論を喚起した。吉林市内の青少年と大衆は連日督軍署に押しかけて、拘禁した人たちを釈放せよと叫んだ。督軍署の前でデモも展開した。われわれは、中国の反動軍閥が逮捕した朝鮮の独立運動家を日帝の手に渡さないように、全力をつくした。

    督軍署は大衆の圧力に屈して、20余日目に安昌浩をはじめ拘束者全員を釈放した。緊張した闘争の末に安昌浩の釈放をかちとっただけに、わたしはとてもうれしかった。われわれは、自由の身になって同僚たちのもとにもどった安昌浩に会おうと独立運動家を訪ねた。彼が質問状にもりこんだわたしの気持を少しでも理解してくれれば、と心ひそかに期待した。しかし、安昌浩は釈放されると早々に吉林を去ってしまった。彼がどんな気持で上海へ帰ったかは想像しがたいが、わたしは彼が気持を入れ替え、新たな気分で吉林を去ったものと確信する。愛国者の名を汚すことなく、最期の瞬間まであらゆる試練にたえぬいたその後の彼の生活がそれを証明している。

    安昌浩が吉林を去ったのち、わたしはとうとう彼に会うことができなかった。

    10余年がすぎて、われわれが白頭山で武装闘争を展開していたとき、安昌浩は日帝の手に捕われ、獄中で得た病がもとで死去した。

    その報に接したわたしは、一生涯、民族の啓蒙と団結につくした彼が、独立の日を見ずに世を去ったことを残念に思った。だが、奇妙な縁で結ばれた安昌浩との関係は、それでまったく切れてしまったのではない。安昌浩は逝ったが、その妹の安信好が解放後、朝鮮民主女性同盟中央委員会の副委員長として、われわれとともに働いたからである。

    解放後、祖国に凱旋したわたしは、国内で活動していた愛国志士たちを通じて、安昌浩の妹が南浦方面にいることを知った。

    当時、南浦地区では金京錫同志が派遣員として活動していた。そこで彼に安信好を捜すよう指示した。数日後、南浦から安信好を捜し出したという通報があった。電話で金京錫同志に彼女の傾向についてたずねると、年中、聖書を手放さない人で、篤実な信者らしいとのことだった。

    わたしは、安信好は高名な愛国烈士の妹なので、宗教は信じても愛国心はもっているはずだから、党が影響を与えて正しく導いてみるようにといった。金京錫同志はわかったと返答はしたものの、その口ぶりはあまり乗り気ではないようだった。信者といえば頭から白い目で見る時分だったので、わたしが再三強調したにもかかわらず、信者たちを敬遠視する弊害はまだなくなっていなかったのである。

    数か月後、金京錫同志は、安信好が入党したということと、彼女が聖書に党員証をはさんで携帯し、新朝鮮建設に献身しているといううれしい便りをよこしてくれた。

    わたしはその便りをうけて、安昌浩の愛国の魂は決して草葉の陰にのみとどまっているのではないと思った。

    祖国と人民のために誠実に働く安信好の姿を見るたびに、わたしは独立志士としての安昌浩の波乱に富んだ人生を思い、生前に彼が民族のためにつくした労苦を思って、深い感慨にうたれたものである。一生涯、反共をモットーとした金九は、南北連席会議のさい北半部に来て、安信好と会って驚いた。共産主義者たちが上海臨時政府の巨頭の妹を女性同盟中央の副委員長に登用するとは、想像だにしなかったようである。安信好は彼の若いころの愛人であり、婚約者であった。 安信好にたいするわれわれの信頼は、とりもなおさず安昌浩にたいする信頼でもあった。それはまた、理念や信教を超越した民族という一つの枠のなかで、愛国愛族のきずなによって血縁的に結ばれている、独立運動のすべての先輩にたいするわれわれの礼節であり、義理でもあったのである。

    

    

    

    7 3府統合

    

    

    

    1920年代は総体的に、反日愛国勢力の単一戦線への統合促成期であったといえる。心から民族の前途を憂える先覚者や愛国志士は、独立の基礎が反日勢力の統一団結にあることを確信し、その実現をめざして大きな努力を傾けた。

    ロシアでの10月社会主義革命と3・1人民蜂起の影響のもとに、新思潮の普及とあいまって急速に出現したいくつもの労働運動団体は、1920年代の中ごろ、朝鮮労農総同盟に統合された。反日愛国勢力を一つに結集する作業は、民族主義陣営内でも進められた。

    1927年には民族単一党を組織する気運が高まるなかで、共産主義陣営と民族主義陣営との共同戦線機関として新幹会が創立され、その傘下に数万人の会員を結集しはじめた。

    反日愛国勢力の統合をめざす運動は、独立運動の策源地となった満州地方でも活発に展開された。「韓日併合」直後から満州地方に雨後の筍のように生まれた群小独立運動団体は、果てしない離合集散の過程をへて1925年ごろには、およそ正義府、新民府、参議府の3府にまとまって、それぞれ独自に活動していた。しかし、自己の管轄区域に一線を画して、他の団体との連係もなく中世期の小公国のように分立、割拠していた3府は、日本帝国主義者のあいつぐ攻勢によって各個撃破される危険にさらされていた。琿春事件や興京事件、古馬嶺事件など、日本軍のあいつぐ大虐殺作戦と「三矢協定」によって、満州地方の独立軍団体は大きな打撃をこうむった。鳳梧谷戦闘と青山里戦闘で大惨敗を喫した日本軍は、独立軍の武装活動を牽制するため兵力を増強し、日本軍1人が死ねば朝鮮人10人を殺害する凶悪な心理殺戮戦によって、成長期にあった独立軍を守勢に追いこんだ。こうした事態に直面し、ヘゲモニー争いに熱をあげていた各府の指導者は、各軍に生じた難局の打開策として独立運動団体の統合を模索しはじめた。3府が誕生した初期から、独立運動の先覚者は統合の必要を痛感し、その実現に向けて大いに努力した。

    当時、3府は管轄区域を広げる競争にエネルギーを浪費し、互いに嫉視反目していた。このヘゲモニー争いは、ときに痛嘆すべき衝突と流血の惨事まで引き起こした。

    わたしは、1925年の夏、3府の指導者が撫松に集まり、父の司会のもとに規模の大きい会議を開いて統合実現の方途を真剣に討議しているのを目撃したことがあった。会議は撫松と万里河、陽地村の3か所で場所を変えながら、10日間もつづけられた。この会議の結果として生まれたのが民族団体連合促進会である。

    民族団体連合促進会に加わった人士は、民族単一党の結成をめざす準備活動に拍車を加える一方、各派指導者との緊密な連係のもとに、在満朝鮮同胞の自治問題と革命戦線の統合をめざす会議を重ねた。

    場所を変えて会議をつづけるうちに「王八事件」という小説もどきの事件が発生した。

    当時、金東三、崔東旿、玄黙観、沈竜俊、林炳茂、金墩、李淵、宋相夏といった3府の指導メンバーは、新安屯に集まって統合会議を進めていた。新安屯は吉長鉄道の西南方約12キロの地点にある村で、吉林、興京、樺甸とともに満州にある数少ない政治運動の策源地の一つであった。

    3府合作会議の機密を内偵した日本領事館警察は、平民に装った5人の密偵を現地に派遣した。新安屯付近の東响水溝村にたどりついた密偵は、スッポンを捕るふりをして3府合作会議の模様を探ろうとした。彼らはそのうち村の青年に正体を見抜かれ、全員が懲罰をうけた。青年たちは密偵を数珠つなぎにして松花江に水葬してしまったのである。

    吉林駐在の日本領事館警察は事件の顛末を中国警務庁に知らせ、日本の良民が朝鮮人に殺害されたといって、事件現場と新安屯の共同捜査を強く要求した。これが警務庁の通訳官呉仁華によって3府合作会議の代表たちに通報された。代表たちは休会を宣言して、新安屯から引き揚げた。これが俗にいう「王八事件」である。王八というのは中国の俗語でスッポンという意味である。

    独立運動団体の統合をめざした3府の会議には幾多の難関と紆余曲折がともなった。3府合作を恐れる日帝の執拗な尾行と破壊策動が第一の難関だったとすれば、それにまさる難関は各団体内部の派閥間の対立であった。正義府は促成会派と協議会派に分裂し、新民府は軍政派と民政派に、参議府は促成会支持派と協議会支持派とに分かれて争っていた。金東三、李青天、李鍾乾などの促成会側は正義府から脱退し、金佐鎮、黄学洙を頭領とする軍政派は新民府と決別した。3府統合会議が頻繁に開かれたのは吉林だった。吉林の尚儀街には、朝鮮人が経営している復興泰という精米所があった。吉林の独立運動家はその精米所の事務所を宿所兼事務室として使っていた。南満州と北満州、東満州からやってくる独立運動家もそこをたまり場としてしばしば利用したので、復興泰は年じゅう人の出入りが絶えなかった。

    ここで、3府統合会議が年を越えてつづけられていた。 復興泰精米所は毓文中学校へ行く途中にあったので、わたしは会議に参加している代表と顔を合わせる機会がたびたびあった。精米所の主人は共産主義びいきの民族主義者で、精米所でなんとか生計を維持している小企業家であった。ある日、精米所に立ち寄ると、わたしと顔なじみの老人たちが、金亨稷先生の息子だといってわたしを金佐鎮、金東三、沈竜俊など3府統合会議の代表に紹介した。そう紹介してから、冗談まじりに「この子はわれわれと思想が違う」と一言つけ加えた。

    わたしは笑顔で「そうおっしゃっては困ります。先生方も朝鮮の独立をめざし、わたしも朝鮮の独立をめざしているのですから、思想が違うわけはありません」といった。すると彼らは、君たちが社会主義運動をしているようなので、そういったまでのことだ、とお茶を濁した。

    共産主義を宣伝するよい機会だった。わたしは彼らに、「青年が共産主義運動をするのは一つの世界的趨勢で、青年はそれを志向しています。他の国でみなやっている共産主義運動を、朝鮮青年がやれないという理由はないと思います。新しいものを見ずに古いものにしがみついていては、朝鮮の将来がどうなるでしょうか。先生方とは世代が違うのですから、若い者の気持を理解してくれなくては困ります」と切りこんだ。

    老人たちは「おまえがなにをやろうと、それはどうでもいいが、まさかおまえたちがわしらを打倒するなんてことはせんだろうな」というのだった。

    わたしは彼らに、どうしてわれわれ青年が先生方を打倒するというのですか、と穏やかにいった。これと似たようなことが、その後も何回かあった。通りすがりに時折、立ち寄ってみても、3府が統合したという話は聞かなかった。独立軍の指導者たちは腹立たしいほど会議をずるずる引きのばしていた。

    わたしは3府の指導者たちと接触しているうちに、彼らの生活の内幕を知るようになったのだが、それはまったく固陋で鼻持ちならないものだった。

    吉林城外の朝陽門近くに三豊旅館があったことは前にも述べた。3府統合会議が休会するたびに、独立軍の幹部はこの旅館に集まって他派を牽制する謀議をこらした。

    旅館の近くには、われわれが大衆教育の場に利用している孫貞道の礼拝堂があった。それでわたしもおのずと土曜日の午後や日曜日などは、この旅館に集まった独立軍上層部の生活をかいまみることができた。

    彼らが借り切っている部屋には、手あかで黒光りのする将棋盤がいつも置いてあった。独立軍の人たちが退屈しないようにと、旅館の主人が気をきかせて置いたものだった。独立軍の老人たちはその部屋で1日中、口論を交わしたり、将棋をさしたりして時間をすごした。旅館の主人は独立軍の頭領たちのもてなしで青息吐息の体だった。彼らの接待には太豊合精米所で搗いた上米でご飯を炊き、食肉や豆腐、魚類などのおかずも切らさなかった。独立軍の指揮官たちは毎日将棋で夜を更かしながらも、主人から夜食のソバを欠かさずご馳走してもらったのである。旅館の娘の話では、それもいっさい無料奉仕だとのことだった。彼女は毎晩、タバコや酒の使い走りをさせられるので、夜もおちおち眠れないとのことだった。あるとき母親に「お母さん、こんな調子であの人たちの世話をしていたら、3か月とたたないうちに乞食になってしまうわ」といった。すると母親は「国を取りもどそうと戦っている人たちなのに、なにを惜しむことがあるの。準備ができたら戦いに出るだろうから、二度とそんなことをいってはいけません」といって娘をたしなめたという。だが、独立軍の指揮官たちは戦いに出るどころか、武器を集めて倉庫に隠し、なすこともなく暇をつぶしていた。それでいて、われわれが行くと帳簿のようなものを広げて、仕事でもしているようなふりをした。若者たちに無為徒食をしていると見られたくないので、体裁をつくろっているのだった。

    ときには、拳や木枕で机をたたきながら、口汚くののしりあったりもした。3府統合のあと、どの派が実権を握るかというのが争点だった。彼らは、自派の方が活動期間も長く業績も大きいとか、自派の方が管轄区域も広く大衆も多いなどといっては自派をおしたて、他派をこきおろした。そうして晩には酒を飲んでくだをまき、翌日の真昼どきになってやっと起き上がる始末なのである。

    ある日曜日、われわれは太豊合精米所で、上海臨時政府の財政部長と論争した。

    彼は数人の同僚と一緒に吉林に来て、数か月ものあいだ3府統合会議に参加していた。彼は青年と気さくに交わって冗談をいったり、進歩派めいたこともよくいうので、われわれも彼に会うと、先生、先生といって心の内を包み隠さず打ち明けていた。

    その日、われわれは彼とあれこれ話を交わしているうちに、上海臨時政府のことを少し批判した。あなたがたは国も民族も眼中になく、民衆はどうなろうと、他国に追われてきてまでてんでに高い地位をしめようと争っていながら、愛国ということをあえて口にすることができるのか、ここで役付きになったところで、せいぜい農村でわずかな農家を相手に軍資金を集め、ああしろこうしろと指図するくらいだろうから、そんな権力争いをしてなにになるのか、とわれわれ数人の青年が彼を攻めたてた。

    われわれの正当な忠告を聞いて言葉につまった財政部長は、急に真っ赤になって、われわれをののしった。

    「このおれにたてつくのか?それじゃおまえらは偉いし、おれたちはうすのろだってわけだな。それなら、おれもおまえらも一緒に赤恥をかいてみよう」

    彼はこうわめくと、やにわに服を脱ぎはじめた。丸裸で外に飛び出して朝鮮人の恥をさらしてやれ、という魂胆だった。自分が恥をかいたのだから、そのかわりに民族の恥をさらして腹いせをしようというのである。

    わたしはいろいろな人と交わってみたが、こんな人間を見るのははじめてだった。肩書きは臨時政府の部長だが、ふるまいは無頼漢やごろつきと同じだった。彼が精米所の外に飛び出したら一大事である。 財政部長の恥はとりもなおさずわれわれの恥であり、朝鮮人の恥であった。そこでみんなでなだめ、やっと服を着させた。

    その日、われわれは家路につきながら、二度とあんな男を相手にするのはよそうと話し合った。批判されたからといって、丸裸で街に飛び出そうとする男が、独立運動をしたところで知れているではないか。おへそを出して歩く腕白ならいざ知らず、1人前の男があんなことをして、それでも政治家といえるだろうか。彼は上海臨時政府の恥部をさらけだしたようなものだった。当時、満州地方には上海臨時政府といえば眉をひそめる人が多かった。派閥争いをするからといって眉をひそめ、哀願外交にすがりついているからといって眉をひそめ、軍資金を湯水のように使い無為徒食するからといって眉をひそめた。臨時政府は人頭税や救国義務金では足りず公債まで発行し、金のありそうな家を訪ねては道観察使や郡守、面長などの「辞令」を与え、その地位によって相応の金品をまきあげる売官売職行為まであえてしていた。民族主義者が統合を果たせず、派閥争いをつづけているあいだに、日帝は彼らのなかに手先を潜入させて、反日独立運動家をたやすく捕らえていった。なによりも心の痛む損失は呉東振が逮捕されたことだった。日帝警察は手先の金宗源を使って、朝鮮の大金鉱主崔昌学が長春に来ている、彼と交渉すれば莫大な独立運動資金が得られるといって呉東振をおびきだし、長春付近の興隆山駅で逮捕した。

    わたしはその知らせを聞いて、あまりのくやしさにしばらくは食事をとる気さえしなかった。

    ところが不幸が重なって、その後、呉東振の息子呉京天が吉林映画館へ映画を見にいき、火災事故にあって死んだ。わたしが火事場に飛びこんで救い出したのだが、不幸にも命をとりとめることはできなかった。夫が獄につながれ、息子まで亡くした夫人は、悩み苦しんだあげく気がふれてしまった。われわれが訪ねていって慰め、介抱に努めたが、無駄だった。夫人は気の毒にも世を去った。呉東振が決死の覚悟で法廷闘争をくりひろげているというのに、一方では3府統合と銘うって毎日寄り合っては酒宴を張り、勢力争いに明け暮れていたのであるから、われわれの気持が晴れるはずはなかった。呉東振の逮捕で味をしめた日帝警察は、さらに多くの反日運動家を捕えようと血眼になった。それでも3府の指導者たちは正気に返らず、空論に明け暮れていた。 あるとき、彼らはなにを思ったのかズボンの下に砂を入れ、精米所の塀の中で駆け足をやっていた。わたしはそれを見て情けない気持がした。日帝の満州侵略が目前に迫り、祖国の運命がいよいよ暗澹としているときに、朝鮮独立のために戦うという人たちがこれでよいのだろうかという思いにとらわれた。わたしはこらえきれなくなり、「わたしたちは呉東振司令の逮捕で先生方がなにか悟るところがあるものと信じていました。日本が手段と方法を選ばず、名のある反日運動家をつぎつぎに逮捕し処刑しているというのに、先生方はいまなおここで会議ばかりやっていますが、はたしてそれでいいのでしょうか。われわれ青年学生は南満州と北満州、東満州のすべての独立運動家が力を合わせ、すべての朝鮮人が団結できるよう1日も早く3府統合を実現してほしいのです」と切々と訴えた。

    しかし3府の指導者たちは、その後も相変わらず口論と空理空論に明け暮れた。

    あのときの焦燥ともどかしさは、まったく形容しがたいものであった。共産主義運動家たちも派閥争いにうつつを抜かしているのに、まがりなりにも武力を持つ民族主義者までこういう体たらくなのだから、じつにやるせなかった。

    われわれは思いあまって、彼らにもう少し強い刺激を与えようと、民族主義者の権力争いを風刺した演劇をつくった。それが今日まで伝わっている『3人1党』である。

    準備ができあがると、わたしは3府の指導者を招待した。会議で苦労している先生方のために演劇を一つつくったので、疲れをほぐすつもりで観覧してもらいたいというと、彼らは喜んで孫貞道の礼拝堂にやってきた。

    歌や踊りなどいくつかのプログラムが終わったあと、演劇が舞台にのせられた。最初のうち、彼らはなかなかおもしろいといって喜んでいた。ところがそのうち、3人が地位争いをする演劇の内容が自分たちを風刺したものだと気づいた彼らは、かんかんになって「けしからん奴らだ、わしらを侮辱するつもりか!あの成柱は生意気になった」と席を蹴って出ていった。

    翌朝、彼らを訪ねたわたしは、そしらぬ顔をしてたずねた。

    「昨晩、先生方はどうして公演の途中でお帰りになったのですか。最後までごらんになったらおもしろかったでしょうに」

    老人たちは怒って、「おまえたちは昨晩、なんとわれわれをなじったんだ」とわたしに食ってかかった。

    わたしは彼らに心からいった。

    「なにも、そんなに怒る必要はないではありませんか。先生方が争ってばかりいるのがやりきれなくて、演劇をつくってみたのです。昨晩の演劇は青年の気持を代弁したものです。青年がなにを志向し、大衆がなにを望んでいるのか、先生方にも知っていただきたいのです」わたしの条理をつくした忠告に刺激された彼らは、若い者たちのてまえ、なにか一つつくりださねばならないといった。

    その後、3府は形ばかりではあったが、国民府という名で統合された。それは正義府の残留派と新民府の民政派、参議府の沈竜俊派の連合による中途半端な統合であった。

    正義府の脱退派と参議府の促成会支持派、新民府の軍政派は、ほかに臨時革新議会という団体を組織して国民府と並立した。各派の指導者は国民府という同じ屋根の下に入ってからも、背を向け合って互いに自分の夢を追っていた。

    民族主義陣営の保守勢力は、このように新しい思潮を排斥し、派閥争いのなかで終焉を告げた。彼らが戦場で日本軍と戦おうとせず、派閥争いと口論で歳月を送ったのは、朝鮮民族自体の力で祖国を解放しようという確固とした決心がなかったからである。

    歴史はまさに、民族解放闘争における世代交替をさしせまった課題として提起していた。われわれは、青年共産主義者こそ世代の交替を果たす主人公であると考えた。

    

    

    

    8 車光秀が求めた道

    

    

    

    吉林時代を回想すれば、忘れがたい多くの人たちの顔が思い浮かぶ。彼らの前列にはつねに車光秀が立っている。

    わたしが彼とはじめて会ったのは、1927年の春であった。わたしに車光秀を紹介したのは崔昌傑だった。崔昌傑は華成義塾が廃校になったあと、正義府の本拠の一つであった柳河県の三源浦で独立軍に服務していた。ある日、彼の連絡員が手紙を持ってわたしを訪ねてきた。手紙は、車光秀という人物が吉林に行くから会ってほしいということと、自分もおっつけ吉林に出むくという内容だった。

    数日後、わたしがキリスト教青年会館での講演を終えて帰ろうとしたときである。首がやや横に傾いたメガネの青年がわたしの前にあらわれ、だしぬけに、崔昌傑を知っているかとたずねた。わたしが知っていると答えると、彼はやにわに手を差し出した。それが車光秀であった。

    その日、車光秀はあまり語ろうとせず、しきりにわたしに話をさせた。それでおのずと彼が質問し、わたしが答えるという形の対話になった。

    彼はなんとも無愛想で、取っ付きにくいという印象を残して、どこへ行くともいわずに立ち去ってしまった。

    しばらくして、約束どおり崔昌傑が吉林に来た。吉林には正義府の指導部があり、彼らを護衛する中央護衛隊が新開門の外に幕舎を張っていた。崔昌傑は自分の中隊から中央護衛隊に連絡する用務ができたのを幸いに、吉林へやってきたのである。

    わたしは崔昌傑に、車光秀との対話の内容や彼の初印象について語り、彼がまだ心を許そうとしていないようだと話した。

    崔昌傑は、自分がはじめて彼に会ったときもやはりそういう印象だったが、付き合ってみると情義に厚い人間だといった。

    ある日、崔昌傑が所属している独立軍の中隊長に、柳樹河子学校に共産主義の宣伝をする教員がいるという通報が入った。

    中隊長はただちに、その教員の逮捕を命じた。崔昌傑は、共産主義といえばあたまから異端視する独立軍に車光秀が乱暴されるのではないかと思い、自分の影響下にある隊員たちによく言い含めて任務につかせた。隊員たちは車光秀の下宿先で夕食をとることになったのだが、出された食事はずいぶん粗末であったようである。粟飯をひとさじすくって水に入れると、死んだコメムシや粟がらが浮き上がってきたという。 行く先々で供応をうけるのが当然のことと思っていた隊員たちは、これでも飯か、独立軍をなんと心得ているのか、とわめきだした。

    そのとき、車光秀が主人をかばった。

    「当家の主人はここ数日来、穀物を切らして菜っ葉で口しのぎをしているのだ。それでも独立軍をもてなそうと、地主から穀物を借りてきて飯を炊いてくださったんだ。それが無礼だというなら、そんな粟をくれた地主が悪いのであって、心をこめてもてなす主人になんの罪があるというのだ」

    額に青筋を立てて息まいていた独立軍の隊員も、車光秀の話を聞いて口をつぐんでしまった。もっともな話で、難癖のつけようがなかったのである。

    最初は、独立軍をなんと思っているのかとわめいていた彼らであったが、しまいには車光秀の人柄にすっかり惹かれ、逮捕はおろか手ぶらで帰り、車光秀という人は共産党ではなく、たいへんな愛国者だと中隊長に報告した。

    崔昌傑自身も、車光秀に会ってみると、たしかに付き合ってみるだけの人物だというのであった。もともと崔昌傑は、いったん気に入った人間には最後まで真摯に誠意をつくす性分だった。

    わたしは、彼が気に入ったのなら、車光秀はよい人物に違いないと信じた。

    崔昌傑が帰って1週間ほどしてから、車光秀がまた前ぶれもなくあらわれた。彼はしばらく吉林を見物して歩いたと一言いってから、やぶから棒に、民族主義者との同盟問題をどうする考えなのかと聞いた。蒋介石の中国共産党にたいする背信行為をめぐって、当時、共産主義運動内部では民族主義者との同盟問題がさかんに論議されていた。

    この問題にたいする見解は、真の共産主義者と日和見主義者とを識別する一つの試金石となっていた。そのため、車光秀も会うやいなやわたしの見解をたずねたに違いない。事実、蒋介石の変節によって中国革命には複雑な事態が生じていた。

    蒋介石の背信行為以前までは、中国革命がめざましい高揚期にあった。中国共産党と国民党の合作は、革命推進の強力な要因であった。

    1920年代の後半期から、中国革命は革命戦争の方法で全国の反動支配をくつがえす方向に進んだ。帝国主義打倒、軍閥打倒、封建勢力粛清のスローガンのもとに、1926年の夏から北伐を開始した国民革命軍は、湖南、湖北、江西、福建などの各省を掌握して揚子江流域の主な都市をあいついで占領し、日帝の肩入れで華北地方まで手中に収めていた張作霖反動軍閥に強力な圧力を加えていた。

    上海の労働者は3回にわたる英雄的蜂起によって都市を掌握し、武漢と九江の人民は北伐革命の勝利に励まされて、イギリス帝国主義者から租界地を奪い返した。労働者はゼネストによって北伐軍の進攻に呼応し、農民は労働者とともに死を決して大挙北伐戦争に参戦した。こうしたときに、蒋介石は国共合作をくつがえし、革命を裏切ったのである。彼は革命の指導権を独占するために、陰謀をめぐらして国民党指導部と政府から共産主義者を除去しはじめ、帝国主義列強の支持を得るための裏工作を猛烈に展開した。蒋介石の背信行為がなかったなら、中国革命はより長足の前進をとげていたはずであり、したがって民族主義者との同盟問題もいまのようにするどく提起されはしなかっただろう、といって車光秀はたいへんくやしがった。

    広東革命根拠地が強固になり、北伐革命が日程にのぼると、蒋介石はすかさず軍事独裁を樹立し、共産党にたいするファッショ的なテロ戦に移った。1926年3月、彼は中山艦事件を起こし、それを契機に黄埔軍官学校と国民革命軍第一軍から周恩来をはじめすべての共産党員を締め出し、1927年3月には孫中山の3大政策を支持する国民党南昌市党部と九江市党部を武力で解散させ、3月31日には重慶で 大衆集会場を襲撃して数多くの市民を虐殺した。

    さらに1927年4月12日には、上海で野獣のごとく革命大衆を虐殺した。この血なまぐさい大虐殺は地方にまで波及した。

    この事件を境にして、中国革命は一時、退潮期に入った。国際共産主義運動内部では、中国革命のこうした実態から教訓を汲みとるべきだとして、共産主義者は民族主義者と手を握ってはならないという極端な主張まで一部にあらわれた。こうした雰囲気がたぶん、車光秀に刺激を与えたようである。 朝鮮の共産主義者が祖国解放のため民族主義者とも手を結ぶべきだというのは、「トゥ・ドゥ」結成当時からのわれわれの立場であった。その日、わたしは車光秀に、朝鮮の一部の堕落した民族主義者が日帝に屈して「自治」や民族改良主義を説いているが、良心的な民族主義者と知識人は国内と海外で志をまげず、朝鮮独立のためにたたかっている、日帝の野蛮な植民地支配を体験している朝鮮の民族主義者は反日精神が強い、したがって、そういう民族主義者、民族資本家とは手を結ぶべきだ、と話した。

    民族主義者との同盟問題にかんするこのような見解は、民族主義にたいするわたしなりの独自の解釈にもとづいていた。現在もそうであるが、当時も、わたしは民族主義を民族解放闘争の舞台に真っ先に登場した一つの愛国的な思潮とみなしていた。

    もともと、民族主義は民族の利益を擁護する進歩的思想として発生した。

    没落の下り坂を歩んでいた王政の末期に、内憂外患がつづき、外部勢力の強要による開国の陣痛のため国運が旦夕に迫っていたとき、開化ののろしを上げ、「自主独立」「輔国安民」「斥洋斥倭」を唱えて歴史の舞台に登場したのがほかならぬ民族主義であったといえる。民族の自主権が外部勢力によって無惨に踏みにじられ、国土が利権争奪をめざす列強の角逐の場と化していたとき、民族の利益を擁護する思潮が登場して大衆の指導思想となったのは、歴史の発展法則に合致する必然的な現象である。

    新興ブルジョアジーが民族主義の旗をかかげ、民族運動の先頭に立ったからといって、民族主義が最初から資本家階級の思想であったとみるのは、公正な見解とはいえない。

    封建主義に反対するブルジョア民族運動の時期には、人民大衆の利益と新興ブルジョアジーの利益は基本的に一致していた。したがって、民族主義は民族共通の利益を反映していた。

    その後、資本主義が発達し、ブルジョアジーが反動的支配階級になってから、民族主義は資本家階級の利益を擁護する思想的道具となった。したがって、民族の利益を擁護する真正な民族主義と、資本家階級の利害を代弁する思想的道具としてのブルジョア民族主義は、つねに区別して見なければならない。これを同一視するなら、革命実践上、大きな過ちを犯すようになる。

    われわれはブルジョア民族主義には反対し警戒するが、真正な民族主義にたいしてはこれを支持し歓迎する。なぜなら、真正な民族主義の基礎をなす思想・感情は愛国心であるからである。愛国心は共産主義者と民族主義者に共通の思想・感情であり、両者が民族のための一つの軌道で互いに和合し、団結して協力できる最大公約数である。愛国愛族は共産主義と真正な民族主義とを結びつける大動脈であり、真正な民族主義を連共の道へ導く原動力である。

    かつて、真正な民族主義者はこの愛国愛族の旗のもとに、国の近代化と外敵に奪われた国土を取りもどすたたかいで少なからぬ功績を積みあげた。

    現在、北と南に相異なる体制と思想が存在する分断状況のもとでも、われわれが祖国統一への確固不動の信念をいだき、その実現をめざして頑強にたたかっているのは、まさに共産主義者と真正な民族主義者が共有する愛国愛族の精神に、民族和合の大業成就を可能にする絶対的な源泉を見いだしているからである。

    単一民族国家であるわが国において、真正な民族主義はとりもなおさず愛国主義であるというのは、動かしがたい一つの原理である。こうした原理からして、わたしはつねに愛国的な真の民族主義者との団結と協力を重視し、それを朝鮮革命の勝利の確固たる裏付けとみなした。

    これは青年学生運動のころから今日にいたるまで、わたしが変わることなく堅持してきた見解であり立場である。

    わたしは車光秀に会ったその日も、真正な民族主義とブルジョア民族主義は区別しなければならない、と強調した。

    話を終えると、車光秀はいきなりわたしの手をとり、高ぶった声で「成柱!」とわたしの名を呼んだ。

    わたしが理論にすぐれていて彼を納得させたのだとは思わない。すべての問題を朝鮮の具体的現実にもとづいて判断し、空理空論ではなく、革命という実践を重視するわたしの立場と思考方式が車光秀の共鳴を呼んだのであろう。

    それ以来、車光秀は腹を割って話すようになった。わたしにたいする彼の態度は一変した。それまではわたしが主に話をし、彼は聞き手にまわっていたのだが、そのときからは、わたしの方から聞かなくても自分から進んで話した。

    うちとけて付き合ってみると、車光秀はなかなか粋な人間であった。年はわたしより七つも上で、日本へ渡って大学にも通った人だった。文章家で演説も達者だったが、心根がたいへんよくて青年を多く引きつけ、マルクス主義の専門家としてもきわめて人気があった。彼と朴素心がマルクス主義の諸問題をめぐって論争するときなどは、互いに一歩もゆずろうとしなかった。

    火曜派のリーダー金燦も、車光秀の前ではしどろもどろの体だった。彼はマルクス主義にかんする論争では車光秀の敵ではなかった。車光秀は最初、金燦が共産党の大物だというので一目おいていたが、何回か会ってからは中学生なみにあしらうようになった。車光秀にソウル・上海派の申日鎔とも論争させてみたが、彼も車光秀の相手ではなかった。

    車光秀は、首をやや左に傾けて歩く癖があった。幼いころ首に腫れ物ができて、首を曲げて歩いたのが癖になってしまったそうである。車光秀は平安北道の出身だった。幼いころから頭がよくて郷里の人にほめそやされた彼は、10代で日本へ渡って苦学をした。彼がマルクス・レーニン主義書籍を読んで共産主義に引かれるようになったのは、そのころのことだった。車光秀が新思潮を摂取しながら苦学をしていたころ、日本の共産主義運動は下り坂にさしかかっていた。創立して間もない日本共産党は、1923年6月の党指導部にたいする第1次検挙と関東大震災当時の白色テロによってかなり弱体化し、その後、指導部に潜入した日和見主義者の策動によって解散を余儀なくされた。したがって、共産主義運動が退潮期にある日本に居座ってなんらかの運動を模索し、マルクスの書籍をあさっているのは味気のないことだった。車光秀はソウルへもどってきた。ソウルに来ては共産主義運動家たちに会ってみた。ところが、同じマルクス・レーニン主義を唱えながら、派閥や支流があまりにも複雑で、皆目見当がつかない有様だった。車光秀は各派の主張の正否をただし、自分の進路を求めようと、わが国における初期共産主義運動の歴史とその系譜、派閥関係などをじっくりと研究しはじめた。だが、それは迷路をさまようようなものであった。

    3人1党、5人1派式に派閥や支流は数えきれないほどだった。各派はするどく対立していたが、実際上、思想的立場や政治的見解では本質的な違いはなかった。

    車光秀は、自分が国内にいたとき、分派分子の策動のうちでもっとも汚らわしく思ったのは洛陽館事件だったといった。洛陽館事件というのは、火曜派系と北風会派系が洛陽館という料亭で会合を開いたとき、両派の結託に反感をいだいていたソウル派が会場を襲って暴力をふるい、数人に重傷を負わせた事件である。重傷を負った方ではソウル派の加害者を相手どって、日帝の裁判機関に刑事訴訟を起こした。この事件の数日後、北風会派がソウル派の人物に暴行を加えて重傷を負わせた。すると今度は、ソウル派の被害者が日帝の裁判機関に北風会派の加害者を相手どって刑事訴訟を起こしたのである。

    こうした派閥争いがこうじて、ついにはそれぞれテロ団を組織して他派と対決するまでにいたった。

    共産主義運動家と称する人たちがなぜ、あれほどまで堕落しなければならないのだろうか、と四六時中嘆いていた車光秀は、考えぬいた末にソウルを離れて満州にやってきた。満州はソ連に近いから、そこへ行けばコミンテルンのルートを探り当て、朝鮮共産主義運動の新しい道が求められるのではなかろうかという、一縷の望みからである。

    満州で、彼は政友会宣言というものを読んだ。分派分子は政友会宣言で、朝鮮共産主義運動を分派闘争から救い出すため、互いに中傷することをやめて公開討論を進め、理論闘争によって大衆に正しい進路を示すべきだと力説した。しかし、もし政友会の主張どおり公開論争をおこなえば、利益を得るのは朝鮮共産主義運動ではなく日帝の特高の方だった。 朝鮮共産党が創立されたのち、火曜派はソウル派と対立して派閥争いをつづけながら、自派の優勢を誇示するため、彼らが準備していた民衆運動家大会の準備委員72人の名を新聞紙上に公開したことがある。それは、ヘゲモニー争いに血眼になった分派分子が、共産党幹部の名簿を日帝にそっくり引き渡した公開密告書にひとしいものであった。日帝はそれを手がかりに共産党の幹部を大々的に検挙した。この検挙旋風によって、火曜派の人物はほとんど獄につながれる破目になったのである。その教訓を忘れ、分派分子の主張どおりこれからまた公開論争を展開するとなれば、いかなる事態になるかは火を見るより明らかだった。日本の実情に明るい車光秀は、政友会宣言が日本共産主義運動内にあらわれた日和見主義的思想潮流である「福本主義」の焼き直しであると糾弾した。

    福本は、党再建のためには「理論闘争」を通じて純粋な革命意識をもった者とそうでない者とを選り分け、純粋な要素のみを結合すべきだと説いたのであるが、彼の分裂主義的でセクト主義的な主張は日本の労働運動に大きな弊害をもたらした。

    車光秀は、福本の理論をうのみにして文章まで引き写した政友会宣言に唾を吐いた。

    彼は分派分子の犯罪行為に幻滅を感じて柳河へ行った。田舎教師になって、子どもたちに民族の精気を植えつけ、静かに生きていこうと決心したのだった。そうこうしているうちに崔昌傑に出あい、彼の紹介で吉林にやってきたのである。

    異国で雨に打たれて歩くとき、力と希望を与えてくれる正しい闘争路線と指導者を渇望してやまなかった、と車光秀は率直に吐露した。

    彼は自分の経歴を紹介してから、訴えるようにこういった。

    「成柱、ぼくらは互いに信じ合い、愛し合いながら共産主義運動ができないものだろうか?分派とヘゲモニー争いをせずにだ!」

    車光秀のこの叫びは、革命の道を求めて他郷万里をさまよい歩いた末に得た人生の総括であり、教訓でもあった。

    わたしも彼の手をとり、われわれ新しい世代は分派分子のように分裂の道を歩むのでなく、一心同体となって革命の道をまっすぐに歩んでいこう、と高ぶる声でいった。

    車光秀は、崔昌傑からわたしを紹介されたときの気持も率直に打ち明けた。吉林で学生運動をしているわたしのことを聞いた彼は、中学生がマルクス・レーニン主義を理解し、共産主義運動をするといったところで程度は知れていると思ったが、ともかく一度会ってみようという気になった、と率直にいった。だからわたしは、人付き合いがよくてひょうきん者の彼を、最初は無愛想な男だと思うほかなかったのである。

    車光秀はその後まもなく、「トゥ・ドゥ」の盟員になった。その年の夏、わたしは車光秀を新安屯へ派遣した。新安屯は吉長線の沿線西方のさほど遠くないところにある小さな村で、朝鮮の愛国志士たちが理想郷として開拓した土地だった。満州の朝鮮人居留地域のなかでも有数の政治運動の策源地だった。この村を革命化すれば、農民大衆のなかに入る最初の通路が開かれるはずであった。わたしは車光秀にその任務をまかせたかった。わたしが新安屯村へ行って活動してもらいたいというと、車光秀はけげんそうな顔をした。田舎から運動のルートをやっと見つけてやってきた人間を、なぜまた田舎へやろうとするのか、と冗談まじりにたずねた。他人はソウルだ、東京だ、上海だと大都会を舞台に運動するのもあきたらず、コミンテルンまで訪ねていって意気さかんなところを示しているのに、ちっぽけな村へ行っていったいなにをするというのか、というのだった。彼は古い運動方式に反対しながらも、既成観念から脱皮できずにいたのである。わたしは車光秀に、つぎのような内容の話をした。大都市でなくては革命ができないと考えるのは間違っている。われわれは都会であれ田舎であれ、人民のいるところならどこへでも行かなければならない。わが国では人口の絶対多数が農民だ。満州地方の朝鮮人もそのほとんどが農村に住んでいる。農民のなかに深く入っていかないことには、祖国解放の偉業に人民を立ち上がらせることができないし、わが国での共産主義運動の勝利についても考えることはできない。わたしも学校を出たら農村へ行って活動するつもりだ。コミンテルンとのつながりがなくては、共産主義者の名分が立たないかのように思うのも正しくない考え方だ。共産主義者がコミンテルンを尊重するのは、労働者階級の偉業が国際的性格をおびているからであり、労働者階級が国際的に団結せずには、国際的に結びついた資本の鉄鎖を打ち砕くことができないからだ。ひたすら自分に負わされた民族的義務と国際的義務を果たすために誠実にたたかうならば、コミンテルンの承認もうけられるはずであり、われわれが渇望してやまない祖国解放の日も早めることができるだろう…

    いま運動家と称する人たちは、みな上の方へばかり行こうとしている。田舎から地方都市へ、地方都市からソウルへ、ソウルからコミンテルンへと上へあがって行かなくては数のうちに入れず、認められもしないと考えている。無産大衆のための革命を叫びながら、大衆から浮きあがって上にばかりあがろうとしてはどうするのか。われわれは下へおりていこう。おりていって労働者、農民のなかに入ろう…

    「上へあがるのでなく、下へおりていこう」 車光秀は深刻な面持ちで噛みしめるようにこうつぶやくと、しばらく考えこんでいたが、いきなり拳骨で机をドンとたたき、「まったくすばらしい発見だ!」と叫んだ。

    車光秀の出現によって「トゥ・ドゥ」の中核は新たに補強された。われわれの運動圏に、朝鮮共産党の大物とも実力を競えるそうそうたる理論家が登場したわけである。

    それ以来、車光秀は3年余り、われわれと苦楽をともにした。彼は青年学生運動の開拓と大衆の革命化の促進、抗日武装闘争の基礎構築に不滅の貢献をした。新安屯、江東、蛟河、孤楡樹、卡倫、五家子、柳河地方の革命化は、彼の名と切り離して考えることはできない。車光秀は最初、吉林周辺の朝鮮人村落を革命的に改造する活動に参加し、その後は吉林を軸にして南満州の柳河と卡倫、孤楡樹、五家子など中部満州の朝鮮人居住地で金園宇、桂永春、張蔚華、朴根源、李鍾洛、朴且石などとともに青年を結集する活動に参加し、最後のころは、安図一帯で反日人民遊撃隊の創建に参加した。彼はどの土地へ行っても人びととすぐなじんだ。大衆性があったからである。人びとは、性格がおおらかなうえ、知識が豊かで弁の立つ彼を非常に慕い、尊敬した。車光秀が担当した社会科学課目の授業は、三光学校(孤楡樹)の生徒がいちばん大きな期待と興味をもって待ち遠しく思うほど、人気のある時間の一つだった。彼は青年学生と農民のために講演をたびたびおこない、歌も大いに普及した。白信漢の追悼式でおこなった彼の追悼の辞は有名だった。車光秀がもっともよく通ったのは新安屯である。彼は新安屯の吉興学校の教員を勤めていたとき、この学校の学監の家に寄宿して、村の農民や青年、女性を革命的に教育し、彼らを反帝青年同盟、農民同盟、婦女会、少年会などの各組織に加入させて村を革命化した。新安屯は民族主義者と分派分子の影響下にあったところだった。 分派分子がときどきあらわれては、「無産階級革命論」だのなんだのと、わけのわからないことばかり並べたてるので、封建的因習の強いこの村の老人や大人たちは、社会主義といえばうむをいわせずかぶりを振った。そんな土地柄だったので、車光秀も最初はなかなか足がかりがつくれなかった。彼はある家の一間を借りて壁紙をきれいに貼り、そこを村人のたまり場として開放し、物知りの老人を二人ほど選んで村の年寄りたちに宣伝活動をさせた。

    老人たちは晩になるとキセルを腰にさして、そのたまり場に集まってきた。すると車光秀が準備させた老人があれこれとおもしろい話を聞かせ、最後に「いまの世の中は悪い世の中だ。こんな世の中をなくすには地主からなくさにゃならん」といったふうに、革命につながる話をちょっぴりつけ加えてからみこしをあげた。

    こうして老人から先に啓蒙したあとで夜学を開き、講演をおこない、村人と一緒に歌や踊りにも興じて村の雰囲気を明るくした。それで村人たちは、車光秀先生のやるような社会主義なら反対しないといって、革命活動に積極的に参加するようになったのである。わたしは車光秀が新安屯に腰をすえてから、土曜日の授業が終わると、彼のところへよく出かけていった。当時、われわれは敵の目をそらすため、吉林郊外のコウリャン畑やトウモロコシ畑の中で学生服を農民服に着替えた。新安屯へ行っては、車光秀の活動経験を聞き、仕事の手伝いもした。そのような過程で、わたしは車光秀をより深く理解し、彼もわたしをいっそうよく知るようになった。 われわれが車光秀を通じて新安屯村の革命化を進めていたある日のことである。車光秀が吉林にあらわれ、わたしを北山公園に連れ出した。公園の木陰に並んで座ると、彼は許律という注目に価する人間がいると切り出した。竜井の東興中学校に在学していたときから革命活動に関係していた許律は、最近、法政大学に進学しようと吉林にやってきたのだが、学費の工面がつかず断念したという。車光秀が許律に関心をもつようになったのは、彼の背後関係のためだった。車光秀の話によると、許律を吉林に送ったのは金燦だったという。そのときまで、車光秀は金燦に幻想をいだいていた。 わたしは彼の話を聞いて驚いた。金燦といえば、わが国の初期共産主義運動の大物の一人である。

    彼は第1次共産党の宣伝部長を勤め、第2次共産党結成のさいにも主導的役割を演じた。その後、逮捕される危険にさらされると、上海へ逃れて朝鮮共産党上海部を組織した。金燦は火曜派の代表的人物で、朝鮮共産党「満州総局」の実質上の組織者だった。彼が自分の影響下にある青年を吉林に送りこんだのは、われわれに目をつけたからだった。吉林でわれわれが共産主義の旗をかかげて青年学生運動を展開しているといううわさが広がると、彼もわれわれに注目するようになった。そして、われわれの勢力が大きくなるのを見て、しっかりした者を送って彼らの影響力をおよぼそうとしたのである。

    金燦自身も吉林にやってきて青年学生と接触し、たびたび講演もした。わたしも彼の講演を聞いたことがある。「マルクス主義大家」の講演だというので、車光秀と一緒に彼が泊まっていた大東門外の李琴川の家を訪ねてみたが、革命に有害なたわいのないことをいうので失望させられた。

    金燦は、自派を朝鮮革命の「正統派」だとして他派をこきおろした。はなはだしいことに、朝鮮革命は無産革命だから、その原動力は労働者と貧農、雇農で、その他いっさいの非プロレタリア的要素は革命の原動力になりえない、という不当な主張までした。

    わたしは彼の演説を聞きながら、そのような主張は人民大衆の頭を混乱させ、革命実践に莫大な弊害をおよぼす危険な奇弁であり、そういう奇弁とたたかわずには共産主義運動の正道を進めないであろうと痛感した。車光秀も同感だといって、自分はそうとも知らずに金燦をあがめてきたといった。

    当時、分派分子は自派勢力の拡張をはかって、各地で青年に触手をのばしていた。

    そのころ、M・L派の安光泉という人物も白いトゥルマギ(周衣)姿で吉林にあらわれ、共産主義運動の「領袖」気どりで自派勢力の拡張に奔走した。彼はひところM・L系共産党の責任書記を勤めたこともあって、自尊心がたいへんなものだった。吉林には彼を「マルクス主義の大家」としてまつりあげる人が多かった。

    車光秀が、安光泉は理論家として知られている人物だというので、われわれの活動に有益な話を聞かせてもらえるかもしれないと思い、わたしは2度ほど彼と会ってみた。彼も金燦に劣らず演説は上手だった。最初は彼の演説を聞いてみな感嘆した。だが、その印象は間もなく崩れ去った。彼は大衆運動を無視する暴言を吐いた。コミンテルンや大国の力を借りれば、大衆闘争をせずとも革命の勝利を得ることができるというのである。朝鮮のように小さい国は大衆闘争などして無駄な血を流すことなく、大国の力を借りて独立を達成すべきだと力説するのだった。まったく空中楼閣にひとしい奇弁であった。それでわたしは、この人間もやはり金燦と同じ空論家にすぎないと思い、彼に、先生のお言葉はとても納得できないといった。先生は大衆闘争をないがしろにしながら、なぜ共産党を組織し、共産主義運動をするのか、吉林に来て革命に決起せよと大衆にアピールするのはなんのためなのか、と反問した。そして、大衆を自覚させ、結集して闘争に奮い立たせず、幾人かの共産党指導部の力だけで勝利することはできない、人民を信頼せず、他人の力を借りて独立を達成しようとするのは妄想だと反駁した。安光泉はわれわれを小馬鹿にした態度で、それを理解するには酸いも甘いも噛み分けなくてはならない、と空笑いをしながら席を立った。それ以来、われわれは彼を相手にしなかった。当時、分派分子は「朝鮮革命はプロレタリア革命」だの「満州の朝鮮人居住地域でまず社会主義を建設してみよう」といった左傾日和見主義理論をもちだすかと思えば、「朝鮮革命はブルジョア民主主義革命であり、民族解放が当面の目的であるから、革命のヘゲモニーは民族ブルジョアジーが掌握すべきだ」といった右傾日和見主義理論を唱えたりしていた。分派分子のなかには、朝鮮のように政治的条件の不利な特殊環境では思想運動はできても政治運動はできないという者もいれば、「独立が先で革命はあと」だという者もおり、「資本主義に反対し世界無産革命を完遂しよう」という超革命的なスローガンで大衆を唖然とさせる者までいた。

    わたしと車光秀は、申日鎔のような人とも論戦した。いろいろな分派分子に会ってみたが、彼らは例外なく功名主義とプチブル英雄主義に毒されたはったり屋であり、徹底した事大主義者、教条主義者であった。その日、わたしは車光秀に、金燦がいかにうわさの高い人物だとしても、分派の悪習にどっぷりつかった人物だから幻想をもつべきではない、われわれは誰であれ、名声や経歴、地位を見る前に、その思想と革命にたいする立場、人民にたいする観点を先に見るべきだと忠告した。

    すると車光秀は、自分たちは共産主義運動の第1歩を踏み出したばかりなので、金燦のような大物と対立するより手を結ぶほうが有利だと判断したのだが、甘かった、許律とは即刻手を切る、といった。彼の態度が一変したのを見て、わたしは慎重にならざるをえなかった。許律が分派に染まっている人間ならただちにいっさいの関係を断つべきだが、一時的に道を踏みあやまったのなら、過ちをさとして手を結ぶべきであった。われわれは許律に会ってみることにした。

    ある日、わたしは車光秀の案内で許律のいる江東村へ行った。吉林から松花江橋を渡って敦化方面へ少し行くと竜潭山という山があるが、その山のふもとの村が江東だった。われわれはそこに反帝青年同盟を組織し、大衆を啓蒙して、やがては新安屯のように革命化された 村にする計画だった。

    許律に会ってみると、着実でまじめそうだった。どう見ても、分派の泥沼に落ちこむのを放っておくには惜しい青年だった。

    わたしは彼に車光秀をつけて影響をおよぼす一方、わたし自身も江東村へたびたび行って、いろいろと援助を与えた。

    許律はわれわれの信頼に背かなかった。分派の地ならしをしようとした彼が、しまいには分派に反対して金燦に背を向けるようになった。われわれはついに江東村に革命組織をつくり、それにもとづいて村全体を革命化し、許律を「トゥ・ドゥ」の中核に、のちには反帝青年同盟と共青の指導メンバーに育てあげたのである。

    

    

    9  旺清門の教訓

    

    

    

    1929年の秋、国民府は興京県旺清門で東満青総と南満青総を統合する大会を招集した。これを南満青総大会と呼んだ。

    国民府の指導者たちは3府合作が実現した客観的条件に即応して、青年運動でも分散性を克服し統一的指導を保障すべきだとして、両青年団体の統合大会を招集し、そこで朝鮮青年同盟という単一組織を結成しようと企図した。彼らは大会を通じて、青年組織内に浸透しつつあった新思潮の影響を防ぎ、満州一帯の朝鮮青年団体をすべて自己の掌中におさめようとした。

    われわれは東満青総や南満青総のような青年組織とは関係なく独自に活動していたので、この大会に参加する必要はなかった。だが、大会を国民府の人たちにまかせきるわけにはいかなかった。南満青総と東満青総には分派分子の影響も少なからずおよんでいて内部が複雑だった。まかり間違えば、大会を契機にかえって青年運動の分裂をいっそう深めるおそれがあった。

    われわれは大会に主動的に参加して青年の分裂を防ぎ、青年団体の代表たちによい影響を与える必要があると考えた。

    わたしは白山青年同盟の代表として南満青総大会に参加することにし、金史憲と一緒に吉林を発った。金史憲は朝鮮革命党の会議に参加するため旺清門へ行くところだった。彼はわたしの旅費を負担してくれた。朝鮮革命党は国民府の成立後、その憲章にもとづいて独立軍が結成した政党である。民族主義者は国民府は自治行政機関で、朝鮮革命党は民族主義陣営全般を指導統制する民族唯一党と称していたが、実際上は国民府の変身にすぎなかった。

    わたしは旺清門へ直行するつもりだったが、金赫、車光秀、崔昌傑に会いたくて、彼らが活動している柳河県にしばらく立ち寄った。彼らは柳河一帯の反帝青年同盟組織を拡大しつつ、猛烈な活動を展開していた。車光秀は孤山子東盛学校に特別班を設け、共産主義者を育成していた。表向きは特別班と呼んでいたが、内部での名称は社会科学研究会であった。この研究会には反帝青年同盟の支部が組織されていた。彼らは孤山子にかぎらず、南満州の各農村にそういう形式の研究会を設け、数多くの青年を教育して共青と反帝青年同盟組織を結成した。わたしは現地に行ってはじめて、彼らがわたしに報告した内容をはるかにしのぐ活動をしていることがわかった。柳河での日程を終えて旺清門へ向かおうとすると、車光秀が同行するといいだした。国民府の上層部の人物が共産主義に同調する青年の行動に目を光らせているから、わたしを一人で行かせては安心できないというのである。われわれが旺清門に到着したときは、すでに吉林青年同盟、吉会青年同盟、三角州青年同盟など各青年組織の代表たちが来ていた。

    わたしは到着するとすぐ玄黙観を訪ねていった。玄黙観は国民府の結成後、吉林から旺清門に移っていた。彼は、国民府本部が成柱に大きな期待をかけているから、今度の大会で重要な役割を果たしてほしいといった。そして、会議の期間は自分の家に寝泊りして、青年運動の将来について語り合おうといった。

    わたしは彼の誠意がありがたかったが辞退して、母方の遠縁にあたる康弘楽の家に泊まることにした。大会の準備メンバーがせわしなく出入りする玄黙観の家は、わたしが泊まれるような状態ではなかった。康弘楽は民族主義左派に属する知識人で、化興中学校で教鞭をとっていた。この学校は東満州の大成中学校と同様、独立軍が民族主義の教育をほどこしている学校だった。ところが、彼らがいくら民族主義教育を実施しても、出てくるのは共産主義者ばかりだった。看板は民族主義だが、内容は共産主義だったのである。康弘楽の妻の呉信愛は、容姿端麗なモダン女性だった。歌が上手で、南満州地方の組織では「ウグイス」という愛称で通っていた。国民府は大会に先立って、各地域から来た青年組織の代表たちで予備会議を開き、大会準備委員を選出した。準備委員会には崔峰をはじめ、われわれの同志も何名か加わった。崔峰とは華成義塾時代に知り合った仲だった。南満青総で幹部として活動していた彼は、当時、朝鮮人居住地域をたびたび演説して歩いた。華成義塾に来て講演をしたときも、なかなかの好評だった。理論水準が高く、仕事熱心なしっかりした青年だった。その後、彼はわれわれと親しくしているうちに 共産主義に同調するようになった。

    わたしも準備委員に選ばれた。準備委員会では十分な討議をへて、誰にも受け入れられる大会決議案を作成した。その他の文章もわれわれの意図通り準備された。

    わたしは旺清門に到着した翌日から、青年代表に働きかけた。その手はじめとして、化興中学校の校庭で青年の集会を開いた。いろいろな青年組織の代表が一堂に会した機会に知り合って、影響を与えようという考えからである。あらかじめ話をしておかなければ、彼らが国民府の指導者たちに翻弄されるおそれがあった。わたしはこの集会で、朝鮮青年運動が真の統一をとげるためには思想、意志のうえで団結すべきであり、それは新たな先進思想にもとづく団結であるべきだと強調した。ところが、その演説内容がすぐ国民府の指導者たちに知らされたようである。わたしは金利甲を通じて、彼らがわたしの動きに神経をとがらせていることを知った。柳河を発つとき、車光秀が心配したのは根拠のないことではなかったのである。

    「トゥ・ドゥ」の最初のメンバーの一人であった金利甲は、華成義塾の廃校後、旺清門からほど遠くない全京淑という婚約者の家に身を寄せて、その一帯の革命化に努めていた。展開力があり胆が太くて、仕事の進め方も大胆だった。「反共」を旗じるしのように振りかざしている民族主義者の活動地域で、人びとに共産主義を宣伝するのは容易なことではなかった。

    金利甲は大会を傍聴するため旺清門に来ていた。わたしが化興中学校で演説をした翌日、彼はわたしを訪ねてきて、全京淑の家で夕食を用意したから一緒に行こうといった。彼がわたしを招いたのは、国民府の動静を知らせるためだった。

    彼は、国民府は大会準備委員の全員逮捕をもくろんでいるといった。そして、国民府が手を打つ前に早く身をひそめるほうがいいと勧め、自分も様子を見てどうしても危なかったら、その晩のうちに旺清門を去るつもりだといった。彼の話によると、玄黙観が国民府の幹部の集まった場所で、成柱はもう自分たちとは思想が違うのだから、このさい決着をつけるべきだといったそうである。

    しかしわたしは、あらかじめ身をひそめるつもりはなかった。なにも国民府を害した覚えのないわたしを、まさか捕えるようなことはしないだろうと高をくくっていたのである。共産主義の宣伝をするからといって、玄黙観がわたしを問題にするというのも論外だった。わたしが共産主義運動をしているのは、吉林の民族主義者がみな知っていることだった。もちろん、玄黙観自身もしばらくのあいだ同じ屋根の下で起居をともにしたのだから、それを知らないはずがなかった。だというのに、いまさら逮捕するというのはなんということか。われわれは国民府の打倒を叫んだわけではなく、新しい思想にもとづいて、すべての朝鮮青年が団結しようと訴えただけなのである。それが迫害の理由になるというのだろうか。わたしは、必要なら国民府の幹部と談判をしてみる腹だった。わたしが康弘楽の家へもどると、外出先から帰った呉信愛がまた不吉な知らせをもってきた。崔峰をはじめ数人の大会準備委員が国民府の軍隊に逮捕されたというのである。そして、わたしも彼らが捜している者の一人だから、早く身をひそめるようにというのだった。

    わたしは憤激をおさえることができなかった。われわれは旺清門に来た当初から、南満青総大会を民族主義者との統一戦線実現の重要な契機にするため最善をつくした。大会の決議案もそういう方向で作成されていた。

    それにもかかわらず、国民府の上層部は、われわれの誠意ある努力にテロをもってこたえようとしているのである。

    わたしは、国民府の青年活動の責任者高而虚と会って談判しようと思った。車光秀も国民府の動きを知って、数人の反帝青年同盟員と一緒に康弘楽の家に駆けつけてきた。

    彼らは、まず国民府に狙われている大会準備委員たちが旺清門から抜け出すべきだと主張した。

    しかし、身辺が危ないからといって逃げ隠れしているわけにはいかなかった。

    今度の大会を通じてわれわれの目的を達成することができなくなったいま、残された方法は、国民府のテロ分子と談判して、われわれの正当な立場を明らかにすることだとわたしは考えた。民族主義者との合作を果たすためには、いつか一度は腹を割って話し合う必要があった。雰囲気は殺伐としていたが、いまがその好機だといえた。逮捕された同志を救い出すためにも、ぜひ彼らに会わなければならなかった。それも、わたしがじかに行かなければならなかった。

    わたしはみなを説き伏せ、車光秀にあとのことを頼んで高而虚を訪ねていった。

    高而虚は国民府の保守派のうちでも、もっとも傾向のよくない人物だった。民族主義陣営では「理論家」といわれていた。わたしが部屋に入ると、彼はびっくりした。まさか、わたしがやってくるとは思わなかったようである。

    わたしは高而虚に、崔峰などの大会準備委員を逮捕した理由をただした。ところが彼は、自分たちもいま彼らの行方を探しているところだとしらを切った。

    わたしは裏表のある彼の態度にいっそう憤りを覚えたが、気を静めて説得に努めた。

    国民府は青年運動の統一をめざして会議を招集したはずなのに、会議で青年の言い分を聞きもせず決議案を見て驚き、代表たちを逮捕するというのはあまりにも性急で独善的な行為ではないか、大会の文書が気に入らないので委員たちを逮捕したとのことだが、どこが気に入らないのか指摘してもらいたい、草案なのだから気に入らなければ手を加えよう、あなたがたは大会の主催者なのだから、気に入らないところがあれば委員たちを呼んで相談すべきであって、なんの罪もない人たちをみだりに捕えていくようでは、青年がどうして安心して新思潮を摂取し、不屈の反日闘士に育っていけるというのか、と追及した。

    高而虚は、青年たちが過激に走っているようなので、それを遺憾には思っているが、逮捕の件についてはあずかり知らないことだと言い張った。

    わたしは彼に、あなたもソウルで学生運動をした経験があり、日本警察の網をくぐってソ連へ行こうとしたくらいだから、共産主義がどんな思潮で、それがどの程度世界に伝播しているかを知らないはずがない、いま革命を志す人で共産主義を理解しない人はほとんどいない、わたし自身にしても同様だ、わたしは独立運動家が設立した華成義塾に通い、吉林に来てからも独立軍指導者たちの家に3年も身を寄せていた、そんなわたしでさえ民族主義運動ではなく共産主義運動をはじめるようになったのだ、青年が新しい思想を信奉するのは、共産主義の理念に従う道が祖国の解放を早める道であり、わが民族の将来に幸福をもたらす道だと確信するからだ、あなた方も祖国独立のために立ち上がった人たちであるのに、国と民族の未来のために奮闘している青年を援助できないまでも、逮捕するというのはもってのほかだ、と抗議した。

    そして、新しい思潮に従う青年を迫害しようとせず、手をとりあって反日共同闘争を展開すべきだと訴えた。

    事実、共産主義を信奉する青年を除いてしまえば、南満青総そのものが存在できない状態であった。

    高而虚は鼻で笑いながら、国民府はたとえ南満青総を捨てるようなことがあっても、共産党の手に渡すわけにはいかないというのだった。

    わたしが、どうしてかと反問すると、彼は、磐石県でM・L系の分派分子らが棍棒団というテロ団を組織して民族主義者を襲撃した事件を例にあげ、そういう者たちとどうして手をとれるのか、とあざけった。

    わたしも、1929年の夏、M・L派が三源浦一帯で民族主義者を倒そうとして、国民党軍閥の警察に朝鮮の独立運動家たちが反乱を企てているという虚偽の密告をした事実があったことを知っていた。M・L派は民族主義者との統一戦線を主張するわれわれのことも快く思わず、棍棒団をくりだして反帝青年同盟の幹部を襲撃する暴挙をあえてした。柳河一帯の反帝青年同盟員が崔昌傑の率いる武装グループの護衛をうけるようになったのも、棍棒団の暴行のためだった。わたしは高而虚に、われわれはそういう分派分子とは全然無関係な青年たちだと、また説得に努めた。分派分子は民族主義者ばかりでなく、われわれにも争いを挑み、彼ら同士でも派閥をつくってたえずいがみあっている醜悪なやからだ、そういう連中とわれわれを同じ秤で計ろうとしてはいけない、と強調した。しかし、高而虚はわたしの誠意ある説得を最後まで受け入れようとしなかった。わたしは、もしあなたたちがあくまで青年の気勢をくじこうとするなら、歴史にぬぐいがたい罪悪を残すことになるだろう、あなたたちは何人かの手足を縛ることはできても、共産主義をめざす青年の思想はおさえることができない、よし、わたしを殺すなら殺せ、わたしは死ぬ覚悟ができている、と迫った。

    あれほどいったのだから多少は刺激をうけただろうと思ったのだが、国民府の指導者たちはますますかたくなな対決姿勢をとり、その日の夜、旺清門駐屯独立軍部隊を非常呼集してわれわれを逮捕しようとした。

    わたしは流血を防ぐため、車光秀を急いで三源浦へ送り帰した。国民府の指導者たちが柳河県の同志たちにまで手をのばすおそれがあったからである。南満青総大会に参加するためにやってきた共青員と反帝青年同盟員もその夜のうちに旺清門を抜け出させた。わたしは同志たちに、国民府が南満青総大会を招集しておきながら、進歩的青年に危害を加えようとしているから大会をボイコットし、彼らのテロ行為にたいしては檄を飛ばして広く告発しようといった。

    こうして南満青総大会は流産してしまったのである。わたしも旺清門を去ることにした。同志たちは、崔昌傑の活動している柳河県三源浦へ行き、そこで檄文を書いて満州各地へ送り、われわれだけで大会を開こうといった。 しかし、独立軍の勢力圏にある三源浦へ行くのは危険だった。

    わたしは、三源浦と陵街のどちらへ行くべきかと考えた末、陵街へ行ってつぎの活動方向を決めることにした。陵街で少々息を入れてから吉林に帰り、そこにもいられないようであれば撫松へ行って、国民府のテロ旋風がおさまるまで大衆組織の指導にあたることに決めた。わたしはその晩、康弘楽の家に帰って「わたしがここに泊まっていてはつかまりそうです。陵街へ行くつもりですから旅費を少し都合してください」と頼んだ。 康弘楽はわたしの話を聞いて心配そうに溜息をついた。

    「道もわからないのにどうやって行くつもりだ?」

    「道路にそって8里ぐらい突っ走ればいいのですから、心配いりません」

    陵街へ行けば文光中学校出身の組織メンバーがいるから、しばらくはなんとかなるだろうというと、康弘楽夫妻はやっと安心したようで、弁当と薄板の飴をいくつか包んでくれた。

    文光中学校出身の組織メンバーというのは申永根のことである。 申永根は陵街の韓興学校の校長を勤めていた。

    わたしは翌日の昼どきになって陵街にたどりついた。 韓興学校高等科の女学生たちは、わたしに心のこもった接待をしてくれた。江東当時の反帝青年同盟員だった申永根の愛人安信英は、学友と一緒にブンドウのゼリーやさっぱりした冷やし汁など心づくしのご馳走をつくってくれた。そのときの昼食のおいしかったことはいまも忘れられない。 わたしは食事を終えたあと、綿のように疲れていたが学校の運営状況を立ち入って聞いた。そのうち、わたしはつい眠りこんでしまった。夜通し8里の道を歩き通したので、くたくたになってしまったのである。申永根は、わたしが目をさましはしまいかと始業の鐘も鳴らさず、校庭の生徒を一人一人手招きして授業をはじめたという。わたしが陵街にとどまっているあいだ、国民府に逮捕された大会準備委員たちがついに処刑されたという悲報が届いた。彼らは、崔峰、李泰熙、池雲山、李蒙烈、李光先、趙熙淵など21、2歳の若い6人の青年を旺清門槐帽地区の谷間で虐殺してしまったのである。

    崔峰をはじめ6人の青年は最期を前にして、「われわれは勤労者大衆の立場で自分が犠牲になることをすでに覚悟していた。だが、おまえたちの手にかかって死ぬのは無念千万だ」といって国民府の罪業を糾弾し、『革命歌』をうたい、「革命勝利万歳!」を叫んだという。 国民府のテロ分子はその後、その6人の青年の家族をも皆殺しにしようと企んだ。高而虚は殺人陰謀をわたしに知らせた呉信愛まで引きずりだして無惨にも殺害した。 われわれは陵街で、国民府指導部の罪業を告発する檄文を涙ながらに書きつづった。その檄文を崔昌傑が活動している三源浦で謄写して発表し、各地の革命組織にも送って弾劾大会を開くようにした。

    われわれは、青年大衆の前衛闘士を共産青年だという理由で虐殺したいわゆる国民府とは、ひと握りの反革命分子の営利の場であり、殺人謀議所であり、中国の労働者、農民を虐殺した蒋介石の手下と変わりない反逆集団であると糾弾した。

    この檄文が発表されて以来、新しい世代の共産主義者と国民府は真っ向から対立するようになった。国民府のテロ分子は、われわれの系列の青年に会いさえすれば、見境なく「討伐」した。当時、多くの頼もしい青年が彼らの手にかかって犠牲になっている。われわれの胸には、国民府にたいする恨みが炎のように燃えさかった。旺清門事件があってから、わたしは胸が痛んで幾夜も眠れなかった。国を取りもどそうと革命の道を選んだのに、同じ民族から被害をうけることになったのがくやしく、無念でならなかった。

    われわれは「トゥ・ドゥ」結成の当初から、つねに民族主義者との共同闘争を模索してきた。安昌浩の思想が改良主義的なものであると知ったとき、われわれはその思考方式を批判しながらも、彼が逮捕されたときにはためらうことなく釈放闘争を展開した。3府統合会議が権力争いでずるずる長引いたときは、愛国勢力の団結を願うわれわれの気持をこめた演劇で民族主義者に警鐘を鳴らし、独立運動団体が国民府に統合されたときは、それを心から歓迎した。しかし、国民府の指導者たちはわれわれの誠意に顔をそむけ、野蛮な殺戮をもってこたえたのである。

    わたしはあのとき陵街で、「朝鮮人は3人集まっても団結して日帝と戦わねばならない」といった車千里老人の言葉をあらためて思い起こした。

    独立運動家のなかにも、団結を唱える人は少なくなかった。大衆はすべての愛国者が主義や団体、信教の違いにかかわりなく、互いに手をとり、力を合わせて反日抗争に決起することを期待した。

    しかし、国民府のテロ分子は民衆の期待を容赦なく踏みにじってしまった。いまでも旺清門の惨事を想起するたびに、当時の憤怒がそのまま全身によみがえってくる。わたしはあの悲劇をふりかえるたびに、わが民族内部であのように残酷で無意味な殺戮がこれ以上くりかえされてはならないと考える。高而虚や玄黙観もこの世の人であるなら、そう考えるに違いないと確信する。わたしと人間的にあれほど親しみながら、理念の違いによって同じ道を歩めなかった玄黙観は、その後、長沙でテロ分子に殺害された。結局は彼自身もテロリズムの犠牲になったのである。

    彼の娘玄淑子が解放後、上海臨時政府の人士について祖国に帰り、ソウルの半島ホテルから自分の母親あてに送った手紙が、現在、党歴史研究所に保管されているはずである。

    彼女の子どもたちは、分断された祖国の北側で幸せに暮らしている。朝鮮の民族解放闘争の歴史は、共産主義者の進む道が愛国愛族の道であり、共産主義者こそは祖国と人民をもっとも愛する真実で堅実な愛国者であることを証明している。今日、国土が分断され、外部勢力の干渉がはなはだしい状況のもとで、民族の団結が第一の生命であることを痛感するたびに、わたしは旺清門の悲劇を思い起こすのである。

    

    

    

    

    10 鉄格子の中で

    

    

    「吉林の風」が満州各地に吹き込むと、日帝と中国の反動軍閥はしだいにわれわれの存在に気づくようになった。吉林で起こった激烈な青年学生運動と中東鉄道事件、南満青総大会事件などによってわれわれのうわさが各地に広がると、彼らは、吉林を騒がす張本人は青年学生であると断じ、われわれに捜査の手をのばしたのである。

    日帝は満州を侵略するため、いたるところにスパイを潜入させて朝鮮人の一挙一動をきびしく監視する一方、中国の反動軍閥をそそのかし、共産主義者と反日独立運動家を手当たりしだいに検挙、投獄した。吉林の形勢はきわめてきびしく、われわれの前途には試練が迫りつつあった。

    事態が険しくなってくると、吉林の分派分子は、竜井、磐石、敦化など各地に身をひそめ、独立運動家は国籍を中国籍に変えて中国本土に移っていくか、旺清門あたりに逃避した。1929年秋の吉林はもはや、かつて反日運動家が雲集していた朝鮮海外政治運動の中心地ではなかった。

    そうしたなかで、吉林第5中学校の学生たちが読書会で不用意に起こした騒ぎが端緒になり、同志たちが逮捕されはじめた。旺清門から帰って事態の収拾に取り組んだばかりのわたしも、反動軍閥当局の手にかかってしまった。第5中学校の学生が毓文中学校の共青組織まで自供したのである。

    警察は学生運動のリーダーたちを一網打尽にしたといって、連日われわれに残酷な拷問を加えた。それまでのわれわれの闘争内容と吉林市内に張りめぐらされた組織網をあばきだし、その背後関係を洗おうとしたのである。

    われわれは、左翼系の書籍を読んだということ以外はいっさい口外しないことにした。尋問にあたった刑吏には、学生が本を読んでなにがいけないのか、われわれは本屋で売っている本を読んだだけだ、罪を問うなら本の出版と販売を許可した当局に問うべきだと抗議し、あくまでがんばりとおした。

    わたしが手の指をひねる拷問をうけていたある日、元華成義塾塾長の崔東旿先生が、尋問室の片隅のついたての陰からこちらをちらりとのぞいて立ち去った。まったく意外なことだったので最初は、もしや錯覚ではなかろうかとわが目を疑った。

    だが、それは崔東旿塾長に間違いなかった。彼らが華成義塾当時の師まで尋問室に召喚したのをみると、わたしの経歴をかなり調べているようだった。

    崔東旿先生の出現によって、わたしは非常に複雑な気持にとらわれた。崔東旿先生は中国語が堪能で外交活動にもすぐれていたため、国民府の外交委員長の職責についていた。先生は国民党の反動軍閥当局との関係を調停するため、主に吉林に駐在して青年学生とも一定のつながりをもっていたのである。

    もし彼が、われわれが何者であるかをありのまま反動軍閥当局に告げるなら、事件の拡大を防ごうとするわれわれの努力は水の泡になりかねなかった。ことに中東鉄道事件のさい、われわれがソ連を擁護してたたかったことが少しでも知れたら、とても無事にはおさまりそうになかった。

    イギリス、アメリカ、フランス、日本など帝国主義者に操られた中国国民党政府と奉系軍閥は、1920年代末期にいたって背信的な反ソ策動を執拗にくりかえした。広州人民蜂起が失敗に終わったのち、蒋介石政府は広州駐在ソ連領事を銃殺してソ連と国交を断絶した。反ソは帝国主義列強におもねり、その保護と支持をとりつけようとする蒋介石の切り札であった。

    軍閥たちの口からは「赤色帝国主義に反対する」というスローガンがたびたび唱えられた。彼らは中国人民の民族感情を巧みに利用して帝国主義者の侵略の真相を隠蔽し、反ソ思想を執拗に鼓吹した。軍閥の宣伝にのせられた大学生と青年インテリも、「ウラル山を占領し、バイカル湖を手に入れよう!」「バイカル湖で馬に水を飲ませよう!」といった好戦的で挑発的な暴言を吐いてソ連領土をうかがった。こうした雰囲気に便乗した軍閥は、反ソ挑発の口火として中東鉄道を攻撃した。中ソ両国は協定によって財産、設備を半分ずつ所有し、管理機構の理事会を通じて共同で鉄道を経営していた。軍閥は兵力をくりだして無線電信局と管理局を占拠し、鉄道を完全に奪取してソ連側の権益を一方的に取り消した。中東鉄道を掌握した彼らは、ただちに国境を越えて三つの方面からソ連に侵攻した。こうしてソ連軍と中国反動軍閥軍のあいだに武力衝突が起こったのである。

    そのとき、反動派にそそのかされた馮庸大学と東北大学の一部の右翼系学生は、武装までしてソ連と対決した。

    われわれは国民党政府と反動軍閥の反ソ策動を阻止するため、共青員と反帝青年同盟員を決起させ、社会主義国ソ連を擁護してたたかった。覚醒していない一部の中国青年は、われわれを中華民族の利益の「侵害者」に手を貸す悪者だといって遠ざけた。われわれは苦しい立場に立たされた。

    われわれは市内のあちこちに軍閥の反ソ策動の本質を暴露するビラをまき、中国人のあいだで宣伝活動を展開した。そして、軍閥軍の中東鉄道奪取とソ連侵攻は、10月革命後、中国とのいっさいの不平等条約を廃棄して中国を物心両面から援助したソ連にたいする許しがたい裏切り行為であり、帝国主義者から借款を得るための術策であると暴露した。

    国民党反動派と軍閥の宣伝にのせられ、ソ連を敵視していた人たちも、われわれの宣伝を聞いて反ソ侵攻の危険性と本質を知り、それに反対する方向へ態度と立場を変えた。われわれは中国の進歩的青年と共同で、ソ連を攻撃しようと企てる馮庸大学の学生にも痛撃を加えた。 中東鉄道事件を契機に進められたわれわれのたたかいは、ソ連を政治的に擁護する国際主義的なたたかいであった。われわれはそのとき、地球上にはじめて樹立された社会主義制度を希望の灯台と仰ぎ、それを擁護するためにたたかうことを共産主義者の聖なる国際主義的義務とみなした。中東鉄道事件をめぐるわれわれの闘争を通じて、中国人民は軍閥の正体を明確に把握し、その背後で彼らを反ソ行動へとあおる帝国主義者の本心がなんであるかを知るようになった。朝中人民は中東鉄道事件を契機に大いに覚醒した。

    当時、国民党軍閥はソ連を擁護する者にたいしては容赦しなかった。 崔東旿先生があらわれたあとも、尋問者は依然としてわたしを読書会事件の主謀者としてのみ扱った。軍閥当局は崔東旿先生を召喚してわたしの身元を確認し、わたしがソ連とつながりをもっているのか、どのような運動をしたのかをただしたようだった。だが崔東旿先生は、わたしに不利なことはいわなかったらしい。われわれはしばらくして吉林監獄に移された。吉林監獄は看守が真ん中に座って四方を監視できるように東西南北に廊下があり、その廊下の両側に監房がある十字形の建物だった。わたしが収監されていたのは、北側廊下の右から2番目の監房だった。北側なので年じゅう日が射しこまず、かびの臭いが鼻をつき、冬は壁が白く霧氷でおおわれた。わたしがここに移送されたのは秋だったが、監房は冬のように冷えびえとしていた。軍閥当局は囚人の扱いで、はなはだしい民族的差別をおこなった。看守は「朝鮮人め」だの「朝鮮亡国奴」といった侮辱的言辞を弄し、鉄の重りのついた足かせを朝鮮人学生の足首にはめた。食事や獄内の粗末な医療施設の利用でも、中国人政治犯と差別した。わたしは獄中でも闘争を中断しないことにした。革命家にとって監獄は一つの闘争舞台であるといえる。監獄をたんに幽閉場と考えるなら、受け身になってなにもできない。だが、監獄を世界の一部分と考えれば、その狭い空間でも革命に有益なことができるものである。

    わたしは心を引き締めて闘争の方途を考えはじめた。なによりも外部との連係をとって破壊された組織を早急に立て直し、活動させるべきだと思った。そして軍閥当局とたたかって出獄の日を早めようと決心した。

    獄中闘争を展開するにしても、外部との連係をとるのが問題だった。この問題を解決するためには、看守を説得してシンパに変えなければならなかった。

    看守をかちとろうというわたしの意図は、予想外にたやすく実現した。監獄当局は監房を修理するとき、しばらくわれわれを一般囚と同じ監房に収容した。これがわれわれにとって有利な機会となった。ある日、わたしと同じ監房にいた中国の囚人が急に風邪をひいて寝こんでしまった。彼は強盗犯で非常に粗暴だった。

    わたしが一般囚の監房に移された日、上座にあぐらをかいていた「カントゥル」(牢名主)と呼ばれるその囚人は、われわれに向かって、金か食べ物をあいさつ代わりに出せと脅した。新入りは誰でも守らなければならない掟だから、おまえたちも守るべきだというのだった。見るからに凶暴な男だった。

    わたしは彼に、ひどい取り調べを何日もうけてきた人間に金や食べ物があるはずがないではないか、おごるなら監獄に長くいるあなたたちがおごるべきではないか、とやりかえした。

    言葉につまった「カントゥル」は、顔色を変えてわたしをにらみつけるだけだった。

    ふだん暴君のようにふるまっている囚人なので、彼が高熱にうかされ、食事もとれず、夜も眠れない状態になっても、誰一人彼を介抱する者はいなかった。

    わたしは監獄に移されるとき、孫貞道牧師の家から差し入れてもらった布団を彼にかけてやり、看守を呼んで監獄病院から薬をもらってきてくれと頼んだ。

    乱暴で取っ付きの悪いこの囚人を快く思っていなかった李という看守は、朝鮮人が中国人を身内のように世話するのを見て不審に思った。誠意をこめた看護のかいがあって、囚人は間もなく床を上げた。それ以来、わたしにたいする彼の態度に変化が生じた。看守でさえ手を焼いていた偏屈で粗暴な強盗犯が、中学生のわたしの前で急におとなしくなったのを見た李看守は、たいへん不思議に思い、わたしにたいする物腰が変わってきた。 彼はこの監獄の看守のなかでは、かなり温順で民族性のある人だった。獄外の組織メンバーから、李看守が賤民出身で、口すぎをするために看守になった人間であるという通報が入った。わたしは李看守を観察した末、味方に引き入れることにし、彼と話し合う機会を多くつくった。そのうち、彼が弟の婚約をひかえて結納の支度ができなくて困っていることを知った。わたしは同志たちが面会にきたときにそのことを話して、組織の力でそれを解決してやるようはからった。 数日後、李看守がわたしを呼び、結納をととのえてもらって感謝しているといった。そして、監獄当局は君のことを共産主義者だといっているが、ほんとうかとたずねるのだった。わたしが共産主義者だと答えると、彼は、解せないことだ、共産主義者はみな「匪賊」だというが、君のように善良な人たちがまさか他人の物を強奪するとは思えない、君が共産主義者であるのが間違いないなら、共産主義者を「匪賊」呼ばわりするのはもってのほかだ、と熱っぽくいうのだった。それでわたしは、共産主義者は搾取と抑圧がなく、すべての人が幸せに暮らせる社会をつくるためにたたかう人たちだ、われわれ朝鮮の共産主義者は朝鮮から日帝を追い出し、奪われた祖国を取りもどすためにたたかう人たちだ、金と権勢のある者が共産主義者を「匪賊」呼ばわりするのは、共産主義者が地主、資本家や土豪、売国奴が羽振りをきかせる腐りきった世の中をくつがえそうとするからだ、と説明した。 李看守は大きくうなずいて、自分はなにもわからないのでこれまで当局のデマ宣伝にだまされてきたが、これからはそんな話を真にうけないことにするというのだった。

    それ以来、李看守は勤務を終えて帰るとき、いつもわたしのところへやってきた。そして、わたしが他の監房になにか連絡を頼むと黙って引き受けてくれた。やがて彼を通じて外部との連絡もとれるようになった。こうしてわたしの獄中生活は比較的自由になった。

    しかし、すべての看守が李看守のようにわれわれに好意をよせたわけではない。彼らのなかにはのぞき穴から監房の中をのぞいては、囚人をいじめる蛇のような看守長が一人いた。

    吉林監獄の看守長は3人だったが、この看守長がもっとも嫌われていた。彼が当番のときなど、囚人は監房であくびも思うようにできないほどだった。

    ある日、われわれはその看守長をこらしめてやることにし、それを誰にやらせるかを相談した。そのとき、吉林第5中学校3年生の黄秀田という中国人学生がその役を買って出た。読書会事件に連座して捕えられた者のうち、朝鮮人は2人で、あとはみな中国人だった。 わたしは彼に、看守長に下手な手出しをすると、少なくとも5か月は独房生活を覚悟しなければならないが、それでもかまわないのかとたずねた。黄秀田は、みんなのために犠牲になるつもりだ、なんとしても看守長をこらしめてやるといった。そして、いまに奇抜な手で看守長の根性を叩き直してやるから、みな黙って見物するようにというのだった。やがて彼は先をとがらせた竹箸を用意して、看守長がのぞき穴から監房の中をのぞいたときにその目を刺した。看守長の目からは血とともに墨のような水がしたたり落ちた。誰も予想しなかったことだった。

    監房内の学生たちはみな、黄秀田を英雄のようにほめそやした。だが、その罰として黄秀田は寒い冬のさなかに暖房装置のない独房に閉じこめられて、数日間ひどい目にあった。

    学生たちは、黄秀田を独房から出さなければおまえたちの目もつぶしてやる、彼を早く出せ、と看守たちに迫った。こうして監獄当局は学生たちの要求に屈した。

    それ以来、われわれは監房内でなんでも自由にやれるようになった。会合をしたければ会合をし、必要に応じて他の監房にも行き来できるようになった。わたしがどの監房へ行ってくるというと、看守は一も二もなく扉を開けてくれた。

    わたしは獄中生活の期間、孫貞道牧師にいろいろと世話になった。孫貞道牧師は、わたしが吉林で革命活動をした全期間、肉親のようにいろいろとわたしを支援してくれた。彼は国内にいた当時から、わたしの父と親しい間柄だった。出身校(崇実中学校)が同じだということもあったが、それよりも思想と理念の共通性が父と彼を深い友情で結びつけたのであろう。父は生前、孫牧師の話をよくしたものだった。

    孫貞道は3・1運動直後、中国に亡命し、上海臨時政府でひところ議政院議長を勤めた。また一時は、上海で金九、趙尚燮、李裕弼、尹琦燮らとともに武力抗争を担当する軍事幹部養成の使命をおびた労兵会を組織し、その労工部長としても活躍した。

    しかし労兵会が解散し、臨時政府内の派閥争いがはげしくなると、彼はそれに幻滅を感じて吉林に居を移した。

    吉林に来てからは礼拝堂を建てて独立運動をつづけた。われわれが大衆啓蒙の場として大いに利用したのがその礼拝堂である。孫貞道は信心深いキリスト教信者だった。彼は吉林のキリスト教信者と独立運動家のあいだで無視できない存在だった。

    わが国のキリスト教信者のなかには、孫貞道のように一生涯、独立運動に献身したりっぱな愛国者が多かった。彼らは朝鮮のために祈祷し、亡国の苦しみをやわらげてくれるよう神に祈った。彼らの純潔な信仰心はつねに愛国心と結びついていた。平和と和睦と自由の楽園の建設を念願した彼らは、終始、祖国の解放をめざす愛国闘争に安息の場を求めた。

    天道教と仏教の信者も、その絶対多数は愛国者であった。 孫貞道が留吉学友会の顧問であった関係上、わたしはたびたび彼と会う機会があった。彼はわたしと会うたびに、わたしの父があまりにも若くして世を去ったことを残念がり、父の遺志をついで独立運動の先頭に立ち、民族のために奮闘するよう励ましてくれた。わたしが吉林に来て、毓文中学校に3年間も通えたのも、孫貞道のような父の友人がいろいろと援助してくれたからである。 孫貞道牧師は、母が洗濯や裁縫などの賃仕事でほそぼそと暮らしを立てているわが家のことを心配して、わたしに幾度も学資を援助してくれた。牧師の夫人もわたしをたいへん可愛がってくれた。祭日になると夫人はわたしを招いて、朝鮮料理をご馳走してくれた。兎肉を入れた豆腐の煮込みとチョントギ餅の味は格別だった。チョントギという草は、葉にやわらかい毛茸があって無臭無毒だった。孫牧師の家族は平壌にいたころから、これで草餅をつくって食べたという。その日、わたしが牧師の家でご馳走になった餅は、北山公園で摘んだチョントギでつくったものである。

    孫貞道には2人の息子と3人の娘がいた。吉林でわれわれの運動に関与したのは次男の孫元泰と末娘の孫仁実だった。

    当時、孫仁実は黄貴軒、尹善湖、金炳淑、尹玉彩などと一緒に朝鮮人吉林少年会の会員として活動した。彼女はわたしが青年学生運動をしたころと獄中生活をしていたとき、いろいろとわたしを助けてくれた。

    ある日、看守が新入りの囚人を1人、わたしの監房に放りこんでいった。ひどい拷問をうけて顔形も見分けられないほどだった。

    それは麗新青年会の組織部長姜明根だった。彼は1929年の春、突然、軍閥当局に逮捕され、生死さえわからなかったのだが、わたしはその彼に監獄で会って驚きもし、うれしくもあった。彼が逮捕されたのは、分派分子がでっちあげの密告をしたためだった。姜明根は駐中青総事件のことで分派分子の報復をうけたのである。分派分子は、麗新青年会の代表が集廠子で開かれた駐中青総大会をボイコットし、彼らの無謀な行動を暴露する檄を飛ばしたことを根にもって報復の機会をねらっていた。そして蛟河で一人の青年が病死すると、姜明根らが毒殺したかのように仕組んで軍閥当局に密告したのだった。 わたしは、無実の罪で処刑される破目になったと涙を流す彼に、大志をいだいて革命の道に踏み出した人間が、それくらいのことでへこたれてはいけない、人間はひとたび死を覚悟すればできないことはない、軍閥当局と最後までたたかって無罪を証明すべきだ、と励ましてやった。

    姜明根はその後、法廷で、わたしから励まされたとおり決死の覚悟でたたかった。

    彼は日帝によって朝鮮が占領されていた全期間、清らかに生きぬいて、解放後祖国に帰ってからはわが党の任務をうけて友党にたいする活動に専念した。

    長い歳月が流れたあとで、やっとわたしは姜明根が近くにいることを知った。それで彼に人を差し向けて、再会の約束をした。

    この知らせが彼に強い衝撃を与えたようだった。彼はわたしとの再会をひかえて、無念にも脳出血で倒れてしまった。

    あのとき彼が死ななかったら、われわれは吉林時代をふりかえって旧懐の情を分かち合うことができたであろう。

    わたしは獄中で、わが国の民族解放闘争と共産主義運動の経験と教訓を分析し、他の国での革命運動の経験も吟味した。

    わが民族は日帝の植民地支配に抗してデモをおこない、ストライキや義兵闘争、独立軍運動もくりひろげた。

    だが、それらの闘争はすべて失敗の運命をまぬがれなかった。運動をさかんに展開し、血も多く流したが、なぜたたかいは勝利せず、ことごとく挫折せざるをえなかったのか?わが国の反日闘争の隊列内には派閥が形成され、民族解放闘争に大きな弊害をおよぼした。

    反日抗争の最初の烽火を上げ、朝鮮8道を駆けめぐった義兵の隊伍は、上下一致がならずに分裂していた。王政の復活を夢みる儒生出身の義兵隊長と、既存秩序の改革を唱える平民出身の義兵のあいだには深刻な理念上の対立と矛盾が存在していたが、これは義兵の戦闘力の向上を阻害した。

    旧制度の復活を絶対理念としていた一部の義兵隊長は、政府から官職を得るため戦功争いまでして隊伍を分裂させた。また平民出身の義兵隊長は儒生出身の義兵隊長とは連合しようとしなかった。これは義兵の力を弱める結果をもたらした。

    独立軍の実態もこれと異なるところがなかった。独立軍は組織からして分散性と散漫性を露呈した。

    満州地方で活動していた各独立運動団体が3府統合を果たしたあとも派閥争いはつづいた。3府の統合によって国民府が誕生したものの、その上層部は国民府派と反国民府派とに分かれて権力争いをつづけた。

    民族主義者はこうしていくつもの派に分かれ、大国を頼りにして愚にもつかぬ口論に終始したのである。

    独立運動の指導的ポストにあった人物のなかには、中国に頼って朝鮮の独立を達成しようとする者もいれば、ソ連の力を借りて日本を倒そうと考える者もおり、またアメリカが朝鮮の独立を「贈り物」してくれるのではないかと期待する者もいた。

    民族主義者が事大主義に走ったのは、人民大衆の力を信頼しないためだった。民族主義運動は人民大衆から浮き上がって上層部の運動にとどまっていたため、強固な基盤をもてず、人民の支持を得ることもできなかった。

    人民から離脱して上層部の少数の者が、空論と権力争いに明け暮れ、大衆を革命闘争に立ち上がらせることができない本質的弱点は、共産主義運動家と称する人たちのあいだにもあらわれた。

    初期の共産主義者たちは、人民大衆のなかに入って彼らを啓蒙し結集して闘争に奮い立たせようとするのでなく、人民とかけ離れ、空論と「ヘゲモニー」争奪戦に熱をあげていた。

    初期の共産主義運動は、運動内に発生した分派を克服することができなかったのである。

    わが国の分派分子は、民族主義系のブルジョアジーやプチブルインテリと没落した封建貴族、両班出身のインテリであって、10月社会主義革命以後、労働運動が急速に高揚し、マルクス・レーニン主義が大衆の熱烈な支持をうけるようになった時代の趨勢に便乗してマルクス主義の看板をかかげ、革命の潮流に巻きこまれてきた人たちであった。彼らは最初から派閥をつくり、「ヘゲモニー」争奪戦をはじめた。分派分子はあらゆるペテンと権謀術数を弄したあげく、暴力団をつくり愚劣な暴力沙汰まで引き起こした。分派分子の策動によって結局、朝鮮共産党は隊伍の統一を保つことができず、日帝の弾圧をはねのけることができなかった。初期の共産主義者は事大主義にとらわれて、自力で党を建設し革命を進めようとはせず、各自「正統派」をもって任じ、ジャガイモの印鑑までつくってコミンテルンの承認を得ようと駆けずりまわった。 わたしはわが国の民族主義運動と初期共産主義運動のこうした実態を分析し、革命をそういうやり方で進めてはならないと痛感した。こうしてわたしは、自国の革命は自らが責任をもち、自国人民の力に依拠して遂行してこそ勝利するのであり、革命で提起されるすべての問題を自主的に、創造的に解決していかなければならないという信念をいだくようになった。これがいまいっているチュチェ思想の出発点となったのである。 わたしは獄中で、この先、朝鮮革命をいかに導いていくべきかについてもいろいろと考えた。 日帝侵略者を撃退して祖国を解放するためにはいかなる形式と方法でたたかい、反日勢力をどのように一つに結束すべきなのか、革命の指導機関としての党はどう創建すべきか、などの問題でいろいろと考えをめぐらした。そして出獄すれば、まずなにからはじめるべきかという問題についても考えた。

    当時わたしは、わが国の具体的現実と社会的・階級的諸関係からして、朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定し、武装した日帝を打倒して祖国を解放するためには武器をとって戦うべきであり、労働者、農民、民族資本家、宗教者をはじめすべての愛国勢力を反日の旗のもとに結集してたたかいに決起させ、派閥争いのない新しい革命的党を創建すべきだという闘争方針を確定した。

    朝鮮革命の遂行で堅持すべき立場と観点が明白になり、路線と方針も鮮明に描けるようになると、一日も早く監獄から出なければならないという衝動をおさえることができなかった。わたしは出獄を早める闘争をはじめることにした。

    われわれは「学生事件」で投獄された同志たちとともに、出獄闘争の準備を一つひとつととのえた。

    われわれが考え出したのはハンストであった。われわれは、われわれの正当な要求が貫徹されるまで座を立たないという悲壮な決意をいだいて闘争に突入した。

    ハンストを開始するときまで、わたしは一般囚まで参加させる今度の闘争で統一行動を保障するのはむずかしいだろうと思った。ところが断食がはじまると、どの監房からも手のつけられていない食事がそのまま外へ出された。つい先ごろまで、一杯の食事のことでけんかをした一般囚までが食事に手をつけなかったのである。「学生事件」で収監された同志たちが地道に工作してきたかいがあった。

    獄外の同志たちも、われわれの出獄闘争を積極的に援助した。彼らはわれわれの獄中闘争に呼応して、吉林監獄の囚人にたいする非人道的な扱いを暴露し、世論を喚起した。やがて軍閥当局は、かたく団結してたたかったわれわれに屈服した。

    わたしは1930年の5月初旬、吉林監獄から出獄した。アーチ形の監獄の門を出たわたしの胸は、信念と熱情にあふれた。

    わたしは獄中で、初期共産主義運動と民族主義運動を総括し、その教訓にもとづいて朝鮮革命の前途を青写真に描いた。

    思うに、わたしの父は平壌監獄で民族主義運動から共産主義運動への方向転換を模索し、わたしはこうして吉林監獄で、われわれの進むべき朝鮮革命の前途を構想したのであった。

    不幸な亡国の民の息子であったがゆえに、父もわたしも、獄中で国と民族の前途を考えなければならなかったのである。

    

    

    

    注 釈

    

    

    〔1〕 「ハーグ密使事件」 1907年、高宗皇帝の密使たちがオランダの首都ハーグ         で開かれた第2回万国平和会議におもむいて日本帝国主義の朝鮮侵略野         望を暴露し、朝鮮の独立に助力してくれるよう訴えたが、意を果たせず、密使         の一人である李儁が抗議のしるしとして現地で割腹した事件。

    〔2〕 シャーマン号     1866年、平壌の大同江に侵入して殺人、放火、略奪         を働いたアメリカの侵略船。平壌城人民の英雄的な反撃により、沈没の憂き         目にあった。

    〔3〕 シナンドアー号    1868年、大同江に侵入して撃退されたアメリカの侵略         船。

    〔4〕 乙巳五賊      1905年11月、日本が不平等で侵略的な「韓日協約         」(乙巳条約)を強要したさい、それに屈従した5人の売国的大臣。すなわち         学部大臣李完用、内部大臣李址鎔、軍部大臣李根沢、農商工部大臣         権重顕、外部大臣朴斉純。

    〔5〕 崔益鉉(1833~1906) 京畿道抱川出身で儒者の義兵隊長。

    〔6〕 安重根(1879~1910) 黄海道海州出身の独立運動家。17歳のときか         ら軍事学を研究。西北学会の会員として教育活動に従事。1907年末、ロ         シア沿海州で反日義兵隊指揮官として活動。1909年6月、3百余名の義         兵を率いて咸鏡北道慶興(現在の恩徳郡)駐屯の日本守備隊を攻撃。19         09年10月、「北満 州視察団」の名目で渡来した朝鮮侵略の元凶伊藤         博文をハルビン駅頭で射殺。

    〔7〕 高宗皇帝(在位1864~1907) 李朝第26代の皇帝。

    〔8〕 甲午改革     1894年に樹立された内閣によって遂行されたブルジョア         改革。甲午更張ともいわれる。

    〔9〕 洪範図(1868~1943) 反日義兵隊隊長、独立軍指揮官。1907年か         ら猟師による反日義兵隊を組織して咸鏡南道一帯を中心に日本侵略軍と         数回にわたって激戦。1917年、北満州で朝鮮独立軍を組織してその総司         令となり、甲山、恵山、江界、満浦、慈城などの日本軍を襲撃。その後、黒         竜江一帯で独立軍団を組織し、指揮官として活動。

    〔10〕 李奉昌(1900~1932) 京畿道ソウル出身の独立運動家。金九が組織         した韓人愛国団の団員。1932年1月、東京で天皇と満州国皇帝を手榴         弾で攻撃。)

    〔11〕 尹奉吉(1908~1932) 忠清南道礼山出身の独立運動家。韓人愛国         団団員。1932年4月29日、上海の虹口公園で爆弾を投じ、日本の軍部         と政界の要人多数を殺傷。

    〔12〕 金九(1876~1949) 朝鮮の独立運動家。黄海道海州出身。初期には         反日義兵闘争に参加。3・1人民蜂起後、上海臨時政府主席などを歴任         。韓国独立党を組織。日本帝国主義の敗亡後、帰国し、南朝鮮で対米従         属に反対。1948年、平壌で開催された南北朝鮮政党・大衆団体代表者         連席会議に参加。その後、ソウルで連共・統一をめざしてたたかい、暗殺され         た。

    〔13〕 光州学生事件 1929年、全羅南道光州地方での朝鮮人学生と日本人         学生の衝突に端を発し、全国に広がった朝鮮学生青年の大衆的な反日愛         国闘争。

    〔14〕 4・19蜂起1960年の春、新しい政治、新しい生活を求め、アメリカ帝国主         義と李承晩独裁政権に反対して起こった南朝鮮の青年学生と人民の大衆         的な蜂起。この蜂起によって李承晩独裁政権は崩壊した。

    〔15〕 光州人民抗争 1980年、南朝鮮社会の民主化と軍事ファッショ独裁政権         の打倒をめざし、全羅南道光州地方の青年学生と各階層人民が起こした         大衆的な暴動。

    〔16〕 隆熙皇帝(1874~1926) 李朝最後の皇帝(在位1908~1910)。         隆熙は純宗在位中の年号。

    〔17〕 羅錫疇(1892~1926) 黄海道載寧出身の独立運動家。1926年、日         本帝国主義の搾取機関である東洋拓殖株式会社と殖産銀行に爆弾を投         じ、警察と交戦