茂山地区戦闘は偉大な
チュチェ28(1939)年当時、日帝の策動により西間島地方の革命組織とともに国内の北部一帯の革命組織は大きな被害を受け、その被害から免れた革命組織も萎縮状態に置かれていた。それに敵は朝鮮人民革命軍が全滅したというデマを広げ続けていた。
こうした時、偉大な
主席は会議の後、朝鮮人民革命軍の主力部隊を直接率いて、積極的な春季反撃戦へと移行した。巧みな遊撃戦法と優れた指揮術で多くの戦闘を勝利へと導いて敵に連続的打撃を与え、祖国に進出する準備を徹底的に行った。
主席が歴史的な北大頂子会議で示した茂山地区作戦方針に従って祖国に進出した朝鮮人民革命軍主力部隊は、日本帝国主義侵略者が「国境警備」を強化するために甲山―茂山間に建設した国境警備道路である「甲茂警備道路」を行軍し、チュチェ28(1939)年5月21日には両江道三池淵郡茂浦(当時咸鏡北道茂山郡)に至った。
偉大な
主席は5月22日、大紅湍国師堂付近で暫く休憩した後、すでに組み立てた作戦計画通りに朝鮮人民革命軍第7連隊を新開拓方向に出発させ、第8連隊と警護中隊を直接率いて新四洞へ向かった。主席は新四洞に進出して人民の前で「祖国の解放を促進するため、反日闘争に積極的に立ち上がろう」という演説を行った。
主席は演説で全民族が反日戦線に固く結束しなければならないと呼びかけ、今後の闘争方向と課題を示した。
新開拓一帯に進出した第7連隊はこの一帯の敵を掃討して多くの軍需物資を鹵獲し人民の中で政治活動を行った。
主席の新卒の下に新四洞一帯に進出し政治的・軍事的目的を達成した第8連隊と警護中隊は5月23日の夜明け頃、集結場所である国師洞に至った。敵が必ず追撃するだろうと予見した主席は大紅湍ガ原の有利な地形に伏兵陣を張った。
大紅湍戦闘で勝利した朝鮮人民革命軍主力部隊は豆満江方向に移動する途中、下三水坪付近で戦闘を行い、再び敵に打撃を与えた。
偉大な
朝鮮では茂山地区戦闘を勝利へと導いた偉大な
茂山地区戦闘があったときから長い歳月が経っている。
しかし偉大な